青空に白い月

ゆったりゆるりと生きましょ~よ

東北地方太平洋沖地震(私の場合)

2011-03-13 14:53:28 | 日記・エッセイ・コラム

3月11日午後2時45分頃、私は車を運転しておりました。

 

たまたま自宅に向かっていて、家に着き、車庫のシャッターからガタガタと音がしていたので、

(風のせいかなー?)

と思い、そのまま家に入ろうとしたら、玄関から母親が出てきまして、

「どっか行くの?」

と聞いた記憶があります。

私、震度5の地震を全く気がつかず、平気で歩いてたわけです。

 

そしたら、「地震、地震」と言われ、

そこで初めて地面が揺れ、電柱がグラグラと動き、車が飛び跳ねているのに気がつきました。

 

すぐに収まるだろうという私の思惑は外れ、かなり長い時間揺れていました。

 

隣近所の人も外に出てきていました。

 

揺れが収まってから、私はとっさに車に戻りラジオを聞きました。

真っ先に耳に入ったのが津波警報で、

太平洋側で既に6メートルの津波が到達したというニュースでした。

地震の揺れが収まった直後の話です。

その時点で死者が出ていることを容易に予測できました。

同時に、震源地が太平洋側にあることを知りました。

 

家に入ると、電気が全て止まっていました。

 

ただ事ではないことは察知していましたので、状況を把握する為の情報が必要でした。

しかしテレビは点きません

 

非常時の準備は全くしていなかった為、慌ててラジオを出し、電池が切れていたため電池を慌てて入れ換え、余震の揺れを感じながらラジオを聞いていました。

 

次々と津波のニュースが聞こえ、その範囲の広さに驚くと共に、大変なショックを受けました。

 

電話は使おうとするとすぐに「切断しています」という表示が出て全く使えませんでした。

 

次に暖です。

電気が使えないので、FF式のストーブも使えません。 

しばらく使っていなかった、小さな反射式のストーブがあったのでそれで暖をとれました。

ストーブをつけましたが、余震が来るたびに消して外に出ました。

皮肉にも外は雪がひどく、いっそう寒くなっていました。 

しかし、そのときはまだ明るかったのです。

 

やがて夜がやってきました。

 

懐中電灯は豊富にありましたから灯りはとれましたが、食事の問題があります。

 

うちはIHのクッキングヒーターですので、もちろん使えません。

カセットコンロを出しましたが、カセットガスも残り少なく、私の山用の携帯コンロを使いました。

あとは簡単に作れるお好み焼きのようなものを作り、それといわしの缶詰を薄暗い台所で食べました。

 

暗くなるほどに寒くなっていくのがわかりました。

反射式の小さなストーブは、部屋に対して小さすぎるのです。

だから、厚着をしてカバーしました。

 

その日は寒さをしのぐ為、午後八時半頃、さっさと布団に入りましたが、

余震が続いていたので、すぐに外に出られるように服のまま布団に入りました。

 

余震のたびに目が覚め、目が覚めるたびにラジオをつけました。

 

そのときに聞いたラジオが忘れられません。

たくさんの励ましの言葉がありました。

ビリージョエルのピアノマンが流れてきたとき、なにかわからない安心感があったのを覚えています。

同じようにラジオを聴いている人がたくさんいるのだと思えました。

 

余震と余震の間に、少しだけ眠りました。

 

やがて外が明るくなりました。

 

外は地震で不安な気持ちが嘘のように、晴れ渡っていました。

ストーブの上にフライパンを置き、ホットケーキを作りました。

 

水道は幸いにも止まっていなかったので、味噌汁やお茶には困らなかったのが、心強かったです。

 

外はどうなっているんだろうと気になり、しかし電気がないので信号機も動いておらず、交差点は大混乱しているようでしたので、今年初めて自転車を引っ張り出し、自転車で近所のスーパーのところまで行きました。

 

主要信号の場所には警察官が6人ほどもいて誘導していましたが、警察官が居ない交差点は車が混乱していました。

 

スーパーマーケットの前では、食材を買い求める人の列が数十メートルにもなっていて、順番に店に入り店員さんが同伴して買い物するようでした。

電気がないので、買い物カゴに入れたものを店員さんがすべて紙に書き出し、それを別の人が出口のところで計算して支払いするのです。

 

パンやカップラーメンの類は全て売り切れ、生ものは冷蔵されていないので置かれていません。

野菜や玉子が僅かにあるだけです。

 

搬送経路が絶たれているので、物資が来ません。

 

家に戻ると、当然うちの冷蔵庫ももう冷蔵の役目はしていません。

冷凍庫は凍っているので、かろうじて冷えてはいますが、中に入っていたアイスがぐにょぐにょになって溶けかかっていたので、すぐ食べました。

どんな状況であっても、食べるという習慣だけは消えません。

 

ラジオで聞く地震のニュースは、死者、行方不明者の数は増えていき、酷い惨状が目に浮かびました。

死者数はどんどん増えていきました。

 

ラジオは同じ惨状を何度も繰り返し、放送はどこも地震のニュースでした。

 

そしてまた暗い夜がやってきました。

  

圧力鍋でご飯を炊き、冷凍庫にあった魚を焼き、昼に食べたそうめんの残り汁で芋のおつゆを食べました。

とても豪華に感じました。

 

そして食事が終わろうというとき、目の前がぱっと明るくなり、天井の照明が点灯しました。

 

電気が復帰したのです。

 

一番最初にテレビをつけました。

 

すごいショックを受けました。

 

ラジオの情報だけだった私にとって、その映像は予想以上の惨状だったのです。

 

電気が復旧しても素直に喜べるような状態ではないことを知りました。

 

そして明日、平日になります。

食料も燃料も最小限ですが、それでも私には家があり、暖をとれ、食事が出来ています。

 

明日には更に明確になる部分が出てきます。

車の交通ルートが限られ、新幹線も復帰の目処は立っていません。

太平側ルートは陸、海、空、ほぼ寸断されている状態ですから、私が住むところはは被災地への主要の経由ルートとなります。

 

一人でも多くの命が救われますように


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。