あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

生命の尊厳とは

2017-03-30 04:45:27 | 生命の尊厳
わたしは人間の「罪」とは、言い方を変えるなら「苦しみと悲劇」であるのだと想います。

人間がなにが「善」でなにが「悪」であるかを敏感に感じ取るのは、それが「喜び」であるか、もしくは「苦しみ、悲しみ」であるかを知っているからだと想います。

人間の自分の中の「罪(悪)」を罰する者とは、他者(法律)ではなく、自分自身なのだと想っています。

わたしは想うのです。人間は、生命とは、いったいどれほどの苦痛に耐えることができるのだろう。いったいこの先も、どれほどの苦痛に耐えなくてはならないのだろう。

人は生命の中でも特に、「人」の命を尊びます。
だから家畜の肉を食べる人は多くとも、人が殺されることには抵抗する人が多いのです。

それは自分も「人間」だからです。
人間を殺すこととは、自分自身を殺すことと同じことなのです。

普通は人を殺せば殺人罪に問われるのですが、合法的な殺人があります。
一つは「戦争」、もう一つは「死刑」、もう一つは「中絶(人工妊娠中絶、堕胎)」です。

もしこれらの合法的な殺人のどれかを「仕方のない殺人」と呼ぶのなら、それ以外のすべての殺人も「仕方のない殺人」になるとわたしは想うのです。

殺人はすべてにその「わけ(理由)」があるものです。
戦争は自国を守るためにです。
死刑は遺族のため、犯罪防止のため、再犯防止のため。
中絶は母体を護るため、赤ちゃんが生まれてくることでなんらかの不利になる状況を避けるため。赤ちゃん自身のため(奇形や障碍児は幸福には生きられないという観念のため)。

そしてそのほかの殺人罪に問われる殺人もそれぞれ各々のわけがあります。
なんらかの訳があるから、人は人を殺すのです。
その「殺人」が、利己的か、そうでないかを判断するのは、最後は結局他者ではなく、自分自身です。
誰に非難されようとも、そうしなければならなかった理由があるのなら、それは確かな「殺さなければならない理由」だったはずです。

そういう意味で何か一つの「殺人」を「仕方のない殺人」とするなら、それはつまり自分がその「仕方のない殺人」の被害者になろうとも、仕方のないこととして受け容れなくてはならないことになります。

「仕方のない殺人」とは言い方を変えるなら、「殺されても仕方のない存在」、「殺されてもよい存在」と言っていることになります。

「罪のない」人を殺すという殺人は多くの人に非難されますが、同時に「罪のない」赤ちゃん(胎児)は生まれることもできないまま毎日世界中で何万人何十万人と殺され続けています。

「仕方なく殺さねばならなかった」とは言い換えるなら「殺してもよい存在」として赤ちゃんを見ているということです。
「殺してはならない存在」として見るなら、たとえ自分の身体が危険であろうとも、生かそうとするはずだからです。
赤ちゃんが「生きてほしい存在」であるなら、自分が死んででも産もうとするはずです。

赤ちゃんが生まれることを望まない中絶(堕胎)とは、赤ちゃんは「生まれなくても良い存在」として、仕方なく殺してしまうことなのです。

なぜ自分(母親)は「生きなければならない存在」で、赤ちゃんは「生きなくてもよい存在」なのでしょうか?

同じ人間という生命です。
母親もかつては自分のお母さんの胎内ですやすやと眠っていた赤ちゃん(胎児)だったのです。

赤ちゃんが安心してお母さんのお腹の中で眠ることができるのは、お母さんと自分は「一体」であると感じているからです。

お母さんと赤ちゃんは、赤ちゃんがお腹の中にいるときは「一つの存在」なのです。
赤ちゃんはお母さんを絶対的に信用して、愛されていることに安心して眠ります。

あたたかい羊水のなかで、お母さんの鼓動をいつも聴きながら眠っていたのです。
人間は誰しもが、そんなお母さんのお腹の中で過ごしていた赤ちゃんだったときがあるのです。

どんなお母さんであっても、赤ちゃんはお母さんに愛されていることを信じてすやすやと眠っています。
それは赤ちゃんの愛です。
お母さんを愛する愛で赤ちゃんはできているのです。

赤ちゃんを愛することとは、人間を愛することです。
自分自身を愛することです。

赤ちゃんを愛することはお母さんが幸せになることです。
赤ちゃんを愛することはお父さんが幸せになることです。

赤ちゃんはお母さんもお父さんも幸せにしたくて生まれてくるのです。
愛するため、愛されるためにお母さんのお腹のなかで受胎したのです。




そんな赤ちゃんたちがいったいいつまで、ほんとうに残酷な方法で殺され続けなくてはならないのでしょう。
死ねば苦しみは終わるのでしょうか。
でもそんなこと、わからないことなのです。
赤ちゃんは死んでも苦しみつづけ、お母さんの愛を求めつづけてお母さんの側にいつでもずっと存在しているかもしれないのです。

生命が何故生まれてくるか、ほんとうのところはわかりません。
わからないのに、死ねば楽になるというのは都合の良い妄想です。



自分は見たことはないのですが、水子の霊(胎児の霊)っていうのはほんとうにいるように想うんですよね。
赤ちゃんの魂ほど、自分が死んだことに気づけなくって死んでもずっとママのそばについて、成人の霊よりずっと苦しんで此の世と彼の世のあいだに居つづけるんじゃないかと。
そうすると赤ちゃんの霊が苦しむほど、やっぱり母親や赤ちゃんの苦しみに関係している人間たちの苦しみ(罪)も増すように想えます。




今日は中絶(堕胎)についての自分の思想の話はこれくらいにしておこうと想います。



この先は、もっとつらいもので、覚悟を持って観て頂きたい動画と画像(画像はそのまま載せてはいません。クリックすれば観れるようにしてあります)になります。






「沈黙の叫び(原題:The Silent Scream)」というのは賛否両論を起こしている1984年の妊娠中絶反対派による教育映画で、批判的な意見も多いようなのですが、その批判的な意見というのが結構どうでもいいところばかり批判しているのを見ると、自分はこの映画が訴えられるもののほうがずっと価値があると感じましたので、載せることにしました。


特に観ていただきたいと思ったのがこの二つのカットの動画です。
この二つはグロテスクな場面は入っていません。



ナレーターのバーナード・ナサンソンという人は産科医でNARAL(妊娠中絶権擁護全国連盟)プロチョイス・アメリカの創始者でもあるが、妊娠中絶を行う側から中絶反対の活動家に転向した人です。


このナサンソンが、一般的な人工妊娠中絶で用いられる器具を取りあげ、手術において女性の身体に対してどのように使用するのかを淡々と実演してみせます。

そして妊娠12週〈頭殿長(赤ちゃんの頭からおしりまでの長さ、座高)が約6cmほどの大きさの胎児、脚をピンと伸ばして計れば8cmくらいかもしれません〉の時点ですでに胎児の頭は吸引装置を使うには大きくなりすぎていると述べ、妊娠6週目から脳波を出している胎児の頭の骨を砕くための鉗子(かんし)の使い方をデモンストレーションする。





沈黙の叫び 2/5 (妊娠中絶)



この使われている器具類や方法は現代の日本でもほぼ変わらないようです。

(クリニックによっては、手術をしやすくするために、前日に、子宮頚管を広げるラミナリアという器具を挿入します。
ラミナリアは海藻でできた棒状のもので、少しずつ体内の水分を吸って膨張していき子宮の入り口を広げます。
人によっては、痛みが出る場合もあります)



妊娠初期の6週から11週までに中絶手術を行った場合のリスク


これらの硬い鉄の器具で子宮内を乱暴にも掻き回して掻き出すわけですから、子宮内壁に穴を開けてしまう“子宮穿孔(せんこう)”が起きたり、感染症やその傷で女性は不妊や流産といった後遺症のリスクを伴います。


妊娠12週以降の中期中絶になると、リスクはさらに高まります。

薬を投与して人工的に陣痛を起こし、分娩と同様に胎児を外に取り出しますので、特に出産経験のない方の場合は、子宮の出入り口である子宮頚管を広げる術前処置をしっかりと行います。
そのため、子宮頚管を傷つけてしまったり、陣痛が強すぎて子宮破裂を起こしてしまうリスクがあると言われています。

さらに、大きくなった子宮の収縮が遅かった場合などは、通常の出産ど同様に弛緩出血と言って多量の出血が起こる場合もあります。



中絶手術の際に感染症などのトラブルがあった場合は、それを原因として不妊症につながることがあると言われています。

さらに、何度も中絶手術を繰り返した方などは、子宮内膜が薄くなってしまい、受精卵が着床しにくくなる場合があるそう。
また、初産のときに早産の確立が高まったり、分娩時の出血が増える傾向も指摘されているそうです。



中絶にはこれだけのリスクがあるということを知るなら、母体(母親)を護る(生かす)ための中絶といっても、産むことと中絶することのどっちがリスクが低いかはわかることではないのです。
母親が生きるために中絶を選択しても、その罪悪感から精神が病んでしまっては自殺の危険性も生まれてきます。




次の映像も衝撃的なものです。(グロテスクなものではありません)


テレビには母親の子宮にいる胎児の超音波画像が映し出され、
ナサンソンは、何が起きているのか順を追って解説し、子宮に用いる新たな器具(サクションカニューレ)について説明します。

新たな器具はナサンソンがいうところの「子供」を「バラバラにして砕いて破壊する」ための最終兵器と呼ばれる。

胎児は子宮への侵入者に対する準備など出来ておらず、「堕胎医の操る冷たい鋼鉄の器具によって…バラバラにされる子供は」カニューレから逃げようとする、とナレーションは続く



沈黙の叫び 3/5 (妊娠中絶)




胎児は母親の子宮内で頭部と胴体、場合によっては手足も引きちぎられて殺され、引きずり出されるのです。
この方法さえ知らされずに中絶する人は多いのではないでしょうか?

座高が6cmほどの大きさの胎児が吸引する器具から必死に逃れようとして、また胎児の脈拍も急激に高まるというこの映像と話を嘘だという人は、胎児が逃げることも脈拍が高まることもないなら胎児は殺されようとしているその瞬間、なんの苦しみも感じずに平気でいるはずだと言いたいのでしょうか?

でも胎児がそのときどんな感覚でいるかというのは、胎児になってみなければわからないことです。
逃げることも脈拍が高まることもなかったとしても、胎児は拷問のような痛みと苦しみのなかで殺されているかもしれないわけです。

生まれてきた赤ちゃんの胴体と頭と手足を鉄の器具で引きちぎり、殺すなら、その殺した人はどれほどの非難を受けるでしょうか?
でもその赤ちゃんのほぼ同じ形のミニチュアサイズの赤ちゃんの身体なら生きたまま引きちぎっても良いとされるのは、小さな赤ちゃんには痛覚はそこまで発達していないからと勝手に決め付けているからではないでしょうか?

もし子供や成人とまったく同じ痛覚があるのなら、生きたまま身体を鉄の器具で引きちぎられるというのは、いったいどれほどの痛みと苦しみでしょうか。
想像できますか?
想像もできないほどの痛みと苦しみのはずです。
何故なら死ぬほどのそんな痛みと苦しみを経験して生きている人は誰もいないからです。
頭部と胴体を引きちぎられても生きている人はいません。



2003年には全世界で4200万件の中絶が行われたと推計されたようです。一日に11万5千人ほどの計算になるでしょうか。
想像もできないほどの拷問の苦痛をちいさな赤ちゃんに毎日、実際闇に葬られているのも含めば何十万人単位に達するかもしれない数の赤ちゃんに対して世界中で行なわれつづけています。


強姦や望まない妊娠でできた赤ちゃんであっても、拷問の苦しみを与えてまで赤ちゃんを殺すことを、母親は自分に対して赦すことができるものでしょうか。
自分自身を赦さないということは、精神的、または肉体的苦痛を伴うある意味拷問の苦しみを生涯自分に対して科しつづける人生を歩むということになります。

赤ちゃんを一人でも殺してしまうということは、どれほど重い苦しみ(罪)を自分に対して与えつづけることであるか、人はもっと深刻に考える必要があるとわたしは魂の底から危惧します。

「殺人」とは、どのような理由があっても、殺人を犯してしまった本人が自分自身を赦さないなら、それは地獄の道を歩むということです。
宗教のほとんどがなぜ一番に「殺生の罪」「殺すなかれ」という戒めを作ったか、それは「殺す」ということが人間にとって一番の「苦しみ」を生みだすものだからです。

中絶(堕胎)という選択をすること、それは「いつまでつづくかもわからないほどの地獄のような苦しみへの道」を胎児と共に突き進むという選択にほかありません。




この先は、胎児がどのような姿で殺されているか、その画像とすこしの動く映像を貼って、この記事は終えます。

閲覧に注意してください。




妊娠中絶
https://www.youtube.com/watch?v=9FaMMveSpO4





いきなり開いて吃驚するかもしれませんが覚悟してご覧になってください。(三枚とも小さめ~中ぐらいの大きさの画像です)



最初の写真はグロテスクなものではないと想います。手を胸の上で組んでいる中絶胎児の写真です。
ママのお腹のなかで祈りつづけていたように見えますね・・・
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/otoneru/20170407/20170407143915_original.png?1491543633



http://1.bp.blogspot.com/_NBH5JN5Es64/TRduuF2EaFI/AAAAAAAAADY/_NQv2UoQoDc/s1600/Beb%25C3%25A9+Abortado+-+%25C3%2589l+no+tuvo+Derechos+Humanos.jpg




https://i.ytimg.com/vi/KPdREM8uUsA/hqdefault.jpg




https://image.slidesharecdn.com/pptcapacitacionviveaborto-090924021433-phpapp02/95/porque-no-elegir-el-aborto-36-728.jpg?cb=1253758546






最後に、何故、人間の命を特に人は尊ぶのか。
それは、人間の人生というものは、その遺伝子を引き継いだ一人の人間の生きる環境、容姿、人格性などすべての備えた個の人間という存在が、ほんとうに一度きりの「物語(人生)」であるからではないでしょうか?

そのたった一つの「物語(人生)」を生きるために生まれてこようとしている魂が、一日すらお母さんのお腹の外の世界を生きることが叶わなかったその無念と哀しみが、どれほど深いものであるかを、想像し続けることができればと想います。






リンクサイト


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