俺はさっき、夢ン中で相手に怨念の呪詛を吐いていた。
相手は誰か知らんが俺に恨み言がある人間のようで俺のプライバシーを勝手に覗いて嘲笑っていたので俺が相手を呪ったのだ。
相手は若い弱々しい男に想えたが、実のところ女の化身かもしれん。
俺は夢ン中だけでなく、現実でも何度かぶち切れるとやくざのような人格になることがままあった。
そのとき俺は何者かに乗り移られてでもいるかのように人格がころっと代わり、自分でもあとでそら恐ろしくなるのである。
それに俺はやくざもんの人間に妙な親しみを感じる。
これは俺が前世でやくざもんの男だった可能性があると想うわけに至ることは何も可笑しいことではないではないか。
たぶん、俺は前世でやくざもんの男やった。やくざもんと言っても親分や兄貴と兄弟盃を交わすといったやくざではなく、もっとラフなただ働かん”ごろつき、ならず者、無頼漢”みたいな男で、特に女を弄んでは用がなくなれば溝(どぶ)へ打ち棄てていたような因果の深い男であった気がする。
これは単なる俺の第六感でなんとなくそう感じることであるが、まあ当りであろう。
だから「悲しみの男カイン」なんて長編(中編)小説も完結させられたに違いなく。
兎に角俺は前世で散々女を舐め腐って、女をモノのように扱っていたので、女の恨み、怨念、無念という因果を嫌でも負っている人間だから、今生では女の嫉妬や弱さ、そして異性との関係、性の問題に関して死にかけるほど苦労しているのだろう。
俺の業があんまり深いのは、それには女の無念が幾人分も係っているからに違いあるまい。
そうだもしかしたら俺は、前世で女を妊娠させ、即座に「堕ろせ、そやないとワレとは別れまっさ」などと言って女は泣く泣く腹の子を堕ろしたが、堕ろした途端、俺は女の存在が何かとてつもなく穢らわしい存在に思えて、また「堕ろせ」と言われてすんなり堕ろした女を心の底から軽蔑し、毛嫌いし、生理的に受け付けなくなったので俺は膝をどろどろに擦りながら縋り付いてくる女を思い切り蹴飛ばして打ち棄てた。
女は本当に俺を愛していたというより、俺への怨恨による復讐から自殺したんだ。
しかも切腹したあとにワレの腹を引き裂いて。
そしてその腹には、何故か死んだはずの胎児がおったというから気色悪いにも程がある。
実は女は堕ろすといって堕ろしていなかったのだろうか。
松井冬子 「浄相の持続」
真相は藪の中、神のみぞ知る、だから俺は、ゆうたら女だけの無念を背負っておらず、胎児の無念をも同時に負ぶっているわけである。
水子の霊をいつでも抱え込み、時には肩に載せ、肩に担ぎ、「抱っこやなくて負んぶがええ」ゆうたらば「あ、さいでっか・・・坊っちゃん、石みたいに重いでんなあ」と言いながら負んぶしてやらねばならなくなったのである。
すると頭を思いきしどつかれ、「ぼくは女や」とこないゆうのだ。
かなん女童(めのわらわ)やで、ほんま。
まあ、前世の俺が悪かってんやけどなあっ。女は怖いな、ほんま。
だから今度は女の恐ろしさっちゅうもんを、我が身で知りたくて女に転生してきたわけもある。
女はほんま、恐ろしい。なんで恐ろしいかというと、そこには必ず「嫉妬、死、水子」の恐ろしさが係ってくるからである。
多くの女は男より、繊細で弱く、また感情を大事とする純粋な存在である。
それは胎児の繊細さ、弱さ、道理よりも感情で生きる無垢で純一無雑さがよく似ている気がする。
母親とその腹ン中の胎児は、二人で一つなのである。
その二人が死んだ悲痛な無念を、いったい俺はどうやって拭い去ることができるのであろう。
どうやったらその痛みと、苦しみと、悲しみと嫉妬のような宿怨を、俺の手で浚(さら)うことができるのか。
しかしそこには必ず、「死」が俺を冷たいけんもほろろな眼差しで見つめつづけているのである。
それが、死んだ母親と胎児の念がひとつの魂となって、俺がどこにも逃げることを叶わせない呪縛なのである。
もちろん呪縛を懸けるほうも、同じ負荷を自ら懸けている。
その為、この俺が、母親と胎児の無念を忘れる一時も赦されない。
俺はある丑三つ時に、煙草と酒が切れたので、いつものように自販機に買いに外へ出た。
動くことの嫌いな俺は美味い酒の余韻も相俟(あいま)って、今日に限ってはすこし遠くまで散歩がてらに行ってこましたろうと思い、隣町まで歩いていった。
小さな川の橋の袂(たもと)にあった、自販機の前で煙草を選んでいると、なまあたたかい風が俺の襟首のところから這入りこみ、背骨をすうっと撫でられた気がした。
俺は人の気配を感じて、振り返った。
すると橋の上に、一人の髪の長い女が何かを抱えて後姿で立っていた。
月岡芳年 「幽霊之図 うぶめ」
俺は一瞬ゾッとしたが、どうやら女が抱いているのは乳呑み児で、その身体を揺らしながらあやしている様子であった。真夜中に夜泣きが収まらずに抱いて外に出てきたのであろうか。
ぼんやりと見つめていると、女は俺の視線に気づいたようで、俺を振り向いた。
そのとき俺は青白い女の顔が、自分の母親の顔に似ているように見えたのだった。
女はほっとした顔をして俺に近づいてきてか細い声でこう言った。
「これはこれは旦那はん、なんという奇遇でありますやろ。あたくしちょうど今、はなはだ困り果てておったんです。ほら、この赤ん坊を見てくださいまし。どうにも様子が変でしょう。お乳も呑まなければ声も上げませんの。この道をあと一里も歩けば、お医者さんがいるんです。でもこの赤ん坊が重くてあたくしは疲れてしまったものですから、誰か預かってくれる御人を探しておったんですの」
俺はそんなことならと、酔った気前でこう言った。
「ほなこないしましょう。俺が今からこの携帯で、救急車を呼んであげまっさかい、御安心なされ。ものの指折り二百数えるまでには着くでっしゃろう」
すると女は首を振って嫌がり、俺の腕を掴んで言った。
「この赤ん坊は乗り物が大嫌いで、こないだ乗せたときなんかは、泡を吹いて青い蟹のようになってしまったんです。だからあたくしは歩いてお医者さんを呼んできますので、そないだだけでもどうかこの赤ん坊を抱いていてほしいのです」
俺は困って、次はこう言ってみた。
「ほなこういうのはどうでっしゃろな、俺があんたさんの代わりに走って医者を呼んできまっさかいに、医者の家の場所を詳しく教えてください」
女は今度は駄々を捏ねる娘のように嫌々な動作で身体全体をくねらせてから言った。
「それでもし、旦那はんが間違ったり、迷って帰らないことがありましたら、あたくしがいつまで待っていればよろしいのかわかりまへんですこって。やっぱりここは、あたくしが行って、お医者様を連れてこないとあきまへん。どうか厚い御礼を後でいたしますので、御頼申します」
「したら、こないしたらどうですやろな。俺が赤ん坊を抱いて、あんたさんの横を着いていきましたらええんちゃいますんか」
女は俺の目をいさめるようにじっと見つめて言った。
「この赤ん坊はそないに長い時間旦那はんの歩く振動に揺られましたなんだら、きっとまた青い蟹になってしまいますよってに」
俺はそこまで言われたら、もう断るのもしんどかったので、しかたなく引き受けることにした。
「そこまで言わはるならしゃあないですな、ほな俺があんたさんの赤ん坊を預かっておきまっさけ、気ィつけて医者を連れて帰ってきてくらはい」
女は薄く微笑むと俺に赤ん坊を抱かせた。
抱いた赤ん坊の様子は確かに普通ではなく、まだあたたかくはあったが変に静かで息もまともにできているのかすらよくわからなかった。
俺が赤ん坊に気を取られているうちに、女は音もなく其の場から立ち去り、言っていた道の方角を見ても女の後姿は見えなかった。
その瞬間、俺の背筋をぞわっとさせる話が頭をよぎり、もう少しで小便をもらしかけたが、なんとか大丈夫だった。
俺の脳裡によぎったのは「産女(うぶめ)」という腹ン中に子を宿したまま共に死んでしまった母親と赤ん坊の幽霊か妖怪の話である。
もしあの女が、うぶめであった場合、この抱かされた赤ん坊は徐々に石のように重たくなっていき、俺の身体は重さに耐えかねて抱きつづけることができなくなるであろう。
しかしそこで赤ん坊を降ろしてしまうなら、うぶめはその者を殺してしまうと言われている。
俺は恐怖に慄きながらも抱いている小さな未熟児のような赤ん坊の口に人差し指を持っていくと、赤ん坊はそれを母親の乳首だと想って吸いつきだした。
俺は恐怖と愛情という相反なものが交じり合う錯綜する想いに囚われた。
あの女はそれにしても、俺の母親の写真によく似ていた。
母親は俺を産んですぐに死んじまったが、まさかその母親が、未練の深さから未だに赤ん坊の俺を抱きつづけているなんてことなどないであろうな。
俺は母親の記憶がなく、写真で観る母親をしか知らない。
この赤ん坊がもし、俺自身だった場合、いったい赤ん坊である俺を抱いている俺は誰なのか。
兎に角、あの母親が無事に俺のところに戻ってきて、俺を抱いて安心する時をここで俺は赤ん坊の俺と待っていなくてはならない。
一体いつ、戻ってくるのか・・・・・・。
俺は生きているはずなのに、なんでこいつは水子になったのか。
それとも、俺も、実は母親と共に死んでしまったとでもいうのであろうか。
確かにずっと、生きている感覚がない・・・。
赤ん坊は時間が経つごとに、母親に置いていかれたその無念の重さが、俺の腕に苦しく圧し掛かってくるのであった。
相手は誰か知らんが俺に恨み言がある人間のようで俺のプライバシーを勝手に覗いて嘲笑っていたので俺が相手を呪ったのだ。
相手は若い弱々しい男に想えたが、実のところ女の化身かもしれん。
俺は夢ン中だけでなく、現実でも何度かぶち切れるとやくざのような人格になることがままあった。
そのとき俺は何者かに乗り移られてでもいるかのように人格がころっと代わり、自分でもあとでそら恐ろしくなるのである。
それに俺はやくざもんの人間に妙な親しみを感じる。
これは俺が前世でやくざもんの男だった可能性があると想うわけに至ることは何も可笑しいことではないではないか。
たぶん、俺は前世でやくざもんの男やった。やくざもんと言っても親分や兄貴と兄弟盃を交わすといったやくざではなく、もっとラフなただ働かん”ごろつき、ならず者、無頼漢”みたいな男で、特に女を弄んでは用がなくなれば溝(どぶ)へ打ち棄てていたような因果の深い男であった気がする。
これは単なる俺の第六感でなんとなくそう感じることであるが、まあ当りであろう。
だから「悲しみの男カイン」なんて長編(中編)小説も完結させられたに違いなく。
兎に角俺は前世で散々女を舐め腐って、女をモノのように扱っていたので、女の恨み、怨念、無念という因果を嫌でも負っている人間だから、今生では女の嫉妬や弱さ、そして異性との関係、性の問題に関して死にかけるほど苦労しているのだろう。
俺の業があんまり深いのは、それには女の無念が幾人分も係っているからに違いあるまい。
そうだもしかしたら俺は、前世で女を妊娠させ、即座に「堕ろせ、そやないとワレとは別れまっさ」などと言って女は泣く泣く腹の子を堕ろしたが、堕ろした途端、俺は女の存在が何かとてつもなく穢らわしい存在に思えて、また「堕ろせ」と言われてすんなり堕ろした女を心の底から軽蔑し、毛嫌いし、生理的に受け付けなくなったので俺は膝をどろどろに擦りながら縋り付いてくる女を思い切り蹴飛ばして打ち棄てた。
女は本当に俺を愛していたというより、俺への怨恨による復讐から自殺したんだ。
しかも切腹したあとにワレの腹を引き裂いて。
そしてその腹には、何故か死んだはずの胎児がおったというから気色悪いにも程がある。
実は女は堕ろすといって堕ろしていなかったのだろうか。
松井冬子 「浄相の持続」
真相は藪の中、神のみぞ知る、だから俺は、ゆうたら女だけの無念を背負っておらず、胎児の無念をも同時に負ぶっているわけである。
水子の霊をいつでも抱え込み、時には肩に載せ、肩に担ぎ、「抱っこやなくて負んぶがええ」ゆうたらば「あ、さいでっか・・・坊っちゃん、石みたいに重いでんなあ」と言いながら負んぶしてやらねばならなくなったのである。
すると頭を思いきしどつかれ、「ぼくは女や」とこないゆうのだ。
かなん女童(めのわらわ)やで、ほんま。
まあ、前世の俺が悪かってんやけどなあっ。女は怖いな、ほんま。
だから今度は女の恐ろしさっちゅうもんを、我が身で知りたくて女に転生してきたわけもある。
女はほんま、恐ろしい。なんで恐ろしいかというと、そこには必ず「嫉妬、死、水子」の恐ろしさが係ってくるからである。
多くの女は男より、繊細で弱く、また感情を大事とする純粋な存在である。
それは胎児の繊細さ、弱さ、道理よりも感情で生きる無垢で純一無雑さがよく似ている気がする。
母親とその腹ン中の胎児は、二人で一つなのである。
その二人が死んだ悲痛な無念を、いったい俺はどうやって拭い去ることができるのであろう。
どうやったらその痛みと、苦しみと、悲しみと嫉妬のような宿怨を、俺の手で浚(さら)うことができるのか。
しかしそこには必ず、「死」が俺を冷たいけんもほろろな眼差しで見つめつづけているのである。
それが、死んだ母親と胎児の念がひとつの魂となって、俺がどこにも逃げることを叶わせない呪縛なのである。
もちろん呪縛を懸けるほうも、同じ負荷を自ら懸けている。
その為、この俺が、母親と胎児の無念を忘れる一時も赦されない。
俺はある丑三つ時に、煙草と酒が切れたので、いつものように自販機に買いに外へ出た。
動くことの嫌いな俺は美味い酒の余韻も相俟(あいま)って、今日に限ってはすこし遠くまで散歩がてらに行ってこましたろうと思い、隣町まで歩いていった。
小さな川の橋の袂(たもと)にあった、自販機の前で煙草を選んでいると、なまあたたかい風が俺の襟首のところから這入りこみ、背骨をすうっと撫でられた気がした。
俺は人の気配を感じて、振り返った。
すると橋の上に、一人の髪の長い女が何かを抱えて後姿で立っていた。
月岡芳年 「幽霊之図 うぶめ」
俺は一瞬ゾッとしたが、どうやら女が抱いているのは乳呑み児で、その身体を揺らしながらあやしている様子であった。真夜中に夜泣きが収まらずに抱いて外に出てきたのであろうか。
ぼんやりと見つめていると、女は俺の視線に気づいたようで、俺を振り向いた。
そのとき俺は青白い女の顔が、自分の母親の顔に似ているように見えたのだった。
女はほっとした顔をして俺に近づいてきてか細い声でこう言った。
「これはこれは旦那はん、なんという奇遇でありますやろ。あたくしちょうど今、はなはだ困り果てておったんです。ほら、この赤ん坊を見てくださいまし。どうにも様子が変でしょう。お乳も呑まなければ声も上げませんの。この道をあと一里も歩けば、お医者さんがいるんです。でもこの赤ん坊が重くてあたくしは疲れてしまったものですから、誰か預かってくれる御人を探しておったんですの」
俺はそんなことならと、酔った気前でこう言った。
「ほなこないしましょう。俺が今からこの携帯で、救急車を呼んであげまっさかい、御安心なされ。ものの指折り二百数えるまでには着くでっしゃろう」
すると女は首を振って嫌がり、俺の腕を掴んで言った。
「この赤ん坊は乗り物が大嫌いで、こないだ乗せたときなんかは、泡を吹いて青い蟹のようになってしまったんです。だからあたくしは歩いてお医者さんを呼んできますので、そないだだけでもどうかこの赤ん坊を抱いていてほしいのです」
俺は困って、次はこう言ってみた。
「ほなこういうのはどうでっしゃろな、俺があんたさんの代わりに走って医者を呼んできまっさかいに、医者の家の場所を詳しく教えてください」
女は今度は駄々を捏ねる娘のように嫌々な動作で身体全体をくねらせてから言った。
「それでもし、旦那はんが間違ったり、迷って帰らないことがありましたら、あたくしがいつまで待っていればよろしいのかわかりまへんですこって。やっぱりここは、あたくしが行って、お医者様を連れてこないとあきまへん。どうか厚い御礼を後でいたしますので、御頼申します」
「したら、こないしたらどうですやろな。俺が赤ん坊を抱いて、あんたさんの横を着いていきましたらええんちゃいますんか」
女は俺の目をいさめるようにじっと見つめて言った。
「この赤ん坊はそないに長い時間旦那はんの歩く振動に揺られましたなんだら、きっとまた青い蟹になってしまいますよってに」
俺はそこまで言われたら、もう断るのもしんどかったので、しかたなく引き受けることにした。
「そこまで言わはるならしゃあないですな、ほな俺があんたさんの赤ん坊を預かっておきまっさけ、気ィつけて医者を連れて帰ってきてくらはい」
女は薄く微笑むと俺に赤ん坊を抱かせた。
抱いた赤ん坊の様子は確かに普通ではなく、まだあたたかくはあったが変に静かで息もまともにできているのかすらよくわからなかった。
俺が赤ん坊に気を取られているうちに、女は音もなく其の場から立ち去り、言っていた道の方角を見ても女の後姿は見えなかった。
その瞬間、俺の背筋をぞわっとさせる話が頭をよぎり、もう少しで小便をもらしかけたが、なんとか大丈夫だった。
俺の脳裡によぎったのは「産女(うぶめ)」という腹ン中に子を宿したまま共に死んでしまった母親と赤ん坊の幽霊か妖怪の話である。
もしあの女が、うぶめであった場合、この抱かされた赤ん坊は徐々に石のように重たくなっていき、俺の身体は重さに耐えかねて抱きつづけることができなくなるであろう。
しかしそこで赤ん坊を降ろしてしまうなら、うぶめはその者を殺してしまうと言われている。
俺は恐怖に慄きながらも抱いている小さな未熟児のような赤ん坊の口に人差し指を持っていくと、赤ん坊はそれを母親の乳首だと想って吸いつきだした。
俺は恐怖と愛情という相反なものが交じり合う錯綜する想いに囚われた。
あの女はそれにしても、俺の母親の写真によく似ていた。
母親は俺を産んですぐに死んじまったが、まさかその母親が、未練の深さから未だに赤ん坊の俺を抱きつづけているなんてことなどないであろうな。
俺は母親の記憶がなく、写真で観る母親をしか知らない。
この赤ん坊がもし、俺自身だった場合、いったい赤ん坊である俺を抱いている俺は誰なのか。
兎に角、あの母親が無事に俺のところに戻ってきて、俺を抱いて安心する時をここで俺は赤ん坊の俺と待っていなくてはならない。
一体いつ、戻ってくるのか・・・・・・。
俺は生きているはずなのに、なんでこいつは水子になったのか。
それとも、俺も、実は母親と共に死んでしまったとでもいうのであろうか。
確かにずっと、生きている感覚がない・・・。
赤ん坊は時間が経つごとに、母親に置いていかれたその無念の重さが、俺の腕に苦しく圧し掛かってくるのであった。