会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

戸津説法師に延暦寺一山・求法寺の武覚超御住職 柴田聖寛

2023-06-14 12:22:26 | 天台宗

 

 延暦寺一山・求法寺の(滋賀県大津市坂本)の武覚超御住職が来る8月21日から25日までの5日間にわたって、戸津説法師(とづせっぽうし)を務められることになり、去る6月4日の宗祖伝教大師様の御命日に、比叡山宗祖御廟・浄土院において長講会(ぢょうごうえ)の法要の後に、大樹孝啓天台座主様から指名を受けられました。
 戸津説法というのは、天台宗としてもっとも大事な行事の一つです。毎年8月21日から25日までの期間にわたって、比叡山の山麓で琵琶湖畔の東南寺で行われる法華経についての説法です。天台座主への登竜門ともいわれています。
 最初の頃は、東南寺ばかりではなく、生源寺(坂本)、観副寺(下坂本)の三カ所で10日間ずつ30日間実施されていましたが、織田信長の比叡山焼き討ち以降は東南寺のみの30日間、江戸時代になってからは10日間、そして明治からは5日間となりました。
 伝教大師様がご両親の供養のために民衆にやさしく法華経を説いた故事にちなむもので、寺のある場所が「戸津ヶ浜」と呼ばれていたことから、そう名付けられたのでした。
 東南寺に関しては、大津市が設置した看板には「延暦年間に伝教大師が創立した寺で、比叡山の東南、戸津ケ浜にあったので東南寺という。寛永15年、高島郡今津にあった一堂を当地に移したので一名を今津堂ともいう」と記されています。
 私は叡山学院で武覚超御住職から直に教えを受けていますが、会津天王寺の檀家や信徒の一行が平成22年9月、日本海側経由で延暦寺を訪れた際には、当時執行であった武覚超御住職に比叡山会館で「伝教大師と徳一」という題で講演していただいたことがあります。
 大樹孝啓天台座主から指名受けた武覚超御住職は、去る6月5日付の読売新聞滋賀版に掲載された記事の中で「平和や人々の心の安寧のため、伝教大師が法華経を説かれたのが始まり。1200年以上、厳粛に行われているのは尊く、歴史の一端を担えるのは身に余る光栄で、この教えを未来に伝えたい」と述べておられます。
 武覚超御住職は昭和23年大津市生まれ。大谷大学大学院仏教学専攻博士課程修了。日中友好天台宗協会顧問などを歴任。現在は叡山学院名誉教授、釈迦堂輪番、比叡山長臈、延暦寺学問所所長。

       合掌

 

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東日本大震災慰霊法要が南相馬市で執り行われました

2023-03-18 11:30:15 | 天台宗

 また今年も忘れることができない3月11日がめぐってきました。それに先立って、天台宗では去る4日午後1時から南相馬市原町区高見町、フローラメモリアル原町において、東日本大震災13回忌物故者慰霊法要を執り行いました。
 この法要には本山から宗務総長の阿部昌宏師、延暦寺からは執行の水尾寂芳師が参列されて読経を上げました。私も参列者の一人として合唱いたしましたが、目をつむると、津波で廃墟と化した浜通りの光景が、未だに瞼の裏に焼き付いています。
 東日本大震災での死者は、東北地方を中心にして、2万2318名の死者・不明者が出ました。家族や肉親を奪われた人たちの悲しみは、未だに拭い去れずにいると思います。 
 そこに思いをいたすとき「諸行無常」という言葉を考えてしまいます。あくまでも現象世界はつかの間のときであることを再認識させられました。人生の儚さを嘆くとともに、生きていく上で、もっとも大事なのは信仰を持てるかどうかなのです。
 あれから12年の歳月があっという間に経過しましたが、まだ復興の途上であります。生老病死からは、誰も免れることはできません。今回の法要に参列いたしまして、天台宗のことを一人でも多くの人に知っていただけるように、これまで以上に尽力せねば、と思いを新たにした次第です。

         合掌

 

   あいさつをされる延暦寺執行の水尾寂芳師

             参列者によるご焼香  

 

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令和5年の比叡山から発する言葉は開発真心 柴田聖寛

2023-02-26 14:38:20 | 天台宗

 

 

 令和5年の比叡山から発する言葉は「開発真心(かいはつしんしん」と決まりました。本年1月1日の年明けと同時に、一隅を照らす会館前でその言葉「書」の除幕式が執り行われ、水尾寂芳延暦寺執行より発表がありました。
 この言葉には「人に本来具わって嘘偽りの無い<真実の心(真心)>は<仏性>つまり<ほとけごころ>に他ならない」との考えのもと、「相手にも真心が具わっている以上、真心を込めれば相手に通じる。お互いの<真心>を開き発こうして目覚めさせよう」との願いが込められています。
 発表にあたって、水尾執行は「自らが待つ真心を<開発>して動かし、今年一年間どんなことにも心を込めて取り組んでいきましょう」との思いを語られました。
 天台宗はどんな人にも仏性があるという立場ですから、人が人と接する場合にも、自らが誠実に対応さえすれば、どの人とも理解し合えるということです。殺伐とした昨今の世界にあっては、すぐに敵味方に分かれて、血みどろの争いをしていますが、それは本来の人間の姿ではないのです。
「書」は比叡山の願いを象徴するものとして、根本中堂と一隅を照らす会館前に今後1年間掲げられるほか、『比叡山時報』表紙の題字下、さらには、比叡山延暦寺のホームページで閲覧することができます。
      合掌

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天台宗と法華経について - 誰もが救われる信仰とは- 柴田聖寛

2022-12-30 12:02:20 | 天台宗

 

 伝教大師最澄様が書かれたものに『顕戒論』があります。「大乗戒壇」を比叡山につくるために書かれましたが、そこではなぜ「大乗戒壇」でなければならないのかについて触れています。小乗とは違った「大乗戒壇」があるべきだという主張は、「法華経」を信仰する最澄様にとっては、最大の懸案でした。
『法華経』は初期の大乗経典に属し、鳩摩羅什(くらまじゅう)訳で知られ、全体で27章(28章)からなっています。
 お経の王様といわれています。鳩摩羅什は父親がインド系で、母親が漢民族でした。『法華経』を最初から最後まで読んで理解したという人は稀だといわれています。
 方便品を中心とする部分を第一部分、法師品から嘱累品までを第二部分、嘱累品から後の六品を第三部分としており、この順で成立したとの見方が有力です。
「方便」というのは「巧みな手段」ということであり、声聞や縁覚のための小乗の教えも、菩薩を説く大乗の教えも、最終的には「一切衆生が」仏になることができるという信仰に導くというのです。
 第二の部分では、「法華経」の信仰者が、どのように試練に耐えたかを祥介しています。第三の部分は、もともとは独立していたものが取り込まれたとみられているが、そこに『観世音菩薩普門品』も入っています。
『観世音菩薩普門品』は、『観音経』としても独立しており、「念彼観音力(ねんぴーかんのんりき) 」「観世音菩薩」の二つを唱えれば、それぞれ「観音様の力を念ずることで救われる」「心から観世音菩薩をたたえれば、必ず救われる」と書かれていますが、『法華経』の誰もが成仏できるという信仰が根本にあるからです。
 『法華経』の信仰で忘れてならないのは、聖徳太子です。厩戸皇子とも呼ばれていますが、曽我馬子とも近く、仏教の崇拝をめぐって物部氏と対立したとみられていることです。17条の憲法を制定したことで知られています。
 さらに、特筆されるべきは、聖徳太子が、禅定と法華信仰の僧であった南岳慧思(なんがくえし)の後身であるとの説があることです。慧思は天台宗を開いた智顗(ちぎ)の先生ですから、そういう話が奈良時代にはすでに広まっていました。しかも、その話を広めたのが鑑真の弟子筋であったというのですから、それなりに説得力があったのです。
 聖徳太子は『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の注釈書である『三経義疏』を書いたともいわれていますが、最近の研究では、末木文美士氏が『日本仏教史』で、聖徳大太子の手になるという説を支持しています。著者自身の詩翁の表明の箇所が多く、漢文の不適切な箇所や誤字が見られることからです。
 とくに、末木氏は「単なる『大乗』を超えた絶対的な『一大乗』を主張しているが、」これはのちの最澄などの運動につらなるものといえる」と書いています。
 その後に奈良時代となり、南都仏教が栄えますが、それと対抗する意味で、再度『法華経』が見直される時代が到来したのです。伝教大師最澄以前にも、日本に『法華経』の信仰が根付いていたのでした。
 『法華経』は誰でも成仏できるという信仰であるとともに、今も生きる知恵があるというので、現世的なご利益に関しても語っている。
 宮沢賢治などの文学者にも大きな影響を与えました。賢治の家は、もともとは浄土真宗でしたが、18歳で、島地大等編の『漢和訳対照妙法蓮華経』を読み、それで法華経を信仰するようになり、日蓮宗の宗教団体「国柱会」のメンバーとなりました。
 『雨ニモマケズ』の詩の関しては、自分のことを捨ておく菩薩道の実践であり、まさしく『法華経』の教えそのものなのです。(去る12月15日、柳津温泉花ホテルで、私が講演した要旨をまとめたものです)

 

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徳一の藤原仲麻呂子息説が最近になって急浮上 柴田聖寛

2022-11-27 12:11:24 | 天台宗

 

 伝教大師最澄様と論争した法相宗の僧徳一に付いては、私は関係する書籍を片っ端から目を通すようにしていますが、最近になって次々と新たな研究成果が発表されています。小林祟仁師の『日本古代の仏教者と山林修行』は昨年八月に出たばかりですが、私には大変参考になりました。
 といいますのは、それまで否定されていたことが、逆に脚光を浴びるようになってきたからです。資料が乏しいとはいえ、徳一の説明をめぐっては、立場立場で大きな食い違いがあるからです。
 小林師が特筆したのは下記の点です。私はそれに関して論じる知識を持ち合わせてはいませんが、私なりに勉強したいと思っております。「藤原仲麻呂(恵美押勝)子息説は、薗田香融氏が仔細に検討し、その可能性は極めて低いとしたが、近年に保立道久氏は子息説に大きな矛盾は発生しないとする。また興福寺修円の弟子との説は、塩入亮忠氏が両者の年齢関係から疑問視をしたが、そもそも両者の生没自体に不明の点があり判断しかねる。むしろ玄奘や窺基の流れを汲む正統唯識学派の学的系譜からして、南都時代の徳一が、修円と近しい位置にあった可能性は十分にあり得る」
 ここで注目されるのは、藤原仲麻呂子息説の再評価です。小林師は保立道久東京大学史料編纂所名誉教授が「藤原仲麻呂息徳一と藤原氏の東国留住」(『千葉史学』六七・二〇一五)を執筆し、「徳一が仲麻呂の子として七四九年(天平勝宝一)頃に生まれたという想定と徳一の生涯の事績との間に大きな矛盾は発生しない」と主張したのを紹介しています。
 さらに、保立同名誉教授の説明の文章を注釈において引用しており、それは衝撃的な見方でした。「天平宝宇八年(七六四)の仲麻呂蜂起事件に際し、当時十六歳であった徳一は陸奥に流罪になるものの、後に許されて東大寺へ戻り、さらに藤原氏の氏寺である興福寺に拠点を移したというのは十分に考えられるとする。そして、『徳一があらためて会津に下った理由は、やはり一つの別世界を希求したためと理解すべきであろうか』と述べる。また、仲麻呂の弟の巨勢麻呂の子孫が、常陸や上総などと深い関係をもっていたことを指摘し、『徳一の開基伝承をもつ諸寺院は常陸国から上総にかけて広がる徳一の同族の藤原氏の留住者たちの存在を背景として理解すべきものである』とし、京都と地方の双方で活動した貴族、いわゆる留住貴族の問題を論じている。徳一が実際に仲麻呂の子息で、仲麻呂蜂起事件を契機として同族が東国に留住していたとなれば、それは徳一が斗藪(とそう)の行き先として東国を選択する大きな背景になったと考えられる」
 このほか、徳一を修円の弟子とする説については、修円と徳一の双方の生没年が不明であることから、断定を避けることで、可能性の余地を残したともいわれます。このことに関しては今後新たな展開があるとみられていますが、興福寺や室生寺との関係からも、修円と徳一が無関係であったと断定することの方が間違っているのだと思います。

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