会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

「十二年籠山行」で「好相行」に導かれた渡部光臣師 柴田聖寛

2021-09-20 16:41:51 | 天台宗

 

 比叡山時報令和3年9月8月号では、前号に続き「比叡山と十二年籠山行」のことが後編として特集され、現役の侍僧として真に道心ある菩薩僧を目指す渡部光臣師へのインタビュー記事が掲載されています。
 その一部を皆さんに紹介したいと思います。渡部さんは山形大学理学部地球科学科卒で、大学時代から仏教に興味があり、比叡山で在家から延暦寺の僧侶を要請する「叡山学寮」のことを知って入寮しました。渡部さんはあらかじめ選ばれた人だと思うのは、そこに入るにあたって「山形県から半年をかけての旅路のなか、四国のお遍路を経て学寮へと入寮いたしました」と書いているからです。心に絶えず問いかけながら、自らの意思で天台宗の僧となったのです。平成14年4月、叡山学院第5期生として入山、同10年に得度、その後叡山学院、叡山学寮、本山交衆の諸課程を経て、同21年4月に「浄土院」の住職に就任したのでした。
 一時は、渡部さんは再度旅に出ることを考えていましたが、「十二年籠山行」を遂行された112人目となる侍真僧で、当時叡山学院の院長であられた堀澤祖門己講大僧正の本を手にし、「好相行」(行者が仏の姿を目の当たりにすること)に興味を抱くようになり、それを機会に一山住職になろうと決心したのでした。
 同年6月16日には「好相行」へと入行、75日目の8月29日午後1時ころ、「好相」を感得。これが先達の宮本祖豊師により証明され、9月11日、戒壇院にて大乗菩薩戒(十重四十八軽戒)を自誓受戒。それから浄土院で侍真僧として十二年籠山行へと入行し、本年の4月1日に同行を遂業したのでした。
 渡部さんはお勤めをしている時に、直接伝教大師様(最澄)から受け取ったメッセージとして「ご遺誡」にある「口に麁言無く、手に笞罰せず、今我が同胞、童を打たずんば、我が為に大恩なり、努力めよ、努力めよ」でした。いつも穏やかな気持ちでいなさいということですが、それは同時に、渡部さんにとっては、欲を無くすことであり、伝教大師様の『願文』にある「常に仏事を作さん」というのを自覚することでもありました。日々の御勤めは比叡山にとどまらず、全国の寺社仏閣で行われており、各家庭でもお仏壇に手を合わせています。このことに指摘しながら、渡部さんは「そのネットワークが我が国を覆っている。大袈裟な話になってしまいますが、その祈りの総体で日本は護られている。そんな気がしています」と語っています。
 そして、同行を遂業した感想として、人と比べるのではなく「心の持ち方一つで物事は変わる」と述べるとともに、エネルギー問題の解決で世界平和を実現することを、自らの果たすべき「利他行」であり、「そのすべての実践が菩薩行に繋がると思っているからです」と自らの今後に関しても述べています。
 十二年籠山行の厳しさを知っている者として、私は渡部光臣師の話に心動かされました。「浄土院」では今もなお生きているがごとく、毎日侍真僧によってお給仕が続けられていますが、それ以外には「好相行」を感得することはできないのです。

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「花その」社報で会津藩士秋月悌次郎を紹介  柴田聖寛

2021-09-16 09:08:57 | 読書

 

 東京都新宿にある花園神社発行の「花その」社報令和三年九月一日号が私どものところにも届きました。一面に片山裕司宮司が「中秋の名月」と題したコラムを書いていられます。明治6年に明治政府が行った旧暦から新暦の移行したことを話題にされています。閏年で13カ月の年回りであったのに、明治政府は11月の大酉終わった次の週に新年を迎えることにしたからで、給与を一か月分無くすという苦肉の策でした。これによって日本も世界の標準の中に含まれることになったのです。
 また、片山宮司は今回の東京オリンピック・パラリンピックについて評価が分かれていることに触れ、「十年、二十年後にはこの開催の全ての挑戦が好意的な評価で定着されることを念願しています」と述べていられます。
 毎回私が楽しみにしているのは、作家の中村彰彦先生の「歴史の坂道80」のページです。今回は「鶴ケ城址 夏草刈りて明るけり」。会津藩士で、京都で公用方を務め、長州を都から一掃することになった八・一八政変で重要な役割を果たし、会津の降伏にあっあても設営にあたった秋月悌次郎を取り上げています。獄中生活を経て漢文の教師となり、第一高等中学校の教諭を経て、明治二十三年九月には熊本第五高等中学校に赴任しましたが、「老いてからは学生たちの行軍を案じて草を刈る仙人のような人物となったのである」と書いています。
「鶴ケ城址 夏草刈りて明るけり」は会津の俳人新城杏所さんつくられた句だと思いますが、松平容保公の孫娘であった節子様が、昭和三年に秩父宮家に勢津子妃として嫁がれたことを記念した句だといわれています。賊軍の汚名が晴れたという思いがこめられているからです。

 合掌

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伝教大師伝⑦最澄と空海 柴田聖寛

2021-09-13 11:58:01 | 天台宗

 

 

 —写真は伝教大師最澄—

 伝教大師(最澄)の入唐の目的は天台の教えを日本に伝えることでしたが、帰国後は密教の普及に力を割かれることになります。弘法大師(空海)も伝教大師(最澄)と同じ遣唐使に便して留学をしましたが、伝教大師(最澄)よりも一年遅れて帰国しました。この差が密教の世界で大きな意味を持つことになるのです。弘法大師(空海)は長期間の滞在が許される留学僧でしたが、伝教大師(最澄)は期間が限定された還学僧としての入唐だっただけに、後れを取ったと言われても仕方がありません。
 弘法大師(空海)との密な交際が始まる以前の延暦二十五年(八〇六)正月三日、毎年所定の得度者の各宗派別定員について、新たに提案を上奏したのでした。
 それを受けて「太政官符治部省から年料度の数、並びに、学業を分かち定むべきこと」とという文書が出されました。ただし、天台宗法華宗の学業は、一人は「大日如来」もう一人は「摩訶止観」を読むことが定められたのです。桓武天皇が病気であったこともあり、密教手法の担い手としても、伝教大師(最澄)に期待が集まったのです。
 弘法大師(空海)は日本の真言宗の開祖ですが、延暦二十三年(八〇四)に伝教大師(最澄)の一行と共に唐に渡り、長安青龍寺で、恵果から胎蔵界と金剛界の灌頂、並びに伝法阿闍梨位に即位する灌頂まで受けたのでした。唐の永貞元年(八〇五)十二月十五日、其の恵果の入滅を送った後の翌年八月、越州から明州に出て、帰国の途に就き、十月には筑紫に到着。当初の予定より早かったために、大同二年(八〇七)ないし三年には、大宰府に滞在していたといわれます。
 恵果阿闍梨に関しては『岩波仏教辞典』では詳しく取り上げており、唐の密教のトップであったとみられています。
「恵果 けいか746―805 中国長安の東の照応で生まれる。俗姓は馬。はじめ曇貞につき、のち不空に師事して主として金剛頂経系の密教を授かり、また善無畏(ぜんむい)の弟子玄超から大日系と蘇悉地経系の密教受けた。金剛頂経の密教の大日経系の総合社と目され、金剛界と胎蔵界との両部曼荼羅の中国的な改変にも関与したと思われる。『十八契印』とか『秘蔵記』など密教の実習法の関する著作が恵果に帰せられるが翻訳はない。住坊である長安の青龍寺には、中国のみならず東アジア各地から弟子が集まった。空海は最晩年の弟子で、金剛界・胎蔵の両部密教を授かり恵果の滅後、碑銘を撰した。それは空海の『性霊集しょうりょうしゅう』巻2に収められている。真言宗の付法(ふほう)、伝持の第7祖」
 本流の密教を学んだ弘法大師(空海)に対して、伝教大師(最澄)は礼を尽くし、弘仁三年十二月十五日に弘法大師(空海)から金剛界の灌頂を授けられましたが、胎蔵界のためには別の日を選ぶ必要があったにもかかわらず、一方的に誤解したともいわれます。
 自らを愚といって恥じぬ伝教大師(最澄)は、自分の弟子を次々と弘法大師(空海)のいる高雄山寺に送り込みました。円澄、泰範、賢栄らですが、それは思い通りに進むことはありませんでした。とくに泰範をめぐってでした。もともとは元興寺の僧でしたが、病に伏した伝教大師(最澄)が「山寺総別当は泰範師、文書司を兼ね」と決めていただけに、弘法大師(空海)のもとへ去ったことによる衝撃は大きいものがありました。さらに、法門の借覧も弘法大師(空海)が『理趣釈経』を断ったことで、両者の関係は決定的となります。「秘蔵の奥旨は文を得るを尊しとせず」と弘法大師が拒絶の手紙を書いてきたからです。伝教大師(最澄)と弘法大師(空海)との違いは顕教か密教化の違いでもありますが、天台の密教は台密と呼ばれるように、その後、同じく中国に渡った慈覚大師円仁らの力で、独自の展開を遂げることになったのです。

         合掌

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伝教大師伝⑥帰朝復命と高雄山寺での灌頂 柴田聖寛

2021-09-07 15:44:26 | 天台宗

 

 貞元二十年(八〇四)に明州に到着から約八カ月半の入唐求法の旅が終わり、帰途に就いたのは五月十八日のことでした。船は二隻で出発し、伝教大師が乗った第一船は六月五日、対馬の下県郡阿礼村に到着したのでした。第二船の方は肥前国の松浦軍血鹿島に着きましたが、いずれの船も天候に恵まれて、無事に祖国の土を踏むことができたのです。弘法大師の船は入唐のときには五十日余りもかかったのに対して、十五日を費やしたに過ぎませんでした。しかも、その船には多くの典籍や仏具も積み込まれていたのです。
 伝教大師の到着地に関しては、九州の博多付近に上陸し、筑紫国の独鈷寺(とっこじ)を創建したとか、舶送した法灯の火を、新宮村の横大路源四郎の家のかまどに伝え、その家の男子の正嫡(本妻から生まれた子)が絶えず、火は今日まで不滅であるとの「千年家(せんねんや)」の伝説なども残されています。
 桓武天皇への遣唐大使藤原葛野麻呂による帰朝報告は七月一日に行われており、伝教大師を含めた一行は、六月下旬までに上京したとみられています。伝教大師は上表文において、二百三十部四百六十巻の経論類を持ち帰ったこと、金字の『法華経』七巻、金字金剛般若経、金字菩薩戒経、金字観無量寿経、「天台大師霊応図」一張、さらには天台山で入手した仏具類を桓武天皇に進上したことを述べています。
 そこでの経論類とは「台州に向いて求得せる法門、都合一百二十八部三百四十五巻、越府に向いて本を取り写し取りし経ならびに念誦法門部、都合一百二部一百一十五巻」を指します。
 桓武天皇は天台の教えを広めるために、和気弘世に勅が下り、奈良の七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺)の分として七通の書写が命じられました。十年近い歳月をかけて弘仁六年(八一五)に完成し、すでに桓武天皇は崩御しており、この法文の摩訶止観に、金字の題を揮毫したのは嵯峨天皇によってでした。
 しかし、病に伏した桓武天皇が望んだのは密教の修法の方でした。田村晃祐編の『最澄辞典』によれば「天皇は延暦二十四年(八〇五)春から病にかかり最澄が唐に滞在中に、まだ僧の資格も得ていなかった最澄の弟子円澄に紫宸殿(ししんでん)で五仏頂法(仏の好相のうち不見頂相などといわれるような、仏体のうちでも最尊の仏頂を仏格化し、強力な威力と、理法を具備するものとみる、一字金輪仏頂、白傘蓋仏頂、高仏頂、勝仏頂、光聚仏頂の五仏を指す)を修せしめたりしていたが、最澄が帰朝すると早速高雄山寺に灌頂壇(かんちょうだん)を築かせ、仏像や大曼荼羅を画かせ、九月一日、七日と灌頂を修せしめ、灌頂を受けた八人の僧には伝法公験(仏法の証明書)が朝廷から与えられ、また、九月十七日には官中で毘盧遮那法を修した」のです。
 伝教大師による新伝の真言密教は和気弘世と縁のある高雄山寺で行われ、灌頂の受者として選ばれたのは、道証、修円、勤操、正能、正秀、広円らでした。天台における本格的な密教は慈覚大師よってもたらされたとしても、密教は新たに日本に伝えたという伝教大師の功績は大なるものがあったのです。伝教大師と論争を繰り広げた法相宗の僧徳一の師ともいわれており、修円もその受者の一人であったとみられています。

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現代語訳で伝教大師様の教えがより身近に  柴田聖寛

2021-09-01 18:23:53 | 天台宗

 

  私が目下手元に置いて読んでいるのは『現代語訳最澄全集第一巻』(入唐開宗篇)、『現代語訳最澄全集第二巻』(権実諍論篇 1)、『現代語訳最澄全集第三巻』(権実諍論篇 2)、『現代語訳最澄全集第四巻』(権実諍論篇 3)です。いずれも去る5月に国書刊行会から出版されたばかりで、仏典翻訳家大竹晋氏が担当しました。
 大竹氏は『「悟り体験」を読む:大乗仏教で覚醒した人々』(新潮選書)で話題となった仏教思想家で、新潮社の著者プロフィルには「1974年、岐阜県生まれ。筑波大学卒業。筑波大学大学院哲学・思想研究科修了。博士(文学)。京都大学人文科学研究所非常勤講師、花園大学非常勤講師などを経て、2019年11月現在、仏典翻訳家。著書に、『唯識説を中心とした初期華厳教学の研究』『元魏漢訳ヴァスバンドゥ釈経論群の研究』(以上、大蔵出版)、『宗祖に訊く』『大乗起信論成立問題の研究』『大乗非仏説をこえて』(以上、国書刊行会)など。」と書かれています。
 とくに、私が感銘を受けたのは「『現代語訳最澄全集』を読むための基礎知識」という、第一巻の冒頭に掲載された文章です。あまりにも的確に分かりやすく解説されていたので、目から鱗が落ちる思いがしました。
 大乗仏教の五乗説についても、五乗(“五つの乗りもの”)が説かれていることを指摘し、「声聞乗とは、声聞(“[仏の]声を聞く者”)のための乗である。阿羅漢となることを肉的とする。」
「独覚乗とは、独覚(“[仏にめぐり会わず]”独りで悟った者”)のための乗である。独覚となることを目的とする」「菩薩乗とは、菩薩(“[仏の]菩薩を求める者)”のための乗である。仏となることを目的とする」。小乗としての声聞乗、独覚乗の小乗と、大乗の菩薩乗を説明するにあたって、そこまで気を配るのでした。さらも、そこに「人天上」という言葉も「死後に人か天かに転生するための乗である」とし、「阿羅漢、独覚、仏となることを目的としない」ことから、三乗と合わせて五乗と呼ばれますが、そうした基礎知識がなければ、文字だけを追いかけるだけでは読み解くことは困難ですから、冒頭部分から手引書としては申し分がありません。
 法相宗の五姓各別にしても「法相宗においては、種姓(宗教的素質)は声聞種姓、独覚種姓、菩薩種姓、不定種姓という五種類がある」と解説しながら、「あらゆる有情(“生物”)は五種姓いずれかの種姓の者である。声聞種姓、独覚種姓、菩薩種姓、不定種姓はいずれも本性住種姓(“先天的な種姓”)と習所成種姓(“後天的な種姓”)との二つからなる。本性住種姓はいずれ生ぜられるべき無漏(“煩悩を伴わない状態”)である智の種子(“潜在的状態である”」と書かれています。「先天的な種姓」「後天的な種姓」「煩悩を伴わない状態」「潜在的状態」という言葉を用いることで、理解しやすくなるのです。そして、法相宗においては「先天的な種姓」は声聞の智、独覚の智、菩薩の根本無分別智(“根本である、はからいなき智”)を生じさせますが、「後天的な種姓」においては、いくら仏になろうとしても無種姓では仏になることはできないのです。
 一闡提(いっせんだい)についても、法相宗では二種類あることを紹介しています。菩薩一闡提というのは、有情を救うために、あえて仏にならない者たちを指します。いずれは仏になりますから、阿羅漢、独覚、仏になることができない無種姓の者とは区別しています。これに対して私どもの天台宗は、あらゆる有情は理仏性(“真理としての仏性”)からなっており、「いずれ仏になると考えられている」のです。
 仏教を理解するのは難しいと言われていますが、今回の出版によって、現代語訳にすることで、伝教大師最澄様の天台の教えが、多くの人たちに理解されることになると思います。全体を論じることは私には困難ですが、確認の意味も含めて、大いに参考にしたいと思っています。

        合掌

 

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