「着るものがないなら、屋根裏部屋に来ないか。」
婚約者がいるのに、そう会ったばかりの男から誘われ、着いていったことがあった。
この日のことを、わたしはまだ彼に話したことがない。
もっとも、”着るもの”とは、暗喩である。
それを知って、わたしは彼に恐れを抱きながら、着いていった。
その男の家はおそろしく古いが、居心地は良いと言う。
「必ず見つかるはずだ。あんたに合った服が。」
「でも、もし見つからなければ、そのときは考えようじゃないか。納得の行く代金を支払うよ。」
みんなは彼の名を、”シマク”と呼んでいた。
どこから遣ってきたのかも、いつからこの村に住んでいたのかもわからぬ素性の怪しい男だった。
”いばらの村”と、だれがいつから呼んだのだろう?
それほど遠くはないという。いつからかこの野いちごの村は、通称”いばらの村”と呼ばれるようになった。
ある説では、いばらの森で一人の惨殺された少年の亡骸が発見されたからだという。
そこに生えている黒いちごの種は、食べる者によっては麻薬的な効能を持つときがあった。
きっとそれを食べて気が狂ったうさぎが、少年のうさぎを殺してしまったのだろう。
だから一時期、この村は”黒苺の村”とも呼ばれていたという。
だが、まだ犯人うさぎは見つかってはいない。
ある目撃者によると、そこでその日見かけた少年を殺したそのうさぎと想われる者は銀色に輝く毛並みのたいへん美しいうさぎだったという。
でもそんなうさぎ、ほかにだれひとり見たことがなかった。
目撃者が90歳を超えた老うさぎであった為、なにかの見間違いだとされた。
「生贄だよ。」
シマクがカリンに向かって言った。
一階のキッチン兼ダイニングでシマクの作ったの黒苺のお酒を二人でちいさなランプ一つ置いただけの部屋で飲み交わしていたときだ。
カリンはお酒以外の飲み物はないかとたずねたが、シマクは平然と「ある。」と答え、そして陰に置くと真っ黒になる真っ赤なジュースをカリンが飲んだ後に、「それは黒苺の酒だ。」と言った。
「だがほとんどアルコール度数はないに等しい。それよりも、黒苺を発酵させていないフレッシュジュースのほうが何千倍と危険なことを知っているのか。」
カリンは黒苺など、一度も口にしたことはないと言った。
「何故だ。」シマクがそう不機嫌そうに訊ねた。
「それはまったく美味しくないと評判だから。」
カリンが呆れたようにそう答えると、シマクは「ははは。」とから笑いをしてにたと嗤った。
「そらそうやろう。ひっくり返るほど美味いことを知る人間たちはそう言うさ。独り占めするためにね。」
カリンは黒苺のお酒の二杯目に口をつけながら、今日なぜじぶんがここに来たのかを忘れかけるところだった。
もうすっかり、外は日が暮れていた。
置き手紙をテーブルの上に置いてきたけれど、婚約者の彼はいったい何を想っているだろう。
「大切な友人の家に、急遽泊まることになりました。
あすの朝には必ず帰ります。
カリン」
鍋のなかはからっぽ。彼は仕事から疲れて帰ってきて手紙を呼んで不安の黒雲のしたで期待してその蓋をぱかっと開け、「おいいいいいぃ、ないやんか。」と独り言を呟いたであろう。
「なんも入ってへんではないか。なんも、残っておらないではないか。」
と、きっと同じ意味のことを何度と口に出して言ってしまったであろう。
「あああああ、腹が減ったなあ。いったいカリンはどこのだれとどこでなにをしているんだろう。不安だなあ。心配だなあ。友人ってだれなんだ。友人はいないってゆうてたやんか。ゆうてたやんかいさ。最近できて、僕に黙っていたのでしょうか。くはは。くるるるるるん。ぱぱぱぱぱ。笑う。笑えない。死ぬる。え?もしかして男ですかね。マジですか。死にましょう。死ぬますか。死にましょう。やめましょう。あしたはきっと、晴れると良いでしょう。おやすみなさい。では。」
と独りキッチンの壁を見つめて吐き出したるあと、ベッドに突っ伏して死ぬように眠りに就いたであろう。
おほほ、良い気味だ。なんてことはカリンは想っていない。
カリンはいま、何も考えていない。
といえば嘘になる。カリンは何故なら、いまとても心地好き気分でうっとりと、目の前に座っている男シマクの顔を眺めていたからであった。
シマクは両目とも完全な盲目であり、目は澱んだブルーのガラス球のようであった。
なのでカリンを見つめているようで、ちっともシマクはカリンの顔など見てはおらない。
カリンがまるで透明であるかのように、そこに何も見ていない。
その後ろの壁も見ていない。
シマクは、では一体なにを見ているのか?
それをただ想像すること、それがカリンをただうっとりと恍惚にさせるのであった。
カリンは自分の容姿に、異常に劣等感を持っていた。
自分の容姿は宇宙で一番醜いであろうし、また宇宙で一番醜いべきであると信じてやまなかった。
そして何より醜い自分の姿を、だれひとりにも本当は見られたくなかったのである。
婚約者の彼は、カリンの顔を、「マジでタイプです。」と言った。
カリンは、「ああそうか、なら結婚したってもええけど?」と返事をした。
愛でたくふたりは、その5年後に、結婚したのであった。
5年間、彼は、本当にカリンと結婚しても良いのか。後悔しないのか。と自分に問い続けてきた。
だが本当は、カリンの愛のほうが、彼の愛より遥かに深いものであることを、カリンは知っていた。
カリンは常日頃、「あ、今のおれ、かっこいいな。って絶対想ったよね。」という言葉を何度と彼に言った。
「そういう、おれってやっぱりかっこいいよな。いけてるよな。と想ってるあなたが嫌い。気持ち悪い。気色悪い。吐き気がする。」
カリンがいつもそう言うと、彼も決まってこうクールに反論した。
「別にそんなかっこいいとか自分のこと想ってないですけどね。まあかっこいいとか、何度か言われたことはありますが…」
「その言い方が腹立つんだよ。ムカつくんだよ。自分のことかっこいいって想ってるから言えるセリフと言い方だよね。うぜえんだよ。死ねや。」
彼はいつも涙を目尻に浮かべて苦笑いをして、爽やかで愛らしい刃を口の空き間から見せつけ、その場を丸く収めることが得意であった。
「いやあ、可愛いな。ほんとうにあなたって可愛い人ですよね。本当に愛しています。」
カリンがそう言って、彼は傷つけられたすべてを心のどぶへ流しに行っていた。
その証拠に、それをいつも入れている彼の胸のなかの洗面器はいつも、血濡れていた。
血痕と体液でガビガビであった。びるびるのぶるんぶるんであった。
ひとりでに、びふんびふんと鳴る夜もあった。
彼はそれを説明するのが至極面倒くさかったので、カリンに「ちょっとお腹の調子が悪いのかなあ。」と話していた。
「あなたのお腹って、びふんびふんと鳴くんですね。」
カリンがそう言うと、彼はすこし寂しげな顔で言った。
「そうですね。」
「病院行って精密検査してきてくださいね。」
「うーん、まあまだちょっと、様子を見たいかなあ。っていう。」
「死ねや。」
「いやあ、死にたくないですね。」
「じゃあアマゾン熱帯雨林に行ってきて、アマゾン川で顔洗って顔ピラニアに喰われて来いや。」
「うーん、それもちょっと…できるならばけ・い・け・んしたくないことですね、はい。」
「便所でコオロギ食べて来いや。」
「いやぁ…なんで食べなくてはならないのか、ちょっと…その意義が見えてこないので…」
「そしたらあなたの顔はもっと美しくだるだろう。」
「美しくだるんですか。今で美しいと言われているので、これ以上は望まないですね。」
「だれにゆわれてんねん。」
「いやカリンさんに…」
「そう…わたしはあなたに言い過ぎたんですね。ふんで調子乗ってんなよカス。」
「ううむ…調子に乗っているわけではないのですが、でも言われて嫌な気持ちにはなりませんし、まあ普通に嬉しいですよ。」
「あなたに負けました。わたしのことをこれから、ブサイクで負け犬の下呂女と呼んでください。」
「それは無理な御願いですね。そんなことをぼくに要求しないでください。」
カリンはいい加減、彼が微笑しながらキレかけているのを素早く認め、こう返事した。
「申し訳ございませんでした。もう二度と言いませんので、どうか離婚だけはしないでください。何卒、お願い申し上げます。」
カリンは、シマクの透明のプラスチックの球体に蒼い糊の塊のようなものを被せたその質感の、両の目にまだ見惚れていた。
だがカリンの魂の聖域を、どうしても邪魔する者がいた。
婚約者の彼である。
カリンの心を濁らせるもの、それが婚約者であった。
だが、シマクの黒苺酒が3杯目に来たとき、彼は消え失せたのである。
時を見計らうかのように、シマクが低く抑えた声で言った。
「そろそろ、上の階へ上がるか。」
「それとも、地下を先に覗いてみるかい。」
カリンは目を瞑り、顎を上げ、熱い眼(まなこ)の下で「あなたが決めて欲しい。」と伝えた。
「それはできない。」
シマクはカリンが言い終わると同時にそう答えた。
「何故なら、おれにも見えないからなんだ。」
「見えない?でもここはあなたの家でしょう?何があるのか知っているのでしょう?」
「本当にそう想うかい。あんたは自分の家にあるすべてを知っているのかい。」
「あんたの家に、あんたの知っているものだけがあるとでも想っているのかい。」
カリンは酔いが回り、普段は口にしない女の話す口調で言った。
「おほほ。あなたって本当に面白い人ね。あなたの言う言葉はとても抽象的で、何を言っているのかさっぱりだわ。」
「そう、今あんたの夫が、何を手にしているのか、目に見えるかい。」
カリンは目を開けた。
「あれは何かしら。丸いものを手にしているわね。」
「どんな質感のものだ。」
「泥団子にも見える。でも、焦げた丸い豆腐バーグかも知れない。」
「具はなんだ。」
「蓮根と、あと…あれはなんだろう。黄色いような、赤いような…」
「もっとちゃんとイメージしないと、何も見えてこないぞ。大事なものは。」
カリンは不安になり、シマクの薄く開いて視線を落としている目を見つめて言った。
「一体なんの話をしているの?」
シマクは視線をテーブルの上に落としたまま言った。
「秘密の階段の話さ。」
「階段を先に下りるか上がるかで、一体何が変わるの?」
「そんなことを、今のきみに話す訳にはいかない。」
「何故?」
シマクは、ふうと息を吐いて右の胸ポケットから煙草を一本取り出した。
「今きみは、自分が望んでいる方向と、そこにあるものをまるで見ていない。」
「わたしはそんな風に見えるの?」
「おれが今感じているだけだ。」
「失礼だと想わない?わたしはなにも考えずに、ここに来たわけじゃない。」
「わかってるさ。あんたはふらふらと、まるで酔いどれ詩人のように、ここに遣ってきた。」
「わたし、酔ってなんかいないわ。」
そのとき、ちょうど目のまえの壁に鏡がかかっていることにカリンは気付いた。
その鏡に映った自分の両目を、カリンはまじまじと見た。
「うわっ、めっさ斜視っとるやん。どこ見てんねん。」
酔い過ぎではないか。
「確かにわたしは直感だけで、ここに来た。でも直感が、すべてであると、わたしは想っているから。」
「もう戻れないことは、想像しなかったのか。」
「想像はしていない。」
「あんた、この家に何があるのか、本当にわかっていないのか。」
天井に蟠る、闇に向かってシマクの吐く煙はその身をくゆりながら昇ってゆく。
「この上に何があり、そしてこの下には何があると想う?」
「わたしは答えない。もし、それに答えるなら、それはその通りに、そこにあるの。」
「では、想っていたものと、それはまったく違うものだろう。あんたの欲しいものは何一つ、手には入らない。」
「これ以上のものを。」
「これ以上の虚しさ、これ以上の無感覚。これ以上の、薄っぺらいものを。」
「これ以下のものではなく。」
「これ以下のものばかり、あんたのもとに遣ってくるだろう。」
「何も、何も、比べないでほしいの。」
「比べているのはあんただ。おれじゃない。」
「秘密の階段は、エッシャーの騙し絵のようになっているんじゃなくて?」
「上っているつもりが実は下りている。下りているつもりが、実は上っている。」
「天国へ向かって上り続けているつもりが、実は地獄へ向かって、下り続けている。」
「でもそれをだれが決めるだろう?」
「決めるのはあんただ。」
「でもそれをだれが嘆くだろう?」
「嘆くのはあんただ。」
「でもそれを、だれが喜ぶだろうか?」
「それはおれだよ。」
シマクは、そう言って目に薄く碧い膜を張らせ、カリンの後ろ姿を映す鏡に向かって、右手を差し伸べた。
カリンの目のまえには、婚約者の彼が悲しげな顔をして立っている。
2019-04-30 12:42:48作