昨夜に、たった二分か三分ほどの時間を、下のポストを見に行く為に薄着で外へ出ました。
凍えるような寒い夜で、こんな寒さの中、いやこれ以上の寒さの中にかつてナチスの強制収容所の人たちは堪え続け、今でも動物たち(家畜や衣類や毛皮となる動物たち)は堪え続け、最後には殺される未来が待ち受けてるとも知らずに今を生きているんだと想いました。
かつてのブログを合わせて6年と10ヶ月以上、わたしは切実に訴え続けて来ましたが、まだ誰一人、完全にわたしに着いて来ようとする人に出会えません。
それほどヴィーガンを志す人は少数だということです。
わたしにとってはそれほど難しいことでもなんでもなかったことが、ほとんどの人類にとってはとても難しいことであると想い込んでいるようです。
わたしの場合はお酒をやめることのほうがずっと難しいです。
何年もの時間を、冬の寒い日に外と変わらないほど寒い小屋の中で堪え続け、最後には殺される人生と、菜食になって食欲を断つという人生のどちらを選択するかと神に問われるなら、後者を選択する人のほうがきっと多いとわたしは想います。
前者のほうがずっと苦しい人生であるということは容易に察しがつくはずです。
でもほとんどの人がまだそれに気づくことができないのです。
わたしは偶然にか、使命であるからか、それに気付かされ、気付いた者には責任が伴います。
同じように、ひとりでも多くの者に気付きを与えるという使命です。
一刻でも早くこんな使命から解放されたいと想う日は多いです。
それほど重苦しい任務だからです。
でも同時にわたしの積み重ねてきたカルマを想えば、こんなことで赦されるのはあまりに軽すぎると感じます。
長年の肉食による罪が、どうしてこんな苦しみで清算されるかと想うのです。
他者の苦しみを他人事のように感じることほど不幸なことはありません。
わたしは今でもずっと苦しんで孤独に生きていますが、かつて(ヴィーガンではなかった時代)の自分より、ずっと不幸ではありません。
他者の苦痛に胸を痛め、彼らを救う為に自ら欲と利益を断ち、共に苦しんで生きて行けることこそわたしたちの一番の救いです。
かつてナチスは労働に適さない社会に不適応だと見做した障害を持つ者、子供、老人、女性、ユダヤ人を大量に殺戮しました。
弱者や差別するに値すると見做す者を虐殺することを何かと言いわけをつけて正義(正しいこと)と信じて大量に殺害し続けたのです。
「夜と霧」というドキュメンタリーと、支配者(肉食者)のために虐待を受け殺される家畜の映像がダブらないと感じる人は、もう一度その二つの映像をよく観たほうがいい。
この二つは完全に同じものであったということが、わたしの死ぬ迄決して消えることのない最も大きな罪とトラウマ(魂の傷)である。
字幕設定を日本語翻訳にして是非御覧ください。
ポール・マッカートニー:'食肉処理場(場)がガラスの壁であったなら…'
Paul McCartney: 'If Slaughterhouses Had Glass Walls …'