摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

高天彦神社(御所市大字北窪)~古代葛城の受難を伝承する、大和の゛高天原゛

2021年02月27日 | 奈良・大和

 

高鴨神社で御朱印をお願いすると、対応の神職の方に高天彦神社の御朱印も頂けると教えて頂き、お断りするのはあり得ないとお願いしました。また日を改めて参拝しようかと思いかけた処でしたが、その足で参拝させていただきました。

 

・白雲峯。真ん中が参道を覆う老杉

・参道の杉林

        

 

高鴨神社も結構標が高いですが、県道30号線から「高天ヶ原」の案内看板を見て剛山方面の小道に入り、さらに急坂を上ったに鎮座しています。マップアプリの航空写真を見ると雰囲気がなんとなく分かりますが、坂を上がると広がるテラス状の台地にあり、老杉の生い茂る参道や神社の背後にそびえる白雲峯の円錐状の厳かなシルエットなど、ここが何かを秘めた特別な地である事がすぐに感じ取れます。それもそのはず、この地の昔の地名が゛高天村字高尾張゛でした。

 

 ・参道

 

「新抄格勅符抄」には779年に高天彦神に神戸四戸が与えられた事が記され、「日本後紀」の806年四月条には゛吉野太后(井上内親王。聖武天皇第一皇女。775年幽閉先で逝去)の願いにより、正四位上高天彦神が四時幣帛に預かる゛とあります。ただ、井上内親王と当社との関係は不明とのこと。「続日本後紀」839年では゛従三位高天彦神為名神゛と見え、「三代実録」859年では゛正三位勲二等高天彦神従二位゛と神階が上がっており、「延喜式」神名帳には゛高天彦神社名神大゛とあるなど、古代には有力な神社であったことが記録に残っています。

 

・入口の鳥居

・「高天原旧跡地」の石標。その左が掲示板。葛城の他の史跡も同じですが、近隣史跡紹介の掲示板もあり、整備されてます

 

ご祭神は、谷川健一編「日本の神々 大和」で木村芳一氏は、高産霊神、市杵島姫命、菅原道真の三神であるが、社名から見て本来は葛城の地主神、「高天彦」一座を祀ったものと考えておられます。「高天」は「高間」で、上にも触れた金剛山の東斜面の台地を指したものとみられ、「万葉集」にも゛葛城の高間の草野・・・゛などと詠まれています。金剛山中腹には同じく式内社の高天山佐太雄神社と高天岸野神社が鎮座している事も鑑みると、天彦は古く高天山と呼ばれていた金剛山の山霊そのものであっ可能性がある、と木村氏は考えられていました。

 

・神々しい雰囲気が張りつめていました

 

拝殿はなく本殿のみ。三間社流造で身舎の組み物は古風な船肘木。明治初期の建築のようで、当時奨励された古来への復古調の方式です。妻側の屋根が出ていて廻縁の外にも屋根を支える柱が有ります。よく見られる神社の写真では赤っぽい棧瓦が葺かれているのですが、銅板葺きになってました。神社本殿に瓦葺が採用されるのはせいぜい明治時代以降で、さらに銅板葺きは大正時代以降なのですが、銅板葺きは檜皮葺を模したものなので、どちらかと言えば今の方がお似合いです。入口鳥居左に設置されている、御所ライオンズクラブ寄贈の説明板は、日付が平成29年と最近なっており、同じ頃に葺き替えられたのでしょうかね。

 

・見えやすい庇の柱には、出三斗の組物で飾っています

 

その説明板には、ご祭神は高皇産霊神だけ記載され、゛太古から神々が住み給うところと伝えられる「高天原」も、この高天の台地である゛と明言しています。さらに、゛社殿ができる以前はこの御神体山(白雲峯)の聖林にご祭神を鎮め祀っていた゛と書かれています。この説明板と鳥居の間に、「高天原旧跡地」と刻印された石碑が佇んでいて、地元に長く伝わってきた強い伝承である事が感じられます。

 

・身舎は船肘木の組物。明治時代当時奨励されていた復古調の方式に見えます

 

本殿の向かって左横に、土蜘蛛塚とされる石があるのですが、その傍らにビニール袋で覆った手書きのメッセージが掲示されています。そこでは、土蜘蛛は、大和朝廷により滅ぼされた先住民であり、刃向かう人々が権力側から見て妖怪にされた、と語ります。そして、高天彦神社周辺が、何となく悲しい歴史が横たわっているような場所であり、空気感が違う・・・それもそのはず、高天原と呼ばれる場所がこの地であり(諸説あり)、白雲峯がこの神社の神体山だ、と述べれています。筆者不明ですが、とても思い入れを感じる文章でした。なお、神社の近くに蜘蛛窟と呼ばれる土蜘蛛の住処だったとされる場所に石碑があります。

 

・県道30号線に戻る前の高みから奈良盆地方面を望む

 

東出雲王国伝承を語る「出雲王国とヤマト政権」で富士林雅樹氏は、東出雲王国から移住した天奇日方(登美氏~加茂氏始祖)に続いて、西出雲王国から移住した高鴨氏が、祖先を葬ってい土地が、この高天村だったと云います。そして、「海部氏勘注系図」を解説した金久与市氏の「古代海部氏の系図」に、高天彦の事が書かれていました。海部氏の祖、天火明命の六世孫、建田勢命が亦の名、高天彦だったらしいです。孝霊天皇の御世大和にいて、丹波国丹波郷の宰相も務めた御方との事。倭宿禰天御影命)の3代後になります。その御方がこの神社を創立し、遠祖の高皇産霊神と始祖火明命の妃市杵島姫命を祀ったそうです。丹後、元伊勢籠神社の社家、海部氏所蔵の国宝の書からも、確かに海部氏が葛城にいた事が認され、ゆかりの史跡が存在するいう事です。

 

ただ、上に触れた高天山佐太雄神社の゛佐太゛には、どうして出雲の神、猿田彦大神を思ってしまいます。枚方市の蹉跎神社記事でも記載した通りです。はたして、出雲系カモ氏と海部氏の信仰が習合した形では、などと思っています

 

・県道30号線より。真ん中あたりが畝傍山

 

本殿脇のメッセージに関して、「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」でのなかひらまい氏の文章が思い出されましたので、少し引用したいと思います。゛近代以降、一人歩きした「先住民=朝敵」というイメージは「権力側対先住民」という短絡的な古代の風景を生み出し、「王権は悪い先住民を排除して国を作った」というイメージをまん延させた~さらに、それが現代の新興宗教やセミナーと結びつき、「怨霊を供養すればいい世の中になる」といった紋切り型のストーリーを生んだと考えられる~彼らは封印されることなどなく、連綿と生き続けてきたにもかかわらず、だ゛東出伝承を見る限り、少なくとも熊野から入った九州東征軍(建田命がいた頃か?)は大和で激しい戦闘はしてなさそうです。たしかに権力闘争や銅鐸VS鏡の宗教戦争の受難は有ったらしいですが、海部&張氏、そして出雲系氏族は有力な氏族としてその後も存続し続けたという事だったのではないかと想像しています。

 

・同じ場所から吉野方面

 

神社からの帰り道、眼下に広がるヤマトの地や吉野の山々の絶景についつい車を止めて見入ってしまいました。眼下のヤマトから見上げればここは確かに神々の住む天国、高天原だと確信してしまう力がありました。

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、治谷孟「日本書紀」、かみ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 大和/河内・摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、宇佐公「古が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」その大元版書籍


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