今日、下のポストを見にマンションの階段を下りようとしたら、
安全の為に網戸は閉まって開けることの出来ないようになっている窓のところで
ものすごいバタバタッと羽根を羽ばたかせて往生(困っているの意)している大きなトンボを見つけた。
わあーまたまたトンボなんて、見るのは何年ぶりやろとわたしは感激し、
外へ逃がしてあげようと掴もうとしたのだが、トンボの掴み方というのは
だいたい、羽根を揃えてつまむものやろうというのはわかっていたのですが、トンボちゃんが
それはそれはもんのすっごく元気で羽根を高速にバタつかせているもんで、
掴むのが難しく、これはどうやって逃がしたろかいな、とわたしも困って
何遍も羽根が壊れぬようにと、そおっと両手で囲んで掴もうとするのだが
なかなか掴んで、指にしっかと掴まってもまた飛んでゆく、の繰り返しで
わたしは困惑しちゃいました。
しかしそのわたしの困惑が相手に伝わったのでしょうか、彼(彼女)は
わたしの指に両手両脚で掴まったまま、離れぬようになったので、
よっしゃあっと心内で歓喜し、わたしはそのまま自分の部屋のドアの前の
共用廊下の手摺りのところから放してやると、こんどは音もさせずに飛び立ってゆきました。
あの瞬間というのはほんま、こちらも爽快で切ない感動をいつも与えられます。
さきほど、あの大きなトンボはなんてゆうトンボだったのかな?と想って
調べてみると、オニヤンマのようにトラ柄ではなかったと想うし、眼が綺麗な黄緑色だったのを
憶えていたので、たぶんあれはギンヤンマではないかと想います。
大きさは7cmから8cm、それ以上あったかもしれません。
とても可愛らしくて、あの子はこれからどうやって生きてゆくのだろうと想いを馳せます。
この台風の暴風のなか、どこで避難をしているのでしょうか。
夜はあの大きな眼を瞑って眠るのでしょうか。
ギンヤンマといえば、わたしはキセルの「ギンヤンマ」という好きな曲を想いだしました。
キセルの音楽は亡き父と一緒に車のなかでよく一緒に聴いた想いで深い音楽です。
いま聴くと、哀しくもなりますが、キセルの独特な懐かしい優しさは久しぶりに聴いてみても
落ち着く穏やかさがありました。
2010年にわたしがアップした動画があるので、良かったら観てみてください。
ギンヤンマ.wmv
映っている写真は当時2008年頃に住んでいた群馬県の館林市というところとその付近と、
それからわたしの大切な映画である「リリィシュシュのすべて」という映画の舞台になった
その近くの栃木県の足利市の渡良瀬川の鉄塔が観える河川敷の風景です。
当時、世話になった男性の方がいまして、彼にわたしは大変助けられました。
その彼と一緒に彼が借りてくれたレオパレスで一緒にリリィシュシュのすべてを観た後、
その舞台の場所、中橋やCD店やラーメン屋さんや学校や田園などへもいくつもの場所を彼が連れてってくれたのです。
友人が一人も居ないという孤独で世話焼きな彼の存在は今想えば、母性が強かったなぁと最近も想いだしました。
今頃どうしているのでしょう。
このままでは甘えすぎてしまうからと言って、わたしから連絡を取らないようにと言ったのです。
でも結婚するなら、彼のような驚くほどに忍耐の強く、母性の強い世話焼きタイプでないとわたしは駄目なのかもしれません。
キセルのギンヤンマの歌詞では
とんでもないけど
でもやっぱりゆくよほかにないもんで
と歌われています。
どこへゆくのかとゆうと、そこはやはり、とんでもない場所なんですね。
とんでもない場所というのは、とんでもなく、暗い場所、苦しい試練の場所のようなところではないかとわたしはこの曲を聴いて想うのです。
自分のゆく場所も、たぶんそうゆう場所なんだろなとわたしは感じています。
安全の為に網戸は閉まって開けることの出来ないようになっている窓のところで
ものすごいバタバタッと羽根を羽ばたかせて往生(困っているの意)している大きなトンボを見つけた。
わあーまたまたトンボなんて、見るのは何年ぶりやろとわたしは感激し、
外へ逃がしてあげようと掴もうとしたのだが、トンボの掴み方というのは
だいたい、羽根を揃えてつまむものやろうというのはわかっていたのですが、トンボちゃんが
それはそれはもんのすっごく元気で羽根を高速にバタつかせているもんで、
掴むのが難しく、これはどうやって逃がしたろかいな、とわたしも困って
何遍も羽根が壊れぬようにと、そおっと両手で囲んで掴もうとするのだが
なかなか掴んで、指にしっかと掴まってもまた飛んでゆく、の繰り返しで
わたしは困惑しちゃいました。
しかしそのわたしの困惑が相手に伝わったのでしょうか、彼(彼女)は
わたしの指に両手両脚で掴まったまま、離れぬようになったので、
よっしゃあっと心内で歓喜し、わたしはそのまま自分の部屋のドアの前の
共用廊下の手摺りのところから放してやると、こんどは音もさせずに飛び立ってゆきました。
あの瞬間というのはほんま、こちらも爽快で切ない感動をいつも与えられます。
さきほど、あの大きなトンボはなんてゆうトンボだったのかな?と想って
調べてみると、オニヤンマのようにトラ柄ではなかったと想うし、眼が綺麗な黄緑色だったのを
憶えていたので、たぶんあれはギンヤンマではないかと想います。
大きさは7cmから8cm、それ以上あったかもしれません。
とても可愛らしくて、あの子はこれからどうやって生きてゆくのだろうと想いを馳せます。
この台風の暴風のなか、どこで避難をしているのでしょうか。
夜はあの大きな眼を瞑って眠るのでしょうか。
ギンヤンマといえば、わたしはキセルの「ギンヤンマ」という好きな曲を想いだしました。
キセルの音楽は亡き父と一緒に車のなかでよく一緒に聴いた想いで深い音楽です。
いま聴くと、哀しくもなりますが、キセルの独特な懐かしい優しさは久しぶりに聴いてみても
落ち着く穏やかさがありました。
2010年にわたしがアップした動画があるので、良かったら観てみてください。
ギンヤンマ.wmv
映っている写真は当時2008年頃に住んでいた群馬県の館林市というところとその付近と、
それからわたしの大切な映画である「リリィシュシュのすべて」という映画の舞台になった
その近くの栃木県の足利市の渡良瀬川の鉄塔が観える河川敷の風景です。
当時、世話になった男性の方がいまして、彼にわたしは大変助けられました。
その彼と一緒に彼が借りてくれたレオパレスで一緒にリリィシュシュのすべてを観た後、
その舞台の場所、中橋やCD店やラーメン屋さんや学校や田園などへもいくつもの場所を彼が連れてってくれたのです。
友人が一人も居ないという孤独で世話焼きな彼の存在は今想えば、母性が強かったなぁと最近も想いだしました。
今頃どうしているのでしょう。
このままでは甘えすぎてしまうからと言って、わたしから連絡を取らないようにと言ったのです。
でも結婚するなら、彼のような驚くほどに忍耐の強く、母性の強い世話焼きタイプでないとわたしは駄目なのかもしれません。
キセルのギンヤンマの歌詞では
とんでもないけど
でもやっぱりゆくよほかにないもんで
と歌われています。
どこへゆくのかとゆうと、そこはやはり、とんでもない場所なんですね。
とんでもない場所というのは、とんでもなく、暗い場所、苦しい試練の場所のようなところではないかとわたしはこの曲を聴いて想うのです。
自分のゆく場所も、たぶんそうゆう場所なんだろなとわたしは感じています。