「延喜式」式内小社で、和泉国で大鳥大社に次ぐ社格の二宮。神社は天武天皇白鳳年間の御鎮座と説明していますが、4キロほど離れたところに鎮座する、同じく式内社兵主神社と共に、奈良県の山の辺の道沿いに鎮座する名神大社の穴師坐兵主神社との関係をぬきには考えられない、と大和岩雄氏が書かれている(「日本の神々 和泉」)神社です。
・入口(二の鳥居)の向こうにある石畳太鼓橋。昔は神輿を担いで渡っていたそう
現在のご祭神は、「延喜式」に二坐と書かれている事に寄り、天忍穂耳尊と栲幡千々姫命がお祀りされています。これは、1700年に書かれた「泉州志」が社家伝でこの二柱がご祭神になってる事を紹介しており、昭和27年の明細帳がこれにならったことによるようです。実は、明治12年の「大阪府神社明細帳」では、穴師神主の祖神である天富貴神と佐古麻槌神の二坐となっていて、「神社覈録」「和泉国地誌」もこの説を取っていましたが、「泉州志」の記述より昭和に改められたようです。ただその「泉州志」は、あくまで社家伝を紹介していただけで、ご祭神説としては級長津彦、級長津姫神だとしていました。ややこしいですね。大和氏は明治時代のご祭神を支持しています。
・なかなかゆとりある境内
「新撰姓氏録」和泉国神別に゛穴師神主。天富貴命五世の孫、古佐麻豆智命の後なり゛とあり、「斎部宿禰本系帳」に゛古佐麻豆知命。此者泉穴師神主の祖なり゛とあるので、穴師神主は当社の神主です。斎部は忌部であり、天富貴命は忌部氏の始祖・太玉命の孫・天富命の事です(平田篤胤説)。批判もありますが大和氏はそう考えられます。「斎部氏家牒」は、小狭槌命(古佐麻豆智命)の子・玉櫛命が勅により八咫鏡を鋳ったと書いています。
・拝殿と、珍しい二基ならぶ鳥居
穴師の神とは兵主神の事とされ、この神が中国の八神の内の武神であり、採鉱や製鉄に関係する話を、奈良桜井の穴師坐兵主神社の記事で記載しましたが、一方で、風神ととらえる考えもあります。柳田国男氏は、゛アナジ゛゛アナセ゛が西北風、東南風を言う言葉であり、稀に風向に関わらず使うので、大和で有名な纏向の穴師山は、もと風の神を祭った山らしい、と書かれています。志賀剛氏は、アナシは一般にはアラシ(嵐)の古語で訛ったものと考えられてます。志賀氏は纏向の地に行かれ、弓月岳の中腹にある穴師坐兵主神社は風が強く、村人や神主さんの、゛水には事欠かないが風には困る゛という話を聞かれたそうです。
・国重文の本殿。連棟式の三間社流造。二柱の内陣のある間に千鳥破風を付けた珍しい形態。真ん中が合い間、つまり空き部屋
大和氏はアナシは単なる風神でないと見ます。柳田氏は、農民にとって吹いて欲しい風はないから風害を防ぐ神と見ましたが、奈良穴師の氏子さんはわざわざ風鎮の神・龍田大社にも参拝するのです。これは、兵主神社と龍田大社の神の性格が違う事によるのであり、つまりアナシは野ダタラ製鉄にとっては吹いて欲しい風の神をあらわしていると考えるのがよく、やはり古代に行われていたと思われる製鉄に関わるようです。こちら泉穴師神社のご祭神説に級長津彦、級長津姫神が挙がるのは、この風神信仰によると見られます。
・本殿向かって左の住吉社(重文)。創建は最も古く室町時代。ご祭神は住吉三神と息長足姫命
当社は「正倉院文書」にも載り、737年に神戸頴稲3900余束を祭祀料として奉献され、「三代実録」868年には従四位下の神階を授かっています。当社の本殿、摂社の春日神社と住吉神社の本殿の三殿は国指定重要文化財に指定される貴重なもので、2014~16年にかけて保存修理工事がされました。また、神社が所蔵する本造の天忍穂耳尊坐像・栲幡千々姫命坐像(延喜年間頃の作)を始めとする神像80躯も重要文化財となっています。一神社の重文神像数としては、京都の大将軍八神社と並んで日本最多です。
・住吉社の向かって左の穴師天満宮。菅原道真公の他七坐
「大和と出雲のあけぼの」で斎木雲州氏は、゛徐福が率いた船団は、アナジに吹かれて、楽に玄界灘に達することができた。玄界灘からは東に日本海を進めば、出雲方面に着くことができる゛と書かれ、徐福集団は最初は出雲に渡来したと云います。その人々が元ハタ氏でいわゆるアマ氏、後に海部(&尾張)氏になったと主張されます。その子孫が、丹後から大和に移住し桜井の穴師坐”射楯”兵主神社を建てます。射楯はアマ氏の始祖、五十猛のことです。なお、斎木氏は兵主神が中国の武神である話もされています。
・春日社(重文)。ご祭神は、天富貴命、古佐麻槌命
また同じ本で、太玉命は東出雲王家・富氏の分家で、紀元前3世紀終わりに、同じく王家の分家登美氏が摂津三島を経由して大和に移住した際に、従って来たとされます。太玉命は出雲では忌部神社の辺りに住んでたらしいです。「古語拾遺」に天富命が霊畤を鳥見(登美)山の中に立てたと記す通り、登美氏を祭祀の面でサポートしました。霊畤とは斉国八神の用語のようで、海部氏による言葉だと「出雲王国とヤマト政権」で富士林雅樹氏が書かれおり、登美氏と海部氏が初期大和政権(いわゆる葛城王国)で連携していた事跡とみられます。なので、海部氏の神社の神職を忌部氏が務めるのは、伝承からは自然に見えます。
・境内と駐車場の間の社叢で、2018年の台風で倒れたご神木。自然災害遺産として残されています
・境内の、拝殿向かって左にずらりとならぶ摂末社が壮観
「日本書紀」の崇神紀に、五十瓊敷命が茅渟の菟砥川上宮にいて、剣一千口を作らせ、そのとき十の品部を命に賜ったとあります。その中に大穴磯(アナシ)部がいますが、茅渟がこの泉穴師神社を含む地方なので、大穴磯部も当社に関わるだろう、と大和氏は書かれてます。これは古くからこの地にいた大穴師部(海部氏系?)の人たちが九州東征勢力に服従するようになった、と解せるのでしょうか。同じく茅渟の陶荒田神社が、登美氏の大田田根子にちなむ社だという話もあります。だとすると、弥生時代から海部氏や登美氏の人々が茅渟地域に居住していたようで、泉穴師神社は祭祀の場としてはかなり古いご由緒があるような気がします。北東方面1キロ程度の所にある池上曽根遺跡からは、中国由来とされる龍が描かれた、弥生時代後期の壺が出ており気になります。しかし、現在はそういう話や神社名に関係するご由緒は語られないようです。
(参考文献:泉穴師神社公式HPご由緒、泉大津市公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 和泉」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、梅原猛「葬られた王朝」、斎木雲州「出雲と大和のあけぼの」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」その他大元出版書籍、季刊「邪馬台国」138号゛)