学者でもない私が伝教大師最澄と法相宗の僧徳一との論争について言及することは。おこがましいことでありますが、生涯勉強ということで、それなりに私が理解したことをまとめてみたいと思います。その場合に大いに参考になるのは、最澄研究家の第一人者である田村晃裕先生の『最澄教学の研究』であります。皆さんもご承知のように、最澄を知るには徳一を、徳一を知るには、最澄を知らなければなりません。その意味においても、田村先生は、徳一研究家としても第一人者です。
『最澄教学の研究』が出たのは平成三年のことですが、仏都会津というのは見直され出したのは、平成になってからで、湯川村に勝常寺の薬師三尊像が国宝に指定されたのは、平成八年になってからです。その頃に東大仏教青年会の人たちが調査に会津を訪れています。田村先生がその口火を切ったといっても過言ではありません。
田村先生は、最澄の教学上の功績として「大乗戒壇を比叡山に設け、奈良で行われていた戒律の制度と異なる、新しい大乗戒のみによる得度・受戒の制度を確立し。受戒以後一二年籠山せしめ、これによって純粋な大乗の僧の養成を志した」「法相宗の徳一との教理論争がある。最澄の天台宗は一乗思想に立ち、奈良で最も隆盛を誇っていた法相宗の三乗思想とは、教学的に対立する関係にあった」との二つを指摘しています。
とくに田村先生が重要視するのは、後者です。それまでも最澄は法相宗の僧との間で論争をしてきた経過があり、その相手が会津在住の徳一ひとりに絞られたのは、前回も触れていますが、最澄が弘仁八年(八一七)に東国の道忠の弟子・孫弟子の所を訪問したことがきっかけです。比叡山と会津ということで、遠く離れた地であったために、文章によらざるを得なくなり、多くの書が著わされることになったというのです。
道忠については『叡山大師伝』において「東国の化主道忠禅師という者あり。是はこれ大唐鑑真和上の持戒第一の弟子なり。伝法利生を常に自ら事となせり。遠志を知識して、大小の経律論二千余巻を助写す」と記述されています。最澄が一切経の書写の援助を奈良の七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺)に求めたのは延暦十六年(七九七)のことです。道忠は奈良の大寺の僧との交流があったとみられ、最澄の願文は道忠も読んだといわれています。鑑真は天台大師の流れをくむことからも、「持戒第一の弟子」である道忠は、二つ返事で最澄に協力したのです。道忠が六十四歳のときです。それから彼は三、四年して亡くなりますが、「助写」によって、最澄と道忠教団との絆は強化されていたのでした。
由木義文氏の『東国の仏教』では「道忠と最澄との関係が、延暦十六年に開かれると、漸次、道忠門下の人々は比叡山に登るようになっている。まず、その翌年の延暦十七年には、円澄が、大同元年(八〇六)には、安慧が広智に伴われて、さらには大同三年(八〇八)には円仁が広智に伴われ、それぞれ比叡山に登っている。そして最澄の弟子として、大きく成長していくのであった」と書かれています。
また、そこでは「鑑真は、凝然の著わした『三国仏法伝通縁起』では、天台宗の第四祖とされている。それは天台大師・智顗—章安大師・灌頂—弘景—鑑真という系譜になる」と紹介しています。
徳一教団は会津ばかりではなく、その範囲は福島全域、茨城県、山形県、栃木県、群馬県を含む勢力圏でした。徳一建立の寺と称されているものは、実に三十三ヶ寺にのぼります。これに対して、最澄の東国巡化は道忠教団をバックアップするためでした。由木は東国巡化の最澄の目的も詳しく述べています。「東国巡化の一つの要因は、同じ信仰を持つ者と、信仰の喜びを共にしようということであり、もう一つは徳一教団への対策、対応、ならびにそれより道忠教団を護ろうというものであったということになろう。前者は『法華経』二千部一万六千巻を書写し、上野国と下野国に宝塔を建て、各々に千部八千巻の『法華経』を安置し、そこで連日『法華経』、『金光明経』、『仁王経』を講じたということになってこよう。その時、集まった人々について『叡山大師伝』は百千万人と、『元亨釈書』は、上野の縁野寺(浄土院)には九万人、下野の大悲寺(大慈院)には五万人、と記しているがこれにより、いかに多くの人々が、最澄と共に、しようとしたかが知られよう。また、『慈覚大師伝』には、上野と下野で各々円仁含め十人選んで伝法灌頂をおこなったとも記されており、ここにも信仰の喜びを共にしたことがみられよう」(『東国の仏教』
由木氏によれば、もう一つ特筆すべきは、徳一の『仏性抄』への反駁である『輝権実鏡』がその時に書かれたということです。天台教学の根本である『法華経』の偉大さを信徒に確認してもらうとともに、理論的にも、法相宗より優っていることを示す必要があったからです。
さらに、由木氏は、最澄の東国巡礼を実現させた広智にスポットをあてています。すでに道忠はこの世を去っており、道忠教団では広智が中心であったからです。それ以前に広智は三回にわたって比叡山に登っているほか、『慈覚大師伝』では「唐僧鑑真和尚第三代の弟子なり」と記しています。
広智がいた大慈寺は下野薬師寺の戒壇に近く、由木は「道忠は戒壇とは別に『伝法利生』の根拠地として、大慈院、あるいはその他の寺を持ったのであろう。このことは、鑑真が東大寺の戒壇とは別に、律の道場として唐招提寺を持ったことなどを考え併せてみても、決して矛盾ではないだろう」との見方を示しました。
最澄と徳一との論争は、単なる教義上のものだけではなく、二つの教団の勢力圏が接していたことで、なおさら加熱したことは否定できません。論争の内容に立ち入る前に、そうした背景も、私たちは知っておかなくてはならないのです。
合掌