ー中村彰彦先生ー
私が会津に来てビックリしたのは、歴史好きが多いということです。よく読まれているのが中村彰彦先生の著書です。中村先生は花園神社社務所発行の社報『花その』で「歴史の坂道」というコラムを担当しており、令和4年8月1日号では「『松』の字を好んだ名将・蒲生氏郷」を執筆しています。
秀吉が九州を平定した後に、氏郷は16万石を与えられ、伊勢国壱志郡(いちしごおり)の松ヶ島城に封じられました。中村先生によれば、その場所で満足できなかった氏郷は、近くの四五百森(よいほもり)に新城を築き、「兎角(とかく)我ニハ松ノ字吉相ナリ」(『氏郷記』)というのを信じていたために、そこを松坂城、城下を松坂と名付けて、家臣をそちらに移動させたのでした。
よくいわれているのは、会津若松の「若松」の地名は、」故郷の近江国蒲生郡若松の森に由来するという説です。中村先生は別な見方をします。氏郷が「四五百森」を「松坂」と改称したように、めでたい意味を持つ漢字にこだわったということに、あえて言及したのでした。
氏郷が会津42万石を与えられたのは、天正18(1590)年の小田原北条攻めで奮闘したからです。秀吉は同年8月17日、伊達政宗が芦名を滅ぼして自らの領地にしたのを取り上げて、信頼できる氏郷を据えました。天下人になりたかった氏郷には不満もあったといわれますが、同10月に勃発した大崎・葛西一揆を鎮圧したほか、九戸政実(くのえまさざね)の乱も平定したために、会津42万石は、92万石に加増されたのです。そして、杉目は福島に、白石は益岡に、米沢は松崎と改名されました。つまり、中村先生は、黒川を若松にしたのも、その一つであったというのです。
ですから、氏郷にとって会津は、あくまでも仮の領地でしかなく、だからこそ自らの直轄領は「わずか9万石ノ外ハナカリケリ」というありさまでした。志半ばで倒れた氏郷は、悲運の武士であったのです。中村先生は氏郷の辞世の句も紹介しています。
限りあれば吹(ふか)ねど花は散るものを心短き春の山風
合掌