マラキ書
マラキは イスラエル人がバビロン捕囚から帰還して 百年後くらいの預言者で、エルサレムに住んでだいぶ時間が経った民に対して彼はメッセージを向けました。神殿もしばらく前に再建されていましたが エズラ記やネヘミヤ記にあるようにイスラエルの状況はあまり良いとは言えませんでした。
捕囚から帰ってきたばかりの頃は民の期待は大きく、神殿も彼らの生活も再建し預言 者たちが語った約束の成就を見ることができると思っていました。そしてメシアが来てすべての国々の上に神の王国を建て、義と平和がもたらされるだろうと思っていたのです。しかしそうはなりませんでした。エルサレムに戻ってきた民は彼らの先祖と同じように神への不誠実さを露呈し、その結果貧困と不正がはびこっていたのです。
マラキ書では、この新しい世代がいかに堕落していたかが明らかになります。
神と民の口論
この書は口論が連続する構成になっています。ほとんどのセクションで、神がまず民に対して何かの主張や非難をして、民はそれを否定して、神の言ったことに疑問を呈します。そしてそれに対してさらに神が応答をするということが6回繰り返されます。
前半の3つの口論では神がイスラエルの堕落をあばき、後半の3つの口論では彼らの堕落に対峙しています。これらのやり取りを読むと、民は捕囚を経験しても根本のところで何も変わらず、心が頑ななままのようです。
1-2 イスラエルの堕落をあばく
最初の口論では、神がイスラエルの落ち度にもかかわらず契約の民である彼らを愛していると言ったことに対し、民は不遜にもどんなふうに愛してくれましたかと答えます。神は兄のエサウではなく彼らの先祖であるヤコブの家を選び契約を担うものとしエサウの子孫は、創世記やオバデヤ書にあるように滅ぼされたことを思い出させました。このように最初の口論からイスラエルは神の愛と誠実さに対する疑いと不信感をむき出しにしているのです。
2番めの口論は、第二神殿の問題をあばいています。神が民は神殿を軽んじ汚していると責めると 民はどんなふうに軽んじましたかと口答えします。恥知らずにも足が悪かったり傷があったりする動物や病気の動物をささげ物として持ってくる民のこと を神は取り上げ、それは彼らが神を大事にせず敬ってもいないからだと言います。
しかも民ばかりでなく、神殿を司る祭司たちもそうなのです。彼らは腐敗した礼拝を見逃していただけでなく、その一部を担っていたのです。イスラエルは民も祭司も不誠実だったことが明らかになりました。
3番めの口論で、神はイスラエルの男たちが神と自分たちの妻を裏切ったと非難しますが、彼らはそれを否定します。神は偶像礼拝と離婚という最悪の組み合わせの中で、男たちは異邦人と結婚し、ネヘミヤ記13章にあるように、妻たちが代々拝んでいる偶像を家庭に持ち込んでいることをあばいています。マラキはこの事実を男たちがちゃんとした理由もなく妻と離婚する風潮と結びつけます。イスラエル人たちはそれを問題にもしていないようでしたが、マラキはそれは大きな問題であり、神との契約に反することだと咎めます。ここからイスラエルの反逆に対峙する後半の口論に入っていきます。
3 イスラエルの堕落に対峙する
4番目の口論は、イスラエルの民が神の正義はどこにあるのですかと言って、神の不在をなじるところから始まります。不正と堕落がはびこる中、神は何もしていないと感じたからです。神は主の日に神ご自身が戻ってこられる時のために民を準備をさせる使者を遣わすと答えます。 神は精錬する火のように来て偶像礼拝と性的不道徳と不正を取り除き、誠実な者だけが残された神の民となるのです。
5番めの口論では、神は民に立ち返るように呼びかけますが、民はどのようにして帰れるだろう と答えます。神は彼らが什一献金をささげていない事実を突きつけて、彼らの自己中心性に立ち向かいました。什一献金とは民が神殿と祭司を支えるために年に一度、収入や作物の十分の一をささげることです。この規定についてはトーラーのいろいろな箇所にありますが、マラキ書にもネヘミヤ記にも書いてあるように、民はこの責任をないがしろにしていたため、神殿が荒れ果てていました。そこで神は彼らを大いに祝福したいのだが、そのためには、彼らが誠実でなければならないと戒めているのです。
最後の口論で民は神を非難し、神に仕えるのは無駄だと言います。彼らは悪人や高慢な人々が成功しているのに、神が何もしないと思えるのです。神はこの書の中で初めて会話形式ではなく、短い物語をもって答え、イスラエルの残された民について語りました。彼らは主を恐れ集まって、神を敬い仕える方法について語り合いました。神は彼らのために記憶の書を記すように命じ、彼らがそれを読んで神のご性質と約束を思い起こすことができるようにしました。マラキはここで聖書という贈り物を通して 神がしてくださったことを思い出し、それによって神への忠誠心と未来への希望がかきたてられることについて考察しています。
4:1-3 結論
こうして本書は結論のセクションに至り、4番目の口論に出てきた主の日についてのイメージが取り上げられ、さらに発展しています。神は民の中から悪人を取り除くために、裁いてきよめる主の日を定めたと言います。しかし残された民にとっては、主の日は恐怖ではなく喜びをわきあがらせるものになります。それは癒やしと命と未来への希望をもたらす朝日のようなものなのです。
4:4-6
6つの口論はこれで終わりますが、マラキ書はこれで終わりではなく、締めくくりのような最後の3節があります。これはマラキ書のみならず、トーラーと預言書全部を締めくくるような3節です。
まずモーセの律法つまりトーラーを覚えよと呼びかけていますが、これは聖書の最初の5書のストーリー と契約の律法を指しています。
次に預言書全体の要約として、私は主の日の前に預言者エリヤを遣わし、神の民の心を再び神に向けさせると言っています。つまりこのエンディングはトーラーと預言書を要約し、それらは未来を指し示す一つの物語であるとまとめています。
イスラエルは神に贖われたのに 神に反逆し心を頑なにし、トーラーの掟を破ることで神を裏切りました。しかし神がモーセのような預言者、新しいエリヤを遣わす時、申命記やエレミヤ書やエゼキエル書にあるとおりに民の頑なな心は癒やされ、神に立ち返るだろうと言っているのです。
この最後の締めくくりは、聖書を神からの贈り物として示し、これを読みよく考え祈るように促しています。聖書は人間の現実である自己中心性や罪を明るみに出し、同時に神がやがて使者を遣わして、次に神ご自身が来て、悪に立ち向かい、ご自身の民を回復し、癒しと正義をもたらすという神の約束も伝えています。これこそがマラキ書とトーラーとすべての預言書が語っている未来の希望なのです。