←根本中堂
比叡山延暦寺で迎えた3日目の6月3日朝は、それこそ晴天にも恵まれたこともあり、皆さんそれぞれに朝早く目を覚まし、法然堂や延暦寺東塔のあるあたりまで、比叡山会館の周辺を散歩されていたようです。私はいつもながらの光景ですが、いつになく琵琶湖の昇る朝日には圧倒されてしまいました。あまりにも神々しいものがあったからです。霊気が湧き上がってくるような感動を覚えました。
そして、新鮮な気分で、国宝根本中堂での朝のお勤めに参加者しました。国宝根本中堂は、伝教大師が延暦7年に「一乗止観院」として庵を建てたのが始まりで、本尊は伝教大師作といわれる薬師如来です。元亀2年の織田信長による比叡山焼き討ちで、その他の堂宇と同じように灰塵と化しました。現在の建物は徳川家光の時代に再建されたものです。
一歩そこに足を踏み入れると、世俗を寄せ付けない凛とした気がみなぎっていましたし、消えることなく照らし続けている不滅の法灯に、伝教大師最澄の揺るがぬ信仰心を垣間見た思いがしました。
また、朗々と響き渡る読経の声は、天台声明(しょうみょう)の醍醐味を十分堪能することになりました。声明とは真言や経文に独特の節回しを付けることですが、そうした仏教の伝統的儀式音楽は、キリスト教のバロック音楽に匹敵するともいわれています。
天台声明の基礎をつくったのは、唐に留学して伝教大師の跡を継いだ、慈覚大師円仁でした。岩田宗一氏著の『声明は音楽のふるさと』によると、鎌倉時代の天台宗の湛智(たんち)が『声明用心集』を著したことで、「声明」という語が広まったのでした。
読経を上げている僧侶は、わずか5、6人しかいないにもかかわらず、大合唱団のステージを聞いているような迫力がありました。声が通るように工夫されているようで、音楽堂という感じがしてなりませんでした。読経を上げている場所が、参拝者よりも下にあるために、「無明の谷」に反響するようになっているのだそうです。
釈尊の時代にあっては、音楽は修行の妨げになるとして、退けられましたが、大乗仏教の時代になると、音楽は法会(ほうえ)などで、積極的に用いられるようになったのでした。
岩田氏はその本のなかで、大乗仏教の経典の一つである『無量寿経(むりょうじゅきょう)』の一説を、「如来が法を説かれるときには菩薩たちは七種の宝石でできている講堂に集まり、そこで音声(おんじょう)が流れ出る。一切の天人たちは皆さまざまな種類の音楽によって供養し」と紹介しています。
このあと、午前9時に比叡山会館を後にした私たちは、飯室谷に向かい、千日回峰を2回も達成した酒井雄哉大阿闍梨の護摩祈祷を受けました。飯室谷は慈覚大師が開いた修行の場ですが、それが平成の世にも受け継がれているのです。
酒井大阿闍梨は、それこそ波乱の人生を歩まれたのでした。旧制中学卒業後に予科練に志願し、そこで終戦を迎えます。戦後は事業に失敗し、職も転々とされたのでした。結婚二ヶ月目に妻が自殺するという不幸にも見舞われました。
得度して比叡山延暦寺に入ったのは、40歳になってからです。千日回峰行は、昭和48年から昭和55年にかけて、昭和56年から昭和62年にかけての二度行っています。二度目は60歳になっていました。
そうした経歴の酒井大阿闍梨の護摩祈祷は、本当に有難いものでした。参加者のご婦人が足の悪いのを察しられたのか、普通であれば諸刃の剣で肩をたたくだけであるのを、わざわざ足までたたいて下さいました。
酒井大阿闍梨は現在84歳ですが、肌がつるつるで、青年のように溌剌としておられます。昔からの知り合いである柴田住職に向かって、「会津に行かれてもう何年になられましたか」と気軽に声をかけられるなど、その優しい人柄にも心打たれました。
御自分のホームページをもっておられ、そのなかで「歳」という文書を掲載されていますが、それと同じような含蓄のある言葉を法話で御話になられました。
無理せず 急がず はみださず りきまず ひがまず いばらない
最後の目的地であった飯室谷を離れたのはお昼近くでしたが、そこから琵琶湖大橋をわたって、それから帰路に着きました。