伝道を大胆に始められない理由の一つに、私が、アンテオケでキリスト者と初めて呼ばれるようになったような本物のクリスチャンでなかったからだと思いました。(使徒11:26)
そして、弟子たちを「キリスト者」と呼んだ人々は、教会の外の人より、案外教会の中にいる大勢の人々ではなかったかと思いました。
彼らは、預言者の言葉を聞かず、ユダヤの兄弟たちに力に応じて救援物資を送るという弟子たちの計画に合意せず、実際に実行することもしなかった。そして、私自身、その大ぜいの中の一人のようであったと悔い改めました。
年度総会に備えている今、決められる一つ一つを自分の事として、賜物を大いに用いて、実際の行動に移して、伝道の実を結ぶ方向にて進みたい。また自分で頑張るばかりではなく、委ねるべき手に任せて、導かれて行くことを祈り願います。
先日の主日のお昼に、伝道しているお客さんと話していて、夫の告別式の早朝に、私も福音のメッセージをしっかり語っている牧師と同じ側に立って、集まっている人々に信仰を明らかにしなくてはならないと示されたことを思い出しました。前夜式では最後の挨拶を息子がしたのですが、告別式では私がしっかりと話すことにしたのでした。
それは、寺関係の人が多い親族から非難を受けてもキリストに従うことを覚悟した朝でした。今、親族からの非難は問題にしていないが、兄弟姉妹から非難されることを恐れているところがあります。
しかし、今、私には多くのものが豊かに与えられています。救いの約束、みことば、礼拝説教、教会生活、時間、持ち物、自然を含めた生活環境、足が痛くでも動くことのできる身体。そして、これらをどのように用いるのかの自由も与えられています。
この自由を自分の好きに用いるのではなくて、恐れて用いないのでもなく、神のみこころに沿って用いる方向に、犠牲を払っても伝道をする、始める方向に用いて進みたいと思っています。