ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

ナホム書

2023-02-12 | 旧約聖書

 ナホム書

この短い預言書は イスラエルの最大の抑圧者の一つである古代アッシリア帝国と その首都ニネベの破滅を告げるものです。

アッシリアは世界最強の帝国の一つとして栄えた国です。アッシリアによるイスラエル侵略で イスラエル北王国とその十部族は滅亡しました。アッシリアの軍隊はかつて例を見ないほどに残虐で破壊的で、そのためイスラエルもその近隣諸国もアッシリアの滅亡を待ち望んでいて、それは紀元前612年に実現しました。バビロンが力をつけてアッシリアに立ち向かい、ニネベを襲いアッシリアを負かしたのです。

 

2章はそのニネベ陥落の様子を詩の中で鮮明に描いています。

3章は帝国全体の没落を記していますが、それはイスラエルの敵に対する怒りに満ちた非難だけではありません。

1-

導入の章を読むとそれ以上に大きなメッセージもあります。この書は神の栄光の力強さを描く未完のアルファベットポエムで始まります。

これは一つ前のミカ書の始まり、そして次のハバクク書の終わりに似ています。力強い創造主である神は国々に立ち向かい、彼らの悪に裁きをもたらすために来られます。

そしてこの詩は冒頭で、出エジプト記34の有名な聖句を引用しています。金の子牛事件の際に神がご自身について言われた「主は怒るのに遅く力強い方。悪を罰せずにはおかれない。」という箇所です。

詩の残りは 傲慢で残虐な国の運命と神に忠実な残された民の運命を対比させていきます。傲慢な帝国が滅ぼされる時、神の前にへりくだった民はかくまわれるのです。

興味深いことに アッシリアについて書かれたはずの本書の1章には どこにもニネベやアッシリアの名前が出てきません。そしてナホムはこの悪い国の滅亡を描くために のちの時代に起こることですが、イザヤがバビロン滅亡について書いた言葉を用いているのです。

それだけでなくナホムは悪者の滅亡を神の残された民への良い知らせとして書いていますが、これもイザヤ書のバビロン滅亡についての良い知らせを下敷きにしているのです。

1章のこれらの特徴を合わせると 大切なことが見えてきます。

ナホムにとってニネベの没落は一つの例でした。神が歴史の各時代において どのように働かれるかを示すものだったのです。

傲慢で残虐な帝国が永遠に続くことを神は許しません。

その点でナホムのメッセージはダニエルのそれと非常に似通っています。

アッシリアは歴史の中に連なる数々の残虐な帝国の一つです。そしてニネベの運命は神が各時代における残虐で傲慢な帝国を必ず滅ぼすことを思い出させるものなのです。

最初の章からこの視点を持ちつつ、ナホム書は再びアッシリアに焦点を当てます。

2-ニネベの陥落

2章はニネベの戦いと 街が崩壊していく様子を段階的に描いています。

まずバビロンの兵士たちが押し寄せてきて、次に戦車が攻めてきます。そして城壁は混乱に包まれニネベは陥落します。こうしてニネベ人の大虐殺が始まり、街は略奪されるのです。

3-アッシリアの没落

3章は都の陥落が帝国全体にもたらした結果を描いています。ナホムはまず罪のない者の血を流して築かれた王国の都に降りかかった災いを記します。この箇所はアッシリアを栄えさせた制度そのものが いかに不正にまみれていたかを表しています。 アッシリアは自分たちで蒔いた暴力の種によって破滅を刈り取り、バビロンに滅ぼされたのです。

ナホム書は敗北したアッシリアの王への嘲りで閉じられています。

彼は致命的な傷を負いました。そして彼がかつて苦しめていた国々からは、彼を助けに来る者は誰もいませんでした。むしろ彼の破滅を喜び歌う者ばかりだったのです。 これがこの書のエンディングです。

実に重苦しい内容です。しかしどの時代でも果てしなく繰り返される悲劇的な人間の暴力と抑圧についてナホムがどう語っているかを知ることは重要です。人間の歴史は高慢で欲しいものを手に入れるために暴力を用い罪のない者を殺す部族や国々の話 で満ちています。ナホム書はアッシリアとバビロンを例に挙げ、それに対する神の嘆きを語っているのです。

また神が罪のない者の死を心に留めその善と義の性質のゆえに、加害者の国々を滅ぼすことを教えています。悪に対する神の裁きは良い知らせです。もちろんあなたがアッシリアなら話は別ですが。

ここで1章の最初の詩の結論が思い出されます。主は良いお方、苦難の日の砦。ご自分に身を避ける者を気に留められる。

ナホム書という短い書は、神はいつの時代もどの国でも悪しき国を滅ぼされると教えています。ですから神の義の前にへりくだり、神の時を信頼して待つようにと読者に呼びかけているのです。これがナホム書です。

コメント

Ⅰヨハネ1]1-4予習メモ

2023-02-04 | 礼拝説教

Ⅰヨハ

 1:1 初めからあった未完了もの、私たちが聞いた完了もの、目で見たオラオー完了もの、じっと見セアオマイアオ、また手でさわったアオもの、すなわち、いのちのことばについてペリ、

 

Luk24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって命令、よく見なさいエイゾン命令。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

Act17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 

 1:2 ──このいのちが現れファネローアオ受、私たちはそれを見たオラオー完了ので、そのあかしをしマルテュレオ現在、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます現在アポアンゲリオン宣教する。すなわち、御父とともにあってエイミ未完了、私たちに現されたファネローアオ受永遠のいのちです。──

 

 1:3 私たちの見た完了こと、聞いた完了ことを、あなたがたにも伝える現アポアンゲリオン宣教するのは、あなたがたも私たちとメタ交わりを持つ接現在ようになるためヒナ目的です。

私たちのものとは)交わりとは、御父メタおよび御子イエス・キリストとのメタ交わりです。

 

 1:4 私たちがこれらのことを書き送るグラフォー現在のは、私たちの喜びが全きものとなる分詞プレロー完了受ためヒナ目的ですエイミ接現在。

 

全きものとなる 満たされる 成就する

Joh3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

Joh16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

それは、聖書が成就するためです。

コメント

ミカ書

2023-02-04 | 旧約聖書

ミカは南王国ユダのモレシェテという小さな町に住んでいました。預言者イザヤと同じ時代のことです。イスラエルが北王国と南王国に分裂してから長い時間が経ち どちらの王国もイスラエルの神との契約を破っていました。

ミカは神がアッシリアという凶悪な大帝国に北王国を破壊させ エルサレムを侵略させるだろうと警告しました。またそのあとにはバビロンがやってきて さらに甚大な被害をもたらすとも言いました。他の預言者と同じようにミカは神の代弁者としてイスラエルを非難したのです。
3章では彼は、「私は力と神の霊によって、公正と勇気に満ちている。イスラエルの背きを告げる」と言って います。

本書の内容の大半はミカによる イスラエルへの非難と、神の裁きが下るという警告です。しかし同時にその警告とは真逆の希望のメッセージも語っています。神は裁きを下すけれどもその後、回復
をももたらすというのです。では詳しく見ていきましょう

 

1.2非難と警告 

最初の2つのセクションの内容は イスラエルとその指導者に対するミカの非難と警告です。
冒頭では、神がシナイ山に現れた時のように イスラエルに現れる様子が詩の形式で綴られています。
火と煙が立ちのぼり地震が起こりました。しかし今回は神は契約を結びに来たのではありません。イスラエルの500年以上にわたる背きに裁きを下すために来たので
ミカは反逆の罪の裁きを受けるべきいくつもの街の名前を挙げていきます。神はこれらの町を裁くために来るのです。

具体的にはどんな罪だったのでしょうか。ミカは指導者たちの罪を挙げ、彼らは強欲に人のものを奪って 富を得たと言い、第一列王記21章でアハブ王がナボテのぶどう畑を盗んだ時と比べます。

更にイスラエルの預言者たちにも罪がありました。彼らは神の名を売り物にし、料金を支払える人は守られると唱えました。ミカはこれを否定します。神はイスラエルを守ることはもうしません

3-4a 非難と警告  イスラエルの指導者の不正

二つ目の非難のセクションでは、イスラエルの指導者と預言者の不正を更に糾弾します。
彼らはワイロをせしめて金持ちに有利なように正義を曲げ、貧しい者は土地を奪われ安全な暮らしも希望も奪われます。
そしてこれらのことは たとえ貧しい者であっても先祖から受け継いだ土地を売ってはならないと定めているトーラーに違反します。
そのため神の裁きは今北王国を侵略し エルサレムとその神殿を破壊する暴虐的な国を通して実現しようとしているのです。
これらの警告は非常に厳しいものですが、それで終わるものではありません。 警告のセクションにはいずれも希望の約束が続きます。

希望と回復

最初の詩は神が羊を助け散った群れを集める羊飼いのように 残された民を集めてくださるということをうたっています。羊飼いなる神は民を牧場に連れ戻し 再び彼らの王となるのです。

 

2つ目の警告のセクションは 荒れ果てたエルサレム神殿の様子で終わっていますが、これが永遠に続くのではないとミカは言っています。いつの日か神が神殿を建て直し、そこには神の臨在が満ち 街は残された民でいっぱいになります。イスラエルを天と地の出会うところにするのが神の目的なのです。そうすれば諸国の民がエルサレムに 集まり、そこでは神が諸国の王となり、地に平和をもたらすのです。希望をうたう2つの結びの詩は力に満ちています。

 

4b-5 イスラエルとすべての国の希望

次のセクションはこれらに続き 見事な構成の一連の詩が、イスラエルとすべての国の未来の希望について記しています。
アッシリアのあとにはバビロンが攻めてきて街を征服し民を捕囚にしてしまいます。
しかし神はご自分の民を回復し、彼らの国へ帰してくださるのです。
そして新しいエルサレムにはダビデの子孫であるメシアなる王がやってくるのです。

王はベツレヘムで生まれ その後エルサレムで回復された神の民を治めます。
そしてこのメシアが治める神の王国に住む 神の忠実な残された民たちが、全世界への祝福になるのです。
同時に神の最後の裁きも下され、世界から悪が取り除かれます。

 

6-7 警告と希望

最後のセクションは最初のセクションと同じように 警告のあとに希望が語られるパターンに戻ります。
ミカは再びイスラエルの指導者たちによる不正な富の蓄え方と それがこの国と民をいかに荒廃させたかを暴きます。
そしてミカはここで、イスラエルが神に従うとはどういうことかを要約した有名な言葉を残します。「人よ、神は告げた。何が良いことで神は何を求めているかを公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と歩め。」 これはまさにイスラエルがしてこなかったことでした。だから滅びに向かっているのです

しかしこの書は最後にもう一つの希望について記しています。

擬人化されたイスラエルが恥と敗北にまみれて孤独に座っています。これはイスラエルの破滅と捕囚を表しています。そして擬人化されたイスラエルは、神のあわれみを待ち望み、自分の声を聞いて赦してください と願います

いったいどうして神は この不誠実で反抗的な民を赦さなければならないのでしょうか。著者はその理由を2つ挙げています。

一つ目は神のご性質のゆえです。 あなたのように背く者の罪を赦す神がほかにいるでしょうか。著者は神のあわれみは神の怒りと裁きよりも強いことを知っていたのです。

2つ目の理由は神の約束です。あなたは昔誓ったようにヤコブに真実であり続け 契約の愛をアブラハムに示しますと著者は言います。これがこの書の最後の言葉であり、ずっと以前の創世記にある アブラハムとその子孫と結んだ神の契約を示唆しています。
その内容は、すべての国はアブラハムを通して 神の祝福を見出すというものです。
しかし国々への祝福となるためには イスラエルはまず神に誠実でなければなりません。だからミカ書は裁きと希望の間を行ったり来たりしているのです。

もし神がイスラエルを通して国々を祝福しようとしているなら 神はイスラエルの罪に立ち向かい裁かなければなりません、しかし神の裁きは希望へとつながります神の契約の愛と約束は人間の罪より強いからです。
神の最終的な目的は滅ぼすことではなく 救い贖うことです。そして本書の結びにあるように 神は恵みを喜ばれもう一度あわれみを示し 私たちの過ちを踏みつけすべての罪を海に投げ込むのです。

これがミカ書です

コメント

ヨナ書

2023-02-04 | 旧約聖書

反抗的な預言者ヨナ

この書は 神が敵を愛することに腹をたてた反抗的な預言者の物語です。旧約聖書の預言書は、預言者を通して語られた神の言葉を集めたものであるのに対し、ヨナ書は 預言者の言葉には焦点を当てていないという点が特徴的です。
これはむしろ預言者の、それも性格の悪い預言者について の物語なのです。

ヨナは旧約聖書の中でほかにもう一 か所だけ登場しています。それはイスラエルの王たちの中でも最悪な王の一人ヤロブアム2世の時代です。ヨナは彼に有利な預言をし彼は戦いに勝ち イスラエルの北の境界線を広げて領地を増やせるだろうと言いました。

ここで重要なのは預言者アモスはヤロブアムと対決し 神はアモスを通してヨナの預言を全部覆し ヤロブアムはその罪深さのために領地を全部失うだろうと言ったことです。つまりヨナ書より前の書にすでに、彼の人格を疑うようなエピソード があるのです

 

構成・登場人物

ヨナ書は対照的な組み合わせを シンメトリーに見せる巧みな構成になっています。
1章と3章はヨナと非イスラエル人の出会いについて記しています。まずは水夫たちそしてヨナが憎むニネベ人たちです。どちらの場面もヨナの自己中心的な姿と 異教徒の謙遜さと悔い改めというコントラストを皮肉に描いています。
2章と4章はヨナの祈りです。一つは悔い改めらしき祈り。もう一つは神は寛容すぎると言って怒っている祈りです。
この工夫をこらした構成は個性的なナレーションとよく合っています。

登場人物
物語には 読者の予想とは反対のことをする人物がたくさん登場します。
・神に反抗し怒りをむき出しにする神の人預言者。
・荒っぽい人々と思われがちな水夫なのに実は柔和で 悔い改めて神に立ち返る謙遜な人たち。
・そして非常に強く凶悪な帝国の王が ヨナの短くそっけない言葉で神の前にへりくだり 王の家畜たちさえそれに倣ったというのです。
現代ではこの種の話を風刺と呼ぶでしょう。風刺とは特殊な状況に置かれた登場人物の愚かさや欠点を ユーモアや皮肉を用いて表す物語のことです。

ではそれぞれのセクションを詳しく見ていきましょう

1.ヨナと水夫たち

物語は神がヨナにメッセージを伝えるよう命じるところから始まります。
相手はイスラエルの宿敵アッシリア帝国の首都で、悪と不正がはびこるニネベの街でした。
ところがヨナはニネベとは反対方向に逃げ出し船を見つけると、できるだけ西に 向かおうとタルシシュを目指しました。

なぜそんなことをしたのでしょうか。
恐れのために逃げ出したのか、あるいはニネベ人が嫌いだったのか、ここではまだわかりません。とにかく神の人は神から逃げだしました。
そして異教徒の水夫だらけの船 に乗り込み、船底に降りると眠りこんでしまいました。
神は預言者の目をさますために 大嵐を起こしましたが、
皮肉なことに、船の上で働いていた水夫たちはしっかりと覚醒し、事態を把握し、これは神の力によるものだと悟りました。

そこでくじを引いてその原因となった人を探すと、それはヨナでした。水夫たちがヨナに訳を尋ねるとヨナは偽善的なたわごとをまく したてました。私はへブル人で海と陸を造った神を礼拝していますと。よくそんなことが言えたものです。ヨナは海と陸を造った神から逃げるため 船に乗っている大馬鹿者だというのに。

水夫たちにどうすればいいかと聞かれたヨナは、自分を海に投げ込んで殺せばいいと答えます。一見立派な答えですが、実はそこに究極の自己中心が潜んでいました。つまりそうすればニネベに行かなくて済むと彼は考え 何の落ち度もない水夫たちに自分を殺す役割を押し付けようとしたのです。
彼らは神に謝りながらやむを得ず、ヨナを海に放り投げました。すると嵐がおさまったので、水夫たちはイスラエルの神を恐れ、ヨナとは違って本当に神を恐れ 礼拝したのです。

 

2.ヨナの一回目の祈り 悔い改めらしき祈り

神はニネベから逃げようとしたヨナの計画をくじきました。海に沈んでいくヨナのために神は 変わった墓を用意していました。巨大な魚の腹です。通常ならこれは当然死を意味するものでし。しかしこの物語においてはすべてが逆さまで ヨナを閉じ込めて死に至らせるはずだった魚は 潜水艦のように彼を生かすための乗り物となったのです。
巨大魚の腹の中でヨナは祈りました。その祈りの中で ちゃんと謝ることはしませんでしたが 自分を見捨てなかった神に感謝をささげ これからは何でも言うことを聞くと約束しました。

 

3.ヨナとニネベ人

神の応答はコミカルでした。巨大魚にヨナを陸地に吐き出させたのです。
そして神はもう一度ニネベで宣教するようにヨナに命じ、ヨナは従いました
ニネベは非常に大きな都だったので 全部巡り歩くには数日かかります。ヨナはまず1日分の道のりを歩きながらメッセージを語りました。あと40日するとニネベは滅びる。これはヘブル語ではたった5つの言葉です。あまりにも短くまた奇妙な説教です。語られるべきことが語られていません。
つまりニネベはどんな悪いことをしたのか、またこれからどうすべきかが語 られていないのです。誰が彼らを滅ぼすのかも また驚くべきことに神についても何も語られていません。
これはどういうことでしょう。ヨナはわざと このように最小限のことしか言わなかったのでしょうか。これではまるで自分が語るメッセージを妨げ ニネベの滅びを招こうとしているようで ヨナは何の努力もしていないようです。

彼の本音が何であれその企みはつぶれました。ヨナの5つの言葉のメッセージを 聞くやいなや、ニネベの王も都全体も家畜さえも、嘆きながら悔い改め灰をかぶったからです。またしても邪悪な異教徒が神の預言者よりも鋭敏に神の呼びかけに反応したのです。そのため神はニネベを赦し破壊することはしませんでした。

またここでは非常に面白いことが起こっています。ヨナの短い説教の最後の言葉は ヘブル語でハファクですが、それはひっくり返すという意味です。これはソドムとゴモラのように滅ぼされたという時にも使われますが 同時に逆のものに生まれ変わるという時にも使われます。 ヨナの言葉はそういう意味で的中したのですが それはヨナの想像とは違う形ででした。 ヨナの敵は悔い改めて神のあわれみを受けて 滅ぼされる代わりに生まれ変わったのです。

 

4.ヨナの二回目の祈り 神が寛容すぎると批判
最後の章ではこれらの出来事がまとめられています。激怒したヨナは2つめの祈りを祈ります。
彼はまずなぜ自分が最初に逃げたかを語ります。怖かったからではありません。神が慈悲深い方だと知っていたからだ、と言います。こともあろうにヨナは 神がご自身について語っておられる出エジプト記の言葉を引用して それを侮辱するかのように神に投げつけているのです。神はあわれみ深いので凶悪なニネベを何とかして赦そう とすることを知っていたとヨナは言います。何という言い草でしょうか。そしてヨナは神との会話を打ち切り 今すぐここで自分を殺してくれと祈ります。自分の敵を赦す神と生きるくらいなら 死んだ方がましだというわけです。幸い神はそれを受け流し、ヨナに その怒りは正当なものかと問いかけました。

ヨナはそれさえ無視して都の外に出ると 丘に野宿してこれから何が起こるか見届けようとしました。 ニネベ人はもとに戻り、結局罰を受けることになるかもしれない と期待したのです。
ここでとても不思議なことが起こります。神はヨナが木陰で涼めるように 木を生えさせヨナを喜ばせました。しかしその後神は虫を送り木を 食べさせて枯らしてしまったので、ヨナは木陰を失いました。
照りつける太陽にさらされたヨナは、また 神に死なせてくださいと願いました。神はもう一度その怒りは正当なのかと問いました。ヨナは当然です。いいから死なせてください、と反論しました。それが本書に記されているヨナの最後の言葉ですが、この書は神の言葉をもって終わっています。

 

木の出来事から知るべきこと
神にはこの木の出来事を通して ヨナになんとかして理解させたかったことがありました。ヨナはたった一日この木の恩恵を被っただけなのに それがなくなると惜しんで腹を立てました。そこで神は、人間はこの木よりも価値があるのではないか。 それなら私が迷える何万人もの人間と家畜がいる偉大な都市ニネべを心に留め惜しんではいけないのだろうか と問いかけます。こうしてヨナの敵たちを憐れませてくれ と神が頼むかのような言葉でこの書が終わるのです。 ヨナの答えは記されていません。それが大事ではないからです。

 

私達への語りかけ

この書の目的は、読者であるあなたの本心を探り出すことです。
ここでの神の質問はあなたに向けられているのです。
神があなたの敵を愛していることを許せますか。
この書は鏡の様に私たちのもっとも醜い部分を映し出します。
そして私たちはそれに対してへりくだり、自身の敵を愛される神が私たちの中にもヨナが宿っているにもかかわらず 見捨てないでいてくださることに感謝するべきです。

この不思議な物語は神の憐みの広さや深さを告げる良い知らせであり、同時に私たちの心を貫き見つめ直させる書です
これがヨナ書です

 

 

コメント