雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(84」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/194(2020/9/30/水】中共圧政下の南(内)モンゴル出身の論客、楊海英氏が習近平・中共包囲殲滅戦で存在感を増している。小生なんぞは「もっとやらんかい!」と尻を叩かれている感じだが、「心技体」、やる気・知力・体力、特に体力が日々劣化しているので、気は焦るのだが“アワワワワ”状態だ。
「モンゴル」と聞くと日本人は蒙古、元、ジンギスカン、フビライハン、蒙古襲来、元寇、騎馬民族、蒙古斑、大相撲などを連想するだろう。何となく馴染みがあるのだが、最盛期にはユーラシア大陸を席巻した「モンゴル」について調べてみた。
モンゴル(モンゴリア、蒙古とも)はモンゴル高原・ゴビ砂漠を中心とする地域に住む遊牧民族で、漢族からは「匈奴(きょうど)」と呼ばれていた。
漢族は自己中で自分達以外は野蛮人、獣を意味する「夷狄」であるとして、日本は「東狄」(東の獣)、「委」(小さな大人しい動物)、後に人間みたいだから人偏が付いて「倭」、さらに「和」(なごやか)、「大和」になったとか。300年頃からお日様が出てくる日乃本「日本」の呼称を渋々認めたようだ。
漢族の華夷秩序に準じる民族とか朝貢国、子分として認める、ということだが、この「俺様が一番偉い」という尊大思考が今も変わらないのは大したものというか、時代を見る目がないというか、病膏肓、永遠に治らないだろう。
一方、匈奴の「匈」は「恐ろしく凶悪なワル」という意味だ。漢族は天敵、武漢ウイルスの如くに匈奴を恐れた。匈奴の末裔(蒙古・モンゴル族、満洲族など)に漢族は二度も支配されたから、今でも蛇蝎の如くモンゴル人、ウイグル人、チベット人を“潜在敵”として憎悪し、恐れているようだ。
「雑学サークル2020.1.29:匈奴とは? 漢を苦しめた戦法や冒頓単于、フン族との関係を解説」から要約する。
<古代の東アジアの主権を握っていたのは、多くの時代や地域では中国でしたが、時代によれば遊牧民族たちも大きな勢力を築いています。「匈奴」と呼ばれる人々が紀元前4世紀~紀元後1世紀にわたりモンゴル高原を中心にして、広大な範囲を支配していたのです。
遊牧民族である彼らは馬を巧みに操り、古代世界において屈指の戦闘能力を発揮した集団になります。秦や漢を苦しめるまでの勢力を持っていた「匈奴」について解説していきます。
◆匈奴とは中国から見て北方や辺境にいる遊牧民族
匈奴は紀元前4世紀の頃には、古代中国の北部や辺境に姿を現した武装した遊牧民族たちであり、中国の王朝と軍事的な衝突を起こすこともあります。ときには外交や交易を行うようになっていました。
冬は比較的、高度の低い土地で放牧を行い、夏になるとモンゴル高原などの標高の高い土地に移動していました。家畜を放牧する彼らは馬に乗ることに長けており、農耕を行うことは稀で、主に狩猟や牧畜で食料を得ていたのです。食生活はヒツジの肉や魚、狩猟で得た野生の鳥などが中心であり、ヨーグルトなどの乳製品も食べています。
住居は移動式の簡素なテントであり、羊毛などにより編まれた布と木組みを使って建てられていたようです。
◆「元」「清」は遊牧民による中国征服王朝
「単于(ぜんう)」とは多くの集団から形成されていたと考えられる匈奴の「リーダーたちのリーダー」、簡単に言えば「王さま」や「皇帝」とも言える地位になります。単于は匈奴だけでなく、北アジアの遊牧民国家の「君主」を示す言葉として使われています。
匈奴は漢の時代に滅びますが、本来は血族単位で行動している遊牧民族が「集合して国を作る」という発想は彼ら(匈奴)以外の遊牧民族に継承されるようになるのです。
鮮卑、突厥、柔然、契丹、女真などの、モンゴルあるいは中国北部にいる遊牧民たちは同様の仕組みを受け継ぐことになります。
遊牧民の血筋や国家は隣接する中国にも大きな影響を与えることが多く、モンゴルを統一したチンギスハンは元王朝を、中国北東部にいた女真族は清王朝を作るなど、遊牧民たちは中国に征服王朝を建てることにもなるのです。
◆匈奴は戦上手
古代の中国の王朝である秦(始皇帝などで有名)と匈奴たちは領土が一部重なっていたため、両者のあいだでは軍事的な衝突が起こることがあったのです。
匈奴は遊牧民であるため、馬を巧みに乗りこなします。このことが大きな軍事的なアドバンテージになるのです。秦にも馬はいましたが、あぶみ(足を置くための装置)などの馬具が発明されてもいない時代であるため、馬に乗ったまま武器を扱うことなど、技術的にはほとんど不可能であろうという認識でした。
しかし遊牧民族である匈奴の戦士たちは馬上から弓を放ち、それをターゲットに命中させるほどの優れた乗馬技術を持っていたのです。
強靭な金属で鎧を作ることができない時代であったため、馬から放たれる矢は圧倒的な殺傷能力を持っています。匈奴の馬上からの弓をつかった射撃によって、秦などの中国国家は大きな苦戦を強いられるようになったのです。馬に乗って戦える兵士たちを持っていたことが、匈奴の圧倒的な強さを支えていました。
◆匈奴と中国(秦・漢)の戦略の違い
中国の戦略は城や町を拠点としての戦い方ですが、匈奴は遊牧民族であるため、拠点も移動式になります。中国からしてみれば匈奴を滅ぼすために攻め入る場所がないわけです。
たとえ一時的に戦闘に勝ったとしても、匈奴は遊牧民であるがゆえに、攻められても逃げればいいという作戦であったわけです。中国側が優勢のときは逃げればよく、中国側が守りに入れば、周辺を根こそぎ略奪すれば良かったわけです。
また匈奴のリーダーは先頭で軍勢を指揮するというスタイルであったため、戦況判断を軍隊全体に波及させることができました。つまり劣勢のときに素早く逃げられるということが、匈奴の戦術上の強みとなります。
戦術的・戦略的に守りに優れている軍団であり、そもそも攻撃は騎兵で行うためその時点で強いわけです。攻守ともに優れた集団であったため、中国の軍隊は匈奴に苦戦することになります。
◆匈奴と秦の戦い
秦は始皇帝によって中国全土を統一したことで有名ですが、紀元前771年から存在しています(滅亡は紀元前206年)。匈奴は紀元前318年に秦を攻撃しましたが、敗北しています。およそ100年後の紀元前215年、秦の始皇帝は領地を占有している匈奴を討伐しています。
匈奴を撤退させた始皇帝は、各国が各地に点在するように作っていた長城を改築、それらをつなげるようにして北方からの遊牧民族たちの攻撃を防ぐようにしたのです。これが「万里の長城」であり、匈奴を始め、中国の北方に住んでいたり、あるいは北からやって来たりする遊牧民族の攻撃を防ぐための城塞になります。
◆冒頓単于が匈奴を支配する
始皇帝によって追いやられた匈奴は、同じ遊牧民族でありながら違う部族である月氏(げっし)からも攻められます。
王族の一人である冒頓(ぼくとつ)は、自分の父親に人質として月氏に送られましたが、父親は息子が人質になっているにも関わらず、月氏に戦争を仕掛けました。冒頓が人質となったことで油断していた月氏を匈奴は倒し、また冒頓は自力で月氏から馬を奪って帰国してきたのです。
その後、冒頓は父親を自分の精鋭部隊によって弓を放って暗殺、父親の「単于=王さま」の位を奪い取り、匈奴の皇帝「冒頓単于(ぼくとつぜんう)」として君臨することになるのです。
◆匈奴と漢の戦い
紀元前200年に前漢の皇帝である劉邦は歩兵32万を率いて匈奴討伐に繰り出します。40万の兵を率いる冒頓は弱い兵を前線に配置して、わざと敗北を演出し後退します。劉邦はそのまま勢いに乗って前に出てしまいますが、匈奴の軍勢に包囲されてしまったのです。
講和の条件として、匈奴側は漢に対して貢ぎ物を渡すように要求し、建国して間もなく国力の乏しかった漢はその不利な条件を飲むことになったのです。
漢王朝が安定していき、強大な国家となるまでその関係性は続きましたが、漢の武帝の時代に大規模な匈奴との戦争が起きました。その結果、匈奴は敗北してしまい、奥地へと逃げ延びたとされます。
国力をつけた漢には対抗できなくなっていき、かつてとは立場が逆転し、漢に人質を取られるようになっていきます。
やがて匈奴は分裂し、北と南に分かれます。北匈奴は、後漢とそれに協力する南匈奴によって討伐され、どこかへと消えました。南匈奴は中国に同化してしまい、匈奴は歴史から消えてしまったのです・・・>
まるで歴史小説みたい。その後、北匈奴はどうなったのか。「それからの北匈奴」なんて読みたくなるね。
<匈奴という言葉の呼び名が「フン」に似ていることから、4世紀にヨーロッパを荒らし回ったフン族とのつながりを指摘する研究もあります。名前が似ているかもしれない、使っていた言語の一部に共通点があるかもしれない、少なくとも遊牧民族で騎馬に乗って戦っていることは同じ、という一致があるわけです。
また4世紀に中国から西へと追いやられたことと、4世紀にヨーロッパへ東から現れたことで時代と移動した方向の一致もあります。もしかすると、フン族=匈奴である可能性もあるわけです>
その頃の日本ではヤマト王権ができ始めたらしい。日本が海に囲まれた島国でなければ北匈奴が逃れてきたかもしれないが、平地が少なくて「山ばっかり、馬が使えない、羊も飼えない、雨ばっかり、心底がっかり」だから絶望したろう。当時の日本は水稲、陸稲の田畑と漁労採集の定住生活で平原は少ないから、地平線を見ながら何十キロも馬を駆る匈奴には向かない。スポーツも日本の相撲は土俵の中、一方、モンゴル相撲には土俵がない!
異民族に侵され支配された長い歴史を持つ漢族にとって、異民族は大小を問わず「潜在敵」なのだろう。誇りが高い分、人間未満の夷狄や蛮族に支配されたことは民族の屈辱という思いが強いのかもしれない。
もっとも支配民族を「蓄財蓄妾美酒美食」、欲しがるものは何でもくれてやれ(毛沢東)というタラシコミに長けているから、清朝時代の多くは、末期の内憂外患的排外主義のインテリ以外は結構、面白おかしく暮らしていたようだ。
日本人は75年間も異民族支配にあるけれど「面白おかしく暮らせる」からほとんどの人は満足、「コロナ禍で遊びに行けない、もう死にそう」という悲鳴は上げるが、「独立しよう、普通の国にしよう」なんて奇特な人以外は誰も思っていない。ましてや元寇でひどい目に遭った、モンゴル許すまじ、なんて叫んだらまず入院させられる。
楊海英先生著「中国人の少数民族根絶計画」から。
<社会主義時代になると中国人たちはモンゴル人の過去を思い出して、次のように話しました。
「内モンゴルは国境地帯から北京まで平らな草原が続き、敵は数時間でやって来る」と、中共の指導者達は真剣に話し、公文書にも記載されていました。内モンゴル自治区は修正主義者(毛沢東にたてつく邪道な似非共産主義者)のソ連やモンゴル人民共和国(北モンゴル、現モンゴル国)と国境を接し、その軍隊が攻めてきたときのモンゴル人の動向が定かでない以上、事前にその精鋭を集団粛清するのが無難な防備策でした。
結局のところ、他地域に先駆けて内モンゴル自治区で文化大革命が推進された真の目的はここにあったのです。
中共はモンゴルの指導者、ウラーンフーを引きずり下ろした(1966年)後に、その「母体」とされる内モンゴル人民革命党員の粛清へと攻撃の狙いを定めたのです。日本の敗戦後、同党は(ヤルタ密約で分断された)南北モンゴルの統一を目指したのですが、中共は1947年に同党を解散していましたから、1949年の中共の建国後でも同党は存在していなかった。
しかし1967年あたりから中共は内モンゴル人民革命党の歴史(満洲国時代の日本は同党を脅威視せず)を問題だとし、逮捕を始めたのです。
内モンゴル自治区の最高指導者のウラーンフーさえ「民族分裂主義者」なのだから、満洲国時代に「日本刀をぶら下げていた」(日本統治に協力した)モンゴル人がそうであることは間違いないというわけです。
ウラーンフーの失脚に伴って内モンゴルでは大衆同士の武力衝突が頻発し、半ば内乱状態が続き、毛沢東・中共は混乱収拾という名目で1967年4月に謄海清将軍(謄は当て字)を派遣しました>
かくして「批判闘争」という名の「虐殺」が内モンゴルで大々的に、遠慮なく、嗜虐的に、創造的に、毛沢東流に、断固として、見せしめの如く、堂々と展開されていく。まるで「匈奴への報復、復讐」・・・「正義と思えば何でもできる」、人間とは、モラルとは・・・日本人の想像を絶する虐待、虐殺がニヤニヤ笑いの漢族によって遠慮会釈なく行われていく。(つづく)
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/194(2020/9/30/水】中共圧政下の南(内)モンゴル出身の論客、楊海英氏が習近平・中共包囲殲滅戦で存在感を増している。小生なんぞは「もっとやらんかい!」と尻を叩かれている感じだが、「心技体」、やる気・知力・体力、特に体力が日々劣化しているので、気は焦るのだが“アワワワワ”状態だ。
「モンゴル」と聞くと日本人は蒙古、元、ジンギスカン、フビライハン、蒙古襲来、元寇、騎馬民族、蒙古斑、大相撲などを連想するだろう。何となく馴染みがあるのだが、最盛期にはユーラシア大陸を席巻した「モンゴル」について調べてみた。
モンゴル(モンゴリア、蒙古とも)はモンゴル高原・ゴビ砂漠を中心とする地域に住む遊牧民族で、漢族からは「匈奴(きょうど)」と呼ばれていた。
漢族は自己中で自分達以外は野蛮人、獣を意味する「夷狄」であるとして、日本は「東狄」(東の獣)、「委」(小さな大人しい動物)、後に人間みたいだから人偏が付いて「倭」、さらに「和」(なごやか)、「大和」になったとか。300年頃からお日様が出てくる日乃本「日本」の呼称を渋々認めたようだ。
漢族の華夷秩序に準じる民族とか朝貢国、子分として認める、ということだが、この「俺様が一番偉い」という尊大思考が今も変わらないのは大したものというか、時代を見る目がないというか、病膏肓、永遠に治らないだろう。
一方、匈奴の「匈」は「恐ろしく凶悪なワル」という意味だ。漢族は天敵、武漢ウイルスの如くに匈奴を恐れた。匈奴の末裔(蒙古・モンゴル族、満洲族など)に漢族は二度も支配されたから、今でも蛇蝎の如くモンゴル人、ウイグル人、チベット人を“潜在敵”として憎悪し、恐れているようだ。
「雑学サークル2020.1.29:匈奴とは? 漢を苦しめた戦法や冒頓単于、フン族との関係を解説」から要約する。
<古代の東アジアの主権を握っていたのは、多くの時代や地域では中国でしたが、時代によれば遊牧民族たちも大きな勢力を築いています。「匈奴」と呼ばれる人々が紀元前4世紀~紀元後1世紀にわたりモンゴル高原を中心にして、広大な範囲を支配していたのです。
遊牧民族である彼らは馬を巧みに操り、古代世界において屈指の戦闘能力を発揮した集団になります。秦や漢を苦しめるまでの勢力を持っていた「匈奴」について解説していきます。
◆匈奴とは中国から見て北方や辺境にいる遊牧民族
匈奴は紀元前4世紀の頃には、古代中国の北部や辺境に姿を現した武装した遊牧民族たちであり、中国の王朝と軍事的な衝突を起こすこともあります。ときには外交や交易を行うようになっていました。
冬は比較的、高度の低い土地で放牧を行い、夏になるとモンゴル高原などの標高の高い土地に移動していました。家畜を放牧する彼らは馬に乗ることに長けており、農耕を行うことは稀で、主に狩猟や牧畜で食料を得ていたのです。食生活はヒツジの肉や魚、狩猟で得た野生の鳥などが中心であり、ヨーグルトなどの乳製品も食べています。
住居は移動式の簡素なテントであり、羊毛などにより編まれた布と木組みを使って建てられていたようです。
◆「元」「清」は遊牧民による中国征服王朝
「単于(ぜんう)」とは多くの集団から形成されていたと考えられる匈奴の「リーダーたちのリーダー」、簡単に言えば「王さま」や「皇帝」とも言える地位になります。単于は匈奴だけでなく、北アジアの遊牧民国家の「君主」を示す言葉として使われています。
匈奴は漢の時代に滅びますが、本来は血族単位で行動している遊牧民族が「集合して国を作る」という発想は彼ら(匈奴)以外の遊牧民族に継承されるようになるのです。
鮮卑、突厥、柔然、契丹、女真などの、モンゴルあるいは中国北部にいる遊牧民たちは同様の仕組みを受け継ぐことになります。
遊牧民の血筋や国家は隣接する中国にも大きな影響を与えることが多く、モンゴルを統一したチンギスハンは元王朝を、中国北東部にいた女真族は清王朝を作るなど、遊牧民たちは中国に征服王朝を建てることにもなるのです。
◆匈奴は戦上手
古代の中国の王朝である秦(始皇帝などで有名)と匈奴たちは領土が一部重なっていたため、両者のあいだでは軍事的な衝突が起こることがあったのです。
匈奴は遊牧民であるため、馬を巧みに乗りこなします。このことが大きな軍事的なアドバンテージになるのです。秦にも馬はいましたが、あぶみ(足を置くための装置)などの馬具が発明されてもいない時代であるため、馬に乗ったまま武器を扱うことなど、技術的にはほとんど不可能であろうという認識でした。
しかし遊牧民族である匈奴の戦士たちは馬上から弓を放ち、それをターゲットに命中させるほどの優れた乗馬技術を持っていたのです。
強靭な金属で鎧を作ることができない時代であったため、馬から放たれる矢は圧倒的な殺傷能力を持っています。匈奴の馬上からの弓をつかった射撃によって、秦などの中国国家は大きな苦戦を強いられるようになったのです。馬に乗って戦える兵士たちを持っていたことが、匈奴の圧倒的な強さを支えていました。
◆匈奴と中国(秦・漢)の戦略の違い
中国の戦略は城や町を拠点としての戦い方ですが、匈奴は遊牧民族であるため、拠点も移動式になります。中国からしてみれば匈奴を滅ぼすために攻め入る場所がないわけです。
たとえ一時的に戦闘に勝ったとしても、匈奴は遊牧民であるがゆえに、攻められても逃げればいいという作戦であったわけです。中国側が優勢のときは逃げればよく、中国側が守りに入れば、周辺を根こそぎ略奪すれば良かったわけです。
また匈奴のリーダーは先頭で軍勢を指揮するというスタイルであったため、戦況判断を軍隊全体に波及させることができました。つまり劣勢のときに素早く逃げられるということが、匈奴の戦術上の強みとなります。
戦術的・戦略的に守りに優れている軍団であり、そもそも攻撃は騎兵で行うためその時点で強いわけです。攻守ともに優れた集団であったため、中国の軍隊は匈奴に苦戦することになります。
◆匈奴と秦の戦い
秦は始皇帝によって中国全土を統一したことで有名ですが、紀元前771年から存在しています(滅亡は紀元前206年)。匈奴は紀元前318年に秦を攻撃しましたが、敗北しています。およそ100年後の紀元前215年、秦の始皇帝は領地を占有している匈奴を討伐しています。
匈奴を撤退させた始皇帝は、各国が各地に点在するように作っていた長城を改築、それらをつなげるようにして北方からの遊牧民族たちの攻撃を防ぐようにしたのです。これが「万里の長城」であり、匈奴を始め、中国の北方に住んでいたり、あるいは北からやって来たりする遊牧民族の攻撃を防ぐための城塞になります。
◆冒頓単于が匈奴を支配する
始皇帝によって追いやられた匈奴は、同じ遊牧民族でありながら違う部族である月氏(げっし)からも攻められます。
王族の一人である冒頓(ぼくとつ)は、自分の父親に人質として月氏に送られましたが、父親は息子が人質になっているにも関わらず、月氏に戦争を仕掛けました。冒頓が人質となったことで油断していた月氏を匈奴は倒し、また冒頓は自力で月氏から馬を奪って帰国してきたのです。
その後、冒頓は父親を自分の精鋭部隊によって弓を放って暗殺、父親の「単于=王さま」の位を奪い取り、匈奴の皇帝「冒頓単于(ぼくとつぜんう)」として君臨することになるのです。
◆匈奴と漢の戦い
紀元前200年に前漢の皇帝である劉邦は歩兵32万を率いて匈奴討伐に繰り出します。40万の兵を率いる冒頓は弱い兵を前線に配置して、わざと敗北を演出し後退します。劉邦はそのまま勢いに乗って前に出てしまいますが、匈奴の軍勢に包囲されてしまったのです。
講和の条件として、匈奴側は漢に対して貢ぎ物を渡すように要求し、建国して間もなく国力の乏しかった漢はその不利な条件を飲むことになったのです。
漢王朝が安定していき、強大な国家となるまでその関係性は続きましたが、漢の武帝の時代に大規模な匈奴との戦争が起きました。その結果、匈奴は敗北してしまい、奥地へと逃げ延びたとされます。
国力をつけた漢には対抗できなくなっていき、かつてとは立場が逆転し、漢に人質を取られるようになっていきます。
やがて匈奴は分裂し、北と南に分かれます。北匈奴は、後漢とそれに協力する南匈奴によって討伐され、どこかへと消えました。南匈奴は中国に同化してしまい、匈奴は歴史から消えてしまったのです・・・>
まるで歴史小説みたい。その後、北匈奴はどうなったのか。「それからの北匈奴」なんて読みたくなるね。
<匈奴という言葉の呼び名が「フン」に似ていることから、4世紀にヨーロッパを荒らし回ったフン族とのつながりを指摘する研究もあります。名前が似ているかもしれない、使っていた言語の一部に共通点があるかもしれない、少なくとも遊牧民族で騎馬に乗って戦っていることは同じ、という一致があるわけです。
また4世紀に中国から西へと追いやられたことと、4世紀にヨーロッパへ東から現れたことで時代と移動した方向の一致もあります。もしかすると、フン族=匈奴である可能性もあるわけです>
その頃の日本ではヤマト王権ができ始めたらしい。日本が海に囲まれた島国でなければ北匈奴が逃れてきたかもしれないが、平地が少なくて「山ばっかり、馬が使えない、羊も飼えない、雨ばっかり、心底がっかり」だから絶望したろう。当時の日本は水稲、陸稲の田畑と漁労採集の定住生活で平原は少ないから、地平線を見ながら何十キロも馬を駆る匈奴には向かない。スポーツも日本の相撲は土俵の中、一方、モンゴル相撲には土俵がない!
異民族に侵され支配された長い歴史を持つ漢族にとって、異民族は大小を問わず「潜在敵」なのだろう。誇りが高い分、人間未満の夷狄や蛮族に支配されたことは民族の屈辱という思いが強いのかもしれない。
もっとも支配民族を「蓄財蓄妾美酒美食」、欲しがるものは何でもくれてやれ(毛沢東)というタラシコミに長けているから、清朝時代の多くは、末期の内憂外患的排外主義のインテリ以外は結構、面白おかしく暮らしていたようだ。
日本人は75年間も異民族支配にあるけれど「面白おかしく暮らせる」からほとんどの人は満足、「コロナ禍で遊びに行けない、もう死にそう」という悲鳴は上げるが、「独立しよう、普通の国にしよう」なんて奇特な人以外は誰も思っていない。ましてや元寇でひどい目に遭った、モンゴル許すまじ、なんて叫んだらまず入院させられる。
楊海英先生著「中国人の少数民族根絶計画」から。
<社会主義時代になると中国人たちはモンゴル人の過去を思い出して、次のように話しました。
「内モンゴルは国境地帯から北京まで平らな草原が続き、敵は数時間でやって来る」と、中共の指導者達は真剣に話し、公文書にも記載されていました。内モンゴル自治区は修正主義者(毛沢東にたてつく邪道な似非共産主義者)のソ連やモンゴル人民共和国(北モンゴル、現モンゴル国)と国境を接し、その軍隊が攻めてきたときのモンゴル人の動向が定かでない以上、事前にその精鋭を集団粛清するのが無難な防備策でした。
結局のところ、他地域に先駆けて内モンゴル自治区で文化大革命が推進された真の目的はここにあったのです。
中共はモンゴルの指導者、ウラーンフーを引きずり下ろした(1966年)後に、その「母体」とされる内モンゴル人民革命党員の粛清へと攻撃の狙いを定めたのです。日本の敗戦後、同党は(ヤルタ密約で分断された)南北モンゴルの統一を目指したのですが、中共は1947年に同党を解散していましたから、1949年の中共の建国後でも同党は存在していなかった。
しかし1967年あたりから中共は内モンゴル人民革命党の歴史(満洲国時代の日本は同党を脅威視せず)を問題だとし、逮捕を始めたのです。
内モンゴル自治区の最高指導者のウラーンフーさえ「民族分裂主義者」なのだから、満洲国時代に「日本刀をぶら下げていた」(日本統治に協力した)モンゴル人がそうであることは間違いないというわけです。
ウラーンフーの失脚に伴って内モンゴルでは大衆同士の武力衝突が頻発し、半ば内乱状態が続き、毛沢東・中共は混乱収拾という名目で1967年4月に謄海清将軍(謄は当て字)を派遣しました>
かくして「批判闘争」という名の「虐殺」が内モンゴルで大々的に、遠慮なく、嗜虐的に、創造的に、毛沢東流に、断固として、見せしめの如く、堂々と展開されていく。まるで「匈奴への報復、復讐」・・・「正義と思えば何でもできる」、人間とは、モラルとは・・・日本人の想像を絶する虐待、虐殺がニヤニヤ笑いの漢族によって遠慮会釈なく行われていく。(つづく)