会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

ブログの話題の中心は新型コロナだったこの一年 柴田聖寛

2020-12-30 21:23:49 | オピニオン

 今年も残りわずかになりました。皆さんにはいかがお過ごしでしょうか。この一年を振り返ってみますと、私のブログでも一番取り上げたのはやはり新型コロナについてでした。
 1月31日には「コロナウイルスと闘う中国の友人に支援の手を」ということで、中国の感染拡大について触れています。2月18日には、その段階で世界全体の感染者数が71324人に達し、死者が1775人に達したということを取り上げています。私は「国の壁がなくなったことで、世界中にあっという間に広がってしまうのではないか」とも書きましたが、実際に今その通りになってしまいました。
 信仰者として看過することはできませんから、村上圓竜御住職様(愛知県・常覺院)が発願人代表となった「世界疫病終息・大祈祷会―妙法蓮華経観世音普門本(観音経)壱百万巻読誦大祈願会―」が5月7日から8月15日までの100日間行われましたが、福島県からは会津天王寺が参加し、そのPRのために「世界疫病終息・大祈祷会」の看板を設置した。それがマスコミでも取り上げられ、私の「百日読経」の模様がTBSの系列局のテレビューで紹介されました。
 また、東日本大震災から9年目ということで、そのことも話題にはしましたが、次々と襲ってくる禍を一掃するためにも、祈りの心が大切になっているように思えてなりません。皆様にはこの一年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

         合掌

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吉田慈順先生の「最澄さんと徳一さん(抄)」を冊子に  柴田聖寛

2020-12-29 12:48:16 | 天台宗

 

 会津天王寺の主催で、若手の仏教研究家である天台宗典編纂所編輯員で文学博士の吉田慈順先生をお招きしての講演会は去る10月30日に会津柳津温泉のホテル滝のやで開かれましたが、その講演の要旨をまとめた「最澄さんと徳一さん(抄)」を小冊子にまとめ、無料で頒布いたしております。
 今回の講演が実現しましたのは、檀家や檀信徒の皆さんをはじめ、冥加協賛金をお出しいただいた企業のご支援の賜物です。吉田先生は学者であるだけでなく、私と同じく天台宗の僧侶でもありますが、今回は「最澄さんの肩を持ってみたい」という気持ちを外して、客観的にお話をしていただきました。そして、最澄さんと徳一さんとの論争は、最初は中国で起きた論争がまずあって、そこから理解することを指摘されていました。
 もし読んでみたいという方がおられましたら、私の携帯「090-1498-4150」にまで電話をお願いいたします。

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齊藤圓眞師様の『台泉衲談抄1講和編』を御拝読して  柴田聖寛

2020-12-19 10:48:08 | 読書

 

 会津はもう雪の季節は迎えましたが、齊藤圓眞師様にはいかがお過ごしでしょうか。12月に入ってゆっくり本を読む時間ができましたので、御恵存いただいた『台泉衲談抄1講和編』をありがたく御拝読しました。
「まえがき」で多田孝文前大正大学学長も述べておられますが、圓眞師様は昭和41年に中央大学大学院法学研究科修士課程を修了されると、昭和47年にアイルランド交換留学生として世界に雄飛され、その前後約半年間かけて世界の36ヵ国を歴訪され、多くの経験と知識を取得されました。
 さらに、大正大学仏教学部に編入をして大学院に御進みになられ、慈覚大師円仁の研究家として、塩入良道先生のもとで御研鑽を積まれ、平成18年には『渡天台僧の史的研究』で博士号を授与されました。それ以後は大正大学教授として数々の業績を残されましたが、私のような会津の一僧侶にまで、貴重な著書を御恵存いただいたことは、感激ひとしおでございます。
 私は大学を中退して関西の商社に勤務しましたが、人生の虚しさを感じて、仏門の道に入ったのは30歳を過ぎておりました。若い人と一緒に叡山学院で勉強をしましたが、それだけでは飽き足りず、天台大師様が開かれた天台山や文殊菩薩の聖地である五臺山には10回以上も足を運ぶとともに、中国全土を隈なく見て回りました。100回以上は訪中しています。私の妻も南京で知り合った女性で、今では日本に帰化しましたが、日本仏教の源泉である中国仏教を肌で感じたかったのでした。
 また、御著書では伝教大師様や慈覚大師様が日中文化交流史上に足跡を残されたということについても、詳しく書かれているばかりか、中国の五代や北宋の時代に大陸に渡った天台僧に関しても、資料にもとづいて取り上げておられます。
 とくに、圓眞師様が詳しく論じておられるのが『参天台五臺山記』の作者である成尋です。成尋は北宋の時代に渡海した一人で、法華経、密教、浄土信仰を併せ持った僧侶といわれます。圓眞師様は「成尋の眼を通して当時の日宋の仏教事情がよく透けて見えるほか、記述の内容が豊富で、読んでいて面白くワクワクしてきます」と書いていられますが、ぜひ私も一読したいと思っております。今後とも薫陶ご指導のほどよろしくお願いいたします。

                合掌

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伝教大師伝⑤唐で円・禅・戒・密の教学を相承 柴田聖寛

2020-12-12 10:09:07 | 天台宗

 

 伝教大師様が乗った第二船が唐の明州(今の浙江省寧波)に漂着したのは、延暦23年(804)、中国の貞元20年9月1日のことでした。目的地の天台山に向かって弟子の義真、通訳の福成を伴って出発したのは、9月15日早朝のことでした。2週間後になったのは休養を取る必要があったからです。東海岸沿いに合州に入って、それから北に向かうコースを選んだのでした。約170キロの行程です。9月下旬には台州(浙江省臨海)に到着しました。そこで伝教大師様は道邃と出会ったのでした。たまたま台州の長官である陸淳の招きに応じ、龍興寺で天台法門の講説を行っていたのでした。
 当時の天台山では、天台第6祖の荊渓大師湛然の弟子である修禅寺の道邃と仏隴寺の行満が双璧でした。そのうちの一人と入山前に会うことができたのでした。陸淳が引き合わせたもので、道邃は伝教大師様のために、写経の工人を集めて天台典籍などを書写する段取りを付けてくれました。道邃は伝教大師様を一目見ただけで感服したのでした。
『岩波仏教辞典』によれば、天台山は中国浙江省東部にある山で、数百から千メートルの山々が連なる天台山脈の主峰です。最高峰は華頂山といい、標高は1138メートルです。古くから道士・隠士が多く住し、仏寺も多く建てられましたが、575年(陳の太建7年)に、天台宗の開祖である智顗が入山して以来、天台宗の根本道場となったのでした。天台宗と名前もその山にちなんで付けられたのでした。
 伝教大師様が夢にまで見て憧れていた、天台山に登ったのは10月7日のことでした。行満からは30日間にわたって天台教学を授かりました。行満は伝教大師様に向かって「昔。天台大師が弟子達にお告げになりました。『私の滅後二百年して始めて東国に私の教えが弘まるであろう』と。そのお言葉は本当でありました。今、その人に会うことが出来ました。私の学んでいる教えを日本の師に授けましょう。本国に持ち帰り伝え弘めて下さい」(『伝教大師の生涯と教え』宗教法人天台宗)と語って、天台に関する典籍を与えたといわれています。また、天台山において伝教大師様は、禅林寺の翛然(しょくねん)から牛頭禅を学んだのでした。
『天台法華宗伝法偈』には「10月7日仏隴荘で行満に会い、13日に山上の仏隴道場に登り、14日に銀地の泉を訪れ、斎後に行満所持の80余巻の法門を授かり、25日仏隴荘に降りて、『いまだ聞かざるところの法を聞き、いまだみざるところの境を見た』等という。かくして11月5日、台州龍興寺へ帰った、とする」(木内堯央著『伝教大師の生涯と思想』より)と書かれています。

 台州の龍興寺に戻った伝教大師様は延暦24年(805)3月、極楽浄土院で道邃から大乗の菩薩戒を受けました。菩薩戒とは大乗戒ともいわれ、奈良の仏教が小乗戒である四分律にもとづいているのを批判していただけに、伝教大師様は自らの正しさを再認識したのでした。
 これによって、入唐の当初の目的を達成された伝教大師様ですが、台州から明州には3月下旬に到着したものの、配船の関係から時間に余裕ができた伝教大師様一行は、揚子江河口南岸まで足を延ばし、越龍興寺において、伝教大師様は順暁から密教の重要な儀式である灌頂を受けた。金剛界、胎蔵界の両部の灌頂を授かったのでした。頭に水を注ぎ、諸仏や曼荼羅縁を結ぶことで、正統な後継として認められたほか、経典115巻を書き写したのでした。
 田村晃祐氏は「こうして円・禅・戒・密の4種の教学を相承して帰国した」(『最澄教学の研究』)と書いています。これで入唐の目的をすべて果たした伝教大師様は、延暦24年5月19日、明州を後にし、帰朝の途についたのでした。
 私は天台山へは40年以上も前から15回も登っていますが、早朝の国清寺での早朝の勤行は、新たな生命を得たような喜びを感じます。伝教大師様も私たち同じように読経を上げたかと思うと、感無量の思いに駆られます。華頂峰には天台大師が法華三昧の大悟を得られた聖地に建てられた華頂講寺、石梁瀑布に羅漢信仰の道場である下方広寺、仏隴峰には天台大師の御廟である真覚寺、天台大師の入滅の地である石城寺などがありますが、伝教大師様の時代と変わらない血脈が今も受け継がれているような気がしてなりません。
          合掌

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「きらめき」と「天台ジャーナル」が届きました 柴田聖寛

2020-12-07 11:43:26 | 天台宗

 

 天台宗の一隅を照らす運動機関紙である「きらめき」は一足早い令和3年正月号です。明るい年にしようとの願いをこめ、特集は「さぁ、一緒に笑いましょう!」。遊墨漫画家でユーモアセラピストの南久美子さんを取材しています。南さんは京都の西陣で、町家をリフォームしたアトリエ「ユーモア工房ほっ」で創作活動を続けていますが、京都精華大学在学中から京都新聞に四コマ漫画を連載するなどし、現在も京田辺市の広報誌に四コマ漫画を連載中で、スタートから40年を超えています。
 また、京都新聞の仕事が一区切りついたときから、ユーモアを題材にした書画も手掛けるようになり、そこに言葉を添えた「和顔施」は人気を博しています。来年の干支の牛の絵も描いています。笑顔の南さんの写真もステキな笑顔で、「笑う門には福来る」ではないでしょうか。
 広報天台が発行する「天台ジャーナル」では、解体修理が行われていた比叡山延暦寺所蔵の「護法童子立像」の内部から、金銅不動明王像や水晶製舎利塔などの納入品が発見されたことが記事になっています。鎌倉時代後期の作とみられていますが、胎内から不動明王像が見つかるという例はないことから、延暦寺国宝殿で12月6日まで展示されています。
 また、会津美里町にゆかりのある天海大僧正の遺徳を偲ぶ「長講会(じょうごえ)」が10月2日に執り行われたことが載っています。 例年と違って今回は、感染予防の観点から来賓の参列を取りやめたほか、保存修理に入った慈眼堂ではなく、三仏堂が会場となりました。天海大僧正が日光山中興の祖であることが詳しく書かれていますので転載いたします。
「天海大僧正は比叡山をはじめ全国各地で修学し、徳川家康、秀忠、家光の三代から篤い崇敬を受け、家康公の薨去に際しては山王一実神道を提唱し、公の御霊を東照大権現として日光山に祀るなど、数々の事績を遺したことから日光山中興の祖と仰がれる。寛永20年(1643)10月2日、東叡山において108歳で示寂、本年が378回忌となる。因みに『長講会』の名は、慈眼大師が長期間にわたり講演法会を行ったことに由来する」
「きらめき」や「天台ジャーナル」をお読みになりたいという方がおられましたら、会津天王寺の方にお申し出ください。よろしくお願いいたします。
           合掌

    

 

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