説教から学んだこと 使徒2章23-28節
★ダビデは、詩編16章で、こう言いました。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主は私の右におられるので、私はゆるぐことはない。」
★ペテロは、ダビデの言葉をこう言っています。
「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、わたしが動かされないように、私の右におられるからだ。」
★その直前では、イエス・キリストの十字架上の死を、「神の定めた計画と神の予知」とによって既に決定されていたことであると言っています。
私の霊的な状態
★このところ、列王記を通読しているが、この「神の計画と神の予知」が、事が起こる前に書かれていて、結局そのとおりに事が進んでいる場面をしばしば見ました。私は、王たちが罪を犯してしまう様子を見て、非難したり悲しくなったりしていました。
★しかし、そんな読み方では不十分で、キリストの贖いを見通して、その恵みを喜んで読むのが正しい読み方ではないのかと、考え方が変えられました。
★神は罪性を持つどうしようもない人間を救うために、イエス・キリストを十字架につけて復活させるという壮大な計画を立てて、それを預言通りに実行してくださったことを感謝します。
恵みと祝福
★私は、揺らぎやすい者であり、動かされやすい者です。しかし、聖霊の時代の今、主は栄光の右の座から聖霊を注いで、揺り動かそうとする力に負けてしまって揺り動かされないようにと、その時その時、不思議な方法で守り導いてくださいます。
★どうしたら「いつも」「前に主を置いて読む、目の前に主を見る」ことができるでしょうか。そうだ、「キリストの眼鏡」をいつもかけようではないか。これからは、神が前もって知らせてくださった福音を良く知って、神のご計画・みこころに従順に従う道を、一歩ずつ選び取っていく生き方をしたいと思います。それは、神を讃美し、喜び、感謝して、永遠のいのちに生きることができる祝福の道です。
★私は目が良くないのですが、「キリストの眼鏡」をいつもかけていることを忘れないようにしよう。聖書を読む時だけでなく、奉仕をする時も、個人的な日常生活をする時も。「キリストの眼鏡」はだんだんと度数が合って来て、何気ないことまで、だんだん良く見えるようになって、そこに主の臨在を深く知っていけることでしょう。
おまけ
★この記事の下書きを終えてから、ラインで80歳で教会に来れていない姉妹とラインでお話をしました。電話の目的は祈祷課題を聞き取ることだったのですが、キリストの眼鏡ではなくて、キリストのイヤリングをつけて聞くように心がけました。
★携帯の電源が切れるまで1時間半。残ったメモは2500字以上でした。今度はこれを、小グループメンバーに、彼女からの祈祷課題として、短くまとめて分かち合います。早速キリストの眼鏡を使うことになります。