「陸軍中野学校の光と影」を読む
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」379/通算810 2025/令和7年4/3 木曜】 3/31、多摩川の支流、二か領用水沿いの桜並木は満開、早朝から4月に小学生になる子供たちらが半ズボンにピカピカのランドセルを背負ってママさんや写真屋の記念撮影に応じていた。
1951/昭和26年生まれの小生の小学生時代はノンビリしていたものだが、競争社会が進んでいる今は学習塾などでの勉強や習い事があるから忙しい。子供に限らず中学、高校、大学、大学院、さらに職場での競争、ハイテクの日進月歩もあるから、ノンビリなんぞしていられないようだ。毎日が競争!どこでも戦争! 気の毒な感じがするが・・・
競争だから勝ったり負けたり、人生いろいろになる。「勝ち組、並、負け組から乞食までいるのが普通の国」と言ったのは山本夏彦翁だった。今の先進国は乞食を保護してカネを与えているから、乞食は反省しないどころか「当然の権利だ」と偉そうにしているよう。2009年頃に吉原遊郭のあった近くの「山谷」界隈に行ったら、朝っぱらから飲んだくれて道路で寝ている酔っ払いや、国の費用で頭蓋骨に穴をあけた手術をしたらしい頭の人がいて、なにやら魑魅魍魎、別世界の趣。夏彦翁もビックリだろう。
その一方で60歳、70歳あたりまで好きな仕事に就いて、リタイア後は退職金や年金などで悠々自適、面白おかしく暮らす人は、小生の先輩(月に手取り60万円以上)を含めて多いだろう。また、仕事は単純労働で面白くないし給与もパッとしないけれど好きな趣味を楽しみノンビリ暮らすとか、そういう多彩な生き方があっても良いだろう。
しかし、基本的に健康な身体髪膚の大人の人間、自立可能な一人前の国民は、「国家に頼る」のではなく「国家を支える」のが正当ではないのか、と小生は思うのである。小さな国の日本はそうやって強国、列強になっていったのだ。「大日本帝国」は一夜にしてならず、先人の努力のたまものである。
・・・・・・・・・・
このところスティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)を読み返している(2回目)。小生は編集者時代にときおり「書評」も書いていたから、ものすごいスピードで読むものの、書評を書き終えるとほとんど忘れてしまう。今振り返って思うに、ちっとも「読書が血肉になっていないよう」で情けない気分になることがある。しかし考えようによっては、リタイアした今は一気呵成に読む必要なんてないし、結果的に「何度読み返しても楽しめるのは結構なこと」かも知れない。
「陸軍中野学校の光と影」を訳した秋塲涼太氏・・・なんと2022年の日本語版上梓当時は36歳!という若さだった。著者のマルカード氏が英語版「The Shadow Warriors of Nakano: A History of The Imperial Japanese Army’s Elite Intelligence School」を上梓したのは2002年で、20年遅れての日本語版だが、秋塲氏の努力と芙蓉書房出版の熱意が実った作品と言える。
秋塲涼太氏のプロフィールは<あきばりょうた:1989年生まれ。本稿上梓の時は36歳。特殊作戦・低強度紛争(SO/LIC)個人研究家。米ミドルベリー国際大学院モントレー校大量破壊兵器不拡散・テロリズム研究修士課程修了。米国防総省ダニエル. K. イノウエアジア太平洋安全保障研究センターにて研修生として特殊作戦領域の研究等に従事。防衛省陸上自衛隊情報科勤務を経て、個人にて研究を継続中>
マルカード氏も凄い。元CIA情報分析官である。<1984年バージニア大学卒、1988年コロンビア大学国際公共政策大学院修士課程修了。在学中に日本語を習得。1991年に米中央情報局(CIA)に入局。東アジア情報の専門家に。2001年、CIAの学術雑誌でStudies in Intelligence Awardを受賞>
以下、「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」の前書きから以下引用する。
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1945年9月2日、アジアにおける第2次世界大戦が終結を迎えた。日本の降伏は、ダグラス・マッカーサー元帥をはじめとする連合国代表団を前に、降伏文書への署名をするという形がとられた。巨大戦艦ミズーリ上で行われたこの調印式は、日本の完敗を印象付けるため、効果的に計算された数百機もの米軍機が轟音をあげて上空を通過する中で執り行われた。日本が目論んだアジア圏全域に対する日本帝国の拡大は、灰と化した。
日本の大敗は、連合国の中でもヨーロッパ諸国にとって、アジア圏における彼らの帝国を取り戻す契機でもあるように見られた。米国はこの大戦の前にフィリピンの独立を約束するも、米国の同盟諸国はアジアにおける再支配を目論んでいた。結局のところ、ヨーロッパの強国が四世紀以上にわたってアジアを支配してきたのだ。
1498年にポルトガル人海洋探検家のヴァスコ・ダ・ガマがインドに到着してから、ヨーロッパ人はアジア圏のほぼ全域を征服、または実効支配していった。唯一、日本だけが西洋諸国への服従から逃れることに成功し、自身の帝国として強国と肩を並べたのだ。大戦初期のヒトラーの勝利に望みをかけ、日本の指導者たちは、英国、オランダ、フランス、米国を、それぞれのアジア圏植民地から立ち退かせるために参戦した。
第1次世界大戦では、日本は戦勝国に付き、ドイツ帝国の支配していた太平洋諸島を英国と分配した。しかし、第2次世界大戦では、敗戦国側に付くこととなる。この選択は「罪を犯すよりも愚かである」というフランス人政治家(*)の言葉を借りるのであれば、日本は過ちに加担したのだ。(*:シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、通称「ナポレオン3世」か)
敗北へと向かう最中ではあったが、大日本帝国はアジア圏におけるヨーロッパ支配の時代に終止符を打ったのだ。戦時下、日本軍は「アジア主義」という魔神の栓を開けてしまった。アジア人は西洋の植民地軍がアジア人の力によって一掃されるのを目の当たりにした。戦後のアジアで初めて指導者として台頭した民族主義者たちは、戦時中、日本と共闘する中でその力を体感した。彼らは、植民地の隷属に戻ることを拒むアジア主義に目覚めた民衆を統率した。戦争は、アジア全域において、民族主義という火種を、消し去ることのできない大火としてしまったのだ。
こうして戦後、英国、オランダ、フランスの各植民地再建は失敗に終わった。戦時中、インド大帝国を手中に収めていた英国は、1947年にインドの強い独立への要求を前に、亜大陸を諦めることとなった。1942年に日本に降伏したビルマは、1947年に英国から独立する道を選んだ。オランダはインドネシア軍等における再征服の失敗の後、1949年にインドネシアの独立を認めた。かつてのインドシナの帝国を取り戻すというフランスの野望は、1954年のディエンビエンフーの戦いでの敗北を機に消滅することとなった。
戦後、日本は先の大戦から復興し、再びアジアの大国としてその影響力を行使し始めた。1952年に日本へ主権が返還され、日本は貿易と援助を通じてアジアにおける影響力を行使し始めた。今日のアジアでは、日本はかつてのヨーロッパの支配者たちをはるかに凌駕する影響力を持つようになった。日本が戦時中に築き上げた帝国を失ってから長い年月がたった現在、アジア圏における日本の存在は、産業、商業、技術分野において非常に重要なものとなっている。政治的にも激しい争論となる軍事の分野でも特筆すべき点がある。それは日本が国連の平和維持活動への参加など、国際安全保障活動を通じて存在感を強めていることである。
開戦時の帝国陸軍内部には、西欧列強を東南アジア諸国から一掃するため、情報将校、コマンドー(勧善懲悪のヒーロー)として戦った軍人たちがいた。その多くは米英軍との戦いで戦死した。また戦後、ソビエトの捕虜となり命を落とした者もいた。一方で、生き残った者の中には、ソビエトとの冷戦の陰で米情報将校と共闘した者もいた。そして、日本を再建し、失われた領土取り戻し、日本の歴史を取り戻すために奔走した者もいた。
1931年、大日本帝国陸軍は宣戦布告のない戦争を中国に対して起こす一方で、ソ連に対する戦いへの備えをしていた。当時、情報任務に適した要員が不足しており、帝国陸軍は陸軍きっての秀才たちに、情報収集と隠密作戦の訓練を実施する機関の設立を命じた。翌年、198人の予備役で構成された選抜部隊が1年間の秘密訓練を開始した。時を同じくして、軍当局は首都郊外に隠密作戦を支援する研究機関を設立した。
この訓練期間はその頃には、東京都中野区の地にちなんで「中野学校」と称され、1945年の終戦を迎える夏に解体されるまでの間、帝国陸軍が誇る最高峰の情報専門家数十名によってよって2500人以上が訓練された。また、「中野学校の要員が必要とする秘密装備や特殊武器を開発するため、登戸研究所(*)と関連機関で数千人規模が動員された。(*:30年ほど前にはボロボロになっていたが建物は残っていた)
中野要員は、その才能を活かし、南米から南太平洋を股にかけて情報収集を行い、世界中で数えきれないほどの任務に従事していた。中には、インドや東南アジアでのヨーロッパの植民地支配を弱体化させるために隠密作戦を展開した者がいた。その一方で、ソ連の国境沿いで戦時下を過ごし、ソビエトの侵攻の兆候を監視していた者もいた。日本の傀儡(かいらい)帝国であった中国北東部の満州国では、共産ゲリラの討伐にあたる者もいた。他にもニューギニア、フィリピン、沖縄でコマンドーとして強襲に参加した要員らがいた。日本本土では、中野要員は国内反戦勢力への警戒警備を実施し、最終本土決戦へ備え、住民を遊撃戦補助要員として訓練した。
1945年8月、米国の原爆投下、ソビエト参戦を受け、日本が降伏を余儀なくされた後も、影の戦士たちの戦いは続いた。大戦末期、不運にも満州で赤軍に捕獲された中野要員は、ソビエト管轄の広大な収容所で捕虜として死を迎えた者もいる。1945年にソビエトの情報機関の捜査網にかかりながらも生き残った日本の情報将校達は、1956年になってようやく抑留から解放され日本へ帰国した。米国の情報機関は、進行する冷戦下において中野学校出身の退役軍人に目を向け、彼らの能力を利用しようとした。占領期間、さらには朝鮮戦争の間を通して、数多くの帝国陸軍の情報退役軍人らが米陸軍を支援した。
日本が主権を取り戻した後、戦後の自衛隊や警察の情報機能に対して才能を発揮した者がいた。戦時下の日本とパートナーを組んでいた国との関係を再構築するのに貢献した者もいた。例を挙げれば、1960年代のビルマで、中野学校の「OB」達は、戦前から日本の隠密作戦に参加していたビルマ指導者のネ・ウィンと日本との関係構築に貢献した。この他にも、失われた領土を取り戻す試みとして、米国からの沖縄奪還や、ロシアからの北方領土奪還への継続的な活動に従事していた。
中野学校の退役軍人達は、第2次世界大戦における日本の犯罪的侵略に対する連合国側の判決は、戦勝国の正義を貫くものだと主張している。日本の与党やマスコミの有力者とコネのある中野OB達は、第2次世界大戦の本質をめぐる議論を国民に投げかけていた。国内外のリベラル派の間では、依然として日本が侵略戦争という不法行為を行ったという判決に基づく見解が支持されている。しかし、この中野OB達が主張する見解が、日本国内の世論を大きく覆したのだった。
戦時中や戦後の活躍にも関わらず、こうした中野出身者の多くは影を潜めたままである。唯一世界で広く知られている人物が小野田寛郎(おのだひろお)少尉である。小野田は1974年にフィリピンのジャングルから生還し、世界の注目を集めた。日本では長年にわたって中野学校に関する数多くの記事や書籍が登場したが、それ以外の国では中野学校に関してほぼ公になることはなかった。これは、米国の戦略情報部(OSS)や英国の特殊作戦執行部(SOE)などに相当する日本の情報機関の活躍や史実が、世界のインテリジェンス史から完全に抜け落ちてしまっていることを意味する。インテリジェンスにとっての大きな痛手である。
この本を書いた目的の一つは、中野学校の歴史に光を当てることである。OSSやSOEに引けを取ることなく中野学校出身者たちは戦時下、そしてその後の日本に仕えた。彼らの歴史は語り継がれるに値するものだ。もう一つの目的は、米国やその他の国の読者に日本のインテリジェンス史についてより良い理解を持ってもらうことだ。日本が20世紀の大国の一つとしての地位を獲得したこと、またインテリジェンスにおける日本の非常に優れた能力の双方を考慮に入れると、日本のインテリジェンス史というものは、より注目すべきものである。この本がこうした理解を産むことに貢献できるとしたら、著者として非常に嬉しい。(以上)
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感動的な作品である。是非ご購読をお勧めする。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」379/通算810 2025/令和7年4/3 木曜】 3/31、多摩川の支流、二か領用水沿いの桜並木は満開、早朝から4月に小学生になる子供たちらが半ズボンにピカピカのランドセルを背負ってママさんや写真屋の記念撮影に応じていた。
1951/昭和26年生まれの小生の小学生時代はノンビリしていたものだが、競争社会が進んでいる今は学習塾などでの勉強や習い事があるから忙しい。子供に限らず中学、高校、大学、大学院、さらに職場での競争、ハイテクの日進月歩もあるから、ノンビリなんぞしていられないようだ。毎日が競争!どこでも戦争! 気の毒な感じがするが・・・
競争だから勝ったり負けたり、人生いろいろになる。「勝ち組、並、負け組から乞食までいるのが普通の国」と言ったのは山本夏彦翁だった。今の先進国は乞食を保護してカネを与えているから、乞食は反省しないどころか「当然の権利だ」と偉そうにしているよう。2009年頃に吉原遊郭のあった近くの「山谷」界隈に行ったら、朝っぱらから飲んだくれて道路で寝ている酔っ払いや、国の費用で頭蓋骨に穴をあけた手術をしたらしい頭の人がいて、なにやら魑魅魍魎、別世界の趣。夏彦翁もビックリだろう。
その一方で60歳、70歳あたりまで好きな仕事に就いて、リタイア後は退職金や年金などで悠々自適、面白おかしく暮らす人は、小生の先輩(月に手取り60万円以上)を含めて多いだろう。また、仕事は単純労働で面白くないし給与もパッとしないけれど好きな趣味を楽しみノンビリ暮らすとか、そういう多彩な生き方があっても良いだろう。
しかし、基本的に健康な身体髪膚の大人の人間、自立可能な一人前の国民は、「国家に頼る」のではなく「国家を支える」のが正当ではないのか、と小生は思うのである。小さな国の日本はそうやって強国、列強になっていったのだ。「大日本帝国」は一夜にしてならず、先人の努力のたまものである。
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このところスティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)を読み返している(2回目)。小生は編集者時代にときおり「書評」も書いていたから、ものすごいスピードで読むものの、書評を書き終えるとほとんど忘れてしまう。今振り返って思うに、ちっとも「読書が血肉になっていないよう」で情けない気分になることがある。しかし考えようによっては、リタイアした今は一気呵成に読む必要なんてないし、結果的に「何度読み返しても楽しめるのは結構なこと」かも知れない。
「陸軍中野学校の光と影」を訳した秋塲涼太氏・・・なんと2022年の日本語版上梓当時は36歳!という若さだった。著者のマルカード氏が英語版「The Shadow Warriors of Nakano: A History of The Imperial Japanese Army’s Elite Intelligence School」を上梓したのは2002年で、20年遅れての日本語版だが、秋塲氏の努力と芙蓉書房出版の熱意が実った作品と言える。
秋塲涼太氏のプロフィールは<あきばりょうた:1989年生まれ。本稿上梓の時は36歳。特殊作戦・低強度紛争(SO/LIC)個人研究家。米ミドルベリー国際大学院モントレー校大量破壊兵器不拡散・テロリズム研究修士課程修了。米国防総省ダニエル. K. イノウエアジア太平洋安全保障研究センターにて研修生として特殊作戦領域の研究等に従事。防衛省陸上自衛隊情報科勤務を経て、個人にて研究を継続中>
マルカード氏も凄い。元CIA情報分析官である。<1984年バージニア大学卒、1988年コロンビア大学国際公共政策大学院修士課程修了。在学中に日本語を習得。1991年に米中央情報局(CIA)に入局。東アジア情報の専門家に。2001年、CIAの学術雑誌でStudies in Intelligence Awardを受賞>
以下、「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」の前書きから以下引用する。
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1945年9月2日、アジアにおける第2次世界大戦が終結を迎えた。日本の降伏は、ダグラス・マッカーサー元帥をはじめとする連合国代表団を前に、降伏文書への署名をするという形がとられた。巨大戦艦ミズーリ上で行われたこの調印式は、日本の完敗を印象付けるため、効果的に計算された数百機もの米軍機が轟音をあげて上空を通過する中で執り行われた。日本が目論んだアジア圏全域に対する日本帝国の拡大は、灰と化した。
日本の大敗は、連合国の中でもヨーロッパ諸国にとって、アジア圏における彼らの帝国を取り戻す契機でもあるように見られた。米国はこの大戦の前にフィリピンの独立を約束するも、米国の同盟諸国はアジアにおける再支配を目論んでいた。結局のところ、ヨーロッパの強国が四世紀以上にわたってアジアを支配してきたのだ。
1498年にポルトガル人海洋探検家のヴァスコ・ダ・ガマがインドに到着してから、ヨーロッパ人はアジア圏のほぼ全域を征服、または実効支配していった。唯一、日本だけが西洋諸国への服従から逃れることに成功し、自身の帝国として強国と肩を並べたのだ。大戦初期のヒトラーの勝利に望みをかけ、日本の指導者たちは、英国、オランダ、フランス、米国を、それぞれのアジア圏植民地から立ち退かせるために参戦した。
第1次世界大戦では、日本は戦勝国に付き、ドイツ帝国の支配していた太平洋諸島を英国と分配した。しかし、第2次世界大戦では、敗戦国側に付くこととなる。この選択は「罪を犯すよりも愚かである」というフランス人政治家(*)の言葉を借りるのであれば、日本は過ちに加担したのだ。(*:シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、通称「ナポレオン3世」か)
敗北へと向かう最中ではあったが、大日本帝国はアジア圏におけるヨーロッパ支配の時代に終止符を打ったのだ。戦時下、日本軍は「アジア主義」という魔神の栓を開けてしまった。アジア人は西洋の植民地軍がアジア人の力によって一掃されるのを目の当たりにした。戦後のアジアで初めて指導者として台頭した民族主義者たちは、戦時中、日本と共闘する中でその力を体感した。彼らは、植民地の隷属に戻ることを拒むアジア主義に目覚めた民衆を統率した。戦争は、アジア全域において、民族主義という火種を、消し去ることのできない大火としてしまったのだ。
こうして戦後、英国、オランダ、フランスの各植民地再建は失敗に終わった。戦時中、インド大帝国を手中に収めていた英国は、1947年にインドの強い独立への要求を前に、亜大陸を諦めることとなった。1942年に日本に降伏したビルマは、1947年に英国から独立する道を選んだ。オランダはインドネシア軍等における再征服の失敗の後、1949年にインドネシアの独立を認めた。かつてのインドシナの帝国を取り戻すというフランスの野望は、1954年のディエンビエンフーの戦いでの敗北を機に消滅することとなった。
戦後、日本は先の大戦から復興し、再びアジアの大国としてその影響力を行使し始めた。1952年に日本へ主権が返還され、日本は貿易と援助を通じてアジアにおける影響力を行使し始めた。今日のアジアでは、日本はかつてのヨーロッパの支配者たちをはるかに凌駕する影響力を持つようになった。日本が戦時中に築き上げた帝国を失ってから長い年月がたった現在、アジア圏における日本の存在は、産業、商業、技術分野において非常に重要なものとなっている。政治的にも激しい争論となる軍事の分野でも特筆すべき点がある。それは日本が国連の平和維持活動への参加など、国際安全保障活動を通じて存在感を強めていることである。
開戦時の帝国陸軍内部には、西欧列強を東南アジア諸国から一掃するため、情報将校、コマンドー(勧善懲悪のヒーロー)として戦った軍人たちがいた。その多くは米英軍との戦いで戦死した。また戦後、ソビエトの捕虜となり命を落とした者もいた。一方で、生き残った者の中には、ソビエトとの冷戦の陰で米情報将校と共闘した者もいた。そして、日本を再建し、失われた領土取り戻し、日本の歴史を取り戻すために奔走した者もいた。
1931年、大日本帝国陸軍は宣戦布告のない戦争を中国に対して起こす一方で、ソ連に対する戦いへの備えをしていた。当時、情報任務に適した要員が不足しており、帝国陸軍は陸軍きっての秀才たちに、情報収集と隠密作戦の訓練を実施する機関の設立を命じた。翌年、198人の予備役で構成された選抜部隊が1年間の秘密訓練を開始した。時を同じくして、軍当局は首都郊外に隠密作戦を支援する研究機関を設立した。
この訓練期間はその頃には、東京都中野区の地にちなんで「中野学校」と称され、1945年の終戦を迎える夏に解体されるまでの間、帝国陸軍が誇る最高峰の情報専門家数十名によってよって2500人以上が訓練された。また、「中野学校の要員が必要とする秘密装備や特殊武器を開発するため、登戸研究所(*)と関連機関で数千人規模が動員された。(*:30年ほど前にはボロボロになっていたが建物は残っていた)
中野要員は、その才能を活かし、南米から南太平洋を股にかけて情報収集を行い、世界中で数えきれないほどの任務に従事していた。中には、インドや東南アジアでのヨーロッパの植民地支配を弱体化させるために隠密作戦を展開した者がいた。その一方で、ソ連の国境沿いで戦時下を過ごし、ソビエトの侵攻の兆候を監視していた者もいた。日本の傀儡(かいらい)帝国であった中国北東部の満州国では、共産ゲリラの討伐にあたる者もいた。他にもニューギニア、フィリピン、沖縄でコマンドーとして強襲に参加した要員らがいた。日本本土では、中野要員は国内反戦勢力への警戒警備を実施し、最終本土決戦へ備え、住民を遊撃戦補助要員として訓練した。
1945年8月、米国の原爆投下、ソビエト参戦を受け、日本が降伏を余儀なくされた後も、影の戦士たちの戦いは続いた。大戦末期、不運にも満州で赤軍に捕獲された中野要員は、ソビエト管轄の広大な収容所で捕虜として死を迎えた者もいる。1945年にソビエトの情報機関の捜査網にかかりながらも生き残った日本の情報将校達は、1956年になってようやく抑留から解放され日本へ帰国した。米国の情報機関は、進行する冷戦下において中野学校出身の退役軍人に目を向け、彼らの能力を利用しようとした。占領期間、さらには朝鮮戦争の間を通して、数多くの帝国陸軍の情報退役軍人らが米陸軍を支援した。
日本が主権を取り戻した後、戦後の自衛隊や警察の情報機能に対して才能を発揮した者がいた。戦時下の日本とパートナーを組んでいた国との関係を再構築するのに貢献した者もいた。例を挙げれば、1960年代のビルマで、中野学校の「OB」達は、戦前から日本の隠密作戦に参加していたビルマ指導者のネ・ウィンと日本との関係構築に貢献した。この他にも、失われた領土を取り戻す試みとして、米国からの沖縄奪還や、ロシアからの北方領土奪還への継続的な活動に従事していた。
中野学校の退役軍人達は、第2次世界大戦における日本の犯罪的侵略に対する連合国側の判決は、戦勝国の正義を貫くものだと主張している。日本の与党やマスコミの有力者とコネのある中野OB達は、第2次世界大戦の本質をめぐる議論を国民に投げかけていた。国内外のリベラル派の間では、依然として日本が侵略戦争という不法行為を行ったという判決に基づく見解が支持されている。しかし、この中野OB達が主張する見解が、日本国内の世論を大きく覆したのだった。
戦時中や戦後の活躍にも関わらず、こうした中野出身者の多くは影を潜めたままである。唯一世界で広く知られている人物が小野田寛郎(おのだひろお)少尉である。小野田は1974年にフィリピンのジャングルから生還し、世界の注目を集めた。日本では長年にわたって中野学校に関する数多くの記事や書籍が登場したが、それ以外の国では中野学校に関してほぼ公になることはなかった。これは、米国の戦略情報部(OSS)や英国の特殊作戦執行部(SOE)などに相当する日本の情報機関の活躍や史実が、世界のインテリジェンス史から完全に抜け落ちてしまっていることを意味する。インテリジェンスにとっての大きな痛手である。
この本を書いた目的の一つは、中野学校の歴史に光を当てることである。OSSやSOEに引けを取ることなく中野学校出身者たちは戦時下、そしてその後の日本に仕えた。彼らの歴史は語り継がれるに値するものだ。もう一つの目的は、米国やその他の国の読者に日本のインテリジェンス史についてより良い理解を持ってもらうことだ。日本が20世紀の大国の一つとしての地位を獲得したこと、またインテリジェンスにおける日本の非常に優れた能力の双方を考慮に入れると、日本のインテリジェンス史というものは、より注目すべきものである。この本がこうした理解を産むことに貢献できるとしたら、著者として非常に嬉しい。(以上)
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感動的な作品である。是非ご購読をお勧めする。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
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