(後)現下の日本政治は、大化の改新に学べ :240316情報
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昨日にひきつづき、現下の悪政を改めるには「大化の改新」をモデルとすべきではないかというお話です。
■4.全国規模での戸籍作成
天智天皇は即位の2年後、670年に全国規模での戸籍を作成しました。その年の干支にちなんで、庚午年籍(こうごのねんじゃく)と呼ばれる、わが国最古の戸籍です。
各戸毎に氏名、年齢、戸主か、家族だったら戸主との続柄、身体上の特徴、課役の有無などを記した詳細な台帳です。また当時、一般の民衆には、本来姓がなかったのですが、庚午年籍の作成時に、すべての公民の姓を公的に定めました。
戸籍は口分田の支給と徴税の基本です。戸籍に載るということは、当人の公民としての権利と義務を明確にするということでした。それまでの豪族の私領民では、どこに誰がいるのか、その豪族以外には分からなかったのとは大違いです。
戸籍を作るには、全国の役人に文字を書く能力が必要であり、また紙や筆の供給も必要です。登録する項目と、記載する方法の基準を決めて、全国に徹底しなければなりません。
1300年後の現代においても、いまだ国民の登録台帳さえ整備できていない国がある事を考えれば、この時代に戸籍を作ったことがいかに先進的なことだったかが窺われます。
■5.官僚制の確立
私領と私有民を持つ豪族たちの連合国家という形から、土地と人民を国家に所属させる公地公民制の確立が、大化の改新の大きな眼目でしたが、それと同時に豪族たちは徐々に朝廷での官位を持つ官僚となっていきます。
そして、官僚として出発する青年は、まず各800人が在籍する中務省左右大舎人(おおとねり)寮に所属させ、そこから能力を見てふさわしい職に出世させるようになりました。毎年の勤務評定もなされるようになりました。
官僚制とは、今日、あまり良い意味では使われませんが、出身部族に関わらず、才能ある者を抜擢する、という意味では、きわめて近代的な制度なのです。
またこの制度により、天皇の御代代わりがあっても、官僚組織自体は、大きな変化を受けずに、安定的な行政を続けることができるようになりました。
■6.都づくり
官僚制とともに、国家統治の基盤となったのが、都づくりです。日本で最初の碁盤の目状の都市として建設された藤原京は、天武天皇の頃から工事が始められ、持統・文武・元明の3代の天皇がここに住まわれました。
大きさは次代の平城京や平安京を凌ぐ、古代最大の都です。それまで天皇の御代替わりのたびに、あるいは一人の天皇の御代でも何度か都が移されていましたが、何代も続けて都とするという点で、統治機構が様変わりしました。
天皇のお膝元で、専門の業務を持った官僚たちが行政を行う、という形で、天皇の御代代わりがあっても、ある程度、継続的な統治ができるようになりました。
なお、碁盤の目状の都市設計は唐から学んだことですが、重大な違いもあります。唐の長安のような巨大な城壁がないことです。これは騎馬民族の襲来に備えて、とのことですが、それだけでは内部の坊という区画単位でも壁に囲まれていることが説明できません。これは内部の反乱、あるいは住民逃亡を防ぐ対策でもあったのではないか、と考えられます。
とすれば、都市の構造は長安の真似をしたとしても、社会構造そのものは、まったく異なっていたのでは、と考えられます。
■7.神話に基づく天皇の権威の確立
上記の公地公民制、官僚制、都の確立と相まって、祭祀、国号、天皇号、元号、歴史書の編纂など、
国家の精神的文化的内容の整備が進められました。これらはいずれも相互に深く関係しています。
まず、「大化」という年号は乙巳の変の直後に立てられました。シナの皇帝の服属国では、独自の年号を使えません。したがって、新政権誕生直後に年号を制定したのは、わが国は独立国であると、国際的に宣言したものでした。
天武天皇の御代で始まった古事記・日本書紀の編纂は、それまでの神話伝承を体系的に集めたものですが、その中で「高天原の天照大神が、御自らの子孫を葦原の中つ国に降臨させて、らすべきと委託された」という天孫降臨神話が国家の正史に書き込まれました。そして、天照大神を祀る伊勢の神宮が、国家的祭祀の頂点として位置づけられました。
実際に唐の官僚制にはない「神祇官」も設けられました。公民が貢納した新穀、布、アワビなどを天皇が神に捧げて、天下公民のために豊作祈願をする祭祀が確立したのも天武天皇の御代だとされています。さらに天皇号と国号「日本」の使用が確立されたのもこの頃と言われます。
すなわち、天照大神の子孫である天皇が「日の本」の国の「おおみたから」の安寧を神に祈る、という国家原理が表明されたのです。
こうなると、蘇我氏のような豪族がどれほどの実権を握ったからといって、皇位を簒奪することは難しくなります。こういう形で、天皇の権威を確立することは、国家を無用な権力闘争と戦乱から護り、平和と安定を保つことに繋がったのです。
また天智天皇を助けた中臣鎌足は、以後、藤原氏として権勢を誇りますが、中臣氏の先祖は天児屋根命(あめのこやねのみこと)であり、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨に付き従って、地上に下った神、とされています。
神話時代から皇室に付き従った一族である以上、どれほど権勢を持とうとも、皇位を簒奪しようなどという野心は持ち得なかったでしょう。現実政治でいかほどに権勢を握っても、あくまで天皇の臣下である立場を踏み外さない、という政治的叡知により、藤原氏は長く繁栄を続けることができ、その歴史を通じて、権威と権力の分離という国家の繁栄と安定の叡知を築くことができたのです。
■8.現代まで続く国家の基本構造を残した大化の改新
こうした国家体制の整備を通じて、天皇の存在自体が大きく変わりました。坂本太郎・東京大学名誉教授は、
つぎのように結論づけています。
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天皇は律令において、従来の宗教的・族長的な首長の上に、徳治国家の聖天子、法治国家の専制君主という性格を兼ね備えた魏然(ぎぜん、そびえ立つ)たる存在となったのである。固有の神祗祭祀を行なうと共に、重大政務はことごとく奏上をうけて決裁すべきであり、人民の父母として人民の生をやすんじ、道徳の行なわれる理想国を樹立することが期待せられたのである。[坂本S37、p96]
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こうして完成した古代国家の仕組みは、その後の日本の安定的な発展の枠組みとして機能しました。武家政権が登場してもそれは天皇から任ぜられた征夷大将軍であり、また明治以降の立憲君主制でも、天皇から任命された首相が政治を行っています。
「日本」という国号、天皇と元号、伊勢の神宮を頂点とする神道、記紀、これら現代まで続く日本国家の基本構造を定めたのが、大化の改新を成し遂げた天智、天武、持統三代の努力でした。
(了)
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