学派的要素が強い奈良の南都六宗に対して、比叡山の山林修行を中心にしながら、人々を救済する菩薩道を目指したのが私ども天台宗です。
渡辺照宏氏は「日本で宗団として宗派が確立されたのは、最澄の天台宗が最初と言えよう」(『日本の仏教』)と書いており、南都六宗の法相宗、律宗、華厳宗が宗派的な形態を取るようになったのは、天台宗に刺激されたからだともいわれています。
天台宗と南都六宗の代表格である法相宗との違いは、誰でも成仏できるかどうかをめぐってでした。天台宗においては、あの方は駄目だとか、この方は良いとか差別しません。ともすれば人間は差別して喜んでいる人がいます。それをやってはいけないというのが、本来の仏教なんだと思います。
天台宗は「悉皆成仏」
天台宗は「悉皆成仏」であり、すべてが等しく成仏できますよという教えです。この人は駄目とか、この人は良いとかいうんではなくて、誰もが成仏できるという信仰なのです。南都六宗の考え方がそこまでいっていなかったために、最澄が法華経を前面に押し立て「悉皆仏性」を打ち出したわけです。
もう一つ付け加えるならば、堕落した仏教に背を向けて比叡山に登ったことで、桓武天皇にも評価され、国家仏教としての地位を築くことになったのです。だから唐に渡るにあたっても、最澄は還学生に選ばれ、短期留学をすることになったのです。
日本の天台宗は、最澄が今から千二百年前の延暦二十五年一月、朝廷から天台法華宗として公認されたのが始まりと言われています。まずは比叡山に小さな庵をつくり、一乗止観院と名付けたのです。それが今の根本中堂です。目下改修工事の真っ最中で、後五、六年はかかると思いますが、あの場所で最澄は修行をしたのです。
現代では南都六宗の興福寺や薬師寺などは、観光寺になっています。これに対して、平安仏教の天台宗、真言宗、鎌倉仏教のなどの寺は、檀家や信者に支えられています。そこが南都六宗との大きな違いです。
仏教の日本化と最澄
私がとくに強調したいのは、仏教が日本人のものになるにあたって、最澄が大きな役割を果たしたということです。このため天台宗は自らの戒壇をつくり、独自に僧を育てようとしました。最澄の死後七日経った弘仁十三年六月十一日、ようやく比叡山に大乗戒壇の勅許が与えられたのでした。
天台宗と一口に言いましても、法華経ばかりではなく、座禅や念仏、密教など多方面にわたります。密教ということになりますと、真言密教と思いがちですが、天台宗も密教があり、真言宗の東密に対して、台密と呼ばれています。
会津の徳一との一三権実論争も、平安仏教として天台宗が避けては通れなかった出来事でした。徳一は三乗を主張し、最澄は一乗を主張し、お互いに譲らなかったので、大論争になったのです。
そこで一番問題になったのは、いうまでもなく法華経をめぐってでした。最澄は真実の教えだという立場でしたが、徳一は仮の教えだというのです。さっきお話したことにもどりますが、『法華経』では、誰もが成仏すると書いてありますから、それを信じるかどうかでした。つまり、「方便か真実か」ということです。
徳一は、成仏できると思うから、修行をするのであって、仮の教えであっても、それなりに意味があるというんです。徳一の三乗仏教というのは「声聞」「縁覚」「菩薩」の三つでして、「声聞」とは釈尊の教えを聞くという者の意味です。「縁覚」とは「独覚」ともいわれ、縁によって悟るものの意味です。
この二つは自己の解脱を目的にしており、他を利することをしません。だからこそ、小乗仏教と呼ばれるのです。他を悟らしめることに努力するのが菩薩であり、それが大乗仏教なのです。
そこに成仏するかしないか定まっていない「不定性」と、悟ることができない「無種性」と合わせて五性格別ということを、法相宗は問題にします。一般的にはその理解で間違ってはいないと思います。
しかし、近年の研究では、「無種性」の人であっても、時期が経てば悟りをひらけるということを、法相宗の側でも認めていたということが分かりました。私も驚いたんですが、徳一が書いたとされる『教授末学章』という文献が発見されたんですよね。そこでの徳一の記述によって、表に出ていなかった徳一の思想が明かになりました。
平安末期の法相の僧蔵俊撰『仏性論文集』のなかに収録されていたもので、私の知り合いである吉田慈順博士の研究によって、一三権実論争の解釈も新たな段階を迎えつつあります。今日はそのことに関しては、時間がないのであまり話せませんが、少しだけ頭に入れておいていただければと思います。
法相宗であっても、最澄と同じように、仏教の日本化に向かって歩みだしていたのであり、その点が確認されたというのは、画期的なことなのです。一乗仏教だけではなく、三乗仏教でも、誰でも仏になれるという信仰を無視できなかったのです。
皆さんもご存じのように、天台宗の比叡山からは、鎌倉仏教の担い手となった、浄土宗の法然、曹洞宗の道元、日蓮宗と日蓮、浄土真宗の親鸞という人たちが出ています。民衆の中に分け入って行ったのは、最澄の影響があったからなのです。
『願文』の熱き思い
そこでやはり最澄ということになります。最澄は二十歳頃に『願文』を書いています。岩波書店の日本思想体系の『最澄』には、『願文』に関する解説文が載っています。
「延暦4年(785)春、南都東大寺の戒壇に登って具足戒をうけ、大僧の資格を得た最澄は、なぜかその年の7月、突然世の無常を観じ、比叡山に登って樹下石上の生活に入った。彼の入山に当って、その決意を述べたものが、すなわちこの『願文』一篇である。全文わずか六百字に満たない小篇ながら、純粋な理想に燃える若き日の最澄の精神的状況を赤裸々に語るただ一つの文献である」。
最澄は自らを「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違し、中は皇法に背き、下は孝礼を闕けり。謹んで迷狂の心に随ひて三二の願を発す」と述べています。どこにも偉ぶったところはなく、人間としての自らの弱さと能力のなさを認めた上で、信仰者として、五つの願いを誓ったのでした。
一、心が清浄となる相似の位に移行しなければ山を下りない
二、理を照らし出す心を得るまでは、芸事はしない
三、戒律を身に付けるまでは、施主から法要のお布施をいただかない
四、仏の知恵を得るまでは、時間が拘束される世間的な雑務にタッチしない。ただし、相似の位を得れば別
五、現在の世で得た功徳は独り占めにするのではなく、あまねくすべての生き物に施したい
ここまで厳しく自らを追い詰めた最澄は、仏教を学問として理解したのではなく、信仰によって生まれ変わることを、自らに強いたのです。学問をしてお利口さんになるよりも、誰にも負けない信仰者になることを最澄は望んだのでした。
再来年には「伝教大師最澄1200年大遠忌」を迎えるわけですが、時代は移り変わっても、最澄の純粋で誠実な信仰心は、私ども天台の僧侶だけではなく、多くの人々の胸を打つものがあると思います。とくに、最後の部分では「遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くすまで常に仏事を作さんことを」というんですから、相当の覚悟がいる言葉と思います。
国宝とは道心なり
『願文』と同時に、天台には『山家学生式』(六条式)というものがあります。弘仁九年五月十三日付の最澄の文面です。「国宝とは何物ぞ。国宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす」という有名な言葉で始まりますが、最澄の教育に対する考え方が表明されています。
「道心」とは真実の道を求める心を意味します。どれが真実かということでは、多様な意見がありますから、口はばったいことは言えませんが、大乗仏教の旗幟を鮮明にしたかったのだと思います。
最澄が大師号を朝廷から賜ったのは、空海と比べるとかなり早いんですよね。第三代天台座主であった慈覚大師円仁が唐から帰ってきて大師号をもらうことになりますが、師の最澄と一緒ならばということを願い出て、それが実現したのでした。貞観八年七月のことで、空海はその約六十年後になります。
皆さんは比叡山とか最澄とかといわれても、天台宗でなければピンとこないと思いますが、先ほど申しましたように、鎌倉仏教の母胎となったわけですから、最澄を抜きにしては日本仏教を語ることはできません。
ところが天台教学というのは、法相宗の唯識の思想と同じように難解です。漢字で書かれていますから、若い人にとってはとっときにくいのではないでしょうか。興味をお持ちの方がおられたら、どうぞ私のお寺においでください。一通りはそろっていますから、一緒に勉強できればと思っています。
『願文』や『山家学生式』(六条式)を学ぶことで、「純粋な理想に燃える若き日の最澄」の信仰心に心動かされるのは、私だけではないと思います。ぜひ手に取って読んでもらえればと願ってやみません。今日は本当にありがとうございました。
合掌