伝教大師様が乗った第二船が唐の明州(今の浙江省寧波)に漂着したのは、延暦23年(804)、中国の貞元20年9月1日のことでした。目的地の天台山に向かって弟子の義真、通訳の福成を伴って出発したのは、9月15日早朝のことでした。2週間後になったのは休養を取る必要があったからです。東海岸沿いに合州に入って、それから北に向かうコースを選んだのでした。約170キロの行程です。9月下旬には台州(浙江省臨海)に到着しました。そこで伝教大師様は道邃と出会ったのでした。たまたま台州の長官である陸淳の招きに応じ、龍興寺で天台法門の講説を行っていたのでした。
当時の天台山では、天台第6祖の荊渓大師湛然の弟子である修禅寺の道邃と仏隴寺の行満が双璧でした。そのうちの一人と入山前に会うことができたのでした。陸淳が引き合わせたもので、道邃は伝教大師様のために、写経の工人を集めて天台典籍などを書写する段取りを付けてくれました。道邃は伝教大師様を一目見ただけで感服したのでした。
『岩波仏教辞典』によれば、天台山は中国浙江省東部にある山で、数百から千メートルの山々が連なる天台山脈の主峰です。最高峰は華頂山といい、標高は1138メートルです。古くから道士・隠士が多く住し、仏寺も多く建てられましたが、575年(陳の太建7年)に、天台宗の開祖である智顗が入山して以来、天台宗の根本道場となったのでした。天台宗と名前もその山にちなんで付けられたのでした。
伝教大師様が夢にまで見て憧れていた、天台山に登ったのは10月7日のことでした。行満からは30日間にわたって天台教学を授かりました。行満は伝教大師様に向かって「昔。天台大師が弟子達にお告げになりました。『私の滅後二百年して始めて東国に私の教えが弘まるであろう』と。そのお言葉は本当でありました。今、その人に会うことが出来ました。私の学んでいる教えを日本の師に授けましょう。本国に持ち帰り伝え弘めて下さい」(『伝教大師の生涯と教え』宗教法人天台宗)と語って、天台に関する典籍を与えたといわれています。また、天台山において伝教大師様は、禅林寺の翛然(しょくねん)から牛頭禅を学んだのでした。
『天台法華宗伝法偈』には「10月7日仏隴荘で行満に会い、13日に山上の仏隴道場に登り、14日に銀地の泉を訪れ、斎後に行満所持の80余巻の法門を授かり、25日仏隴荘に降りて、『いまだ聞かざるところの法を聞き、いまだみざるところの境を見た』等という。かくして11月5日、台州龍興寺へ帰った、とする」(木内堯央著『伝教大師の生涯と思想』より)と書かれています。
台州の龍興寺に戻った伝教大師様は延暦24年(805)3月、極楽浄土院で道邃から大乗の菩薩戒を受けました。菩薩戒とは大乗戒ともいわれ、奈良の仏教が小乗戒である四分律にもとづいているのを批判していただけに、伝教大師様は自らの正しさを再認識したのでした。
これによって、入唐の当初の目的を達成された伝教大師様ですが、台州から明州には3月下旬に到着したものの、配船の関係から時間に余裕ができた伝教大師様一行は、揚子江河口南岸まで足を延ばし、越龍興寺において、伝教大師様は順暁から密教の重要な儀式である灌頂を受けた。金剛界、胎蔵界の両部の灌頂を授かったのでした。頭に水を注ぎ、諸仏や曼荼羅縁を結ぶことで、正統な後継として認められたほか、経典115巻を書き写したのでした。
田村晃祐氏は「こうして円・禅・戒・密の4種の教学を相承して帰国した」(『最澄教学の研究』)と書いています。これで入唐の目的をすべて果たした伝教大師様は、延暦24年5月19日、明州を後にし、帰朝の途についたのでした。
私は天台山へは40年以上も前から15回も登っていますが、早朝の国清寺での早朝の勤行は、新たな生命を得たような喜びを感じます。伝教大師様も私たち同じように読経を上げたかと思うと、感無量の思いに駆られます。華頂峰には天台大師が法華三昧の大悟を得られた聖地に建てられた華頂講寺、石梁瀑布に羅漢信仰の道場である下方広寺、仏隴峰には天台大師の御廟である真覚寺、天台大師の入滅の地である石城寺などがありますが、伝教大師様の時代と変わらない血脈が今も受け継がれているような気がしてなりません。
合掌