The Food of the Gods(1961)の表紙より
今日は過去に実際に起きた猟奇的殺人事件を具体的に詳しく取り上げ、そしてその事件と人類の延々と続いてゆく地獄の連鎖の密接な関わりについて説きたいと想う。
(切実なぼくからの人類への警告である為、閲覧注意と題することはしない。どうか最後まで読んでほしい。)
ぼくは昨日、「ヴィーガン(Vegan)って一体、何?第二章」を書いてブログを更新したあと、ある検索ワードで初めてGoogle検索をしてみた。
「生きたまま解体」という検索ワードだ。
ぼくの表現に、今まで何度と使われてきた、この世で最もおぞましく、残酷な痛覚の発達した生命に対する拷問行為。
ぼくは当然、家畜の情報がずらりと最初に出てくるはずだと推測していた。
でも実際は、目を疑いたくなる情報ばかりが、検索結果の一面に並んでいた。
一番目の記事は「【閲覧注意】牛を生きたまま解体する光景が残酷すぎる! 切り裂かれ、目を ...」というtocanaのサイトのタイトルで、クリックするとこう説明がある。
「中国で撮影されたという動画には、男性が牛を解体するシーンが映し出される。
首から下の皮膚が剥がされ、筋肉が剥き出しになった牛――。
男性が牛の筋肉にナイフを突き立て、ザクザク切り裂いていく。
ナイフの刃が滑るたびに、牛は足をばたつかせる。牛は生きていたのだ。
動画の解説によると、肉の新鮮さを証明するため、男性は牛を生きたまま解体しているという。
動画の解説によると、肉の新鮮さを証明するため、男性は牛を生きたまま解体しているという。
生鮮食品では、新鮮さが商品の価値を決めることは確かだ。
だからといって、動画のような行為が許されるのだろうか?
少なくとも、苦痛を最小限に抑えて家畜を殺すことを是とする先進諸国の法律や価値観には抵触するだろう。」
この記者は、現代の屠殺方法について、何も知らないのだろうか?
すべての家畜は、生きている状態で、解体されている。
脳死を確実にさせているのでもない。
確実に気絶させる技術もないのに、家畜を生きたまま素早く解体しているのです。
一体それのどこが、”苦痛を最小限に抑えて家畜を殺している”のか?
いつ、解体中に目(意識)を覚ましても、保証しないという信じ難い残虐で拷問の屠殺方法です。
生きたまま解体しているのは肉の新鮮さを証明するためではなく、血を抜くためにです。
生きている状態で、心臓が動いている状態で素早く解体して行かねば、血を上手く抜くことができず、血が残ると肉の味が大変不味くなって、売り物にならない、誰も買い手がつかないからです。
つまり人類は、肉の味を楽しむだけのためだけに、家畜を生きたまま解体しているわけです。
中には、生きたまま皮を剥がし、手足を切断しているところもあります。
特にコーシャやハラール(ユダヤ、イスラム教徒の為の宗教屠殺)の遣り方は大変残酷であり、この中国の個人か業者の行った屠殺方法と、残酷さにおいて違いはありません。
ハラール屠畜の残酷性について、映像が一番に物語っています。
日本でも、ハラール屠殺が行われている屠殺場が数カ所あります。
ハラール屠殺(フランスの食肉処理場でのユダヤ人とイスラム教徒の儀式的食肉処理)の実態をドキュメンタリー映画で御覧になることができます。
LIFE IN THE SLAUGHTERHOUSE(食肉処理場の生活) - À L'ABATTOIR
話を戻しますが、「生きたまま解体」検索ワードのGoogle検索結果の第一件目は確かに牛の情報でありました。
でもこれは広く行われている普通の屠殺方法についてではなかった。
それ以外は、「【生きたまま解体】 チーターがトムソンガゼルを捕獲し家族全員で補食解体する映像」とか、「少女虐待、生きたままの解体シーン…R18+の超問題作、上映期間延長へ ...」といった野生動物やフィクションの情報も一面に出てきた。
でもそれ以外、ざっと観たところ、動物の生きたまま情報ではなかった。
その中で、ぼくの最も関心の引いたものは「閲覧注意!女優志願の女性が生きたまま胴を切断される~ブラック・ダリア事件・凶悪犯罪 アメリカで起こった凶悪殺人、ブラック・ダリア事件。 被害者の女性は、生きたまま胴を切断されています。 」という文字列で、ぼくはその事件について、昨日あのあとずっと血の気の引く中に調べていました。(その後、寝て起きたとき自分の首と胴体が切断される錯覚の苦しみに大変苦しめられ続けた。)
このブラック・ダリア事件について、此処には遺体の状態と、検死結果、死亡証明書の部分だけを記したいと想う。(未解決事件である。)
1947年1月15日の朝、ロサンゼルスのレイマート・パークのコリシアム・ストリートとウェスト39番ストリートの中間にある、サウス・ノートン・アベニューの西側の空地で、2つに切断されたショートの半裸の遺体が発見された。
彼女の遺体は腰の部分で完全に切断されており、血液が全て抜かれていた。
肌は青ざめた白色になっていた。
監察医は、彼女は遺体として発見される約10時間前に死亡したと断定し、死亡時刻は1月14日の夜または1月15日の早朝とした。
遺体は明らかに洗い清められていた。
また、口角から耳までが切り裂かれ、いわゆる「グラスゴー・スマイル」になっていた。
腿や胸にも数箇所に切られた傷が見られ、その部分の肉は全体的に薄くスライスされていた。
遺体の下半身は上半身から足が遠くなる向きで置かれ、腸は臀部の下に完全に押し込まれていた。
遺体は両手が頭の上に置かれ、両肘が直角に曲げられ、両脚は広げられていた。
検死と身元特定
足首や手首、首に結紮の痕跡があり、右の乳房は裂傷により体表の組織が失われていた。
検死と身元特定
足首や手首、首に結紮の痕跡があり、右の乳房は裂傷により体表の組織が失われていた。
右の前腕や左の上腕、胸の左下側でも体表が切り裂かれていた。
ショートの公式の死亡証明書 (1947年、ロサンゼルス郡)
遺体は完全に真っ二つに切断されていた。
遺体は完全に真っ二つに切断されていた。
切断に用いられた技術は、1930年代に教えられていた"hemicorporectomy(英語版)"と呼ばれる手法だった。
2番目と3番目の腰椎の間を横に切開することで下半身と上半身が分断されていた。
つまりは十二指腸の部分で切断されていたということである。
切開した線に沿って非常に小さな斑状出血(英語版) (打撲傷) が見られることから、体が切断されたのは死後のことであると示唆されている。
これとは別に、臍から恥骨上の部分にかけて縦に108ミリメートルの長さの大きく開いた裂傷があった。
顔の両面についた裂傷は、唇の端から右側へは76ミリメートル、左側へは64ミリメートルにまで延びていた。
頭蓋骨は挫傷していなかったが、頭皮の前面と右面に打撲傷が見られ、右側のくも膜下で少量の出血が見られた。
これは頭を殴打されたときに生じる負傷と一致する。
死因は、顔面の裂傷による出血と、頭や顔への殴打によるショックと断定された。
また、肛門管が44ミリメートルのところで拡張されており、強姦された可能性が示唆されている。
遺体から精液の存在を調査するための試料が採取されたが、結果は陰性だった
頭部を殴打、血液をすべて抜く、肉を薄くスライスする、切断、腹部を切り裂く、洗い清める、まるでわたしたちが、家畜に対して間接的に行ってきたことと全く同じようなことをされ、殺されている。(家畜は人工授精器具によってレイプもされている。)
この猟奇的殺人事件について、わたしたちが最も関心を寄せねばならない箇所とは、彼女は生前に拷問を受けたのか、否か、ということだ。
そして、もし生前の拷問を受けていたのなら、どれほどの地獄の苦痛がそこにあったのか、ということに、わたしたちはもっと深刻に関心を寄せる必要がある。
何故かというと、これが起こり得るその元の原因をわたしたちが絶やさないならば、これはこれからも起こり続けることであって、その拷問の苦しみを受けるのが自分の愛する存在や自分自身である可能性に満ちているからです。
原因を元から絶たねば、このような事件がこの先も起き続ける。
もう一つ、関心を強く引いた猟奇的殺人事件が在る。
キングズベリー・ランの屠殺者(キングズベリー・ランのとさつしゃ)(the Mad Butcher of Kingsbury Run)
またはクリーブランド胴体殺人者(the Cleveland Torso Murderer)とは、アメリカ合衆国オハイオ州のクリーブランドで1930年代に犯行を重ねた正体不明の連続殺人犯。
1935年から1938年の間にクリーブランド周辺で12人が惨殺された。
まがりなりにも身元が判明している犠牲者は第2、第3、そして第8のみで、これらの例外を除き犠牲者の身元はいまもって不明のままである。
当時世界恐慌はいまだおさまらず、クリーブランドでもクリーブランド・フラッツ(Cleveland Flats)と呼ばれたスラムが発生、生まれも育ちも定かでない下層民が群れをなして流れ込んでいた。
社会的ネットワークから切り捨てられた彼らは残虐極まりない犯行に対してもほぼ無力であった。
「クリーブランド胴体殺人者」による犠牲者は全て斬首されており、しばしば四肢が切りとられているものや胴が半分に切断されている異常なものであった。
「クリーブランド胴体殺人者」による犠牲者は全て斬首されており、しばしば四肢が切りとられているものや胴が半分に切断されている異常なものであった。
その切断面は滑らかであり、犯人が肉体の切断について技術と経験を持っていたことを伺わせる。
また多くの場合斬首そのものが犠牲者の死因となっていた。
男性の犠牲者の大半は去勢され、中には化学的処置が行われた痕跡が見られるものもあった。
何故、この犯人たちは、人間の身体を切り取ったり、四肢や胴を切断、斬首したり、また去勢に異常に執着しているのだろうか。
しかしこれらの行為は、未だ人類が家畜に対し、平然と生きたまま、麻酔無しで行い続けていることである。
肉体の切断の技術と経験は医師だけでなく、"と殺(屠畜)人"も同じく持っている。
犯人を”と殺(屠畜)者”と呼ぶのは、人間が家畜と同じように血も涙もなく残虐に大量に殺されている以上、それはそう呼ぶに相応しい。
(追記:残念ながら上記のトカナの記事は削除されてしまいました。転載されている以下のブログ記事を御覧ください。)
これは、屠殺ではなく豚を生贄にしているベトナムの儀式です。
生贄を捧げる様子は、確かに目を覆いたくなるほど残酷なものだ。
四肢を紐で引っ張られ、仰向けに固定されるブタ。
自らの運命に勘づいたのか、必死にもがくものの、男4人の力には太刀打ちできない。
やがて覚悟を決めたように、大人しくなった――と次の瞬間、大きなナタがブタの腹部めがけて振り下ろされる。
そして体は真っ二つに。当然、辺り一面は血の海となる。
”生贄”を捧げる相手は神であり、人間では勿論ありません。
神が”血の流される生贄”を、求めていると人間が信じ続けている為、このような残酷な儀式がこの時代にも続いている。
神の食べ物。神がその生贄を、食べたがっていると人間が信じているから、人間は動物の血を流し、生きたまま首を切ったり、切断したり、燃やしたりする。
でもぼくは、最早その生贄とされる動物たちの姿がすべて、人間にしか見えない。
人間が人間の子供を、生きたまま真っ二つに切断しているようにしか見えない。
生贄の儀式のために選ばれた豚とは、それは動物として生贄になるのではなく、人間として、彼は生贄とされる。
神が求めているのは、動物の犠牲ではなく、人間の犠牲なのです。
人間の生贄が必要な間、延々と、動物は人間として、そして人間は動物として生贄にされ続ける世界なのです。
”動物の血が流され続ける”とは、神が人間に要求する”人間の血が流され続ける”犠牲を要求していることに他ありません。
動物とは、人間の所有物ではありません。人間が創り出した被造物でもありません。
動物を創り出し、所有している存在とは、神です。
その神の愛する子どもたちに、人間が何をしてきたか。
美味しい肉が食べたいがために、神の愛する子どもたちを日々大量に生きたまま解体し、その肉を、食べたいだけ貪り続け、残ったものを廃棄(平成28年度の日本の食品廃棄物等は約2759万トン、このうち、本来食べられるにも関わらず捨てられた食品ロスは約643万トン)処分してきた。
神はその人間の行為に対し、”同じ”犠牲を要求している。
自分たちが犯し続けてきた行為が、どれほど苦しく、悲しい行為であるのかを、神の愛する子どもたちである人間に、わからせるために。
神は、犠牲にしてきた動物と”同等の犠牲”を、人類に対し、要求している。
神はその時、人間を人間として観ているのだろうか?
神はその時、人間を動物として観ているのではないか。
そして動物が、人間であるということを神は御存知である。
人間が、動物に、拷問の地獄を与えている以上、人間もまた、拷問の地獄の末に死んでゆかねばならない世界を、神は愛によって、人間に要求し続けている。
動物は、人間の食べ物ではないが、
人間は、神の食べ物(血肉)であるからである。