左は山川健次郎、右は土方歳三
作家の中村彰彦先生は月刊「はなその」(花園神社社務所発行)に「歴史の坂道」というコラムを連載されていますが、10月号と11月号では、それぞれ「種痘接種を主張した名家老・山川兵衛」「土方歳三の小姓・市村鉄之助は何処へ」という文章を書いておられます。
山川家が家老にまでなることができたのは、山川浩・健次郎兄弟の祖父山川兵衛の代になってからです。兵衛は目付、勘定奉行、若年寄と抜擢されましたが、天保10年(1839)には家老に指名され、山川家はそれまでの300石から1千石に増えたのでした。
それから安政6年(1859)に隠居するまで20年間家老職にあり、海のない会津の人々に栄養を摂らせるべく、ウナギ、ナマズ、シジミの養殖を奨励したほか、会津松平家の人々に種痘を接種してもらおうと努力したのでした。
この種痘に関しては、容保公が9代目の藩主に就いたときには、先代の容敬公の遺児である当時10歳の敏姫との婚約が決まっていましたが、藩医の反対に遭って実現しなかったために、嘉永5年(1852)に敏姫は疱瘡を発病し、「天与の美貌」といわれていたのが、あばたが残ることになってしまいました。そして、容保公との祝言は安政3年(1856)にあげたものの、わずか19歳で薄幸な生涯を閉じたのでした。
中村彰彦先生は女性史研究家の柴圭子さんの「松平照子」(『会津藩の女たち』収録)から引用され、今の世にあっても、コロナウイルスのワクチンを接種しない人たちに向かって「こういう発想は山川兵衛の意見を無視した会津藩医のそれに近いように思えてならない」と書いておられます。
市村鉄之助に関しては、司馬遼太郎の『燃えよ剣』でも登場。中村彰彦先生が書いておられるように、新選組ファンからは「鉄つぁん」と呼ばれて愛されている人物です。明治2年7月、土方歳三が五稜郭で戦死してから約2カ月が経った雨の夕方、鉄之助は浮浪者のような少年として武州多摩郡日野宿の佐藤彦五郎の屋敷に姿を現しました。そして彦五郎と面会すると、土方から託された洋装に小刀を手挟んだ土方の写真と、「使の者の身の上頼み上候 義豊」という文字がしたためられた小切紙を手渡したのでした。義豊とは土方の諱(いみな)であり、彦五郎の妻は土方の姉であったばかりか、彦五郎は近藤勇と義兄弟の盟約を結んでいたのです。
鉄之助は新選組の隊士でしたが、まだ16歳の少年であったために、不憫に思った土方が個人的な役目を申し付けることで、命を長らえさせようとしたともいわれています。その目的を果たすと、市村は明治4年3月まで佐藤家に世話になり、その後出身地の大垣に帰り、明治10年2月の西南戦争が勃発すると、薩軍に身を投じて戦死したとも伝えられています。
私は中村彰彦先生の愛読者でありますから、「歴史の坂道」というコラムを毎回楽しみにしています。小説家らしい臨場感が伝わってくるからです。