最初から田村先生は本論に切り込みますが、その難しい議論に立ち入る前に、私は最澄の『照権実鏡』から読み始めたいと思います。田村先生は「『照権実鏡』(しょうごんじつきょう)は細かな教理問題を取り上げて徳一と議論をまじえるという書物ではなく、その点『守護章』とは全く性格を異にしている」と述べるとともに、薗田香融先生が「最澄が東国を訪問した際、旅先で書かれたものであろう」(岩波日本思想体系『最澄』)と推察したことを、「これは十分考えられる想定であると思われる」と述べたのです。
田村先生は「本書は、一巻の小篇で、真実の教えと方便の教えとを見分ける基準を一〇項目にわたってあげ、それによって法華経が真実の経典であることをしめしたものである」との見解を示したのでした。
私は『現代語訳最澄全集第二巻権実諍論』に依拠しながら、皆さんと考えてみたいと思います。まずは『照権実鏡』の序文を紹介いたします。「かの悪い法相師は『法華経』を権密である説、方便である説、随他意(他者の本意に沿うもの)である説、[不定種姓の者を大乗へと]引き入れるための説、狭いありかたである説と執着し、人をそしり法をそしること昼も夜も息(や)まず、起き臥しとともにある。かならずや[悪い]最期を遂げるはずである。その苦を抜いてやるために、謹んで『照権実鏡』一巻を著し、敬って賢客に進めたてまつる。願わくは、中道の人にとって天の太鼓となり、下愚の人にとって毒の太鼓とならんことを。信ずるにせよそしるにせよ、ともに利益となって[仏前に焚く]名香(みょうごう)を数えることになるし、讃えるにせよ咬みつくにせよ、ともに利益になって、かならずや仏となるはずである。云爾(しかいう)」
「かの悪い法相師」とは徳一を指すとみられますが、『法華経』を権密や方便であると主張していることに対して、最澄は自ら信じる真実の教えによって、いかに敵対しようとも、最終的には「仏になるはずである」との信念を吐露したのです。
最澄からすれば、三乗や一乗という区別は本来ないのであって、法相宗が『解深密経(げじんみっきょう)』を重視し、『法華経』を権密(ごんみつ・方便と密意)と見下すことに触れ、「五天竺には善い瑜伽師と悪い瑜伽師とがおり、悪い師を論破して捨て、善い師に習って伝えている」と述べているのは、法相宗が属する唯識の思想は、一乗に帰するのであって、三乗に与するわけがないとの立場であったからです。わざわざ世親ではなく、天親という呼び方をしているのは、玄奘法師が中国に持ち帰った以前の名前にこだわって、自らの正しさを訴えたいからです。最澄には、法相宗の根っこの部分である唯識の思想を知っているという自負があったからです。
また、最澄の『照権実鏡』は「身を養うことは一乗のためであるが三乗のためではないという鏡・第一」「仏は一乗を勝れていると規定したまうたという鏡・第二」「一乗は海と規定され三乗は川と規定されるという鏡」「三乗の区別は本性ではないという鏡・第四」「諸乗は究竟ではなく一乗は究竟であるという鏡・第五」「真に依拠して一乗を説き俗に依拠して三乗をとくという鏡・第六」「一乗を分けて三と説くという鏡・第七」「三乗は有名無実であるという鏡・第八」「顚倒心(仏に出会った人は逆さまにならない)ゆえに三乗は実となり一乗は権となるという鏡・第九」「『法華経』における一乗は真実であるという鏡・第十」からなっています。
最澄は自分の意見を述べるのではなく、『涅槃経』『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』『[摂大乗論]釈』『大薩遮尼乾子経(だいさつしゃにけんしきょう)』『大乗壮厳経論頌』『入楞伽経(にゅりょうがきょう)』『法華経』『妙法蓮華経』『[法華論]』『仏性論』などを根拠にして、一乗信仰の正しさを論じたのです。
とくに私が注目するのは「仏は一乗を勝れていると規定したまうたという鏡・第二」です。無著(むじゃく)論師と天親論師の書いたものを持ち出したからです。最澄によれば、天親の『[摂大乗論]釈』では「一乗の勝れていることがわかる。ゆえに明鏡とする」と結論付けているのです。最澄は、徳一の拠って立つ足もとを批判したのです。これは徳一にとっても由々しき事態であり、反論に力が入ったことは確かだと思います。