イェスワは言った。
「求めつづけなさい。そうすれば、あたえられる」
「探しつづけなさい。そうすれば、見いだせる」
「叩きつづけなさい。そうすれば、ひらかれる」
「だれでも求めつづける者は受け,探しつづける者は見いだし,まただれでもたたきつづける者には開かれるのです」
「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか」
「魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」
「このように、あなたがたは悪しき者であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、願い求めつづける者に良いものを下さらないことがあろうか」
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これが律法であり預言者である」
マタイによる福音書7章7節~12節
Ѧ「イェスワとはナザレのイエス(イエス・キリスト)のことだよ。イエスの当時住んでいたユダヤのガリラヤ地方(今はパレスティナのガリラヤ)で使われていたアラム語の呼び方なんだ。昨夜、前に観てすごく感動したイエスが処刑されるまでの12時間を描いた映画「パッション」をもう一度観たんだ。そこでイエスの母マリヤがイエスのことをそう呼んでいた。当時のガリラヤ地方はひどく貧しくて飢えと病気が蔓延し、見捨てられ疎外された人々が住んでいたところだったんだって。そこでイエスは30歳の頃になって初めての宣教を行なったんだ。自分は神の子であり、またあなた方もすべて神の子であり、求めつづけるなら得られないものはなにひとつないと教えまわったんだ」
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
(「マタイ福音書」五章3―12節)
Ѧ「”心の貧しい”とは難しい表現だけれども、”心”の原語のギリシャ語は”霊”であるんだって。霊とは、自分という自己を超えたところにある存在、だから霊の貧しい、というよりこれは、霊に貧しい、だと思うんだ。霊に貧しいとはどういうことかをѦは考えてみると、それは神の声を聴くことができない人たちのことでもあると思う。自分の中に、神は存在しないと言う人、神を信じない人、神を見ない人、見ようとしない人、求めることで与えられることを信じようとしない人、その人の心は霊にとても貧しく、困窮した状態がひっきりなしに続いている状態にあるんだと思う。何故人が神を見るのかは、ひとつに求めれば与えられることを知るからだと思うんだ。それは自分の力ではなく、自分を超えた何者かである神の力だと人は感じるはずだよ。だから心の清い人は、神を見るが、その心が濁れば濁るほど、神が見えなくなる。でも神を見る者だけが”幸いである”とイエスはけっして言わなかった。イエスは神を知る人も知らない人もすべて、あなたがたは幸いである。と言ったんだ。Ѧは思うんだ、神を見ることのできない苦しみほど、苦しいものはあるだろうか。すべて起きる物事は偶然であり、自分だけのために生きて、死ねば無になると信じて虚無のうちに生きることほど苦しいものはないよ。罪を知ることは苦しみでありながら、それは喜びなんだ。罪を知れないことこそ、苦しみなんだ。”霊に貧しい”とは、罪を知らない人たちのことだとѦは思う。人はそれを無知と呼ぶ。でもイエスは無知の人々をも救おうとした。”あなたがたは幸いである”と教え、そんなひとたちも必ず天の国に入ることができるということを約束したんだ。つまりイエスは、一人残らず、すべての人が救われることを約束した人なんだ。イエスはその約束が本物であると人々に見せるために、自ら拷問による死を受けたのだと思う。どのような肉なる苦しみも、霊の喜びに打ち勝つことはできないことをみんなの前で証明したんだ。肉体の苦しみはいっときであるが、霊の喜びは永遠であるということをイエスはみんなに教えたかった。それがあなたがたすべての、ほんとうの喜びであるということを」
Ѧ(ユス、ぼく)はそういって熱を静めると西日の中にСноw Wхите(スノーホワイト)に向かって走っていき、その腕に抱かれ、アッパ!(Abba、アッバ、アラム語で父)と呼んで微笑んだ。
「求めつづけなさい。そうすれば、あたえられる」
「探しつづけなさい。そうすれば、見いだせる」
「叩きつづけなさい。そうすれば、ひらかれる」
「だれでも求めつづける者は受け,探しつづける者は見いだし,まただれでもたたきつづける者には開かれるのです」
「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか」
「魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」
「このように、あなたがたは悪しき者であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、願い求めつづける者に良いものを下さらないことがあろうか」
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これが律法であり預言者である」
マタイによる福音書7章7節~12節
Ѧ「イェスワとはナザレのイエス(イエス・キリスト)のことだよ。イエスの当時住んでいたユダヤのガリラヤ地方(今はパレスティナのガリラヤ)で使われていたアラム語の呼び方なんだ。昨夜、前に観てすごく感動したイエスが処刑されるまでの12時間を描いた映画「パッション」をもう一度観たんだ。そこでイエスの母マリヤがイエスのことをそう呼んでいた。当時のガリラヤ地方はひどく貧しくて飢えと病気が蔓延し、見捨てられ疎外された人々が住んでいたところだったんだって。そこでイエスは30歳の頃になって初めての宣教を行なったんだ。自分は神の子であり、またあなた方もすべて神の子であり、求めつづけるなら得られないものはなにひとつないと教えまわったんだ」
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
(「マタイ福音書」五章3―12節)
Ѧ「”心の貧しい”とは難しい表現だけれども、”心”の原語のギリシャ語は”霊”であるんだって。霊とは、自分という自己を超えたところにある存在、だから霊の貧しい、というよりこれは、霊に貧しい、だと思うんだ。霊に貧しいとはどういうことかをѦは考えてみると、それは神の声を聴くことができない人たちのことでもあると思う。自分の中に、神は存在しないと言う人、神を信じない人、神を見ない人、見ようとしない人、求めることで与えられることを信じようとしない人、その人の心は霊にとても貧しく、困窮した状態がひっきりなしに続いている状態にあるんだと思う。何故人が神を見るのかは、ひとつに求めれば与えられることを知るからだと思うんだ。それは自分の力ではなく、自分を超えた何者かである神の力だと人は感じるはずだよ。だから心の清い人は、神を見るが、その心が濁れば濁るほど、神が見えなくなる。でも神を見る者だけが”幸いである”とイエスはけっして言わなかった。イエスは神を知る人も知らない人もすべて、あなたがたは幸いである。と言ったんだ。Ѧは思うんだ、神を見ることのできない苦しみほど、苦しいものはあるだろうか。すべて起きる物事は偶然であり、自分だけのために生きて、死ねば無になると信じて虚無のうちに生きることほど苦しいものはないよ。罪を知ることは苦しみでありながら、それは喜びなんだ。罪を知れないことこそ、苦しみなんだ。”霊に貧しい”とは、罪を知らない人たちのことだとѦは思う。人はそれを無知と呼ぶ。でもイエスは無知の人々をも救おうとした。”あなたがたは幸いである”と教え、そんなひとたちも必ず天の国に入ることができるということを約束したんだ。つまりイエスは、一人残らず、すべての人が救われることを約束した人なんだ。イエスはその約束が本物であると人々に見せるために、自ら拷問による死を受けたのだと思う。どのような肉なる苦しみも、霊の喜びに打ち勝つことはできないことをみんなの前で証明したんだ。肉体の苦しみはいっときであるが、霊の喜びは永遠であるということをイエスはみんなに教えたかった。それがあなたがたすべての、ほんとうの喜びであるということを」
Ѧ(ユス、ぼく)はそういって熱を静めると西日の中にСноw Wхите(スノーホワイト)に向かって走っていき、その腕に抱かれ、アッパ!(Abba、アッバ、アラム語で父)と呼んで微笑んだ。