会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

彗星などの天体の謎と仏法 柴田聖寛

2024-10-31 21:44:23 | 読書

 

 私が生まれたのは二本松市ですが、それこそ東京と比べると本当の空が残ってはいますが、
車社会になって、昔のような空ではなくなってきています。会津に住むようになって、とくに
奥会津に出かけたときなどには、一面の星空に何度も魅了されたものです。そんな私がつい最
近、渡部潤一先生の『なぜ彗星は夜空に長い尾をひくのか』を一読して、あらためて夜空を見
上げるようになりました。
 渡部先生は1960年に会津若松にお生まれになり、東京大学東京天文台の上席教授である
とともに、総合研究大学大学院教授の要職にあられます。渡部先生はその本の中で、小学6年
生のときに、1972年10月8日夜のジャコビニ流星群騒ぎの際しての想い出に触れてゐら
れる。小学生であった渡部先生は、小学校の校庭で、今か今かと待ち構えていたら、ついぞ現
れなかったという体験をしたという。そういえば私も若かった時代で、新聞で大きく報道され
たのを覚えています。
 この本を手に取って感激したのは、何枚もの彗星の写真が掲載されていたことです。宇宙へ
の夢がどこまでも広がりました。彗星について渡部先生は「通常の恒星とは異なり、夜空に突
然に現れては、星座の間を日ごとに動いて行く。惑星のように規則性があるようには見えず、
まったく予測不可能であった」と述べておられます。だからこそ、吉兆の印として、古代の人
たちは考えたのでした。
 天体としての彗星の運動が解明されるようになったのは、ニュートンによって「引力の法則
」が発見され、その法則を適用したのがエドモンド・ハレーで、周期彗星カタログ一番目のハ
レー彗星を発見したというのも、今回初めて知りました。今では「惑星や小惑星はすべてほと
んど円に近い軌道を描きながら、規則正しく太陽のまわりを回っており、惑星同士がお互いに
近づくことはないのに対し、彗星はほとんどが放物線や歪んだ細長い楕円の軌道を持ち、いく
つかの惑星軌道の間を横切って飛び回っている。その中には1994年のシュメーカー・レビ
ー第9彗星のように、惑星に衝突してしまうものさえあることがわかったきた」とも書いてお
られます。
 私のような一天台の僧であればこそなおさら、仏法を理解する上でも、宇宙を眺めることで
多くの示唆を得ることができます。この度も渡部先生のこの本から多くの刺激を受けることが
できました。仏教では「輪廻の迷いから解脱すること」が説かれていますが、宇宙の根源の謎
を解き明かすことにも結びつくように思えてなりません。
           合掌

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伝教大師最澄様と小乗仏教 柴田聖寛

2024-09-04 16:08:00 | 読書

 大乗仏教とか小乗仏教とかいう言い方がありますが、それを明確に区別する考え方は日本仏教特有のもののようです。『現代語訳最澄全集』全四巻を執筆された、大竹晋先生の『大乗仏教と小乗仏教―声聞(しょうもん)と声聞乗とはどうみられてきたか』を読んで、この私でも、薄ぼんやりと理解することができました。
 声聞と縁覚(さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯)については、小乗仏教と呼ばれ、大乗仏教の利他行を重んじる菩薩とは区別されます。
 大竹先生は、インドや中国では、そうした小乗仏教の教えを拒絶したのではなく、あくまでも「同じ仏教ではあるが、劣った道である」と述べるにとどまり、「声聞乗は仏教の教えではない」と切る捨てたわけではないというのです。
 日本天台の開祖であられる伝教大師様の声聞乗理解が独得であったことを、インドや中国との違いから論じたのでした。声聞とは「仏の声を聞く者」という意味のサンスクリット語です。釈迦が実在しなくなってからは、その四諦(したい)の理を取得することで、阿羅漢となることをなることを目指しました。
 大竹先生の本を熟読することで、まず相違点を把握することができましたが、私としては、仏教の根本的な教えを伝教大師様が無視されたわけではなく、救いを求めている人たちに、利他行により菩薩となることを、自ら念じられたのです。それが法華経を源泉として、日本の大地に根を下ろすことになったのだと思います。
 いずれにしても、その根本にあるのは釈迦が説いたとされる「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」の四つの四諦(真理)です。この世の全て苦であり、それには原因があるという見方をします。そして、苦を滅するには「八正道(はっしょうどう)」が大事だというのです。「八正道」とは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことです。正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想のことです。  
 何が正しい解釈であったかというよりも、どのようにして仏教が日本化したかを解明する上でも、大竹先生のこの本は大いに勉強になります。

                合掌

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心の健康を保つための本を読む 柴田聖寛

2024-03-19 15:11:11 | 読書

 心の健康を保つには、脳のことを知らなければなりません。高齢になったことで、私もストレスに関心を抱くようになりました。アンデッシュ・ハンセンの『メンタル脳』(久山葉子訳)を読んでたことで、色々と勉強になりました。かいつまんで紹介したいと思います。
 脳が進化したのは、私たちが生きのびるためです。そのために安全な環境を維持したという感情が湧くのです。不安を感じるのは、何かがおかしいと私たちに伝えるからで、それ自体は問題がありませんが、不安が強すぎると「パニック発作」に襲われたりします。
 危険というものも時代とともに変わってきました。猛獣に襲われるとか、ちょっとした病気で亡くなることはなくなりましたが、それと違った危険にさらされています。世の中が複雑になったためで、ストレスから身を守るためには、深呼吸をするとか、つらさを言葉にする必要があります。忘れてならないのは、不安になるというのは、私たちを助けるためですから、うまく付き合うことです。
 世界は戦争、コロナ禍、気候変動とかいうように、世界は重大な脅威にさらされていますが、それに対処するには、私たち一人ひとりには限界があります。このため、その本では、自分が好きなことをするとか、世界が良くなるために自分ができることをするとか、ニュースやSNSに振り回されないような生活を提案しています。
 それでもネガティブな感情から抜け出せないときには、両親や学校の先生に助けを求めるのが得策です。メンタルを強化するためには、薬と運動、さらには、自分の感情を言葉にして語るセラピーも効果的です。それとは逆に警戒すべきは孤独であり、SNSによる過度な刺激です。
 私が深く共感したのは、幸せを追い求めず、身近な人間に幸せの材料を発見し、他人と一緒になって意味のあることに夢中になるという考え方です。
 脳はうまくできており、そこには進化の跡が刻まれていますが、その本に書いてあることは、仏教の教えと一緒だと思います。利他の精神で菩薩行に徹することの大切さを述べているからです。皆さんも是非お読みください。もし貸してほしければ、会津天王寺までお越しください。

        合掌

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水上勉の『わが山河巡礼』と私の比叡山での修業時代 柴田聖寛

2024-02-16 17:41:52 | 読書

 今もって私は、仏の道を極めることはままならず、あくまでもその途上にある身ですが、僧侶となると決意したのは、それこそ30代になってからでした。人生山あり谷ありですが、会社勤めをしていて、このままでは虚しくなる一方だと思ったからです。
 それだけの覚悟があっても、時には迷いもありました。私にも忘れられない思い出がありました。比叡山を逃げ出したい一心で、西に一人で向かったのです。訪ねる宛もありませんでした。いつしか岡山県久米郡美咲町の本山寺の前に立っていました。
 外にまで英語でお経をあげている声が聞こえてきました。大した人に違いないと思って声をかけたところ、清田寂雲御住職が「お入りなさい」と言ってくれたので、私の辛く思っていることを残らず話しました。すると清田御住職は、親身になって聞いてくださいました。そして、私が学んでいた叡山学院で教授をしておられることも知りました。
 懐も淋しくなりかけていたので、食事までご馳走になりました。それだけで私は救われた気持ちになり、比叡山にもどって、それから叡山学院で学びながら、大原三千院でも修行をしました。
 そんな経験をしている私ですから、水上勉の『わが山河巡礼』に収録されている『樒(しきみ)の里 柚子(ゆず)の里』という文章は、涙なしには読むことができません。とくに、私は山城と丹波の境にそびえる愛宕山の周辺は、それこそ自分の庭のようにしていましたから、なおさら水上さんの気持ちが分かるからです。
「京都で寺の小僧だった私は、修行が辛く、秋の一日脱走を試み、山陰線を線路伝いにゆけば、故郷の若狭へ辿りつくと信じ、無銭旅行をやった。その時、あり金はたいて、嵯峨にきて、線路を歩きはじめたが、保津川の崖上で道はトンネルに吸われたので、思案した末、念仏寺の下から鳥居本まで歩き、いまの平野家の横から、谷を入って落合に出、そこから、水尾、原をすぎて、亀岡に降りた。十二歳の時だから、おぼろな記憶しかない。奥嵯峨から、落合にきて、高い崖上の賛同を歩いていると、泣きたいほど淋しかったが、やがて水尾の村にきてほっとした。陽当たりのいい段々畑に、柚子の実がなっている。腹が減ったが、農家へにぎり飯を所望する才覚もなかった。柚子の畑をすぎ、やがて谷の暗い道に入ったとき、山の傾斜に柿が熟していた。原の部落にきた頃、日が昏れた。愛宕神社の裏参道を表示する朱(あか)い門の下でひと休みし、とある寺に寄ってから、だらだら坂を保津村へ下った。亀岡について不審尋問に会い、和尚様の捜索願で、警察に保護されている」
 私はこの文章を読むたびに目頭が熱くなってしまいます。私よりずっと年若い小僧さんですから、なおさらのことです。そして、水上さんは保津峡駅での悲しい出来事に触れています。「金閣寺を焼いた鹿苑寺の徒弟林養賢君の母堂」がその近くの鉄橋から保津川に身を投げたからです。親として責任を痛感したからでしょう。身近に思えたのは、炎上した時の金閣寺の住職は、水上さんを養育した瑞春院の先住の村上敬宗師であったからです。
 水上さんは林養賢については、そこでは詳しく語りませんが、他人事には思えなかったはずです。不思議なことには、水上さんがそのときに世話になったお寺は、その地を何度訪れても探し当てることができなかったということです。このため「熱い湯と握飯と沢庵はおいしく、涙が出た」という寺は、もしかすると「まぼろしの寺であったか」とも書いています。
 私は水上さんの小説が好きです。苦労をしてどん底を味わい、名も知れぬ者たちの涙の味を知っている作家だからです。とくに『わが山河巡礼』は何度何度も読み返しています。

         合掌


 

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伝教大師最澄様と「諸法実相」の思想 柴田聖寛

2023-11-30 15:23:30 | 読書

 伝教大師最澄様についての書物は数多ありますが、私がつい最近読んだ立川武蔵氏の『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』には感銘を受けました。とくに第13章の「日本仏教における空(一)—最澄と空海」は圧巻でした。
 私は常日頃から最澄様の教えの核心が「諸法実相(しょほうじっそう)」ではないかと思っていました。そのことを立川氏は正面から論じていたからです。
 立川氏は「『諸法実相』という表現程最澄の思想を的確に語る言葉はないであろう。大乗戒の階段を延暦寺に建てようとしたことの根底には、この『諸法はそのまま実相(真実である)』という思想があったのである」と書いています。
 立川氏が指摘しているように、比叡山延暦寺では法然、親鸞、道元、日蓮といった各宗の開祖が輩出することになったのは、最澄様の「諸法実相」であったからだというのです。
 しかも、その意味するとことを「たとえばリンゴのかたち、香り、味などがやがて消滅する定めにあっても、否それだからこそ、それらの法(現象)はそのものの真実のあり方(相)を示しているのであり、かたちや香りが無常であるからこそ、それらはわれわれ人間にとってかけがえのないものという諸法実相の考えが日本仏教の根底にはある。無では決してないのである」と解説しています。
 現象世界は無ではなく、そこに本質が顕現(けんげん)しているという考え方を明確に打ち出したのが、日本天台の開祖である最澄様だったのです、最澄様が朝廷に大乗戒の戒壇を建てる許可を求めたのは、日本仏教にとっては一大決断でした。出家修行した者だけが悟りに達するという法相宗を、小乗の立場だと批判し、厳格な戒律主義と一線を画したからです。それによって、日本仏教は妻帯した僧たちによって支えられることになったのです。
 また、立川氏は「諸法実相」という方向に日本仏教の舵を切ったにもかかわらず「その理論構築は彼の後継者にゆだねられた」とも述べています。念仏もお題目も禅も、全ては「諸法実相」の異なった表現であるからです。
 立川氏のその本では、空の思想の成り立ちと展開ということに関して、スケールの大きい見方をしていますが、あくまでも私は一端に触れただけですが、日本天台の奥深さを噛みしめることができました。

         合掌

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