ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

写真のテスト

2020-02-26 | 喜び

田舎生活の中で、撮りためていた写真が、今こうしてブログにアップすることで楽しめます
親戚の家の軒の下


下の写真は、・・・名前を忘れました
つぼみの付き方が面白い



ロープウェイで山頂の上ったとき





田舎ののどかな景色


山の上から



懐かしい




写真が大きすぎるね
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掛け声ばかりで、伝道をしていない私

2020-02-26 | 弟子づくり
伝道を大胆に始められない理由の一つに、私が、アンテオケでキリスト者と初めて呼ばれるようになったような本物のクリスチャンでなかったからだと思いました。(使徒11:26)
そして、弟子たちを「キリスト者」と呼んだ人々は、教会の外の人より、案外教会の中にいる大勢の人々ではなかったかと思いました。

彼らは、預言者の言葉を聞かず、ユダヤの兄弟たちに力に応じて救援物資を送るという弟子たちの計画に合意せず、実際に実行することもしなかった。そして、私自身、その大ぜいの中の一人のようであったと悔い改めました。

年度総会に備えている今、決められる一つ一つを自分の事として、賜物を大いに用いて、実際の行動に移して、伝道の実を結ぶ方向にて進みたい。また自分で頑張るばかりではなく、委ねるべき手に任せて、導かれて行くことを祈り願います。

先日の主日のお昼に、伝道しているお客さんと話していて、夫の告別式の早朝に、私も福音のメッセージをしっかり語っている牧師と同じ側に立って、集まっている人々に信仰を明らかにしなくてはならないと示されたことを思い出しました。前夜式では最後の挨拶を息子がしたのですが、告別式では私がしっかりと話すことにしたのでした。
それは、寺関係の人が多い親族から非難を受けてもキリストに従うことを覚悟した朝でした。今、親族からの非難は問題にしていないが、兄弟姉妹から非難されることを恐れているところがあります。

しかし、今、私には多くのものが豊かに与えられています。救いの約束、みことば、礼拝説教、教会生活、時間、持ち物、自然を含めた生活環境、足が痛くでも動くことのできる身体。そして、これらをどのように用いるのかの自由も与えられています。

この自由を自分の好きに用いるのではなくて、恐れて用いないのでもなく、神のみこころに沿って用いる方向に、犠牲を払っても伝道をする、始める方向に用いて進みたいと思っています。


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まず、会いたいと伝えて 電話をして・・・・

2020-02-25 | 弟子づくり
今、恐れないで、前進することが、本人たちのため、教会のためであることを確信した。この時をのがしてはならないと。

2/17主日メッセージより
ヨハネ12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
36あなだかたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。

2/23山上の垂訓からのデボーションより
マタイ6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

総会資料の入力原稿より
第二テモテ4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。



会うことができなくて、電話で話した。
最初に言い出した私の口調が強かったからでしょう。反発されました
罪意識をはっきりと持っておられることが分かった。神様から、彼女たちに、今後一歩一歩の導きがあることでしょう。今回は、私にとって苦しい体験でしたが、話ができたことは良かったです。
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喜べるようになった

2020-02-24 | 喜び
私の夫は、声をあげて笑いことのない人でした。ごくたまに、片方の頬をゆるませるくらい。冗談を言うこともなかった。だいたい難しい顔で、黙って座っていた。多少の不満はあったが、信頼できる人だったので、口争いの喧嘩をすることも、対等に議論をすることもなかった。


ところが、イエス・キリストを救い主と信じて、罪を告白して、赦されてからは、夫は大きく変わった。また夫と私との関係も大きく変わった。


良く笑うようになった。痛い時、苦しい時は表現して助けを求めるようになった。心配な時はやせ我慢をしないで、心配そうな顔を見せるようになった。わかないことを尋ねるようになった。聖書のみことばについて考えや疑問を言葉にして私と話し合うようになった。


これらのことは、癌の末期、在宅で、主にある楽しい介護生活をするために、神様にイエス・キリストの御名によって祈り求めたものでした。
そして、みことばどおり、受けたものでした。
夫が最後に息を引き取るまで、また息を引き取ってからも、私達は互いに喜んでおりました。今も喜んでいます・



ヨハネの福音書16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。


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祝福の数々を数える

2020-02-24 | 喜び
70歳。股関節が痛い。高脂血症・高血圧などの薬が必要。寝つきが悪く、夜中に起きる。年金暮らし。子供から離れて一人暮らし。・・・・・色々心配を抱えながら生きているのか・・・・・オー・ノーである

マタイの福音書
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

天地を創造し、私をも造って導いてくださっている神様が、私を最後まで責任をもって守り養ってくださるので、何も心配をしていない。
私が気にかけていることは
神様から与えられた恵みへの感謝が十分であるように
与えられた使命を謙遜に聞いて、責任を果たせるように
神様に自分のことはもっと委ね任せて、信頼していくように





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