ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

民を見捨てず、その心を造り変える

2023-01-11 | 旧約聖書

バイブルプロジェクト エレミヤ書の文字起こしから
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エレミヤ書預言者エレミヤは南 のユダ王国の最後の数十年間エルサレムにいたイスラエルの 祭司です。彼は偶像礼拝と不正によって神 との契約を破ったイスラエルに厳しい裁きが下ると警告するため 預言者として召されました。そしてこの裁きをもたらすためバビロン帝国が神のしもべとして用いられエルサレムを壊滅させ 人々を捕囚として連れていくだろうと預言しました。悲しいことにその預言通りになりました。エレミヤは包囲されやがて陥落 したエルサレムを生き延び、人々が連れ去られるのをその目 で見たのです。

この書はとても興味深い成り立ち をしています。36章にはエレミヤがエルサレム で20年間説教したあと、神が彼にその説教や詩や文書を まとめるように命じ、そこでエレミヤはバルクという 書記を雇いました。バルクはこれらをまとめ巻物に 書き留めました。またバルクはエレミヤ自身に関する ことも書き集め、それをまとめました。エレミヤ書は彼をの正義と恵みを伝える預言者として描いています。
この書は、神がエレミヤを預言者として任命 するところから始まります。彼には2つの召しが与えられました イスラエルに対してそして他の国々に対して預言すること でした。エレミヤの言葉は 引き抜き壊し建てまた植えるためでした。 つまり彼は神の裁きが来ると警告し責めたのですが 将来の希望についてのメッセージも語ったのです。この冒頭の言葉は最初の大きなセクション 1章から24章を見事に要約しています。

 

これらはバビロン捕囚以前のエレ ミヤの著述を集めたもので、内容はイスラエルが神との契約 を破ったこと、そしてトーラーすべてに違反した ということです。具体的にはこういうことです。 イスラエルはカナンのあらゆる偶像礼拝を取り入れ その宮を国中に建てました。エレミヤはその偶像礼拝を不倫 にたとえ娼婦乱交不貞といった言葉を使いながら イスラエルが偶像の神々にいかに入れ込んだかをなじりました。エレミヤはまた堕落した祭司たち、王たち 他の預言者たちを糾弾しました。彼らがトーラーと契約を踏みにじ ったため、社会には不正がはびこっていました トーラーにある戒めが守られないために社会の弱者である未亡人 孤児移民たちが虐げられていたのに イスラエルの指導者たちは気にも留めなかったのです

 

これらのことについてまとめた有名な箇所が7章にあり エレミヤの神殿説教と呼ばれています イスラエル人はあたかも何も問題がないかのように 神殿で礼拝していましたが神殿の外で偶像を礼拝していた のです。中には子どもをいけにえにする というカナン人の恐ろしい儀式を取り 入れている者さえいました。そこでエレミヤはイスラエルの 神の裁きが下るという人々を不快にさせる預言をしました。 神は北からの敵を送りご自身の宮を破壊し イスラエルを罰するというのです。神がこの敵にエルサレムを征服 させたのです。読み進んでいくと その敵とはバビロン帝国であることがわかります

 

 これらはすべて25章へとつながっていきます イスラエルは神に立ち返りませんでした。そこでバビロンの新しい王ネブカドネ ツァルの元年に神はエレミヤにバビロン軍がやって 来てイスラエルと近隣諸国を征服し その民を70年の間、捕囚にすると告げよと命じました 彼はバビロンをイスラエルの不正と偶像礼拝に対する 神の義なる怒りで縁まで満たされたぶどう酒の盃 にたとえました。そして 神はイスラエルと近隣諸国にその盃から飲ませると言ったのです この章は重要な鍵となりますというのも この後に続く記事はすべてバビロンの襲来に焦点が当てられている からです

まず26章から45章でイスラエルが 襲撃され。次に46章から51章で近隣諸国が襲 われます。イスラエルについてのセクション ではまずエレミヤがイスラエルに神に立ち 返るよう最後の瞬間まで懇願したにもか かわらず、指導者たちが彼を拒絶し続けた ことが語られます。そしてこのセクションの最後は バビロンに包囲されたエルサレムの様子と陥落した時の様子 そしてその期間迫害されていたエレミヤが 最後はイスラエルの反逆者によってエジプトに連れ去られたことが 書かれています。

 

しかしこの災いと裁きの暗い話 の真っただ中でエレミヤはイスラエルの将来について の希望を語ってもいるのです。かつてモーセが申命記30章で預言 したように神との契約を破ったイスラエル は追い散らされても、神はご自分の民をお見捨てにはな らずそれどころか契約を新たにしイスラエルの心 を造り変えるとエレミヤも語っています

エレミヤはさらに神はいつの日か トーラーの戒めを石の板にではなくご自身の民の心に刻み 彼らの背きの罪から癒やし真心から神を愛して従うことが できるようにすると語りました。そしていつの日かイスラエルは エルサレムに帰り、ダビデの家系からメシアが現れる と言ったのです。その時にはすべての国々が イスラエルの神こそ真の神であると悟ります つまりこれらの章はイスラエルの背きの罪にもかかわらず 神は彼らを見捨てないことを教えています むしろ神はご自身の誠実さのゆえに何が起ころうと約束を実現させる のです

 

この後には 神がバビロンを用いてイスラエルの近隣諸国であるエジプト ペリシテモアブエドムアンモン、ダマスコ ハツォルを裁くという詩がたくさん続きます しかし驚いたことに最後に来るいちばん長い詩は 神がバビロンをも裁くという内容なのです 神は裁きを下すためにこの国を用いましたが だからと言ってこの国の暴力や偶像礼拝を良しとしていたわけ ではありませんでした。ですから バビロンも神の正義によって裁かれるのです エレミヤはこの国のおごりと不正についても糾弾しました バビロンは詩の中で身の丈を超えた国として描かれ このことは創世記11章にあるバビロンを思い出させます バビロンは反逆する国の典型となったのです 富と戦争を愛するこの国を神は自滅させようとしていました

 

この書は第二列王記の最後に書かれている 出来事をもって終わっています。そこにはバビロンがエルサレム への最終攻撃でその城壁を破壊し神殿を焼き払い 人々を捕囚にしたことが書かれています つまりエレミヤが1章から24章で警告して きたことが現実となったのです。けれどもこの章は 捕囚にされたイスラエルの王であるエホヤキンについての短い記述 で終わっています。彼はダビデの子孫でした バビロンの王は彼を牢から出しその後死ぬまでずっと王の食卓 につかせました。それがこの書のエンディングです ここにかすかな望みがあり30章から33章にあるエレミヤの希望 の言葉を思い出させます。神はご自身の民をお見捨てにならず ダビデの家系からメシアなる王が出るという約束も反故にされません というわけでこの書には多くの警告と裁きが記されていますが その締めくくりは未来への希望となっているのです これがエレミヤ書です

 

 

 

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イザヤ書後半から、神の大きな計画・希望を見る

2023-01-10 | 旧約聖書

バイブルプロジェクトイザヤ書ビデオの文字起こしから転記したもの
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イザヤ書前回のビデオでは、1章から 39章のエルサレムに対する裁きと希望 についてのメッセージを学びました。

イザヤは神に反逆したイスラエル の指導者たちを非難し、アッシリアとバビロンという神の 裁きを通してイスラエルの王国は滅びるだろう と言いました。39章はエルサレムがバビロンに 壊滅させられ捕囚にされるとイザヤが預言したところで終わり ます。そして約百年後悲しいことにそれは 現実となりました。しかしイザヤが述べた大いなる 希望はきよめられた新しいエルサレム でした。それは来るべきメシアなる王を 通して回復された神の国ですべての国の人々が平和のうちに暮らす のです。40章以降はこの希望について語り ます。

最初のセクションである40章から 48章はイスラエルの希望と慰めについて の記述で始まります。バビロン捕囚は終わりイスラエル の罪は赦され新しい時代が到来すると告げられ ます。イスラエルの民はみな神がご自身 の王国を築くエルサレムに戻り、他のすべての国の人々もそこで 神の栄光を見ます。

 

しかしここで大きな疑問が生まれ ます。これらの希望のことばは誰の発言 なのでしょうか。これらの預言は捕囚後の時代を 生きた人の視点から語られています。つまりエズラやネヘミヤの時代 ということです。しかしイザヤはそれより150年前に 死んでいるのです。では一体誰の発言なのでしょうか これはイザヤが預言者として200年先の視点に立ち もう捕囚が終わったかのようにして 未来の世代に語っているのだと考える人たちも大勢います しかしイザヤ書はそれとは別の可能性を示唆しているのです。

8章29章30章にはイザヤがイスラエルの指導者たち から拒絶されたあと裁きと希望のメッセージを巻物 に書き記して封印したことが書かれています 彼はそれを来るべき日の証人とするために 弟子たちに渡しました。イザヤは 神がこれの正しさを証明してくださることを期待して死んだのです

 

 

すでに学んだように1章から39章にはイザヤの預言がバビロン捕 囚という形で実現したことが書いてあります。彼は真の預言者でした そこで捕囚が終わった後イザヤの言葉を大切に保管して きた弟子たちが巻物を開封しそこにある希望の言葉を彼らの時代 に適用し始めたのです。そう考えるとイザヤ書にはイザ ヤ本人の言葉と彼の弟子である預言者たちの言葉 もあります。神はイザヤの希望のメッセージ を後の世代へ伝えるためこの弟子たちを用いたものと考え られるのです。どちらの説を取るにしろ これらの箇所は待ち望んでいた希望が到来したと伝えていることに 変わりはありません。神はイザヤが預言したことを実現したのです

 

イザヤはイスラエルが神のしもべとなることで 神に応答することを願っていました。つまりその歩みの中で神の義と 憐みを体験したイスラエルが神とはどんな方かをすべての国々 と分かち合ってほしいと願ったのですがそうはなりませんでした。イスラエルはその役割を負わなかったばかりか 神は我々の苦境を気に留めず無視しておられる と不平を言ったのです。バビロン捕囚が イスラエルに信仰を失わせたことは想像に難くありません。 神にはそんな力はないのかもしれない バビロンの神々のほうが我々の神より優れているのかもしれない と彼らは思いました。

 

そこで41章から47章はまるで裁判 のシーンのようになっています。神はイスラエルの疑いや非難に対して 次のように答弁します。バビロン捕囚が起こったのは神 が彼らを忘れていたからではない。むしろイスラエルの罪に対して 神が計画した裁きである。またバビロンを征服するために ペルシアを差し向けたのは神であり、おかげでイスラエルはイザ ヤの言葉どおりに故郷へ帰れたのである。それゆえイスラエルは他国の偶像ではなく イスラエルの神こそ歴史の王なのだと知るべきである。バビロンが滅びペルシアの王キュロスが君臨したのを見て イスラエルは神のみわざを認めそのしもべとなり この真の神について国々に告げ知らせるべきでした。

 しかし48章にある裁判の結末を見ると イスラエルは先祖と同じように反抗的で頑なだったのです。そのため神はイスラエルをしもべと認めることはできませんでした。それでもなお神はイスラエルを祝福しようとされたのです。この問題を解決するために神は新たな手段を取られると イザヤは言いました。その内容が49章から55章です。 ここには神のしもべと呼ばれ、イスラエルにはできなかった神の 任務をなし遂げる人が登場します。神は彼にイスラエルという称号 を与え、まず、イスラエルの民を神のもとに連れ 帰るという任務を与え、次に国々に対する神の光となる 任務を与えました。彼は神の霊によって力が与えられ、 すべての国々に良い知らせと神の王国をもたらすと記されています。これはまるで9章と11章にあるメシアなる王のようです

 

しかし彼がどのようにして神の王国をもたらすか その方法には驚かされます。彼は拒絶され殴られ 最終的には自分の民に殺されるというのです 彼は人々の非難を受けて死刑宣告をされ 彼の民の罪のために死ぬことになります。この神のしもべの死は 人々の罪と反逆を贖うための犠牲の死だとイザヤは言います そして彼は突然よみがえり、この死によって人々が義とされる 道を開きます。こうして人と神の関係が回復される のです。

 

このセクションは 神のしもべに対する人々の2つの反応を記して終わります 。ある人々はへりくだって罪を離れ、神のしもべがしてくれたことを 受け入れます。彼らはしもべたちまたは種と呼ばれる ようになります。6章に出てきた聖なる種のことです この人たちはメシアの王国の祝福を味わうことになります 14 19s554613 しかし悪しき者と呼ばれる者たち もいて彼らは神のしもべもそのしもべ たちも拒絶します。

 

そして次がこの書の最後のセクション 56章から66章であり、ここでしもべたちが神の国を受け 継ぎます。この箇所はイザヤ書全体のテーマ をまとめシンメトリーがあり巧みに構成 されています。中心には神の霊がしもべに力を 与え、神の王国の良い知らせを弱者に 宣べ伝えさせたことについての3つの美しい詩があります。神のし もべはイザヤ書ではじめから語られている 希望の約束を改めて保証します。神のしもべたちが住む新しいエルサレム は神の義と憐みと祝福が世界に広 がっていく源となるのです。

 

これらの詩を挟むように2つの長い 悔い改めの祈りがあります。しもべたちがイスラエルの罪を 告白し自分たちが見聞きする悪しき行 いを嘆く祈りです。彼らは神に赦しを求め神の国が 天にあるようにこの地上にも来るようにと願います。これらの祈りを挟むように配置されている詩は 神のしもべたちと彼らを迫害する悪しき者たちがた どる道の明暗を描くものです。神は神が作った素晴らしい世界を 悪と自己中心と偶像礼拝によって汚す人々を裁き 彼らを神の都から永久に追放するのです しかし神の前にへりくだり分の罪を悔い改めるしもべたち は赦され新しいエルサレムを受け継ぎます。その都は死も苦しみも永遠に味わうことのない 新しくされた世界を指しているのです。

 

さてこのセクションの一番最初と最後を見てみましょう。この新しくされた世界である神の国では すべての国の人々が創造主贖い主を知って 神の契約の家族であるしもべたちに加わるように招かれています。 このようにイザヤ書は神の契約による約束が すべて実現するという壮大なビジョンを持って終わるのです。苦しみを受けるしもべなる王を通して 神はすべての国の人々からなる契約の家族を作ります。 彼らは天に神の国と神の義があるように 地上にも新しい創造の日が来ることを待ち望んでいるのです この力強い希望これがイザヤ書です

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びくともしない家を建てる

2023-01-09 | 日ごとの生活

詩編
 1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
 1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

エルサレム近辺の乾燥した地の下には、見えないところで地下水が流れている地層がある。
そこに植えられた木は、根を下へ下へと伸ばして、そこから水をくみ上げ続けて
時が来ると実を結ぶ。
それが、昨日のルカの岩の上に土台を据えて家を建てる人と重なりました。


ルカの福音書
 6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。

家は問題が起こってもびくともしない確かな家を建てるという目的は、ただ建物を建てるだけではない。その家で健全な家庭生活をし、子育てをし、また人を招いて交わりを持ったりする目的がある。

岩とは、変ることのない神のみこころ、救いのみわざ、聖霊の導きだと思えて来た

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主に聞いて、従って、揺るがされない生活を

2023-01-08 | 日ごとの生活


ルカ

 6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

「主よ、主よ」と呼びながら、その心は、自己中心のままで、悔い改めて主の元に近寄っていない。主の言われることばを聞かず、主の言うことではなく、自分の好きなように行なっていことをイエスは知って警告しておられる。


 6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

主のことばを行なう人は、主のもとに行き、ことばを聞いて理解し、それに従って行動している人で、それは一つの冠詞で表現されているので、ワンセット。行けば良い、聞けば良い、とにかく行えば良いというものではない。

私は、主よと祈る時、形だけになっていたことを悔い改めます。罪からの救い主であり、聖霊に満たして導いてくださる主に、もっと近づいて、親しく主の懐に入って、みことばをしっかり正しく聞かなくてはならない。そうして、正しく応答をして、主のみこころを行なうようにしよう。


 6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。

その似ている人とは、家を建てている人に似ている。
その人は、掘った。そして、さらに深く掘った。そして、岩の上に土台を置いた人に似ている。
洪水が起こって、その影響で川の奔流が急に押し寄せて来た。しかし、川はその家を揺り動かす力はなかった。すでに適切にしっかりと建てられていたから。

みことばを聞きっ放しにしないで、掘って、さらに掘って、もっと掘って、岩盤にぶち当たったら、さらにグリグリと掘って、岩盤としっかり一体となる必要がある。私のみことばの聞き方は甘かったことを悔い改めます。


洪水や、災害、色々なことが起こって来るが、岩の上にしっかり建てられているなら、その影響を受けてグラグラと揺り動かされることはない。機会が与えられた時には、中途半端な掘り方で終えないで、受動態完了形でしっかり建てられたという確信を得るまで掘っているなら、恐れなく、主にある平安な生き方をすることができる。

 6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

聞いた。しかし実行しなかった人は、地面の上に土台なしで建てた人に似ている。川の奔流が急に押し寄せて来た。すぐに倒れた。その家の崩壊はすさまじいものだった。

その聞き方、応答の仕方に問題がある人は、みこころを行なうことはできない。外面的、表面的に、見えるところだけでクリスチャンのような生活をしていると、急に奔流が襲って来て、崩壊する。最後の審判の時には何も残らなくなる。日々の生活の中で、しっかり深くみことばを聞いて、一つ一つ応答して生活することが大切です。

明日からの信徒による原典連続講解説教と祈祷会に出席して、しっかり聞いて応答しよう。校正の奉仕も、色々と誘惑するものがあって気が散って効率が悪いのですが、しっかり祈って集中して忠実に仕えよう。



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明日の奉仕への心備えが与えられた

2023-01-04 | 日ごとの生活

聖霊に満たされることと、マリヤの聖霊による受胎とに、関係があることを教えられ、
臨むと言う言葉とが、原語で同じ言葉であることを確認した。


ルカの福音書
 1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨みいと高き方のがあなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

使徒の働き
 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたはを受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 

キリストを信じる者に聖霊が内住してくださることは、マリヤが処女降誕をするのと同じように、ものすごい力が働く、奇蹟的なことであることです。
信じる前には全く考えられないような、いと高き方の力が、私達の内に働くことになります。

反対に、処女降誕が信じられないとか、聖霊のことがよく分からないという人には、救いの確信や喜びがなくて、伝道して実を結ぶこともできないとも言える。

私は、聖霊に満たされることを、はっきりと祈り求めます。それは神からの命令形で言われていることです。
求める者には与えられるという約束があることを感謝します。


明日は、海外から宣教チームが教会に来られます。
布団等の準備は終わっていますが、さて、到着されてからの私の仕事についての具体的な指示は受けてはいません。

自分の知恵・力によらないで、自我を捨てて、
求められていること、賜物によってできる事を自ら進んで見つけて、
伝道しようという兄姉に、聖霊の導きに委ねつつ仕えよう。

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