お米のブランド力に最初に成功したのが秋田こまちだと記憶している。
日本の行政は 農業ーとりわけ米農家をあまり重視していない時期があった。
減反政策というやつである。土地があるのに米を作れない・・・日本は資源に乏しい国なのだから
主食である米農家を 優遇するべきである。
太郎は秋田小町を作る農家の長男として生まれ、必然的に跡取りにならざるを得なかった。
弟達、次郎や三郎は、東京で自分たちの好きな仕事に就いていた。
盆と正月に帰省してくるたびに、つなぎ服ばかり着ている太郎は、標準語を当然のごとく使い
服装も都会風になって自由に生きている弟達に嫉妬を感じたのだった。
俺が後を継いだから・・・自由に暮らせる事をしりながら触れない・・・弟達なのだった。
次郎が彼女を連れてきた時 こんな別嬪さんを見たことがないので、次郎にそっと
お前の彼女つーのは、ほれあのーモデルさんという特別なやつか?と聞いてみた。
弟の返事は「兄貴 俺の彼女だけれども東京では幾らでもいるスタンダードだよ」と
言われた。太郎ももう40歳だが、田舎に嫁に来る人が少なく、出会いの場といえばJAが
主催するパーティぐらいだった。そういうパーティに来る女性は、JAが実は都会で
「田舎でのんびり生活を体験しよう」的な婚活をはしょって集めた人ばかりなのだった。
それはさておき 台風が相次いだ年、たわわに実ったあきたこまちの稲が全滅してしまった。
水に浸かった稲穂、天災とはいえ あと1周間あれば狩り取りができたのにと悔しさを
禁じ得なかった。そして太郎は呟いた「あきたこのまち・・・」
終わり