ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

悪事においては

2023-07-24 | 日ごとの生活

Ⅰコリント14:20 兄弟たち。物の考え方において子もであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。

 

Ⅰ-「悪事においては幼子でありなさい」の例。ヨチヨチ歩きの頃の初孫の話。

娘宅を訪問してした時、何かがあって「ストップ!」と私が声をかけたところ、彼はとても驚いた様子で、ビクッとなって身体が硬直したように動かなくなった。

娘には、そんな大きな声を出さないでと、静かに戒められた。

 

Ⅱ-「物の考え方において子どもであってはなりません」の例。

叔母から何回か聞いた、私がまだ子供だった頃の話。

朝叔母が起きて行ったら、縁側で一人、クルリと背中を見せて、庭から採った夏みかんをむいていた。酸っぱくて顔をしかめながら・・・

 

Ⅲ--子供であっても、少し大きくなると、悪い事は自覚できる。精一杯の知恵を使って隠そうとしたり、ごまかそうとするものです。

人間には、神によって、良心 συνείδησις も備えられているからです。(συν--είδησις 一緒--見る)

私達クリスチャンは、聖書のみことばに敏感になり、深いところから応答して、砕かれ続け、整えられ続けて、成長・成熟して行かなくてはなりません。

 

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私のお葬式について

2023-07-23 | 日ごとの生活

以前住んでいた、総数600戸程のマンションにはお葬式ができる集会所があった。私は人と付き合うのが下手で、友達という人はいなかった。もし自分がここで死んだら、義理で来る親戚の人以外には、誰も列席する人のいないお葬式になので、夫や子供には、お母さんは寂しい人だったのだなと思われることになると、気にしていました。

 

今日の午後に、牧師に聞く「良い人間関係」の築き方があります。25年前に、イエス・キリストのよるただ一度のきよめを信じたことによって、今や、私の人間関係についての考え方がすっかり変えられていることに気づきました。

 

もし、ここで死んだら、お葬式には親戚の人は来ないだろうが、もはや気にならない。教会の兄弟姉妹に見送られたら嬉しい。しかし、たとい、災害やその他の非常事態で、葬式という儀式ができなかったとしても、天国に入れられる信仰の確信を持って召されたのなら、私にとっては大きな問題ではありません。神の国とその義を大切に、悔い改め、きよめられ続ける生涯で終れたら、それは最高です。

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