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我らの内なる敵に警戒せよ

2024-02-26 08:02:45 | 戦争
我らの内なる敵に警戒せよ
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」272/通算703 2024(令和6)年2/26/月】天皇誕生日の23日からの3連休は氷雨のように寒かった。そう言えばメルマガ「頂門の一針」主宰者の渡部亮次郎氏は1月に88歳になったばかりだが、このところ紙面に“ナベシャン”の匂いが薄らいできた感じがする。単なる加齢のせいならいいが・・・ちょっと寂しいね。

カミサンガ2年ほど前にリタイアして家事をやってくれるので小生はのんびり、時に憑かれたように営繕に励んでいる。やれるうちが華か? ダイニングルームのペンキ塗りは22日で終了。正確には「当初目的完了」で、天井を含めて全部やるには2週間ほどかかるから、「心技体」が揃うまでは手を付けられない。「老人無理をすれば怪我の元」、脚立から落ちて骨折しかねないから焦りは禁物、“それでいいのだ!”と思っていた方が無難だな。

無理をしたり、油断をしたり、目先の利益に釣られたり・・・人間は大昔から成功(前進)と失敗(後退)を繰り返してきた。熊は餌を求めて里に下り駆除される、それを恐れて暫く山で暮らすが、餌が足りずにどうしようもなくなると里に下り駆除される。勢いがあるときは我が世の春だが、秋を越せばやがて冬。動物は皆そんなもののようだが、どういう訳か、人間だけは衣食住足りても満足せずに「もっと、もっと」と縄張りを拡大したがる。人間の世界は永遠に「浜の真砂は尽きるとも世に争いの種は尽きまじ」、まるで天罰のよう。

Wedge ONLINE 2024/2/19日、岡崎研究所の「『国外に脱出する』インド人と中国人 変わる“大国の条件”日本も他人事ではない!」から。
<2024/1/31のウォールストリートジャーナル紙(WSJ)で、同紙コラムニストのSadanand Dhume(サダナンド・デューム)は、「米国に不法入国してくるインド人や中国人がこの2~3年間に急増している。また、富裕層のインド人、中国人の合法的移住も多い。多くの人が逃げ出す事実は、両国を超大国の台頭と呼ぶにふさわしいか疑問を生む」と、こう問題提起している――

地政学の専門家は、今を「アジアの世紀」と表現する。中国とインドの経済的台頭が、500年にわたる西側諸国の優位に終止符を打つと考えている。しかし、中国とインドは、世界の移民の大部分を占めている。国の繁栄と安定が保証されているのであれば、なぜ高学歴者や富裕層を含む多くの人々が国外に出ようとするのか。
2023年度、インド人9万7000人、中国人5万3000人の不法入国者が見つかった。これは、21年度より、インド人は3倍以上、中国人は2倍以上である。

昨年、約5万5000人の中国人と約6万9000人のインド人が、卒業後1~2年の実務研修を受けて、米国での就職を目指した。インド人は現在、メキシコ人に次いで2番目に多い移民グループで、 中国人は3位。これらの移民パターンには、アジア世紀の信者が見落としがちな弱点がある。その一つは「富裕層」の流出だ。

繁栄している国は、通常、資本や人材を惹きつける。富裕層を流失させることはない。しかし、22年、中国は1万800人の億万長者を失っている。2位はロシアで8500人、インドは3位で7500人。
中国の場合、習近平が、民間部門を弾圧したことが大きな要因である。中国人は長い間、米国永住権を許可するEB-5投資家ビザを、どこの国より多く取得してきた。また、西側のパスポートは、中国において政治的混乱が再来した場合の保険である。

インドでは統治が行き届いていないことが、富裕層や高い教育を受けた人材を国外に流出させる。彼らは汚染された都市、税務当局による嫌がらせ、劣悪な公衆衛生プログラム、粗末な都市インフラから逃れたいのだ。昨年インド人は、EB-5投資家ビザを2番目に多く取得した。
これほど多くの中国人とインド人が超大国と目される両国から離脱している事実は、両国の台頭が果たしてどれだけ必然的であるか疑問を投げかけるものである。

以下は解説者の批評。【国を捨てる人たちはどう動くか】以上のデュームの指摘は、一国の発展を見る上でとても重要な視点である。一国の国力を判断する際、経済力や軍事力等のハードパワーは重要な要素ではあるも、同時に「思想・表現・宗教の自由があり、安心して生活できる国か」、「生まれに関係なく、頑張れば夢を実現できる公正・公平な社会であるか」等のソフト面も大切な要素である。正に、富裕層も含め国民が大挙して退避するような国を「世界の超大国」と呼ぶことが適切か、という疑問は、忘れてはならない視点だと思う。

デュームは、裕福な中国人が、ビザを得て中国を脱出する理由、即ち1)習近平が民間部門を取り締まったこと 2)習近平の強硬姿勢が国民を怯えさせていること等に触れている。不法入国中国人の場合、米国のテレビ報道等によると、概ね次のようである。
「ビザなし」で入国できるエクアドルまで空路で行き、車や徒歩、船などで中南米諸国を通って直線距離で約3700キロ離れた米国に向かう。これらの人たちの多くが中級クラス以上で、移動のために5000から1万ドルを払う。亡命理由は1)「中国の夢」という理念に幻滅した、2)自由が欲しい、ということに加え、3)イスラム教徒(ウイグル人)、キリスト教徒など宗教上の理由を挙げる人もいる。

インドに関しては、デユームは、インド人が脱出を図る理由として 1)汚染された都市、2)税務当局による嫌がらせ、3)劣悪な公衆衛生プログラム、4)粗悪な都市インフラ、などから逃れたいとの点を挙げている。これらに加え、カースト制度、ヒンズー教とイスラム教の対立といった問題もあると推測する。

【日本も考えるべき在留邦人の状況】中国人とインド人の海外脱出の増加は、日本にとっても他人事ではない。日本は深刻な人口減と労働力不足に直面しており、その対策の一環として、現在、技能実習制度と特定技能制度の改正に取り組んでいる。今年の通常国会で改正法案が審議される。また、AI関連技術者などの高度人材の受け入れにも取り組んでいる。向上心のある勤勉な外国人材(中国人、インド人を含む)を迎え入れることは、日本の将来にとって不可欠である。

この10年間で日本人の人口は381万人減少している。22年の1年間で75万人減少した。この人数は福井県の人口に相当する。毎年一つの県が消滅している規模の減少数になっている。2023年6月現在、日本に在留する外国人は322万人。中国人が1位で79万人、2位はベトナム人52万人、インドは4.6万人。
在留外国人は10年前より115万人増加し、日本人の減少分の約3分の1程度を補っている。また、23年10月現在、日本で働く外国人労働者は205万人であり、この10年間で約3倍増となっている。価値総合研究所の試算(2022年2月公表)では、2030年には約419万人の外国人労働者が必要と見込まれており、国を挙げての取組みが不可欠である>(以上)

冒頭で「2023年度、インド人9万7000人、中国人5万3000人の不法入国者が見つかった。これは、21年度より、インド人は3倍以上、中国人は2倍以上である」とあるが、これは米国への不法入国者なのか? WSJ紙では「毎年、何万人ものインド人や中国人が、命と手足を危険にさらして不法にアメリカに入国することを厭わない。2023年度、税関・国境警備局(CPB)の職員は、97,000人のインド人、53,000人の中国人の入国許可されていない外国人、つまり入国許可のない人々に遭遇した。これは、2021年に摘発されたインド人の3倍以上、中国人の2倍以上だ。CPBのデータによると、中国の数字は2024年には劇的に上昇する見込みだ」とある。
ネットメディアの質はピンからキリまでだが、岡崎研究所は故・岡崎久彦大使が設立した名門のシンクタンクだ。「外国メディアの論説の紹介とそれへのコメントを提供し、外交安保政策起案の元になる国際情勢分析」をモットーにするなら「丁寧な翻訳」にもっと気を配るべきだろう。

ところで米国への不法入国で摘発された者は「2023年度、インド人9万7000人、中国人5万3000人」とあるが、インド、中国とも人口は14億人、日本の10倍強だ。日本への不法移民はほとんどなく、多くは「不法滞在者」で、「不法に入国し、在留資格のないままその国に留まっている人、または、合法的な在留期間を過ぎ、在留資格を失った後もその国に留まっている人のことを言う」そうだ(国際協力NGOワールドビジョン・ジャパン)。

我が国の出入国在留管理庁によると令和5/2023年1月1日現在の日本における不法残留者数は7万491人もいる。単純な比較はできないが、米国へ不法入国するインド人9万7000人、中国人5万3000人は、印中それぞれの人口14億人から見ればインドは0.0000692%、中国は0.0000378%。ほとんどゼロのようなもので、印中の為政者はまったく気にしないだろう。
不法移民に“侵略”されている米国の人口は3億4000万人。「米国には2023年、過去最多の約250万人がメキシコ国境から不法に入国した」(産経2024/2/14)という。人口100万人あたり7353人の不法入国者! たまったものではない。

それに対して人口1億2000万人の日本での「不法残留者」は人口の0.0059%で、「人口100万人あたり5900人の不法残留者がいる」ことになる。我が町、川崎市は人口150万人程だから9000人近い不法残留者がいる勘定だ。

先進国では移民への対応は概ね「受け入れ賛成派」と「受け入れ反対派」に割れている。「受け入れ賛成派」は“国境をなくしたい”という地球市民≒リベラル≒共産主義信奉者や、儲かれば中露北やイスラム原理主義国とも取引したいという銭ゲバ信奉者が多いよう。不法移民に寛容だ。

かたや「受け入れ反対派」は“ご先祖様から受け継いだ自由民主人権法治=資本主義経済、努力すればそれなりに報われる社会”を良しとしている。不法移民については「自国から逃げ出す前に努力したり改革に励んだのか? それもせずに自由や生活保護を求めて先進国に不法入国するのはいかがなものか? もうウンザリ!」と否定的だ。一流の国、一人前の国は棚ぼたで今の体制になったのではない、血で血を洗う戦争に勝ったり負けたりしながら試行錯誤の末に今がある。

不法移民にどう対処すべきかという問題ひとつをとっても試行錯誤は今もなお続いている。いずこの国も難問山積、外敵、内敵もウジャウジャ・・・オツムをフル回転させて「解」を探していくしかない。シンドイけれどいつかは青空が見えるに違いない。
それにしても「投げたらそこで終わり」というけれど、ボケも進行しており隠居したい気分になることが多くなった。我らの内なるもうひとつの敵=脳みその劣化を防ぐ方法を調べてみよう。
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戦争の時代をどう生きる?

2024-02-18 17:37:22 | 戦争
戦争の時代をどう生きる?
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」271/通算702 2024(令和6)年2/18/日】2011年の「3.11東日本大震災」で津波が港の船を軽々と押し流す報道映像を見て、「もうこれ以上の事件や災難はないだろう」とテレビ(TV)を見なくなってから12年経った。
現役時代は忙しかったのでもともとTVはほとんど見なかったが、仕事ではCF(販促のための映像)は年に2本ほど創っていた。それで知ったのだが、TVのソフト=映像を創る人と、ハード=受像機を造る人はTV番組をほとんど見ないということ。
現場で映像を創るディレクター、スタジオで編集するオペレーター、それらを監督するプロデューサーなどは「TVはハードやソフトを作ってナンボ」という人々で、仕事はかなり過酷で残業や徹夜は当たり前の世界。リクルートに似ているが、1984年の頃に30歳くらいで年収1300万円という人は珍しくなかった。彼らは仕事を終えて帰宅しても一杯やりながらテレビ番組を見るという人はほとんどいないようで、懇意にしていたディレクターは「フェラーリを乗り回して優越感に浸ったり、ホラー映画(DVD)を借りてきて精神を癒している」と言っていた。なぜホラーなのか・・・何も考えないでも脳みそが刺激されてすっきりするからかもしれない。まるで一種のドラッグとか飲酒みたい・・・

東北大学の小学5~6年生調査ではテレビの視聴時間が長いと成績が落ちるらしい。 テレビを見ないで勉強している生徒がいるのだから当たり前の話だ。TVを見て頭が良くなったという話は聞かないが、現役を引退した老人を中心に「TVがないと生きていけない」ようなTV中毒患者は随分増えているよう。今はTVとスマホのW中毒!?
老眼だから・・・と読書をしない老人も増えていそうだが、それなら「良書」を精選して座右の書にしたらいい。その際、ベストセラーは避けた方が無難だ。明治以降のベストセラーで今も読み継がれているのは福翁の「学問のすゝめ」だけ。古典や教養・学問系の読書の習慣を身に着けると脳の劣化対策、ボケ防止にもなるだろうと小生は思っているが、ま、鰯の頭も信心から・・・人はそれぞれだが、それでいいのかどうか・・・

教育社会学者の松岡亮二・早稲田大学准教授の「教育格差」 (ちくま新書) にはこうある。
<人には無限の可能性がある。私はそう信じているし、一人ひとりが限りある時間の中で、どんな「生まれ」であっても、あらゆる選択肢を現実的に検討できる機会があればよいと思う。なぜ、そのように考えるのか。それは、この社会に、出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件(生まれ)によって教育機会の格差があるからだ。
この機会の多寡は、最終学歴に繋がり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり、20代前半でほぼ確定する学歴で、その後の人生が大きく制約される現実が日本にはあるのだ。(「はじめに」より)>

日本に限らず、先進国は皆似たようなものだろう。ざっくり言えば、良き家庭に生まれれば大学や大学院卒など高学歴でインテリの職業に就き概ね良き家庭を築く。その一方で貧しい中高卒の家庭に生まれれば学歴・知性が浅かったりして“並”や肉体労働の仕事に就き、収入にも余裕がないため、その子供も負の連鎖でそれなりの家庭を築くことになる――ということ。米国の「自殺と遺伝」調査では遺伝の影響も大きいというから、「学歴と遺伝」は似たような“人生因子”かも知れない。

松岡亮二氏はNHK教育サイト2020/7/3「新型コロナが突きつけた『教育格差』」でも警鐘を鳴らしている。以下抜粋すると――
<【コロナ禍により、教育現場ではさまざまな課題が指摘されていますが、なかでも懸念されるのが「教育格差」です。ただ、この「教育格差」という言葉は聞いたことがあっても、その詳細を知る人は少ないと思います。そこで、教育社会学者として長年、このテーマと向き合っている早稲田大学の松岡亮二准教授に、この「教育格差」について語ってもらいました】
◎教育格差って何? 「教育格差」は学習機会の有無や学力の高低のような結果の差ではなく、子ども本人に変えることができない初期条件である「生まれ」と結果に関連があることを意味します。
さまざまな「生まれ」がありますが、なかでも出身家庭の社会経済的地位(Socioeconomic Status,以下SES)と出身地域は主要な初期条件です。この「生まれ」によって、教育成果(学力や学歴など)に違いがあることを「教育格差」と呼びます。SESは文化的・経済的・社会的な要素を統合した概念で、親の学歴・世帯収入・職業などで構成されていて、高いほど子どもの教育にとって有利な条件といえます。
教育格差には、「みんなが同じ結果(点数・順位・学歴など)になればよい」という意味はありません。あくまでも出身家庭のSESや出身地域といった「生まれ」によって結果に差があることを指しています。
日本全体を対象とした調査のデータを分析すると、「生まれ」と学歴の関連は、多少の強弱の変動はありますが、すべての世代・性別において確認できます。たとえば、SESの主要な構成要素である「父親の学歴」を基準にすると、2015年時点の20代男性で「父親が大卒」層の80%が実際に大卒となりました。同じ20代男性で父親が大卒に満たない学歴で本人が大卒となったのは35%でした。
このように、父親が大卒かどうかといった粗い分類だけで浮き彫りになる結果の差は全世代・性別で確認されてきました。本人が変えることのできない「生まれ」によって人生の可能性が制限されている教育格差は、日本社会で育ったすべての人にとってひと事ではないのです。

身分の世襲は制度としては廃止されて久しいです。しかし「生まれ」によって教育成果である学歴に差があり、就業機会など社会において得られるさまざまな便益に格差がある実態は戦後も存在してきました。
具体的には、親が高学歴・高収入だと子が大卒になり、安定した正規雇用を得るという傾向があります。都市部で育つことも大学進学に有利なことが分かっています。「生まれ」が教育達成を介して職業や収入などと関連する以上、日本はいまだに「緩やかな身分社会」といえます。
もちろん、恵まれない家庭や地方出身でも社会的な成功を収める人たちはいますが、日本全体を対象とする調査から浮かび上がる全体の傾向として、「生まれ」によって人生の可能性が制限されてきた実態があるのです>(以上)

小生は、脳みそとガッツと金儲けに優れ女にモテた(女好きの)平民の父と、士族の家柄で俳句と書道を趣味として書道教室も開くなど面白おかしく&知的に暮らすのを良しとする母の間に生まれ、両親のDNAを塩梅良く引き継いだのだろう、大学まで行かせてもらった上に、好きなようにさせてくれたので運が良かった。自立心が旺盛だったから親に小遣いをもらうことなく家庭教師や郵便局のバイトなどでしのいでいたが、アカに染まって捕縛された末に、保釈金を払ってもらってシャバに戻ったのは痛恨の極みで、1年間家業を手伝って恩返ししたものだ。

松岡先生の「生まれによって人生は左右される」は概ねその通りだが、金太郎飴みたいに「みんな同じ」が良いわけではない。小生のようにチビで不細工な人もいれば、容姿端麗な美女美男もいる。欧州では1789年のフランス革命の頃「平等に憑かれた人々」が跋扈したそうだが、不自然な主義主張は結果的に激しい殺し合いになり、やがてはナポレオン独裁を招き戦争を招いてしまった。古人曰く「無理が通れば道理が引っ込む」、そこそこの「機会均等」あたりで良いのではないか。

世の中には「できる人」と「できない人」がいる。戦前の思想家・河上肇のように一世を風靡した「できる人」でもやがては「できない人」になったりするし、その逆にウダツの上がらなかった凡人がめきめき頭角を現すこともある。全盛期に「神輿は軽くてパーがいい」と偉そうに世間を睥睨していた人も晩年は鳴かず飛ばず・・・よくあるケースかも知れない。西日本新聞2024/2/16「永田健の時代ななめ読み 「『神輿(みこし)は軽くて』」の真実」から。曰く――
<海部俊樹元首相が亡くなった(1931/昭和6年 - 2022/令和4年、首相在任期間1989年8月 - 1991年11月)。湾岸戦争への対応に苦慮し、自民党の党内抗争に翻弄された首相だった。その海部氏を巡り、永田町には有名な伝説がある。海部氏が首相だった頃、竹下派の大幹部として自民党を牛耳っていた小沢一郎氏(現立憲民主党)が海部氏を評しこう言った。「神輿は軽くてパーがいい」>

尊大だなあと思うけれど、「勢いがあるときは言動を慎重に」「下り坂では大胆に出て再起を目指せ」という箴言はあってもよさそうだが、それを実践するのはとても難しそうだ。現実は艱難辛苦のときは大人しくし、上昇気流のときは偉そうにするのが人間のサガのようだが、現代版「おしん」(NHK朝ドラの最高傑作)のような方が今でもいると知ってびっくりした。矢野博丈・大創産業<ダイソー>創業者の「『100円の男』の哲学(21号、産経2024/2/6)」の「『仕方がない』 困難を受け止め、我慢する」は感動的だった。曰く、

<「仕方がない」は私の好きな言葉である。ただ、ポジティブな考えで頭を切り替えようという思いで出た言葉ではない。どうしようもない事態に直面したとき、私はあきらめの境地で「仕方がない、仕方がない」と自分に言い聞かせてきた。いつしかそれが転じて、「仕方がない、わしには運も能力もない。社員の方が偉いんじゃ」と事あるごとに自らを戒めるようになった。
困難に直面するのは、実は「成功の前触れ」ともいえる。野球選手がレギュラーを取るために“千本ノック”を受けるように、物事が好転するためには困難な経験を乗り越えねばならない。苦しさから逃げ出したい自分をなだめ、前向きにコツコツと頑張るしかない。「仕方がない」とつぶやくときは「もっと頑張れ」という神様からのシグナルと受け止めている>
我にも正義、彼にも正義、この世は正義と正義のぶつかり合いで「仕方がない」と思うことは日常茶飯事だが、そこで諦めずに明日を信じて頑張る、踏ん張る・・・矢野博丈氏のような同志がいるのだ、俺は孤立しているわけではない、と大いに勇気づけられた。

産経の「JAPAN Forward 日本を発信」2024/2/12「ウクライナでの戦争はいつまで続くのか」は内藤泰朗編集長の論稿。これにもパワーをもらった。小生は、1945年以降の戦後体制が連日震度5のように揺れており、明日が読みにくい、何となく不安、もしかしたらガチンコの第3次世界大戦が始まりそうな気配で、それにもかかわらず日本はつまらぬ内輪の政争で連日ドタバタ、あまりにも民度が低くてウンザリしているが、危機感を持っている“同志”を得た感じだ。以下転載する。

<ロシアがウクライナへの大規模な侵略を開始して2月24日で丸2年。戦争が3年目に突入するのを前に、さまざまな人から質問される。先日も、世界情勢に精通する欧米の外交官と直接、意見交換した際、いきなり「ロシアは欧州に攻め込むと思うか」と意見を求められた。この戦争が今後、何をもたらし、いつ、どのような形で終息するのか、世界は必死に探ろうとしているのだ。
手前味噌で恐縮だが、英語ニュース・オピニオンサイト、JAPAN Forward(JF)は、ロシア軍侵攻の3カ月余り前、「ロシアは2022(北京)冬季五輪に合わせてウクライナ東部に侵攻するだろう」と予測する記事を世界に発信した。本欄でもその後、「今冬、中露に最大警戒を」との見出しで、JFの記事を紹介し、警鐘を鳴らすコラムを掲載した。

ただ当時は、専門家のほとんどがロシア軍の大規模侵攻はないと踏んでいた。欧米への接近を図る同じスラブの兄弟国ウクライナに、ロシアが激しい憤りを抱いていることを、彼らは知っていたが、「ロシアが欧米と対立し、多くを失ってまでウクライナに軍事侵攻はしない」と考えていたからだ。
なぜ、そうならず、JFの予測が的中したのか―。欧米の合理的な判断による予測に対し、JFは、ロシアの多数派を占める民族主義的な保守が世界をどのようにとらえ、何をしたいのか、ロシア側の論理で推論した。プーチン露大統領に聞いたわけではない。
侵攻を予測しても、戦争の終息時期やロシアによる欧州侵攻の可能性については正直、見通せない。だから、先ほどの外交官の質問には、記者(内藤)がかつて本紙モスクワ特派員として10年以上駐在し、強く感じた以下のような不安を伝えた。

ロシアの民族主義者たちは、欧米によってつくられた現在の世界を誤りだと否定し、いずれ自壊するか、破壊されるべきだと考えている。それでも、世界最大の国土と資源を持つロシアは生き残り、世界の救世主として神の使命を果たすことになる―。
少なくとも、彼らはそう信じているのだ。第三次大戦を望んでいる人たちもいる。なぜなら、欧米中心の世界が破壊された後、ロシアが世界を牛耳ることになると思っているからだ。
こうした考え方をする人とは当然、議論がかみ合わない。欧米の合理的な考え方では、ロシアの行動は予測できないだろう。

ウクライナ人国際政治学者、グレンコ・アンドリー氏は、本紙への寄稿「最大の原因はプーチン氏にあらず」の中で、「ロシアを論じるうえでは、ロシア国民の中の帝国主義的な意識を無視してはならない」と指摘していた。その通りである・・・

2月19日には東京で、ウクライナ復興支援に向けた政府主催の会議が開かれる。ウクライナでの戦争は、いつ終わるのか、まだわからないが、必ずや終わるときがやってくる。
ウクライナ支援に積極的になれない国もあるが、支援しなければいずれウクライナは敗北を喫することになり、世界は新たな帝国主義の時代を迎える危険がある。日本は、その危険を世界に発信する拠点となることで、新帝国主義の勃興を阻止しなければならない。JFは、日本の動向を世界に伝えていきたい>(以上)

たとえ蟷螂の斧であっても千匹、万匹、一億匹となれば獰猛なクマも逃げ出すだろう。安西先生曰く「諦めたらそこで終わり」、同志諸君、中露北や我らの内なる敵を、それぞれの“武器”で叩くべし。国家として軍事力の強化をさらに進めるのは当然だが、不買運動、貿易縮小、進出企業の撤退、旅行自粛など民間でもできることはある。同志諸君、戦争は始まっているのだ、歯を食いしばって頑張ろう!
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我が師「小塚光治先生」の生涯(2)

2024-02-13 11:37:23 | 戦争
我が師「小塚光治先生」の生涯(2)
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」270/通算701 2024(令和6)年2/13/火】このところ終活で忙しい。父の形見の大きな金庫は開け方を忘れてここ5年ほど閉じたままだが、暗号数字の記憶を頼りに2時間かけてようやく開けゴマ! 2度とロックできないようにした。大体、金庫に隠すほどのカネや貴金属がないのだから、カミサンの酒蔵にした方が余程いい。並行してキッチンのブラインド掃除。随分汚れていたが、造りがとても柔(やわ)なので4時間かけてマジックリン・ハンディスプレーでそーっと掃除し、かなり綺麗になった。

整理整頓やこまめの掃除、修理・・・分かっちゃいるけど人は安きに流れるから、切羽詰まらないと腰を上げない、危機にならないと動かない。これまでも、これからもそうなのだ。「艱難汝を玉にす」、ひどい目に遭って初めて反省する、反省してもそのうち忘れる・・・危機を肝に銘じたタフな人がリーダーになるが、それもいつかは消滅する。諸行無常、盛者必滅の理、ま、それでいいのだ、そういうものだ、と割り切った方がラクチンだが、有事、災難に備えてシェルターとか別荘とかキャッシュとか、そこそこの備蓄は必要なのかも知れない。子曰く「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」、それくらい難しい事、悩ましい話だ。考えただけで頭が痛くなるからみんな何もしない?・・・笑うしかないな。

承前。小塚光治先生の「やさしい川崎の歴史」第5版(1990年発行)を読み始めたら、小生が知らなかった「もう一人の小塚光治先生」が縦横無尽に「志」「主張」「歴史観」を唱えていてびっくりした――と前回書いた。その背景には川崎市の地政学的な歴史があり、ちょっと長いが説明しておきたい。

東京と神奈川県の間を流れる多摩川。今は橋の中央に「←神奈川県 東京都→」と看板が出ており、両岸には頑丈な土手が築かれているが、それ以前は日本有数の「暴れ川」だった。国土交通省・関東地方整備局によると――
<多摩川は江戸時代から周辺に多くの人が住むようになり、洪水の被害も大きくなっていった。多摩川は本来「あばれ川」だったのだ。急勾配の川で、洪水時の流れが強く、その強い流れとともにたくさんの砂利が混ざって流れてくるので河岸が削られやすい。最近ではめったに大きな洪水は来ないから良いようなものの、もし来てしまったら、実際ひとたまりもない>

暴れ川・・・1958年の台風で多摩川支流の二か領用水が氾濫して7歳の小生は避難する際に深みにはまって溺れかけたが、中学生の頃でも自宅のすぐ近くに沼地があった。今でもその先には平地から3メートルほど高いところに不自然な道があり、何だろうと思っていたのだが、ナント昔の土手だったのだ。大雨になると多摩川は「ここまで来ていたのか!」とビックリ。鎌倉時代の1232年に堤防破壊の記録あるから人々は1000年以上も氾濫に苦しんでいたわけだ。1911/明治44年に地元の人々が多摩川の堤防強化につながる工事を帝国議会に請願、翌年4月に法が施行された。これが明治帝による最後の仕事のようで、この年の7月30日に崩御された。小塚光治先生はこう記している。

<1912/明治45年9月14日、天皇の御霊柩が京都に送られ、お召列車が東海道を下りました。大勢の川崎町民が悲しみのうちに見送りました。明治に生まれ育ち、明治国家の発展とともに生きてきた人々にとって、明治天皇はオールドニッポンの代表者であり、心の支えでもありました。そして時代は、これまでと違って、民衆の自覚が歴史を動かすようになり、新しい大正の時代を迎えることになりました。

【政党内閣を作る運動】 このころから新しい動きが内外で起こり始めていたのです。明治時代の日本の政治は藩閥や官僚と言われる一握りの元老によって行われたことに国民の不満がだんだん高まっていきました。そして大正元年から2年にかけて、憲政擁護運動が尾崎幸雄たちによって進められました。世論の支持を受けないで作られた内閣に反対する6000人もの人々が議事堂を取り巻いてデモを行い、このため内閣はついに倒れたのです。これは「大正政変」と呼ばれ、民衆や世論の力が政治を動かすようになった点が注目され始めました。

【第一次世界大戦と日本】 19世紀(1800年代)の終わりころからヨーロッパの国々は盛んに植民地を支配しようとしていたので、大国同士が鋭く対立し、ちょっとしたきっかけですぐに爆発するような危険状態でありました。
1914/大正3年6月、バルカン半島のサラエボでオーストリアの皇太子がセルビアの青年に暗殺されたことから、ヨーロッパ全体が戦争に巻き込まれ「第1次世界大戦」が始まったのです。
大戦が起こると日本はイギリスと同盟を結んでいたことや、中国に進出する考えがあったので、連合国側を支持し戦争に参加しました。そしてドイツが根拠地にしていた中国の青島(チンタオ)やドイツ領南洋諸島を占領しました。
これをきっかけに日本の指導者は1915/大正4年1月、「21カ条の要求」を中国に突き付け、いろいろな権益を認めさせようとしました。中国は強く反対しましたが、やむなく受け入れました。しかし中国の人たちはこの5月7日を「国恥記念日」として、いたるところで排日運動を進めるようになりました。

【戦争景気】 日本は第一次世界大戦に加わりましたが、ヨーロッパの国々と違って、あまり大した戦争をしませんでした。しかも、各国からの軍需品の注文がたくさん来たので、工業や貿易がすごい勢いで伸び始め、日本中は戦争景気に浮かれ、にわか成金がたくさん現れました。
しかし労働者の生活は少しも良くならず、ロシアでは1917/大正6年、労働者・農民たちが革命を起こし、民衆の生活を苦しめてきたロマノフ王朝を倒し、共産主義政府を作りました。
日本はこの革命をつぶすために、イギリスやアメリカとともに1918/大正7年、シベリアに出兵しましたが、うち続く戦争のために物価は大変値上がりし、特に商人の買い占めでコメの値段は毎日のように上がったので、人々の生活は苦しくなりました。1918/大正7年8月、富山県の漁村の主婦が起こしたコメの安売りの要求をきっかけに米騒動は全国的に広がり、日本中を揺り動かしました。
このため内閣は倒れ、代わりに政友会の原敬が新しい首相になりました。これは日本で初めての政党内閣で、また、世間は彼を「平民宰相」と呼びました・・・>(以上で引用終わり)

1917/大正6年の「ロシア革命」・・・遡れば1904/明治37年2月~1905年9月の日露戦争(満洲/中国東北部と朝鮮半島の支配権を巡る戦争)で新興の日本に敗けた(勝てなかった)老舗のロマノフ王朝は弱体化していくばかりになった。
<不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、対日戦敗北を機に極東への南下政策をもとにした侵略を断念した。南下の矛先は再びバルカン半島に向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。
このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの進出を要求するオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。また、戦時中の国民生活の窮乏により「血の日曜日事件」や「戦艦ポチョムキンの叛乱」などより「ロシア第1革命」が発生することになる>(WIKI)

かくしてレーニン、トロツキー、スターリンらによる1917/大正6年の「ロシア第2革命」でロマノフ王朝は抹殺され、内戦を経て世界初の「マルクス流共産主義国家」ソ連が誕生する。当時の先進国のインテリはこの共産主義革命に欣喜雀躍、日本では「大正デモクラシー」の起爆剤になった。
<「大正デモクラシー」は、その定義内容はいろいろだが、いずれも(清朝を倒した中国の)辛亥革命から(共産主義を警戒する日本の)治安維持法制定までの時期を中心として、1917/大正6年のロシア革命や、1918/大正7年のドイツ革命、米騒動を民主化運動の中核と見なす点においては共通している。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である>(WIKI)

大正デモクラシーは日本では実に多くの「マルクスボーイ」を産み育てた。小塚光治先生も「共産主義こそ正義、最高の政治形態」とのめり込んでいったようだが、当時の先進国のインテリは皆似たようなものだった。米国が「ソ連は危険だ、世界を共産主義化しようとしている、このままでは自由民主国は乗っ取られる、レッドパージ、アカ狩りすべし、冷戦だ!」と目覚めたのは終戦から5年後の1950年からである。米国占領下の日本でも共産党員は解雇され、アカと認識されたインテリは公職追放された。共産主義国家を目指していた日本社会党でさえGHQには逆らえず、非武装中立と日本労働組合総評議会(総評)の結成でレッドパージを進めた。これ以降、日米を含めた先進国の共産主義者は「社会主義者」と唱えるようになったが、暴力革命を放棄しただけで「平等・バラマキ福祉」を良しとする中身は今の“立憲共産党”でも大して変わってはいない。

そう言えば最近、思い出したのだが、小塚光治先生は1965年あたりに川崎市の市長選か市議会選で社会党から立候補するつもりだったが、党の支持を得られず無所属として出馬し、党から除名されたらしい。純粋に共産主義革命を絶対善として目指す小塚光治先生は穏健路線の社会党主流派にとっては“異端の教条主義者、時代錯誤のやっかい者、危険人物”に見えたのかも知れない。

川崎市麻生区の地域情報紙「メディ・あさお」(2018/11/25)がコロナ禍で商売あがったりでバックナンバー紹介をしているが、1959/昭和34/12/1号で小塚光治先生の言をこう紹介している。
「多摩文化学園は子供のすぐれた特色、天分を尊重し、充分の実力を養い、あわせて精神教育も重視して有為の人材を養成するために生まれました」

その後、別の記事「桐光学園創立者の原点『多摩文化学園』」で記者は「多摩文化学園は教育者としてすぐれた業績を持つ小塚光治氏の永年の念願が具体化したといえるもので小、中、高校生の学習を指導補習」「場所は宿河原駅前の浴場ぎわで、三教室と事務室からなる採光の完備した近代的校舎」などと、こう紹介している。
<「多摩文化学園は今の桐光学園につながる、小塚光治の夢と目標が感じられる言葉ですね」と現理事長の小塚良雄さん(小塚光治氏の養子)。「創立者(小塚光治氏)は19歳で教壇に立ち、先の大戦で召集されたものの『自分のやるべき生き方ではない』と戦闘に加わることを拒否。戦後高校教師、大学講師、県議などを務めるうちに自分の学校を作るという思いを強くしていきました」

実際には「多摩文化学園」ではなく、中学生対象の英語・数学に特化した私塾「多摩英数学院」として開設。「私塾では『学園』と名乗れない、また明確に内容を打ち出した方がいい、ということで名称を変えたようです。私も生徒として授業を受けましたが、吉田松陰の松下村塾のように、次代を動かせる人材を輩出したいと熱く語っていました」

現在の「みどり幼稚園」はこの塾を改装して1965年に開設。1972年には「学校法人桐光学園」を設立し「寺尾みどり幼稚園」を開園、1978年には栗木の地に高校、中学(桐光学園中学校・高等学校)、小学校も開校し、念願の一貫教育を実現した。小塚良雄さんはこう振り返る。「小塚光治が私塾開設から貫いた思いは校訓の一つ『天を敬い世の一隅を照らす』に込められています」>(以上)

この記事で小生が気になったのは小塚光治先生が「先の大戦で召集されたものの『自分のやるべき生き方ではない』と戦闘に加わることを拒否」ということ。WIKIにはこうあった。
<徴兵制のあった戦前日本の「兵役法」によれば、兵役を免れるために逃亡し、または身体を毀傷し、詐病、その他詐りの行為をなす者は3年以下の懲役。現役兵として入営すべき者が正当の事由なく入営の期日から10日を過ぎた場合は6月以下の禁錮。戦時は5日を過ぎた場合に1年以下の禁錮。正当の事由なく徴兵検査を受けない者は100円以下の罰金に処せられる(74条以下)と規定されていた。敗戦後のポツダム命令により兵役法は1945/昭和20年11月17日をもって廃止された>

体が弱い、病気がち、とかなら兵役免除になるのだろうが、小塚光治先生のような優秀なアカは確信犯的に兵役を拒否するだろう。そのマインドはこうである。
「帝国主義国家は支配階級の利益のために版図拡大を目指して民を徴発し戦争を繰り返している。その一方で世界は人民の人民のための人民による『戦争なき世界』を目指して共産主義革命へ向かっている。諸悪の根源、帝国主義による戦争に駆りだされて死傷するくらいなら、兵役を拒否し、共産主義社会実現のために命を保存すべし」

しかし、大東亜戦争で日本が完敗し赤色革命の好機が到来したものの、アカ勢力は1950年には「レッドパージ」で大打撃を受け、さらに1960年代は高度成長で民の暮らしは向上、1970年代には共産主義はすっかり「科学から空想」になってしまった。吶喊小僧の小生も独房で学ぶうちに共産主義の洗脳から少しづつ離れていき、今ではすっかり反共孤老になった。晩年の小塚光治先生の座右の言葉は「克己・気力・誠・奉仕・敬天」だったよう。

共産主義は「一度アカ、一生アカ」が普通のピラミッド型階級制世界である。党員はエリートであり、幹部となれば殿上人だ。一方で庶民はほとんど家畜、奴隷で、24時間365日監視され、生殺与奪を党にしっかり握られている。この異常で狂気的な世界から離脱し、「天を敬い人に尽くす敬天・奉仕」へのコペルニクス的大転換が今なお進んでいる・・・そこに辿り着くまで小塚光治先生も悩みと葛藤の連続だったろう。小生にとって小塚光治先生は今なお「先生」「良き先輩」である。(以上)
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我が師「小塚光治先生」の生涯(1)

2024-02-08 12:39:13 | 戦争
我が師「小塚光治先生」の生涯(1)
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」269/通算700 2024(令和6)年2/8/木】雪や雨の日以外はほぼ毎日チャリ散歩している。外出すると多くの発見、刺激があり、それは嬉しいことから悲しいことまで色々だが、「脳みその劣化を遅らせる」という効き目はあるようだ。1時間ほどの散歩から帰った時は疲れ果ててヒーヒー、フラフラ、ヨロヨロ、ヘロヘロだが、解放感に満たされて気分はすっきりする。脳みそも洗われたとか充電したような感じで、「ああ、面白かった」とすこぶる充実感、満足感がある。

それは仕事を終えて酒の最初の一杯を飲んだ感じに似ているが・・・「一度アル中、一生アル中」、小生は2016年11月に急性期閉鎖病棟に措置入院させられてから7年も断酒中だが、未だに未練たらたら、せめて最後は吟醸酒からバーボンのメーカーズマークまで飲みまくって成仏したいと思っている。が、生き返って顰蹙を買ったりして晩節を汚しそう・・・呑む兵の古人曰く「酒は敵、分かっちゃいるけど敵に会いたい」。飲酒→アル中→体調悪化→入院→断酒→油断→飲酒→アル中・・・それを繰り返す人も結構いるようだ。「人間は成長せずに歴史を繰り返す」というが、ま、悩ましいことではある。

我が家から多摩川の川崎市側土手を東京湾方面へ下ると「二子橋」に至る。そこは「大山街道」で、橋を渡れば東京都世田谷区の「二子玉川」、大都会だ。川崎市側の大山街道は「古道」の風情、風格が残っており、2年ほど前にチャリ散歩していたら「大山街道ふるさと館」という施設を発見し、見学した。改めて調べたら以下のサイトがあった。
<川崎市大山街道ふるさと館について:当館のある地域は、江戸時代に大山街道の宿場(二子宿・溝口宿)として、大いに栄えた歴史を持ちます。当館は、平成4/1992年8月1日、大山街道沿いの高津区溝口に、大山街道にかかわる歴史・民俗等に関する資料や郷土にゆかりのある人の美術、文学等の作品等の展示を行うとともに、市民に学習の場を提供し、市民の文化の発展に寄与するために設置されました。展示室では、大山街道に関する展示など年4回の企画展を開催し、企画展以外の時期には、この地域の民俗・歴史等をご紹介する常設展を行っております>

この「ふるさと館」で、小生が小4の1961年あたりから知っている「小塚光治(みつじ)」先生の編著書「やさしい川崎の歴史」を発見し、「へえーっ、先生は歴史にも詳しいんだ!」と意外な感じを覚えた。
当時、小塚先生は我が町「宿河原」で「ソロバン塾・ピアノ塾」を開校した。小生は父が公務員を辞めて乾物屋を開業したため「ソロバンくらいは覚えておいた方が良いだろう」と早速、小塚先生の“門下生”になった。その後、先生は塾を「多摩英数学院」に変えたが、小生はそこでも数学を学んだものだ。これまた家業に役立つと思ったから。
父は職業柄と、高度成長で人気の株式投資もしていたから日経新聞を購読しており、小生は最終面の「私の履歴書」を愛読し「数字に強ければ出世できる、儲かる」と“洗脳”されていたのかも知れない。長じてから経済記事を書く上では数学を学んだこと、「私の履歴書」を愛読したことはプラスになった。大学は「私の履歴書」で知った森ビル創業者の森泰吉郎氏が学部長を務めていた横浜市立大学商学部を選んだが、皮肉にも商学部で学んで思い知ったことは「俺は金儲けに興味がない!」だった。
ボタンの掛け違い? 衣食住足りて清貧嗜好が芽生えてきた? 想定外だが天命なのか? 天に導かれる・・・良くある話かもしれないが、人生とか天職はそういうものか・・・不思議な気がする。閑話休題。

小塚先生は学習塾の経営者だから時々しか見かけなかったが、その後、多摩英数学院は発展的解消して1965年に「川崎みどり幼稚園」を設立した。ナント、1985年に長女、86年に次女がその幼稚園に通うようになると、入園式、卒園式などで先生を見かける機会は多くなった。次女の入園式で小塚先生は良い話、訓示をするはずだったのだろうが、4歳、5歳のサル以上人間未満の新入生は興奮してキーキーキャーキャー、小塚先生の堪忍袋の緒が切れて「静かに! みんな静かにしなさい、これから先生がお話ししますから・・・静かに!!」。結局、先生がどんな訓示をされたのかは記憶にないが、先生は、戦後生まれ、GHQ育ての親、その幼児のマインドを知らない、分からないのだなあと苦笑したものである。
(今の小生は「このままでは日本沈没だ」と危機感を持っているが、当時はバブル前夜で暮らしはそこそこ安定していたから“苦笑”したわけだ。調べたら1985年あたりは国民の75%が中流意識を持っており、1億国民全体が平和ボケしていたよう。その代償は大きいだろう)

それから幾星霜、小塚先生は「桐光学園中学校・高等学校」も創立した。WIKIによると、
<桐光学園中学校・高等学校は、神奈川県川崎市麻生区の私立中学校・高等学校。桐光学園は、元川崎市立高校教諭の小塚光治により1965年、川崎みどり幼稚園(現・桐光学園みどり幼稚園)が創設されたことに始まる。 1972年に学校法人桐光学園が設立され、寺尾みどり幼稚園開設、1978年に高等学校、1982年に中学校を開校。1991年に中高女子部が開設された。
小塚理事長は、当時「神奈川御三家」の一つであり、多数の東京大学合格者を出し野球部が甲子園にも出場していた「桐蔭学園」高等学校から鵜川昇(桐蔭学園学園長)を「桐光学園」理事として招聘し、桐蔭学園のシステムを導入した。当時は兄弟校を標榜しており、現在も桐蔭学園と同様のシステムが多数残っている>

桐光学園の「光」は小塚光治先生の意だ。桐光学園のサイトには創立者である小塚光治先生の以下の「川崎みどり幼稚園開園建学のこころ」があった。
<心と心がふれ合う、喜び・怒り・感激がわき起こる、教師の心と生徒の心が火花を散らす、生徒と生徒の心が火花を散らす。
この火花によってお互いの心がとけ合い心の扉が開けます。この火花によって心を練り上げる、心をきたえるのが教師であり、その場が教室であり、団体訓練であり、クラブ活動であると信じます。
全職員が一つになって、生徒の心の扉を少しずつ開かせ、すなおな心、やさしい心、すべてに感動する若い魂、すばらしい個性を引きだし、これらを良いものに作りあげたい、伸ばしたい。この場が桐光学園であります>
子曰く「学びて思はざれば則ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば則ち殆(あや)ふし」。次代を担う若者を育てていくという小塚先生の気概がうかがわれる。

小塚先生については以上のようにざっくりとしか知らなかったが、今年になってから大山街道を散歩していると両側の建物などの風情、風格が随分良くなっており、「みんなコロナ禍を乗り切って元気を取り戻している」と嬉しくなったが、「そう言えば小塚先生の『やさしい川崎の歴史』」を読んでいなかったなあ、読むべし」と天啓がひらめいた。
どんな内容なのだろうと調べたら「古書店のKITANO」サイトにはこうあった。
<「やさしい川崎の歴史」小塚光治編(桐光学園初代理事長)・川崎歴史研究会、1970年5月1日(初版第1刷)。解説:たくさんの写真とやさしい文章で川崎の姿をとらえた、ただひとつの歴史書、一家に一冊みんなで知ろう川崎の今昔、小・中学生にもかかせない社会科副読本。
目次:1)人間が済みつく前、2)石器・土器をつかった時代の川崎、3)日本の国ができた時代の川崎、4)奈良・平安時代、5)鎌倉時代の川崎、6)室町・戦国時代の川崎、7)江戸時代の川崎、8)明治時代の川崎、9)大正時代の川崎、10)昭和時代の川崎>

「タウンニュース」2021/8/20では小塚光治先生の養子になった小塚良雄氏(76歳)をインタビューしている「麻生と私 第5回 区制40周年プレ企画 地域に愛され続く学校を」で、こう紹介していた。
<栗木の地に1978年に創立した桐光学園。小学校から高校まで約3000人が通う学校の理事長を務める。日々、学校の在り方を模索し続ける中、常に心にあるのは、創立者の義父、故・小塚光治氏が遺した「地域に根差した学校でなければ存続できない」という言葉だ。
27年前にバトンを受け継ぎ、同校の経営に携わるようになった。病院の建築・設計から違う分野への転身だったが、地域の理解や協力を得ながら学校づくりを進めることを大切にしてきた。
運動部、文化部ともに全国で活躍するクラブも多数。「全国での活躍を地域の誇りとして思ってくれる」と区内からの声援を喜ぶ。「地元が応援団になってくれるのが生徒の大きな力になる」と欠かせない存在だ。
昨年の緊急事態宣言時に休校も余儀なくされたコロナ禍、「みんなが『答えのない世界』を感じた」とし、「これからの教育で必要となるのが「『自分の答えをつくる』こと」だと考える。「勉強でもクラブ活動でも、学生時代にいかに自分たちで考えて経験を積ませるか、注力したい」>

小塚光治先生の遺志はしっかりと後人に受け継がれているようだ。で、早速、図書館で「やさしい川崎の歴史」第5版(1990年)を借りてきた。初版は1970年だから、そこそこ読まれていたようだが、小塚光治先生が亡くなると絶版になってしまった。良書なら読み継がれ重版されているはずなのに・・・と読み始めたら、小生が知らなかった「もう一人の小塚光治先生」が縦横無尽に「志」「主張」「歴史観」を唱えていてびっくりした。以下、次号に続く。
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北朝鮮はソ連が創った傀儡国家

2024-02-03 05:26:18 | 戦争
北朝鮮はソ連が創った傀儡国家
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」268/通算699 2024(令和6)年2/3/土】前回の「北朝鮮・軍事国家の末路」の続き。
事大主義(大国に仕える、従う)とは「強大な国の影響下に入り、その国の力を借りて自国の安全を確保すること」。パワーのない国は“寄らば大樹”を志向するが、いつまでも自立できずに、結果的に属国になったり、併呑されて消滅するリスクがあると小生は理解している。語源は 紀元前280年あたりの孟子」の「以小事大(小をもって大に事(つか)える」だという。

日本は西暦581~618年頃は中国「随」の属国を演じていたようだが、「随書」によれば聖徳太子は煬帝への国書で「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す 恙(つつが)なきや」と挨拶したが、煬帝は「無礼者め!」と随分立腹したとか。日本は「仏法を学ぶために留学生を送るのでよろしくご教授を」とお願いしたつもりだったのに不興を買ってしまったなどと諸説あるが、結果的に日本は独立した国家としてアジア一帯で認知されることになったようだ。瓢箪から駒?

そのお陰で日本は独自の政治、文化を育んでいく。一人前の国はそれなりの建国の物語や歴史を持っており、天武天皇の時に国内向けの「古事記」編纂が始まり712年に完成。「天皇の正統性を語り、天皇家の歴史を残す目的があった」(日本文化研究ブログ)という。
その8年後の720年に天武天皇の命によって海外向けの「日本書紀」が完成。全30巻で天皇家の系図1巻が付属している」(同)。国際社会に「東には日本という歴史ある立派な国があります、どうぞよろしく」という挨拶だろう。
その後の大陸は「唐」の時代で、日本は200年以上の間、遣唐使を派遣した。894年には56年振りに使節派遣の再開が計画されたものの907年に唐が滅ぶと訪中派遣は消滅した(WIKI)。

結果的に日本独自の文化が育まれていったようで、1000年前後には清少納言の「枕草子」、紫式部の「源氏物語」という名著が生まれ、今なお読み継がれている。794年の平安京への遷都から鎌倉幕府が成立する1185年までの391年間を「平安時代」となづけているが、「平将門の乱」や源氏と平家の覇権争いなど内戦が続いたから「平安」どころが「不安」時代だった。

国際情勢もまた「不安だ、困ったものだ」では済まない時代になってきた。「井の中の蛙が覇権を争う時ではない、国家として結束しなければ日本は強国に併呑されてしまうぞ」という危機意識が高まっていったようだ。大陸で強大な「元」(大蒙古国)が台頭し、これが日本の統一、富国強兵を促したと言えるだろう。
<元(げん)は、中東アジアから東欧まで広大な領域にまたがったモンゴル帝国(チンギス・カンにより1206年に成立、1260年に分裂)の後裔の一国。そのうち中国本土とモンゴル高原を中心に1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人による王朝である>(WIKIなど)

一方、当時の朝鮮半島は「高麗」(936~1392年)の時代で、1287年から1356年の69年間は「元」に併合されたが、それ以前から「事大主義」で元の属国になっていた。鎌倉時代中期の1274年と1281年には元と高麗によって2度にわたり日本侵略(文永・弘安の役、元寇)したことから、以来、中国と朝鮮は日本にとって潜在的な脅威、敵、油断できない隣国のままである。

ニューズウィーク日本版2024/1/24「北朝鮮は韓国を攻撃しないという常識 もはや過去? 南北が激突したら強いのはどちらか」は長文だが勉強になる。ご一読を。《カッコ内は飛ばしてもOK 》
<2024年は新年早々の北朝鮮による挑発的なミサイル発射実験と、それに対する韓国の不安を露わにした厳しい非難で、すでにきな臭い気配に彩られている。北朝鮮は韓国だけでなく、その同盟国であるアメリカ、そして自国の安全保障を深く憂慮する日本に対しても、敵意をむき出しにした発言を続けている。しかも北朝鮮の国営メディアが次々と発表する扇動的な声明が、弾道ミサイルの発射実験と相まって、多くの国々の神経をいらだたせている。北朝鮮、韓国ともに軍事費の増額を公約している。
この新たな国際的緊張は、アメリカとその同盟国が中東やヨーロッパでの紛争に対応し、片目では中国の台湾威嚇行動を注視しているさなかに急浮上した。この状況に対して専門家らが議論しているのは、北朝鮮は韓国を攻撃しないという長年の定説を北朝鮮の金正恩総書記は打ち砕くのではないだろうか、また、朝鮮半島で新たな紛争が起きるとすれば、それはどういう性質のものになるのだろうか、といった点だ。
北朝鮮は世界で最も軍事化が進んだ国のひとつであり、「韓国を直接脅かす世界最大級の通常兵器を備えた軍隊」を保有していると、米国防情報局(DIA)は2021年の報告書で発表した。
【数の上では2倍の軍事力】スタティスタが2023年6月に発表したデータに基づく結論によれば、おおまかに言うと北朝鮮が現在保有する軍事力は韓国の2倍以上に達している。
《統計データプラットフォームのスタティスタが発表した数字によると、北朝鮮の軍事費は2021年には国内総生産(GDP)の4分の1弱だったとみられるが、22年に大幅に増加し、GDPの3分の1弱に達した可能性がある。GDPに占める国防費の割合は、ウクライナに次いで第2位である。スタティスタによれば、韓国の国防費は2022年の時点でGDPの約2.5%を占めていた。これはNATO諸国や西側同盟国の典型的な防衛費のレベルに近い》

ブルッキングス研究所東アジア政策研究センターのシニアフェローで、アメリカ・カトリック大学のアンドリュー・ヨー教授は、北朝鮮は「優れたマンパワー」を持っており、数の上では常に北朝鮮が優位に立っていると指摘する。
ロンドンの国防シンクタンク国際戦略研究所によれば、2023年初頭の時点で、北朝鮮軍には現役の兵員約128万人、予備役が60万人いた。韓国軍の場合、現役の兵士は約55万5000人で、予備役が300万人以上いる。

他の通常兵器を比較しても、北朝鮮の軍事力は韓国を凌駕している。韓国が保有する潜水艦は19隻だが、北朝鮮は71隻を保有している。主力戦車の保有台数も、韓国の2149両に対し、北朝鮮は3500両以上。北朝鮮は核爆弾の実験を行っているが、韓国は核兵器を持っていない。
だが話はそれで終わりではない。北朝鮮の通常装備の多くはソ連時代の古いもので、韓国の洗練された技術力、特に航空戦力とはかけ離れている、とヨウは本誌に語った。
韓国と北朝鮮が通常兵器で戦う場合、同盟国アメリカの支援がなくても「韓国は自力で持ちこたえられるという前提がある」とヨウは言う。
北朝鮮の軍隊は、その規模の大きさの割に、韓国がアメリカのような国との軍事演習を通じて得た訓練の経験の広さに欠けている、とヨウは言う。アメリカインド太平洋軍(USD-APC)の発表によると、アメリカは最近、韓国、日本との合同演習を終え、「連合軍としての能力をさらに強化する」ことを目的とした米空母打撃群を配備した。

「数だけでなく、軍備の質や能力も重要だ」とヨウ。北朝鮮の弾道ミサイル発射実験は、韓国、アメリカ、日本にとって最大の懸念材料だ。米国防情報局によると、金総書記は権力の座に就いて以来、北朝鮮の通常兵器の増強に注力し、核実験と国内のミサイル開発を進めてきた。核実験は2022年に急増し、2023年にはペースは落ちたものの継続されている、とヨウは述べた。
2024年になっても状況は変わらないことが明らかになった。米軍は1月14日に北朝鮮が弾道ミサイル発射実験を行ったことを発表し、「北朝鮮の不正な兵器開発計画が不安定化させる影響」を示したと述べた。

【戦争準備を加速】北朝鮮は装備のアップグレードも進めており、北朝鮮が特に注目している兵器運搬システムの改良にロシアが手を貸す可能性もある、とヨウは言う。さらに1月19日、北朝鮮は「水中核兵器システム」の試験を実施したことを発表した。水中核攻撃艇と称する海軍のドローンのテストは、アメリカ、韓国、日本が実施した合同海軍演習に対抗したものだという。
《北朝鮮は昨年9月、核兵器の搭載と発射が可能な初の「戦術核攻撃型潜水艦」をデビューさせたと発表した。欧米のアナリストの間では、この潜水艦の真の能力について疑問の声が上がっている》
2023年後半には「アメリカとその属国勢力による前例のない反朝(北朝鮮)対決工作」に直面し、「戦争準備をさらに加速させる」と述べている。北朝鮮はスパイ衛星も打ち上げており、今年中にさらに数機を軌道に乗せる予定だ>(以上)
・・・・・・・・・・
北朝鮮は第2次世界大戦後、日本が連合国により撤収を余儀なくされてからソ連が創った傀儡(かいらい)国家である。何のために? 「世界革命」のためである。連合国がスターリン・ソ連共産主義の危険性に気づいてレッド・パージ(アカ狩り)を始めたのは1945年の終戦から5年後だった。遅すぎ!
日本ではロシア革命後の1925/大正14年に共産主義者などの国家体制を否定する“主義者”を取り締まる治安維持法が制定されたが、敗戦により1945/昭和20年10月15日、GHQ(戦勝国)によって廃止された。連合国はアカに騙され、シロを叩いたのだ。大チョンボ!

元・過激派の小生が偉そうなことは言えないが、リベラルや平等、人道、人権、福祉、環境、平和、ジェンダーフリー、地球温暖化阻止、果ては派閥解消などを説く人は、自分は正義、私は善人と思っているのだろうが、小生には「隠れ共産主義独裁信奉者」のように見える。ドイツでは、彼らは「環境に優しい」を掲げながらAfD(ドイツのための選択肢)など異議を唱える人には暴力で叩きまくっている。この手の怪しい「隠れアカ」「無自覚アカ」に用心すべし。(以下次号)
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