ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

マラキ書

2023-02-13 | 旧約聖書

マラキ書

マラキは イスラエル人がバビロン捕囚から帰還して 百年後くらいの預言者で、エルサレムに住んでだいぶ時間が経った民に対して彼はメッセージを向けました。神殿もしばらく前に再建されていましたが エズラ記やネヘミヤ記にあるようにイスラエルの状況はあまり良いとは言えませんでした。

捕囚から帰ってきたばかりの頃は民の期待は大きく、神殿も彼らの生活も再建し預言 者たちが語った約束の成就を見ることができると思っていました。そしてメシアが来てすべての国々の上に神の王国を建て、義と平和がもたらされるだろうと思っていたのです。しかしそうはなりませんでした。エルサレムに戻ってきた民は彼らの先祖と同じように神への不誠実さを露呈し、その結果貧困と不正がはびこっていたのです。

マラキ書では、この新しい世代がいかに堕落していたかが明らかになります。

 

神と民の口論

この書は口論が連続する構成になっています。ほとんどのセクションで、神がまず民に対して何かの主張や非難をして、民はそれを否定して、神の言ったことに疑問を呈します。そしてそれに対してさらに神が応答をするということが6回繰り返されます。

 

前半の3つの口論では神がイスラエルの堕落をあばき、後半の3つの口論では彼らの堕落に対峙しています。これらのやり取りを読むと、民は捕囚を経験しても根本のところで何も変わらず、心が頑ななままのようです。

 

1-2 イスラエルの堕落をあばく

最初の口論では、神がイスラエルの落ち度にもかかわらず契約の民である彼らを愛していると言ったことに対し、民は不遜にもどんなふうに愛してくれましたかと答えます。神は兄のエサウではなく彼らの先祖であるヤコブの家を選び契約を担うものとしエサウの子孫は、創世記やオバデヤ書にあるように滅ぼされたことを思い出させました。このように最初の口論からイスラエルは神の愛と誠実さに対する疑いと不信感をむき出しにしているのです。

2番めの口論は、第二神殿の問題をあばいています。神が民は神殿を軽んじ汚していると責めると 民はどんなふうに軽んじましたかと口答えします。恥知らずにも足が悪かったり傷があったりする動物や病気の動物をささげ物として持ってくる民のこと を神は取り上げ、それは彼らが神を大事にせず敬ってもいないからだと言います。

しかも民ばかりでなく、神殿を司る祭司たちもそうなのです。彼らは腐敗した礼拝を見逃していただけでなく、その一部を担っていたのです。イスラエルは民も祭司も不誠実だったことが明らかになりました。

3番めの口論で、神はイスラエルの男たちが神と自分たちの妻を裏切ったと非難しますが、彼らはそれを否定します。神は偶像礼拝と離婚という最悪の組み合わせの中で、男たちは異邦人と結婚し、ネヘミヤ記13章にあるように、妻たちが代々拝んでいる偶像を家庭に持ち込んでいることをあばいています。マラキはこの事実を男たちがちゃんとした理由もなく妻と離婚する風潮と結びつけます。イスラエル人たちはそれを問題にもしていないようでしたが、マラキはそれは大きな問題であり、神との契約に反することだと咎めます。ここからイスラエルの反逆に対峙する後半の口論に入っていきます。

 

3 イスラエルの堕落に対峙する

4番目の口論は、イスラエルの民が神の正義はどこにあるのですかと言って、神の不在をなじるところから始まります。不正と堕落がはびこる中、神は何もしていないと感じたからです。神は主の日に神ご自身が戻ってこられる時のために民を準備をさせる使者を遣わすと答えます。 神は精錬する火のように来て偶像礼拝と性的不道徳と不正を取り除き、誠実な者だけが残された神の民となるのです。

5番めの口論では、神は民に立ち返るように呼びかけますが、民はどのようにして帰れるだろう と答えます。神は彼らが什一献金をささげていない事実を突きつけて、彼らの自己中心性に立ち向かいました。什一献金とは民が神殿と祭司を支えるために年に一度、収入や作物の十分の一をささげることです。この規定についてはトーラーのいろいろな箇所にありますが、マラキ書にもネヘミヤ記にも書いてあるように、民はこの責任をないがしろにしていたため、神殿が荒れ果てていました。そこで神は彼らを大いに祝福したいのだが、そのためには、彼らが誠実でなければならないと戒めているのです。

最後の口論で民は神を非難し、神に仕えるのは無駄だと言います。彼らは悪人や高慢な人々が成功しているのに、神が何もしないと思えるのです。神はこの書の中で初めて会話形式ではなく、短い物語をもって答え、イスラエルの残された民について語りました。彼らは主を恐れ集まって、神を敬い仕える方法について語り合いました。神は彼らのために記憶の書を記すように命じ、彼らがそれを読んで神のご性質と約束を思い起こすことができるようにしました。マラキはここで聖書という贈り物を通して 神がしてくださったことを思い出し、それによって神への忠誠心と未来への希望がかきたてられることについて考察しています。

 

4:1-3 結論

こうして本書は結論のセクションに至り、4番目の口論に出てきた主の日についてのイメージが取り上げられ、さらに発展しています。神は民の中から悪人を取り除くために、裁いてきよめる主の日を定めたと言います。しかし残された民にとっては、主の日は恐怖ではなく喜びをわきあがらせるものになります。それは癒やしと命と未来への希望をもたらす朝日のようなものなのです。

 

4:4-6

6つの口論はこれで終わりますが、マラキ書はこれで終わりではなく、締めくくりのような最後の3節があります。これはマラキ書のみならず、トーラーと預言書全部を締めくくるような3節です。

まずモーセの律法つまりトーラーを覚えよと呼びかけていますが、これは聖書の最初の5書のストーリー と契約の律法を指しています。

次に預言書全体の要約として、私は主の日の前に預言者エリヤを遣わし、神の民の心を再び神に向けさせると言っています。つまりこのエンディングはトーラーと預言書を要約し、それらは未来を指し示す一つの物語であるとまとめています。

イスラエルは神に贖われたのに 神に反逆し心を頑なにし、トーラーの掟を破ることで神を裏切りました。しかし神がモーセのような預言者、新しいエリヤを遣わす時、申命記やエレミヤ書やエゼキエル書にあるとおりに民の頑なな心は癒やされ、神に立ち返るだろうと言っているのです。

この最後の締めくくりは、聖書を神からの贈り物として示し、これを読みよく考え祈るように促しています。聖書は人間の現実である自己中心性や罪を明るみに出し、同時に神がやがて使者を遣わして、次に神ご自身が来て、悪に立ち向かい、ご自身の民を回復し、癒しと正義をもたらすという神の約束も伝えています。これこそがマラキ書とトーラーとすべての預言書が語っている未来の希望なのです。

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ゼカリヤ書

2023-02-13 | 旧約聖書

ゼカリヤ書

この書は捕囚の民がバビロンからエルサレムに帰って来たあとの話です。エズラ記によると、ゼカリヤとハガイは共に民に対して神殿の再建に取り組み、神の約束の成就を待望するよう励ましました。それよりずっと前に預言者エレミヤは イスラエルの捕囚は70年続くがその後 新しい神殿に再び神が臨在し、やがて神の王国とメシアの支配がすべての国に及ぶと言いました。ゼカリヤ書の冒頭にある日付を見ると、その70年が間もなく終わろうとしていました。しかし帰還した民の生活は苦しく、それらの約束はどれ一つ実現しそうには思えませんでした。ゼカリヤ書はその理由を記しています。

この書の構成は明快で、まず導入部があり、次にゼカリヤの見た幻を綴った大きなセクションがあり、7章と8章でそれが締めくくられています。続いてもう二つ詩と預言の大きなセクションがあります。では詳しく見ていきましょう。 

 

1:1-6 導入

導入でゼカリヤは、預言者たちを無視して神に逆らい捕囚にされた先祖たちのようであってはならず 神に立ち返るべきだと同世代の者たちに語っています。帰還した民はそれに答え、悔い改めて神の前にへりくだりました。あるいはそうしたように見えました。

 

1:7-6 ゼカリヤが見た幻

次の大きなセクションは ゼカリヤが夢に見た8つの幻を集めたものです。多くの夢がそうであるように、これらは奇妙なイメージにあふれています。神が象徴的な夢を通して人に何かを伝えることは昔からあり、たとえば創世記のヤコブやヨセフやファラオなどがその例です。それらの夢は、その時に起こっている出来事の意味を明かしたと同時に、未来を垣間見せるものでもありました。

 

ゼカリヤが見た夢はシンメトリーの構造になっています。最初の幻と最後の幻は馬に乗った 4人の男たちで、神のために世界をパトロールして回っています。これは、神がご自身の世界を注意深く見守っていることを表しています。彼らは世界は平和だったと報告しました。これはゼカリヤの時代に、神がペルシャを興し、バビロンを征服させて平和をもたらした事を指しています。

ここで疑問が浮かび上がります。イスラエルが捕囚にされる70年間は終わろうとしている今こそ、メシアの王国がエルサレムに建てられるのだろうか。神は約束を必ず成就すると答えますが、それがいつなのかについては答えませんでした。

 

2番目と7番目の幻も対になっていて、二つともイスラエルを捕囚へと導いた過去の罪について語っています。2番めの幻はイスラエルを攻撃し、民を散り散りにしたアッシリアとバビロンを象徴する角を描いています。そのあとこの角つまり2つの帝国を散らす職人たちが登場します。これはペルシャを表しています。

7つめの幻ではかごに入った女性が登場します。彼女はイスラエルが何世紀にもわたって契約に違反し続けたことの象徴です。この女性はコウノトリの翼を持った別の女性たちによって、バビロンに運ばれました。何とも奇妙な幻です。

 

3番目と6番目の幻も対になっていて、2つとも新しいエルサレムの建設についてです。男性が街を測っていてこれはエルサレムが再建され、諸国への光となり、すべての国が神の民と共に礼拝するという約束を象徴しています。6番めの幻では新しいエルサレムの周りを飛ぶ巻物が泥棒や嘘つきを罰しています。これは新しいエルサレムは神のみことばによってきよめられることを示しています。

 

4番目と5番目の幻はこのセクションの中心にあり、帰還民の中の鍵となる2人の指導者たち大祭司ヨシュアとダビデの子孫ゼルバベルについてです。ヨシュアはイスラエルの罪を象徴する汚れた服を着ていますが、それははぎとられ新しい服と新しいターバンが与えられます。これは神の恵みと赦しを表すものです。そして御使いがもしヨシュアが神に誠実であり続けるなら、彼は民を導き、未来のメシアなる王を象徴する 者になるだろうと告げます。

もう一方の幻では神の民に注がれる神の視線を象徴する金の燭台に油を注ぐ2本のオリーブの木があります。2本の木は神の油注がれた指導者で、神殿再建に尽力していたヨシュアとゼルバベルのことです。神は神殿再建は政治的な駆け引きだけではうまくいかないと言います。この2人の指導者は神の霊により頼まなければならないのです。

もう一つの幻

幻を集めたセクションは真ん中に位置する4番目と5番めの幻のテーマを取り上げるもう一つの幻をもって終わります。大祭司ヨシュアが再び現れ、冠を与えられ、未来のメシアなる王また神の国の大祭司の象徴として示されるのです。そしてゼカリヤは今の世代が神に誠実で契約を守るのなら、これらの幻はすべて実現するといってこのセクションを終わります。この3つの幻はメシアの王国の到来はこの世代の神への誠実さにかかっている事を強調しています。

 

7-8 結論

次にこれら幻の結論で ゼカリヤからもう一つのメッセージが語られます。イスラエル人の一団がやってきて、以前の神殿の崩壊を70年近く嘆いていました。彼らはゼカリヤに嘆きの時は終わり、神の王国はもうすぐ来るのでしょうかと尋ねました。

ゼカリヤは彼らに神が預言者を通して呼びかけた言葉を先祖たちが拒絶して捕囚にされる羽目になったことを思い出させ、今の世代の者たちが正義と平和を追い求め、神との契約に忠実であるなら メシアの王国を見るだろうと言います。

つまりゼカリヤは彼らに問い返したのです。あなたたちは来るべき神の王国を受け入れ、それに加わる人になる準備はできているのかと。しかしこの問いには答えが返ってこないまま、話は先に進んでいきます。

 

9-11 メシヤの王国のイメージ その1

最後のセクションは 1章から8章までとはまったく別のスタイルになっています。来るべきメシアの王国に関する詩やイメージの断片が、万華鏡をのぞいたように散りばめられています。9章から11章では謙虚なメシアなる王が、すべての国々の上に神の王国を築くために、ロバに乗って新しいエルサレムに入る様子が描かれています。

しかし突然その王が今度はイスラエルを導く羊飼いにたとえられ、拒絶され、ますまずご自分の民によって、次に、これもまた羊飼いにたとえられている彼らの指導者たちによってです。

そこで神はイスラエルをこの堕落した羊飼いたちに引き渡しました。ここで疑問が浮かび上がります。イスラエルは永遠に自分たちの王を拒むつもりなのでしょうか。

 

12-14 メシヤの王国のイメージ その2

最後のセクションである12章から 14章はそうではないと言っています。ここには来るべきメシアなる王について、別の詩とイメージが並べられていますが、それらは新しいエルサレムを神の正義がついに国々の悪を打ち滅ぼす場所として描いています。

このテーマはヨエルやエゼキエルが語ったテーマと非常に似通っています。しかし神はご自分の民の心の中の反逆にも立ち向かい、彼らにご自分の霊を注ぎ、彼らがメシアなる羊飼いを拒んだことを悔いて嘆くことができるようにしてくださるのです。最後の章はすべての国が新しいエルサレムに集まってくる記述で締めくくられています。そこは新しいエデンの園でもあり、そこの神殿から命の水の川が流れ出て、すべての被造物が癒されるというところでこの書は終わっています。

 

ここで読者は1章から8章と 9章から14章の関連性について考えさせられます。 ポイントは、後半で語られている来るべきメシアの王国は、前半で語られているように神の民が契約に忠実である場合にのみ到来するということなのです。ゼカリヤ書には読者を振り回すような難解さがあります。幻と詩の中には度肝を抜かれるようなイメージがたくさん出てきますし、直線的な思考の流れもありません。実はこれもこの書の重要な点で 歴史の流れや人の人生と同じようにいつも分かりやすいパターンがある とはかぎりません。しかし預言者たちはご自分の目的に沿って歴史を導く神のみわざの片鱗を垣間見せてくれます。混沌とした現実を超えて、来るべき神の王国への希望に目を向けさせてくれるこの書は 私たちに今を誠実に生きようと招いているのです。 これがゼカリヤ書です

 

 

 

 

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ハガイ書

2023-02-13 | 旧約聖書

ハガイ書

この書は預言書の中でも短い書ですが、旧約聖書の物語の中で非常に重要な意味を持っています。旧約時代の預言者たちは何世紀にもわたって、偶像礼拝と不正によって神との契約を破ったイスラエルの民を糾弾してきました。そして神はバビロン帝国を遣わしてエルサレムとその神殿を滅ぼし民を捕囚にするだろうと警告していました。 それは紀元前587年に現実のこととなりましたが、話はそれで終わりではなかったのです。預言者たちはまだ希望があると信じていました。神がいつの日か生まれ変わったイスラエルの残りの民を、神が共に住む新しいエルサレムに連れ戻してくださるという希望です。このハガイ書が書かれたのは紀元前520年で、捕囚から約70年後バビロン帝国が滅んだすぐあとで、支配者がペルシャに変わった頃でした。エルサレムはまださびれたままでしたが、そこに帰りたいと願うイスラエル人には、ペルシャは帰還を許しました。そこで大祭司ヨシュアとダビデの子孫であるゼルバベルの指導のもと、捕囚されていた一団はエルサレムに戻り、街を再建し生活を立て直し始めたのです。このことはエズラ記1章から6章に書かれています。希望に満ち将来は明るいものに思えました。しかしハガイはそうは思っていませんでした。

 

1:1-15 非難と応答

ハガイ書は4つのセクションから成り、その内容は、ハガイが4か月にわたってエルサレムの民に述べたメッセージの要約です。

彼はまず優先順位を間違えている 人々を非難します。彼らはエルサレムに戻ってきましたが、自分たちの贅沢な家を建てることに時間と資源のすべてを費やしていたのです。その間神殿は70年前に破壊されたままの状態で、ほったらかしにされていました。

ハガイはあなたたちの家は神への忠誠よりももっと大事なものなのかと問いかけ、神殿を打ち捨てておく行為は先祖たちが契約を破った罪にも等しいと言います。そのため民は不作と飢饉と干ばつに苦しめられました。ハガイはこのことを申命記にある契約に反した場合の呪いの言葉を引用して述べています。

この非難のことばに続いて、民が応答した様子が記されています。このことはエズラ記5章にも書かれています。それによるとゼルバベル、ヨシュア、残された民たちはハガイの言葉を聞いて奮い立ち、神殿の再建に取り掛かりました。

 

2:1-9打ち砕かれていた期待

次のセクションでハガイはそれから一か月後に、人々の打ち砕かれていた期待について言及しています。彼らが再建していた神殿はまるでさえなかったのです。500年前にソロモンが同じ場所に建てた荘厳な神殿とは比べ物になりませんでした。そのためこの事業をやり遂げようという士気が下がってしまっていたのです。

そこでハガイは彼らに来るべき神の王国とこの神殿についての大いなる約束を思い出させました。神がエルサレムから世界を贖い、すべての国々がそこに集って神の王国に加わり、平和の時代が訪れるという先の時代の預言者、特にイザヤとミカの言葉をここで引用しています。このようにこの神殿は神の計画の中で大切な役割を果たすのです。だから今の状況に落胆せずに希望をもって働くようにとハガイは彼らを励まします。

 

2:10-19 契約に誠実であること

3つめのセクションで、ハガイはそれから2か月後に、契約に誠実であるようにという 呼びかけをしました。彼は祭司たちを相手にレビ記にあるようなきよさを保つための律法について問答をしました。もし誰かが死体に触れて汚れた状態、つまり死がついている状態になった場合、その人が触った食べ物も汚れるかとハガイが聞くと、祭司たちはレビ記を知っていますから汚れると答えました。

するとハガイはこれをたとえに用いてこう言いました。イスラエルもそれと同じことであり、彼らが再建している神殿もまた然りだ。もし彼らがへりくだって不正から離れ、神への無関心を改めないなら、彼らが着手するものはすべてこの新しい神殿も含めて汚れている。彼らの神殿再建の努力が、神の王国と祝福をもたらす結果につながるためには、彼らの真の悔い改めと契約への誠実さが必要不可欠なのです。つまりイスラエルの未来はある意味で彼ら次第であり、神はご自分の民が誠実な者になるのを待っているのです。

ハガイがここで捕囚になった世代に語っていることは、約束の地に入る前に荒野をさまよった世代に向けてモーセが語ったことに似ています。つまり主に従うなら祝福と繁栄があり、不誠実なら破滅に至るということです。

 

2:20-23 神の王国の将来の希望

この書は神の王国に関する将来の希望を短くまとめて終わっています。神はご自身の栄光に満ちた王国の真ん中に新しいエルサレムを据えて、そこから国々にはびこる悪と対決して勝利します。

ここで出エジプト記でファラオの軍隊の滅ぼしたことを例として挙げています。神は約束を果たし、ダビデの子孫の中から王を立てます。そしてハガイの時代においては それがゼルバベルでした。このように明るい未来の選択肢を残したままハガイ書は終わります。ハガイの時代の民は神に誠実になれるでしょうか。彼らは約束の成就を見ることができるでしょうか。ゼルバベルはどうでしょう。彼こそが誠実なメシアなる王なのでしょうか。それを知るためには預言書の最後の二書 ゼカリヤ書とマラキ書を読まなければなりません。ハガイ書には、すべての世代の神の民に対する非常に重要なメッセージがあります。それは私たちの選択は重要であること、そして神の民の誠実さと従順さが、神がこの世界に対する目的をどのように成し遂げられるかを左右 するということです。この驚くべき事実は、私たちをへりくだらせ、神の王国の到来を待ち望む行動へと駆り立てます。これがハガイ書です

 

 

 

 

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ゼパニヤ書

2023-02-13 | 旧約聖書

ゼパニヤは南ユダ王国の最後の何十年かを生きました。それはヨシヤ王が国内の偶像を取り除き神殿を修理して、イスラエルの神だけを礼拝し、大改革を行おうとしていた時代でした。しかしイスラエルはあまりにも堕落しきっていました。偶像礼拝は民の生活の中にすっかり定着していたのです。ヨシヤ王は頑固さのゆえに戦場で死を遂げ、エルサレムとバビロンの対立は厳しくなっていました。しかしゼパニヤはこれらのことすべてを予見していました。彼は何年もエルサレムの指導者たちに警告を発していて、この短い預言書はそれを要約した詩を集めたものです。

 

本書は3つのセクションから成って います。最初のセクションは、神の裁きがユダとエルサレムに下る日のことに焦点を当てています。2つ目は他の国々とエルサレムに再び下る神の裁きについて。そして3つ目は国々とエルサレムへの裁きの後に残された希望について述べています。

 

1-2:3 エルサレムへの裁き

最初のセクションは創造の過程に逆行するように、神が善いものとして造られた秩序 ある世界が無秩序で暗く混沌とした人の住めない世界になるという衝撃的な記述で始まります。さらに読んでいくとこれらの強烈な詩は、エルサレムがどのような終焉を迎えるかを描いているものだということがわかります。

この街でカナンの神々への礼拝に加担していたものはすべて滅ぼされます。不正に手を染めていた指導者たちも、詐欺のような貸し借りが行われていた経済の中心地も、エルサレムの城壁と共にすべて崩れ去るのです。

ゼパニヤはこれから起こること、つまり巨大な軍隊がエルサレムを攻略しにやってくる という事実の重要性を示すために、これらのことを黙示的なイメージで表現します。

ここで興味深いのは神が裁きを下すために用いるのがどの国の軍隊なのか書かれていない点です。ミカ書とハバクク書からそれがバビロンだということはわかりますが、ゼパニヤはその名を書いてはいません。それは街を栄えさせるのも滅ぼすのも神だということに焦点を当てたいからでした。そしてその点こそがゼパニヤに希望を与えていたのです。

エルサレム全体が滅ぼされる運命をまぬがれることはできませんが、一つ目のセクションの最後の詩で、ゼパニヤは主を求める者たちに呼びかけ、「彼らこそ忠実な残された民であり悔い改めるなら滅ぼされない」と言っています。

2:4-5:8 国々とエルサレムへの裁き

2つ目のセクションでゼパニヤは話題をユダの近隣諸国に広げます。ペリシテ人、モアブ人、アンモン人、アッシリア人たちをその堕落と暴力と傲慢さのゆえに非難し、彼らもまたバビロンに滅ぼされるだろうと予告します。そして衝撃的なのは最後に非難 されているのが、エルサレムに住むイスラエル人たちだということです。イスラエルの指導者や預言者や祭司たちは暴力的で堕落しきっていて、神から遠く離れているので、神は彼らをもはやご自分の民と見なしていないのです。

このセクションは神の最後の決断で締めくくられています。神はエルサレムを含めてこれらの国々を集め、そこにご自分の燃える怒りを注がれるというのです。神の正義は燃え上がる火となり、地上の悪をすっかり焼き尽くしてしまいます。

 

3:9-20 国々とエルサレムの希望

しかしこの書の最後の部分につながる次の一行には驚かされます。「この神の裁きの焼き尽くす火は人々を滅ぼすためのものではなく、エルサレムも含め国々をきよめるためのものだというのです。このセクションは神が癒やしをもたらし、反逆的な国々を一つの家族に生まれ変わらせ、きよめられた彼らは悪から立ち返り、神を呼び求めるようになるという神の言葉から始まります。

このイメージは創世記12章にある、神が国々をエルサレムとともに祝福するという アブラハムへの約束が成就したことを示しています。ゼパニヤ書は、エルサレムが国々の中心に返り咲くということに焦点を当てて終わっています。神はその回復した街に臨在し神のあわれみによって謙遜にされ造り変えられた忠実な残りの民に喜び歌えと命じています。そしてこの輝かしい場面でゼパニヤは 神ご自身が歌いたがっている詩人だと言うのです。 「あなたの神はあなたと共に住み、あなたを喜び歌われると」この書の最後の詩は、見捨てられていた者、貧しい者、損なわれていた者たちが神の家族として集められ、栄誉ある者とされる様子を描いて終わっています。

ゼパニヤ書は短い書ですが、ほかのどの預言書にも勝って、神の正義と愛の姿を強烈なイメージで描いています。神の正義とは人間の悪と暴力にさらされている世界を救い出し守ろうとする情熱のことなのです。人間がお互いに対してまた世界に対して行う非道なことを神は決して見過ごしません。けれども神はその愛のゆえに世界を回復し、人間が安心と平和のうちに栄えることができる場所とするために、ご自身の正義を行使されるのです。こうしてゼパニヤは読者に神の正義と神の愛という二つの性質を結び付けて理解させます。そしてこの二つが合わさって将来の希望をもたらすのだということを伝えているのです。これがゼパニヤ書です

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ハバクク書

2023-02-13 | 旧約聖書

ハバクク書

南ユダの嘆きの詩

ハバククは、南ユダ王国の最後の何十年かを生きましたが、それは不正と偶像礼拝の時代でした。彼はバビロンの台頭という迫りくる脅威を見て、これは大問題だと察知しました。しかし他の預言者と違ってハバククはイスラエルを非難せず、神のために民に語ることさえしませんでした。彼の言葉はむしろ神に対する個人的なもので、この書には世界に悪と悲劇がはびこる時に、それでも神は良い方だと信じようとする彼の葛藤の過程が綴られています。そのためハバクク書は嘆きの詩であり、詩篇に収められている嘆きの詩とも似通っています。ハバククは神に不平を述べ、この世界の苦しみや不正に目を向けてどうにかしてくれと要求しています。この嘆きの詩のスタイルを知ることが この短い書の構成とメッセージを理解する上で鍵となります。

 

1-2a ハバククと神

1章と2章の内容はハバククと神の論争で、ハバククは2つの不満をぶつけ、神はそれに2つの返答をします。 一つ目の不満はイスラエルの生活はひどいものになったということです。トーラーは打ち捨てられ、その結果、暴力と不正が蔓延しているのに堕落した指導者たちは見て見ぬふりでした。ハバククは神にどうにかしてくれと懇願しましたが、何も変わったようには見えません。

しかし突然神からの応答があり、神はイスラエルの民の堕落を知っていて、彼らに裁きを下すためにバビロンの軍隊を呼び寄せていると言います。そしてミカやイザヤのメッセージと同様に、イスラエルの不正と悪のゆえにこの恐ろしいバビロン帝国にイスラエルを滅ぼさせると言いました。

しかしハバククはこの答えに不服でした。そこで2つ目の不満をぶつけるのです。バビロンはイスラエルより悪いではないですか。もっと堕落していて、もっと暴力的で、自分の軍事力を神の力のように思い、人間を動物扱いし、魚を網で引き上げる様に人を捕えています。彼らは自分の帝国を築くために、国々と人々を貪り食っています。「聖くまた良い方である神よ。あなたはどうしてそんな堕落した国を歴史を動かす道具として使うのですか」と問い詰めます。彼は自分を物見やぐらに立って、神の答えを待つ者にたとえています。

そして神は返答しました。神はハバククに板とのみを使って見たことと聞いたことを書き記すようにと言いました。それは将来やってくる定めの時についての幻で、来るのが遅いと思うことがあっても必ず来るものです。神は「正しい人はこの希望と幻を信じることによって生きる」と言いました。ではハバククが書き留めるべき神の約束とは何でしょうか。それは神はバビロンを滅ぼすということでした。暴力と抑圧で他国を制する国は復讐の連鎖を生み出し、神はその連鎖を用いて国々を台頭させたり滅ぼしたりするというのです。つまり神はバビロンのように堕落した国を一定期間用いたとしても、彼らのやることをすべて認めているわけではありませんでした。神はすべての国にご自身の正義を行使されるので、バビロンも同じことをする他の国々と同様倒されるのです。3:21

2b 5つのわざわい

この後、抑圧と不正に満ちたバビロンのような国々を描く5つのわざわいの中で神の約束の詳細が述べられていきます。

最初の2つは裕福な者たちが貧しい人々を借金づけにしておくために法外な利子を取って、自分たちの富を築くような経済的な不正に焦点を当てています。 3つ目は奴隷を動物のように扱い、暴力で脅しながら働かせることへの批判です。4つ目は酒におぼれる無責任な指導者が民を苦しめながらどんちゃん騒ぎをして、セックスと酒のために金を浪費していることの告発です。そして最後はそのような国々の悪事の原動力となっている偶像礼拝を暴いています。彼らは金や力や軍事力を偶像とし、あらゆる犠牲を払いながらこれに忠誠を誓ったのです。そのため民は国家の奴隷のようになっていました。ここに描かれている有様はバビロンに限ったことではありません。人間の性質を考えれば、すべての国が最終的にはバビロンのようになってしまうということを表す一例です。その意味で、ハバククに対する神の答えは、後のすべての時代においてバビロンのような国に支配される人々への答えにもなるのです。

3-ハバククの祈り

ここで一つの疑問が残ります。神はバビロンのような帝国を興し没落させるというパターンを永遠に繰り返されるのでしょうか。その答えは3章にあります。ハバククは祈りの中で以前そうしたように、堕落した国を滅ぼしてくださいと懇願しています。そして続く詩の中でまず、力に満ちた恐ろしい神の登場を描いています。この詩はミカ書とナホム書の冒頭の詩に似ていて、出エジプト記のシナイ山における神の姿に似ています。雲が立ち込め炎が見え地震が起こり、そこに創造主が現れて、人の悪と対決し、すべての人の目を引きつけるのです。

ハバククはやがて悪が打ち負かされることを未来の出エジプトとして描いています。神は戦士としてファラオとの闘いに赴き、海を割った時のように、もう一度悪人の家の頭の上に裁きを下すというのです。ここでファラオは バビロンのような暴力的な国の原型になっています。同時に神が悪と対決する時に、ご自分の民と油注がれた者を救うと語っています。これはダビデの子孫の王についての記述です。つまりこの詩において過去の出エジプト記の物語は、将来神が行われる新しい出エジプトを投影するものになっているのです。神は再び悪を打ち負かし、この世のファラオとバビロンを滅ぼします。そしてすべての民に正義をもたらし、抑圧されていた人々を救い出します。 そのためハバククは希望に満ちた賛美でこの書を締めくくることができたのです。「たとえこの世界が食糧不足や干ばつや戦争などで崩壊しそうでも、自分は神が約束してくださった契約を信頼し、そのゆえに喜ぶ」と、このようにハバククはこの書の終わりで、信仰によって生きる正しい人の輝かしい見本となっています。ハバククはこの人間の世界がどれほど暗く、混乱したものになりうるかを知っていました。その上で神は私たち以上にこの世界を愛し、いつかこの悪に決着をつけてくださることを信じようと 読者を信仰の旅へといざなっているのです。これがハバクク書です。

 

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