あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

それはそこにないか、あるか。

2017-04-10 02:08:23 | 生命の尊厳
「在る」と”想定”することの大切さについて。

人の「始期」とは?
人とは、胎児とは、果たしてどの時点から「人」であるでしょうか。

在る者は妊娠中期から、約12週目以降からと言い、在る者は、否、受胎(受精卵が子宮内膜に着床した時点)の成立時からである。と言い、在る者は、いいや、胎内の外へ生まれ落ちた瞬間からだろう、と言い、在る者は、身体の一部分が母体の外へ出た時〈一部露出説は、「胎児の身体が母体の外から見えた時点(一部が露出した時点)」を、法的な「人の始期」とする説〉からだと言うでしょう。

ではここで、宗教、理論、スピリチュアリズムまで広げてその見解を探ってみましょう。

まずは世界最大の信者数であるキリスト教は、どういった意見を提示しているでしょうか。
聖書には、どの時点から「人間」であるのだとはっきりと神が明示している箇所は見当たりません。
中絶についての明確な聖句も残念ながらありません。

http://www.totetu.org/assets/media/paper/k023_126.pdf

3.「生命のはじまり」に関する中世から現代までの
カトリックの見解


はじめて神学的に胎児の生命を認識し中絶を否定する見解を示したのは古代キリスト教最大の神学者・アウグスティヌスである。
彼は、上述の創世記の一節(「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28))から、出産がセックスの目的であり、その場合においてのみセックスが許される、と考えた。

したがって、中絶はセックスの唯一の目的を阻むが故に罪深い行為と考えたのである。
この見解が中世、そして現在にいたるまで影響し、カトリックにおいて中絶に対する批判的見解が形成されていったと考えられている。

次に神学的に整理したのは中世最大のカトリック神学者といわれるトマス・アクィナスである。基本的にはアウグスティヌスを踏襲しているが、具体的に「いつから生命がはじまるのか」について言及した点で注目できる見解を述べている。

曰く、「男の胚には受精後40日目に、女の胚には受精後90日目に神が“魂”を吹き込む」と。
彼の生きていた時代を考えれば、この日数に明確な根拠があったとは考えられない。
むしろ、男性優位の思想を反映させるために男の胚によりはやく魂が吹き込まれると考えたのであろう。

そして、中絶はいかなる時期にも罪深いものと見なしたが、とりわけ、胎児が「形をなした」ものとなっている場合、その罪はいっそう重いと考えていたことは注目に値する。

19世紀半ばから、生殖メカニズムが解明されてくるにつれて、教皇は中絶を公然と批判するようになり、この時期に、カトリックは、胎児の人格性は受精の瞬間に始まるという考えに近づいていったのである。




受精の瞬間から人格性が始まるとは、その時点で既に個の人間、個人という存在であるとしてるわけですから、まだ人間的な形にさえなってない頃から個人として尊重すべきであるということですね。
性交経験のある女性ならば、知らないうちにまだ人間の形になっていない状態の人格性の伴った個人を知らず知らずにトイレに流してしまっていたなんてこともあるかもしれませんから、考えたらなんとも複雑な想いになりますね。
排泄される哀しみを知っているから糞尿愛というものも在るのか、などと色々想像できますね。



つづいて仏教のひとつの重要な概念である龍樹(ナーガールジュナ)の「縁起」というものは、これは根源的な宇宙の法則について説かれているもので、これをヒントに中絶について考察してみたいと想います。


空の思想
--- ナーガールジュナの思想 ---
第三章 縁起と因果


縁起を時間的生起関係・因果関係を示しているものとナーガールジュナが解釈していたと仮定してみますと、このような言い換えは不可能であったことがわかります。たとえば、

A : 食べ過ぎ(X)によって、腹痛(Y)が起きる。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
A’: 腹痛(Y)がないことによって、食べ過ぎ(X)が起きない。

となります。この場合、AとA’は、あきらかに全く別のことを言っているので、このような言い換えをすることはできません。

ところが、もし、縁起を論理的関係を示しているものとナーガールジュナが解釈していたと仮定すると、そのような言い換えが可能であったことがわかります。たとえば、

B : もし食べ過ぎる(P)ならば、腹痛が起きる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし腹痛が起きない(〜Q)ならば、食べ過ぎではない(〜P)。

となります。この場合、BとB’はまったく同じことを言っています。

つまり、Bが真(誤)ならB’も真(誤)であり、B’が真(誤)ならB(誤)も真であり、この二つは論理的に同値です。
したがって、BとB’は交換可能です。(これは論理学では「対偶律」と呼ばれる基本的な論理規則の一つです。



これは難しい概念を結構分かりやすく説明されているように想えますが、それでも簡単に頭で理解できるものではないのですが、この法則を中絶に関わる人間たちの縁起に置き換えてみたいと想います。

胎児は、

A : 前世の悪業(負のカルマ)(X)によって、中絶される(Y)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
A’: 中絶(Y)されないことによって、前世の悪業(X)がない。

これは時間的な因果関係の解釈をナーガールジュナが行なっているわけではなかったことを表す例です。
時間的な因果関係を説くなら、胎児は中絶されない場合その前世のカルマはないということになります。

時間的な因果関係はよく「カルマの法則」として広まっている解釈かもしれません。
この解釈だと原因(X)によって結果(Y)が起きるなら、結果(Y)が起きないことによって、原因(X)はないことになります。

これを中絶した妊婦に置き換えますと、

A : 中絶(殺生)(X)によって、妊婦は苦痛(Y)を被った。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
A’: 苦痛(Y)を被らないことによって、中絶(殺生)(X)は起きない。

これだと妊婦は苦痛を被らない以上は中絶が起こり得ないと言っていることになります。
膝をすりむかない以上、怪我が起きない。と言っているような論理破綻となります。

この例から、ナーガールジュナは時間的な因果関係を説いていないということを示されています。

次に論理的な関係(相互依存的関係)を説いている場合どうなるか。

胎児は、

B : もし中絶される(P)ならば、苦痛が起きる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし苦痛が起きない(〜Q)ならば、中絶された(殺された)のではない(〜P)。

母親は、

B : もし中絶(殺生)する(P)ならば、苦痛が起きる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし苦痛が起きない(〜Q)ならば、中絶した(殺した)のではない(〜P)。

苦痛を「罪悪感」という言葉に置き換えますと、

B : もし中絶(殺生)する(P)ならば、罪悪感が生まれる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし罪悪感が生まれない(〜Q)ならば、中絶した(殺した)のではない(〜P)。

これは大変わかりやすくて、論理も成立しています。
罪悪感が生まれないとは、”良心が芽生えていない”、”正常な精神状態にない”とされて刑罰が免除されるのはこういった論理からです。

よって、ナーガールジュナ(龍樹)に中絶問題を説かせるならば、たぶんこう言うのではないでしょうか。

胎児がほんとうに一切の苦痛を伴わなかったことを証明できるのであれば、それは殺生(罪)ではない。
母親が中絶行為によってどのような苦痛も起きないのならば、それは殺生(罪)ではない。

胎児が苦痛を伴わないと証明できない限り、それは殺生(罪)であり、
母親が中絶行為によって苦痛を伴うなら、それは殺生(罪)であるが、その場合にも胎児が一切の苦痛を伴っていないことを証明するならば、胎児にとってはそれが母親による殺生(罪)ではない。



難しい概念を簡単に表してみましたが、わたしの言いたいことは解っていただけたでしょうか・・・?

最初の文句の「在る」と”想定”することの大切さについて。というのは
胎児の苦痛、また母親と中絶に関わるすべての人間のこれから先の苦痛を「無い」と想定して判断するよりも、
「在る」と想定して熟慮することがなぜ大切であるのか、それは何事も、「無い」と証明することはできないからなのです。
確たる「証拠」がない以上、それは「無い」と想定するのではなく、「在る」と想定して考える必要があるということです。

ですから胎児にはどの段階であろうとも、痛覚が「無い」と想定してかかることは非常に浅はかな考えなのです。
同時に、胎児が”その”時点で「人」では「ない」と想定して判断することも浅はかなことになります。

母親と中絶に関わるすべての人間がこのさき絶望に陥って自殺する可能性について、「無い」と想定するのではなく、「在る」と想定して深刻に判断せねばならない問題だということです。

神学者やカトリック教会も胎児は人では「ない」と想定してかかるのではなく、人で「ある」と想定して中絶問題に警鐘を唱えつづけるのにはそれだけの人間にとって重要な問題であるからです。



では次に、わたしがスピリチュアルではもっとも信頼を置く存在であるシルバーバーチという高級霊団からのメッセージでは人の始まり、また中絶についてはなんと言っているかを載せたいと想います。


シルバーバーチの霊訓(8)


続いて妊娠中絶の話題が持ち出されると、同じゲストが尋ねた。

───それはどの段階からいけないことになるのでしょうか。

 「中絶行為をしたその瞬間からです」


───妊娠してすぐでもいけないのでしょうか。

 「とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなたがた人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。

その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。

中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児のせっかくの自然の生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

 私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことなのですが・・・・・・

 あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に滅ぼすべきではありません。

もしも中絶を行っている人たちが、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題でないこと、いつの日かその人たちは(医師も含まれる──訳者)その中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなると私は考えております。

妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それは決して死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです」


───今地上で行われている実情を思うと、これは大変なことをしていることになります。

 「それが現実なのです」


───堕胎された霊はいつかまた誕生してくるのでしょうか。

 「そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます」






シルバーバーチは語る> 23章 さまざまな疑問に答える


――霊は受胎後どの時点で胎児に宿るのでしょうか。

納得できない方が多いであろうことを承知の上で申し上げますが、精子と卵子とが結合してミニチュアの形で個体が出来上がった時から、その霊にとっての地上生活が始まります。





シルバーバーチの有無を言わさぬ厳しさというものにわたしはイエスと同じ愛の深さを感じます。
高級霊界というところでも堕胎という行為に罪(間違い、過ち)は「ない」と想定せず、「在る」と想定しているようです。
そして胎児がミニチュアの個体が出来上がったときからすでに霊は宿り、その時点から「人である」と見解しています。



例えば、「苦しくて死んでしまいたい」と訴える人には、よくこう言われると想います。
「でもさ、生きていればきっと良いこともあるよ」
これも「在る」と想定していることでの励ましです。

「でもさ、この先あなたはもう決して苦しむことなどないよ」
と言うなら、「ない」と想定しているわけですが、とても嘘くさい言葉になってしまいます。
「そんなこと、わからないじゃないか」と反論されてしまいます。

胎児がいつから「人」であり、そこに「苦痛」があるかないか、というのはわからない(目に見えてわかるものではない)からこそ
「無い」ではなく「在る」と想定して胎児が人で苦痛を感じているかもしれないという可能性について人々は真剣に考え続けていく必要があるということなのです。






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