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雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(84」

2020-09-30 12:43:19 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(84」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/194(2020/9/30/水】中共圧政下の南(内)モンゴル出身の論客、楊海英氏が習近平・中共包囲殲滅戦で存在感を増している。小生なんぞは「もっとやらんかい!」と尻を叩かれている感じだが、「心技体」、やる気・知力・体力、特に体力が日々劣化しているので、気は焦るのだが“アワワワワ”状態だ。


「モンゴル」と聞くと日本人は蒙古、元、ジンギスカン、フビライハン、蒙古襲来、元寇、騎馬民族、蒙古斑、大相撲などを連想するだろう。何となく馴染みがあるのだが、最盛期にはユーラシア大陸を席巻した「モンゴル」について調べてみた。


モンゴル(モンゴリア、蒙古とも)はモンゴル高原・ゴビ砂漠を中心とする地域に住む遊牧民族で、漢族からは「匈奴(きょうど)」と呼ばれていた。


漢族は自己中で自分達以外は野蛮人、獣を意味する「夷狄」であるとして、日本は「東狄」(東の獣)、「委」(小さな大人しい動物)、後に人間みたいだから人偏が付いて「倭」、さらに「和」(なごやか)、「大和」になったとか。300年頃からお日様が出てくる日乃本「日本」の呼称を渋々認めたようだ。


漢族の華夷秩序に準じる民族とか朝貢国、子分として認める、ということだが、この「俺様が一番偉い」という尊大思考が今も変わらないのは大したものというか、時代を見る目がないというか、病膏肓、永遠に治らないだろう。


一方、匈奴の「匈」は「恐ろしく凶悪なワル」という意味だ。漢族は天敵、武漢ウイルスの如くに匈奴を恐れた。匈奴の末裔(蒙古・モンゴル族、満洲族など)に漢族は二度も支配されたから、今でも蛇蝎の如くモンゴル人、ウイグル人、チベット人を“潜在敵”として憎悪し、恐れているようだ。


「雑学サークル2020.1.29:匈奴とは? 漢を苦しめた戦法や冒頓単于、フン族との関係を解説」から要約する。


<古代の東アジアの主権を握っていたのは、多くの時代や地域では中国でしたが、時代によれば遊牧民族たちも大きな勢力を築いています。「匈奴」と呼ばれる人々が紀元前4世紀~紀元後1世紀にわたりモンゴル高原を中心にして、広大な範囲を支配していたのです。


遊牧民族である彼らは馬を巧みに操り、古代世界において屈指の戦闘能力を発揮した集団になります。秦や漢を苦しめるまでの勢力を持っていた「匈奴」について解説していきます。


◆匈奴とは中国から見て北方や辺境にいる遊牧民族


匈奴は紀元前4世紀の頃には、古代中国の北部や辺境に姿を現した武装した遊牧民族たちであり、中国の王朝と軍事的な衝突を起こすこともあります。ときには外交や交易を行うようになっていました。


冬は比較的、高度の低い土地で放牧を行い、夏になるとモンゴル高原などの標高の高い土地に移動していました。家畜を放牧する彼らは馬に乗ることに長けており、農耕を行うことは稀で、主に狩猟や牧畜で食料を得ていたのです。食生活はヒツジの肉や魚、狩猟で得た野生の鳥などが中心であり、ヨーグルトなどの乳製品も食べています。


住居は移動式の簡素なテントであり、羊毛などにより編まれた布と木組みを使って建てられていたようです。


◆「元」「清」は遊牧民による中国征服王朝


「単于(ぜんう)」とは多くの集団から形成されていたと考えられる匈奴の「リーダーたちのリーダー」、簡単に言えば「王さま」や「皇帝」とも言える地位になります。単于は匈奴だけでなく、北アジアの遊牧民国家の「君主」を示す言葉として使われています。


匈奴は漢の時代に滅びますが、本来は血族単位で行動している遊牧民族が「集合して国を作る」という発想は彼ら(匈奴)以外の遊牧民族に継承されるようになるのです。


鮮卑、突厥、柔然、契丹、女真などの、モンゴルあるいは中国北部にいる遊牧民たちは同様の仕組みを受け継ぐことになります。


遊牧民の血筋や国家は隣接する中国にも大きな影響を与えることが多く、モンゴルを統一したチンギスハンは元王朝を、中国北東部にいた女真族は清王朝を作るなど、遊牧民たちは中国に征服王朝を建てることにもなるのです。


◆匈奴は戦上手


古代の中国の王朝である秦(始皇帝などで有名)と匈奴たちは領土が一部重なっていたため、両者のあいだでは軍事的な衝突が起こることがあったのです。


匈奴は遊牧民であるため、馬を巧みに乗りこなします。このことが大きな軍事的なアドバンテージになるのです。秦にも馬はいましたが、あぶみ(足を置くための装置)などの馬具が発明されてもいない時代であるため、馬に乗ったまま武器を扱うことなど、技術的にはほとんど不可能であろうという認識でした。


しかし遊牧民族である匈奴の戦士たちは馬上から弓を放ち、それをターゲットに命中させるほどの優れた乗馬技術を持っていたのです。


強靭な金属で鎧を作ることができない時代であったため、馬から放たれる矢は圧倒的な殺傷能力を持っています。匈奴の馬上からの弓をつかった射撃によって、秦などの中国国家は大きな苦戦を強いられるようになったのです。馬に乗って戦える兵士たちを持っていたことが、匈奴の圧倒的な強さを支えていました。


◆匈奴と中国(秦・漢)の戦略の違い


中国の戦略は城や町を拠点としての戦い方ですが、匈奴は遊牧民族であるため、拠点も移動式になります。中国からしてみれば匈奴を滅ぼすために攻め入る場所がないわけです。


たとえ一時的に戦闘に勝ったとしても、匈奴は遊牧民であるがゆえに、攻められても逃げればいいという作戦であったわけです。中国側が優勢のときは逃げればよく、中国側が守りに入れば、周辺を根こそぎ略奪すれば良かったわけです。


また匈奴のリーダーは先頭で軍勢を指揮するというスタイルであったため、戦況判断を軍隊全体に波及させることができました。つまり劣勢のときに素早く逃げられるということが、匈奴の戦術上の強みとなります。


戦術的・戦略的に守りに優れている軍団であり、そもそも攻撃は騎兵で行うためその時点で強いわけです。攻守ともに優れた集団であったため、中国の軍隊は匈奴に苦戦することになります。


◆匈奴と秦の戦い


秦は始皇帝によって中国全土を統一したことで有名ですが、紀元前771年から存在しています(滅亡は紀元前206年)。匈奴は紀元前318年に秦を攻撃しましたが、敗北しています。およそ100年後の紀元前215年、秦の始皇帝は領地を占有している匈奴を討伐しています。


匈奴を撤退させた始皇帝は、各国が各地に点在するように作っていた長城を改築、それらをつなげるようにして北方からの遊牧民族たちの攻撃を防ぐようにしたのです。これが「万里の長城」であり、匈奴を始め、中国の北方に住んでいたり、あるいは北からやって来たりする遊牧民族の攻撃を防ぐための城塞になります。


◆冒頓単于が匈奴を支配する


始皇帝によって追いやられた匈奴は、同じ遊牧民族でありながら違う部族である月氏(げっし)からも攻められます。


王族の一人である冒頓(ぼくとつ)は、自分の父親に人質として月氏に送られましたが、父親は息子が人質になっているにも関わらず、月氏に戦争を仕掛けました。冒頓が人質となったことで油断していた月氏を匈奴は倒し、また冒頓は自力で月氏から馬を奪って帰国してきたのです。


その後、冒頓は父親を自分の精鋭部隊によって弓を放って暗殺、父親の「単于=王さま」の位を奪い取り、匈奴の皇帝「冒頓単于(ぼくとつぜんう)」として君臨することになるのです。


◆匈奴と漢の戦い


紀元前200年に前漢の皇帝である劉邦は歩兵32万を率いて匈奴討伐に繰り出します。40万の兵を率いる冒頓は弱い兵を前線に配置して、わざと敗北を演出し後退します。劉邦はそのまま勢いに乗って前に出てしまいますが、匈奴の軍勢に包囲されてしまったのです。


講和の条件として、匈奴側は漢に対して貢ぎ物を渡すように要求し、建国して間もなく国力の乏しかった漢はその不利な条件を飲むことになったのです。


漢王朝が安定していき、強大な国家となるまでその関係性は続きましたが、漢の武帝の時代に大規模な匈奴との戦争が起きました。その結果、匈奴は敗北してしまい、奥地へと逃げ延びたとされます。


国力をつけた漢には対抗できなくなっていき、かつてとは立場が逆転し、漢に人質を取られるようになっていきます。


やがて匈奴は分裂し、北と南に分かれます。北匈奴は、後漢とそれに協力する南匈奴によって討伐され、どこかへと消えました。南匈奴は中国に同化してしまい、匈奴は歴史から消えてしまったのです・・・>


まるで歴史小説みたい。その後、北匈奴はどうなったのか。「それからの北匈奴」なんて読みたくなるね。


<匈奴という言葉の呼び名が「フン」に似ていることから、4世紀にヨーロッパを荒らし回ったフン族とのつながりを指摘する研究もあります。名前が似ているかもしれない、使っていた言語の一部に共通点があるかもしれない、少なくとも遊牧民族で騎馬に乗って戦っていることは同じ、という一致があるわけです。


また4世紀に中国から西へと追いやられたことと、4世紀にヨーロッパへ東から現れたことで時代と移動した方向の一致もあります。もしかすると、フン族=匈奴である可能性もあるわけです>


その頃の日本ではヤマト王権ができ始めたらしい。日本が海に囲まれた島国でなければ北匈奴が逃れてきたかもしれないが、平地が少なくて「山ばっかり、馬が使えない、羊も飼えない、雨ばっかり、心底がっかり」だから絶望したろう。当時の日本は水稲、陸稲の田畑と漁労採集の定住生活で平原は少ないから、地平線を見ながら何十キロも馬を駆る匈奴には向かない。スポーツも日本の相撲は土俵の中、一方、モンゴル相撲には土俵がない!


異民族に侵され支配された長い歴史を持つ漢族にとって、異民族は大小を問わず「潜在敵」なのだろう。誇りが高い分、人間未満の夷狄や蛮族に支配されたことは民族の屈辱という思いが強いのかもしれない。


もっとも支配民族を「蓄財蓄妾美酒美食」、欲しがるものは何でもくれてやれ(毛沢東)というタラシコミに長けているから、清朝時代の多くは、末期の内憂外患的排外主義のインテリ以外は結構、面白おかしく暮らしていたようだ。


日本人は75年間も異民族支配にあるけれど「面白おかしく暮らせる」からほとんどの人は満足、「コロナ禍で遊びに行けない、もう死にそう」という悲鳴は上げるが、「独立しよう、普通の国にしよう」なんて奇特な人以外は誰も思っていない。ましてや元寇でひどい目に遭った、モンゴル許すまじ、なんて叫んだらまず入院させられる。


楊海英先生著「中国人の少数民族根絶計画」から。


<社会主義時代になると中国人たちはモンゴル人の過去を思い出して、次のように話しました。


「内モンゴルは国境地帯から北京まで平らな草原が続き、敵は数時間でやって来る」と、中共の指導者達は真剣に話し、公文書にも記載されていました。内モンゴル自治区は修正主義者(毛沢東にたてつく邪道な似非共産主義者)のソ連やモンゴル人民共和国(北モンゴル、現モンゴル国)と国境を接し、その軍隊が攻めてきたときのモンゴル人の動向が定かでない以上、事前にその精鋭を集団粛清するのが無難な防備策でした。


結局のところ、他地域に先駆けて内モンゴル自治区で文化大革命が推進された真の目的はここにあったのです。


中共はモンゴルの指導者、ウラーンフーを引きずり下ろした(1966年)後に、その「母体」とされる内モンゴル人民革命党員の粛清へと攻撃の狙いを定めたのです。日本の敗戦後、同党は(ヤルタ密約で分断された)南北モンゴルの統一を目指したのですが、中共は1947年に同党を解散していましたから、1949年の中共の建国後でも同党は存在していなかった。


しかし1967年あたりから中共は内モンゴル人民革命党の歴史(満洲国時代の日本は同党を脅威視せず)を問題だとし、逮捕を始めたのです。


内モンゴル自治区の最高指導者のウラーンフーさえ「民族分裂主義者」なのだから、満洲国時代に「日本刀をぶら下げていた」(日本統治に協力した)モンゴル人がそうであることは間違いないというわけです。


ウラーンフーの失脚に伴って内モンゴルでは大衆同士の武力衝突が頻発し、半ば内乱状態が続き、毛沢東・中共は混乱収拾という名目で1967年4月に謄海清将軍(謄は当て字)を派遣しました>


かくして「批判闘争」という名の「虐殺」が内モンゴルで大々的に、遠慮なく、嗜虐的に、創造的に、毛沢東流に、断固として、見せしめの如く、堂々と展開されていく。まるで「匈奴への報復、復讐」・・・「正義と思えば何でもできる」、人間とは、モラルとは・・・日本人の想像を絶する虐待、虐殺がニヤニヤ笑いの漢族によって遠慮会釈なく行われていく。(つづく)









雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(83」

2020-09-28 16:05:43 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(83」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/193(2020/9/28/月】土曜の夜中に寒くて目を覚ました。温度計を見たら21度、ちょっと前まで昼間は29度もあったのに急に冷えてきた。今冬初めて暖房23度にしたが、頭はボーっとして悪寒もあり、風邪を引いたようだ。夏中はバスタオルをお腹に掛けていたが、タオルケットを出して秋に備え、風邪薬を飲んだ。


日曜日は終日、ベッド。体調不良だと脳ミソもブルーになる、マイナス思考になる。当たり前だが、鬱病の人はどん底に落ちやすい、こんな風に。


体力は落ちるばかりで、やりたいことはさっさとやっておきたいと思うのだが、やりたいことだらけで、優先順位をつけるにしてもそれなりに調査研究しておかなければ判断ができない。


基礎的な調査研究だって結構手間暇がかかるから、それにも優先順位をつけなければならない。どれから手を付けるべきか・・・もうほとんど迷路の中を右往左往、行ったり来たり・・・ああ、私はあの世に逃げ出したい・・・鬱病が昂じてくるのが分かるのだ。


まあ死神による希死念慮、自殺願望、デストルドー、タナトスとかのお誘いで、「アンタなりによー頑張った、もうええやろ、楽になったらどうや」とささやくわけ。


この鬱病は抗鬱剤で抑えるしかないのだが、脳みそ、思考力、興味、関心までが抑制されるので、「ただ何となく生きている」風になり、ちっとも興奮しない。つまり、面白くない! 生きている実感がない! 元気がでない! ほとんど死んでる!


クスリやめますか それとも人間やめますか? 医者の言うことは分かる、されど人間は考える葦やで、小生はただの生きてるだけの葦でいることには耐えられない。抗鬱剤治療と葦人間でいることは両立しない、しかし治療をしなければ精神劣化を抑制できるかもしれないが、プッツンしやすく、概ねあの世行きになる。


どないしよ・・・


鬱病者の多くは社会人として暮らしているだろうが、表面的には普通に見えても、傷つきたくない、人間関係のストレスには耐え難い、再発症を避けたい、と引き籠り志向があるだろう。一方で引き籠れば社会から落伍するからそれも避けたい・・・心は揺れ動く、千々乱れる、安定、安心しない、不安だ。どないしたらええねん・・・ああ逃げたい・・・


「昨日まで面白い話でみんなを笑わせたりして元気だったのに・・・」、先輩の奥浩平が自殺したら周辺の人は皆同じようなことを言った。奥浩平は「せめて最期は」と、明るく陽気な青年を演じて見せたのだろう。


溢れるばかりの過剰な正義感、強烈な自我、鋭い感受性、その裏側の壊れやすい繊細な心、無力という挫折感、自己嫌悪、そして孤独・・・古人曰く「青春は概ね悲惨である」。


壮年になると仕事、子育てなどで忙しくて死神は消えるが、老人になると一応は人生義務編ゲームは終わり、大体が好き勝手に生きていいよ、と牧場に放牧される。役割がなくなった役者、声がかからない俳優・・・おまけに脳ミソも体もよれよれで、まるで「老残」、廃車寸前、「晩年は概ね悲惨である」。で、老人は青年のようにナイーブに戻っちゃう。これが問題だ!


一般社団法人日本老年医学会によると――


<わが国は高齢化率23%超という高齢者社会であると同時に、高齢者の自殺率も高い。自殺には一般に精神疾患が関与することが知られているが、高齢者では特にうつ病・うつ状態が関与する割合が高い>


鬱病老人はいかに晩年を生きるべきか、難しい問題だ。抗鬱剤治療で実験動物みたいに穏やかに(死者の如く)生きるか、治療せずに短命ながら喜怒哀楽、天国と地獄の思考サーカスの中でそれなりに「人間らしく」生きてみるか、あるいはプッツンしたらしたでそれでいいとか・・・


ところが全国3500万の同志諸君、プッツン自殺することで周辺の人を悲しませたり悩ませたりする権利なんてないわけよ、だろ? ここが問題だ。


君の自裁を知った人々の中には「私が余計なことを言ったからかなあ」「もっと優しくしてあげればよかった」なんて悩む奇特な人もいるかもしれない。


つまり唐突な「ちゃぶ台返し」ではなく、周囲の皆がそれなりに受容できるような「大義に死す」とか「なすべきことはした」とか、できれば穏やかな死を遂げる、これが「上」やで、「あしたの上」。燃え尽きて真っ白な灰になるのは「特上」、男の夢だなあ。


その一方で当てつけ自殺、これは天も苦い顔をする「下」、邪道だな。このところコロナ禍もあってか自殺者が増えているようだが、付和雷同的な安直自殺も「下」だろう。


「立派な最後でした」と誉められなくとも、せめてそれなりに、自分らしい始末、エンディング、フェイドアウトの演出、お別れの会、相続、葬儀の準備、香典返し、会葬御礼、初七日、四十九日あたりまではきっちり準備しておくのが人間としての勤めではないか。


格調高い遺書も筆で和紙に書かなあかんさかいな、70の手習いやで・・・衝動的な死は美しくないし、「終わり良ければ総て良し」ルールに違反しとるで。


こう考えると「死出の旅」の準備は面倒くさくてウンザリ、「生きてる方がましだ」となる、つまり小生のような鬱病ヂヂイから死神は離れていくわけね、「よーグチャグチャうるさいやっちゃ、こいつはまだ期が熟してないから次回へ回そう」と。


かくして鬱病者は危機(チャンス?)を脱するわけ。落ち込んだ時はそれなりに症状を記し、整理、分析(自己省察)していくと脳ミソが落ち着く・・・やってみなはれ。


そうだ、「シーチン・メソッド」! 俺が世界の鬱病患者を救うのだ、「21世紀のフロイト」、“死の商人、ダイナマイト・ドン!”ノーベル医学賞は俺で決まりだ! ほとんど躁状態・・・やっぱ変かなあ。


なお、愛人のことは絶対に漏らさないこと。これだけは静かにあの世に持っていかないと小便塚になるね。小生の父は母に「女とは別れた」と一言、母は札束をもって女を訪ねて「永らくお世話になりました」と挨拶、それできれいさっぱり。海舟を真似れば「10年振りに親父とお袋が同衾していたのを見て、さすがの俺もびっくりさせられたぜ」。


今はそういう粋な時代じゃないからなあ、権妻のあった昔が懐かしい・・・妾となした子、相続の際には大騒動になるから早めに手を打つべし。該当者はくれぐれも注意して下さい。


さて、前回に続いて、中共毛沢東の指導する妄想餓狼「毛躁兇徒」による内モンゴル殲滅戦について楊海英著「中国人の少数民族根絶計画」から学んでいこう。


<(中共はなぜモンゴル人を根絶やしにしたかったのか)国際情勢も影響した。1956年の「ハンガリー動乱*」は共産党支配体制の改革を求めていたが、ソ連の武力干渉で数十万が反革命罪で処分され、社会主義陣営に動揺をもたらした。(*推定で死亡2500~3000、負傷1万3000、難民20万人)


東欧諸国の知識人たちの反共思潮を見た中共は「反右派運動」を発動し、中共に不満を抱く120万人を粛清した。(1949年の建国宣言の際、多くの人々は共和制になると思っていたろう。中共独裁になる、まさか自分が殺されるとは夢にも思わなかったのではないか。毛沢東に騙されたのだ)


中共はスターリン亡き後は(独裁に否定的なソ連を敵に回して内部を固めるため)「ソ連修正主義批判」「中ソ対立」を鮮明にしていく。


この際に重要な問題になってきたのは、ソ連とモンゴル人民共和国が国境を越えて侵攻してきたときに内モンゴルのモンゴル人がどう動くかである。


中共にとってモンゴル人は二つの「前科」がある。一つには、1932年の満洲国建国の際に、日本に協力したこと。もう一つは、日本軍が去った後に、モンゴル人民共和国と内モンゴル(日本の影響下で役人軍人になった人が主軸)との統一を進めたことだ。


このために中共にとってモンゴル人は「日本刀をぶら下げた奴ら」で信用できなかった。


モンゴル人にとって敵はずっと中国で、中国からの独立は19世紀末からの民族の宿願だった。それを実現するためには日本の力でもロシアの援助でも、なんでも利用したかったのだ。


日本の力を借りて、中国人たちを追放して、独自の国家を創りたかった。これが満州国時代のモンゴル人の素直な心情でした>


毛沢東・中共は現実無視の政策で支那全土をユートピアとは反対のヘル(地獄)、ディストピア、飢餓地獄にしてしまい、毛は名ばかりの盟主に追いやられていく。


その段階で毛をさっさと殺すなり幽閉するなりしておけば1億人もの死傷は出なかっただろうに・・・掛けた情けが仇となり・・・


実務派の劉少奇やトウ小平は教条主義一転張りの毛沢東路線を改めていくが、毛沢東は初心なガキ「紅衛兵」を使嗾、動員して実務派を叩き、個人独裁復活を狙う。文化大革命という狂気の内乱、民族浄化が内モンゴルで始まるのだ。(つづく)



雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(82」

2020-09-26 17:35:14 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(82」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/192(2020/9/26/土】人間に一番近い動物はチンパンジーだという。見た目は愛嬌があるが、意外に嗜虐的であり、ボスの座から落ちた者を寄ってたかってイジメ殺す、死後も凌辱する、そして熱狂が覚めて冷静になると、ボロボロになった死骸を見て「何でこんなに酷いことをしてしまったのだろう」と悲しげな素振りをするらしい。


反省するわけだ。事の一切を観察し続けていた動物学者はその様子を見てびっくりしたという。小生だってびっくりだ。反省するチンパンジーもいれば、ちっとも反省しないし、それどころかもっと残酷な殺し方を発明したいという、殺生を好む人間、チンパンジー未満もずいぶん多い。


「奴は敵だ、敵を殺せ、見せしめになぶり殺せ」というのは原始人の頃からあったろう。狩猟採集の縄張り争い。生存空間を守り、かつ拡大していかなければ群や部族が駆逐される。やがて合従連衡、通婚などで大部族、さらに国へと大きくなっていったのだろう。部族間で争うよりも交易(物々交換)、交際(遺伝子交配)した方がいいと分かってきたのだ。


統一国家らしきものが始まり、支那や半島の影響もあって600年頃には冠位十二階、十七条憲法を制定、国家の体制が固まってきた。その過程で神道という勇壮な「日本人の物語」が整い、一方で穏やかなマナーを良しとする仏教が伝来普及したこともあって、日本の場合は「残虐な処刑は恨みを買うから」と忌避されていったのかもしれない。


海に囲まれた小さな、コンパクトな、人口の少ない、単一民族だったから統治しやすい、それ故に過酷な刑で抑えつける必要が薄かったのだろう。あらゆるものに神性が宿っているという古代からの日本的シャーマニズムの影響が大きいかもしれない。


封建体制から国民国家へ大転換した戊辰戦争の戦死者数8420人(新政府側3550人、旧幕府側4690人)。当時の人口の0.03%以下・・・慶喜、西郷、勝らが必死になって衝突を抑え込んだからだ。「和を以て貴しとなす」の教えがあったからこそ、新時代へ向けて国力を温存できたのではないか。


藩別の戦死者は薩摩514人、長州427人、そして会津2557人(うち女性194人)。京の治安を命じられた会津は薩長の恨みを一身に浴びてひどい目に遭った。今、石光真人編著「ある明治人の記録 会津人・柴五郎の遺書」を読んでいるが、最果ての下北半島に追放された悲惨さは読むのが耐え難いほどだ。


「薩長許すまじ」、表には出さないけれど恨みつらみの無念の思い・・・会津人の気持ち、分かるなあ。


<会津藩は戊辰戦争の際には庄内藩とともに、プロイセン王国(後のドイツ帝国)に対して、駐日代理公使ブラントを通じて蝦夷地(北海道)に持つ所領の割譲を提案し、その見返りとして兵器・資金援助や軍事介入を得ようとしていた。


プロイセンは普仏戦争の直前で余裕がなかったことから宰相ビスマルクによって1度は拒否されたが、3週間後に一転して認可された。しかし既に会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており実現しなかった>(WIKI)


英は薩長支援、米は南北戦争中、仏は恭順の幕府支援、孤立した会津はすがる思いでプロイセンに支援を求めたのだ。当時、日欧の通信は片道2か月はかかったから戊辰戦争が長引けばドイツの援軍で「会津による政権」はあり得たかもしれない。


なるほど、そういう経緯があるからビスマルクは日本の政情に通じ1873年、伊藤博文、大久保利通ら遣欧使節団を前に「欧米列強の甘言に騙されるな、植民地にされるぞ、独立のためには列強に負けない軍事力、経済力を持つべし」とアドバイスしたのには上記の会津の支援要請が背景にある訳だ。


1871年統一という遅れてきた青年“ビスマルクのドイツ帝国”としては「アジアを英仏米の好き勝手にはさせない、日本を勢力均衡の駒として使える」という思惑があったろう。さすが鉄血宰相は「硬くて食えぬ奴」だ。


閑話休題。吉野直哉著「張家三代の興亡 張有財・張作霖・張学良」によると、毛沢東は「死刑の方法は120あるが、半分は俺が創った」と豪語していた。まあ、話半分のまゆつば物だろうと思っていたが、楊海英著「中国人の少数民族根絶計画」にあった実に多種多彩な殺し方を見て、毛沢東の言葉は真実ではないかと恐ろしくなった。


日本でも江戸時代には笞打、石抱責め、水責め、海老責めなどの拷問はあったが、真偽はともかく「白状させる」のが目的で、責め殺したり誤認逮捕は役人の失点になったという。それなりに慎重で、石抱責めは医師の監視が付いていたとか。


中共の処刑、拷問はほとんどが強者が弱者を苛む集団リンチ、「正義を装った嗜虐、民族浄化、派閥抗争、私闘」そのものだ。内モンゴル出身の楊海英氏の著作から引用、要約する。


・兄貴たる中国人=漢族が中心となって弟の諸民族を同化し融合していくべきだという「中華民族」論がある。習近平の「中華民族の偉大な復興」論の背景だ。チベット人、ウイグル人、内モンゴル人(列強のヤルタ密約で南北に分断された南側、南モンゴル)をジェノサイドによってでも同化させるという意味である。


・内モンゴル人は同地での文化大革命を「モンゴル人のみを対象とした殺戮行為」と認識している。満洲国では日本式の近代教育を受け、近代思想を身に着けたモンゴル人たちを、中国人は「日本刀をぶら下げた奴ら」「日の丸を担いでいた奴ら」などと呼び、「対日協力者」だと批判、断罪した。


・モンゴル人の民族自決を目指した歴史も「祖国を分裂させようとした行動」だと、中共建国から17年も経ってから批判し始めた。モンゴル人の近現代における行動はすべて罪として再清算され、周恩来の支持により大規模なジェノサイドが内モンゴルで始まった。


・1966年5月、モンゴル人の最高指導者ウラーンフーが失脚に追い込まれ、67年11月から「ウラーンフーの黒い路線を抉り出し、毒害を一掃する」「内モンゴル人民革命党員を粛正する」闘争が始まった。


ウラーンフーは中共建国より2年半も早く成立した内モンゴル自治政府(後に自治区)のリーダーで、中共が標榜する「民族自治のシンボル」だった。それが一転して「反党叛国集団」「民族分裂主義者」と非難されたのは、モンゴル人の伝統的な遊牧生活の維持を主張し、中華的な定住・農民化と、漢族の入植(乗っ取り)に否定的だったためだ。


要は中共は民族自治を排除し、内モンゴルから民族主義的なモンゴル人を追放し、完全に漢族の入植地にしたかったということだ・・・


「中華民族の偉大な復興」とは「漢族以外は奴隷にする」ということだ。(この項は次号に続く。雨の中散歩して体調を崩し、パワーダウン)



雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(81」

2020-09-24 15:05:17 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(81」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/191(2020/9/24/木】「ボン、大きくなったらなんになる?」「ヘータイさん!」


元気な良い子は第2次大戦の大敗までは概ねそんな感じではなかったか。今は平時から戦時への歴史的な転換期にあるから、ヂヂイとはいえ血が騒ぎ、ほんの少しでも中共殲滅・支那解放戦の勝利に寄与したいものだと思っている。


小生が若くて元気で独身なら人間魚雷、特攻隊、諜報員、狙撃手、潜水艦なんて適性がありそうな気がする。しかし、古稀になって体力は日に日に衰え、精神的にはますます無口、陰湿、孤独、諦観、鬱の傾向が強まっているので、表ではなくともせめて裏で働く軍属として貢献できたら御の字だ。


英霊の末端に名を連ねたい、でも無理だろうなあ、何かできることはないかなあ・・・などと思い煩っているが、そのうち妥当な「解」が見つかるだろう。「爺さん、あんたが率先して戦時国債を買うべきだ、それがあんたにできる最大の貢献だ」なんて折伏されたりして・・・ちょっとなあの気分。


近年では軍事マニア、兵器マニア、ミリオタ、国防女子・・・結構人気だから国防の第一線で働くというのはそのうち狭き門になるのではないか。イザ!という時代にあってはいずこの国でも「大義に死す」の血が沸くようだ。夏彦翁曰く「みんな正義が大好きだ」。


ただ、ハイテク時代の今は、元気なら一人前の兵士になれるわけではないだろう。潜水艦などの乗員はかなり特殊な能力が必要のようだ。防衛省によれば――


<各教育隊や他部隊から潜水艦乗員適性のある若年隊員が集まります。着隊後は選抜適性検査(健康診断・耐圧試験・心理適性検査・面接)を実施して、合格した隊員が潜水艦教育訓練隊に入隊します。


潜水艦乗員への道を歩んでいく第1歩の始まりです。これから海曹士課程は約4ヶ月間、幹部課程は約5か月間の教育が始まります。


潜水艦では緊急時に潜水艦から個人脱出できるように訓練を実施します。潜水艦の中で火災や浸水があった場合の応急対処を学びます。課程教育の集大成として、潜水艦に乗って実習をします>


潜水艦は沈没すると逃げ場がないというイメージがあるのは2000年8月のロシア潜水艦「クルスク」沈没事故が影響しているだろう。日本でも大きな関心を呼んだ。ネットによると――


<原子力潜水艦クルスクは、ソ連体制が崩壊した後のロシアで初めて完成した潜水艦でした。クルスクは(北極圏北の不凍港でロシア海軍北方艦隊の閉鎖基地のある)バレンツ海で潜航訓練をしている最中、魚雷発射室から爆発を起こして沈没しました。


発射準備中に起きた爆発で、艦体に大きな穴が開き、艦首の三つの区画が崩壊したそうです。


米英、ノルウェーの各海軍が支援に名乗り出ましたが、ロシア側はこれをすべて拒否。クルスクの乗組員118名は全員遺体となって発見される悲惨な事故となりました。


オランダ企業が潜水艦を引き上げる契約をロシアと結び、潜水艦の艦首を除く全部位を回収することができました。


海軍はほかの潜水艦との衝突事故であったと主張していましたが、政府の公表した報告書によれば、高濃度の過酸化水素が魚雷から漏れ出てしまったために発生した魚雷爆発によって潜水艦は沈没したというものでした>


以下の記事を読んで「溺れた?潜水艦を救う仕事」があることを生まれて初めて知った、びっくりした。産経2020.9.16から。


<【国民の自衛官 横顔】(4)人命救助、深海450メートルの闘い 海自潜水艦救難艦「ちよだ」潜水科 熊坂雄二准海尉(53)


水深450メートルにも及ぶ深海に潜る特殊技能を持つ「飽和潜水員」としての任務に、30年以上にわたり携わってきた。高い水圧に耐えるため、機械でヘリウムガスを体内に取り込み、加圧空間で何十時間も過ごすこともあるという過酷な職務だが、「海自の飽和潜水の発展に、微力ながら貢献できてうれしい」と屈託のない笑顔を見せる。


活動拠点は、横須賀基地に所属する潜水艦救難艦「ちよだ」。潜水艦が浮上できないなどの事故時の対応を想定して設けられている部隊だが、幸い、出動を迫られるような事故は入隊後、一度もなかった。海上での航空機などのトラブルや地震・津波などの災害時に、救助に駆けつけることが主な任務だ。


入隊は10代後半。まもなく先輩隊員の飽和潜水員の仕事を目にし、「自衛隊にこんな職種があるなんて」と強い衝撃を受けた。重さ数十キロにも及ぶ頑丈な装置を全身にまとい、深海に潜っていく姿に憧れ、「自分がやるべき職務はこれだ」と意志を固めた。


平成7年に豊後水道で起きたヘリ墜落事故では、後日受け取った遺族からの手紙に心を打たれた。「主人を冷たい海から帰してもらって…」と感謝の気持ちがつづられており、人に貢献できる仕事だと、改めて実感した。


現在は後進の育成に力を注ぐ。「志は高くても、なかなか到達することのできない職種。自分が積んできたスキルを全て伝える」と意気込んでいる>


「飽和潜水」とは何か、その原理は小生には理解不能だが、「深海の水圧に体をさらしつつ、超大深度への潜水を実現するための技術。100メートル以上の深度でも安全に長時間の活動ができるようになり、潜水病の危険も減った。最大で700メートル以上を潜ることも可能とされている」とか。海自は世界トップクラスの能力を持っているそうだ。


ロシアの軍事力は世界のトップクラスで武器輸出も盛んだが、民生分野ではロシア製のテレビ、洗濯機、掃除機なんて聞いたことがない。ほとんどが品質の良い欧州製か安い韓国・中国製らしい。ソ連崩壊後も国家政策の比重は軍事優先で、民生は後回しなのだろう。


人の命が安い、軍人はなおさら安いのか。小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター特任助教「徴兵制を段階的に廃止 プーチンの狙いとは」2017/11/5から。


<ロシアにおいて徴兵義務を有するのは18~27歳のロシア国民男子で、この間に12カ月の兵役に服する義務がある。


徴兵は年に2回、春と秋に行われ、それぞれ15万人、計30万人が徴兵される。ロシアの人口は1億4400万人と日本よりやや多い程度だが、その中から陸上自衛隊の定数(約15万人)の2倍に匹敵する人数を毎年徴兵していることになる。


これに加えてロシア軍には有給で3年間勤務する契約軍人(兵士または下士官待遇)が38万4000人、職業軍人である将校がおよそ20~22万人勤務している。ロシア国防省はロシア軍の正確な兵力を公表していないが、以上の数字をベースに考えると、総兵力はおよそ90万人強というところであろう>


ロシアでは民生経済が停滞して失業率が高いから、一応はメシが食える軍隊はセイフティネットであり、徴兵後には職業軍人になる人も多そうだ。


つまりロシアでは大昔から将兵も国民も「安い命」のままなのだろう。潜水艦の事故は「あってはならない事故」ではなく「あっても驚かない事故」らしい。


<ロシアの潜水艇で火災、乗組員14人が死亡 CNN2019.7.3


ロシアの領海内で探査活動に当たっていた潜水艇で火災が発生し、乗組員14人が死亡した。国営タス通信が2日、国防省の話として伝えた。


乗組員らは煙を吸い込んで死亡した。火災は乗組員らの「献身的」な行動で鎮火したという。国営RIAノーボスチ通信によると潜水艇は現在、バレンツ海沿岸のセベロモルスク海軍基地に係留されている。プーチン大統領はショイグ国防相に火災原因を解明するよう指示し、海軍司令官が調査しているという。


ロシアでは2000年、バレンツ海で演習中だった原子力潜水艦が爆発を起こして沈没し、100人以上の死者が出た。2008年には原潜の消火システムが誤作動し、乗組員20人が死亡した>


過酷な生、惨めな死・・・それでもロシア国民が従容として受け入れるというか反発しないのは、有史以来、権力者相手には表立って逆らわない、無駄な抵抗はしない、諦めが肝心、ウォッカを飲んで憂さ晴らし、耐え難くなったら自殺するのみ、というスラブの民族性があるようだ。


ロシア正教会は西暦325年から教義は変わらず「神による人間の救い」を信じ、「人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙する」姿勢だという。ロシア人、スラブ民族の精神の土台はロシア正教会の教えにあるのだろう。


「置かれた場所で耐えなさい」か・・・為政者と支配階級(貴族など富裕層)にとってこんなに都合の良い教義はないだろう、好き放題にできるのだから。永遠の「夜明け前」。


支那では以下のような習近平・中共の戦狼チキンゲーム語録が溢れかえっており、多分多くの人民はうんざりしているだろう。


◆強軍志向「軍隊は戦うためにある。私たちは中国の領土を中国から分離することを、いつでも、どんな形でも、いかなる者、いかなる組織、いかなる政党にも許さない」


◆妄想迷走「なぜソ連は解体したのか? なぜソ連共産党は崩壊したのか? その大きな理由は、彼らの理想と信念が揺さぶられたことによる」


「中国の人々は、人類にとってより豊かで平和な未来を他国の人々と描く準備ができている。中国は主要かつ責任ある国としての役割を今後も果たし続けていく」


「中国は常に世界平和を構築する者、世界的発展に貢献する者、国際秩序を維持する者であり続ける」


◆餌付け手なづけ「13億人もの人々を飢えから守ることは、中国による全人類にとって最大の貢献だった」「私たちは貧困との戦争の最終局面に勝利するだろう。これは何千年もの中国の歴史の中で、極度の貧困が解消された初めてのことになる」


◆世界制覇「中国とアメリカは、両国と世界の人々に利益をもたらすために、互いに協力し合ってWin-Winの成果を上げなければならない。広大な太平洋には、中国と米国のための充分なスペースがある」


「中国の世界への扉は決して閉じず、更に広く開くだろう。今日の世界では、どの国も扉を閉ざしながら国の発展を追い求めてはいられない。扉を開けて友人を温かく歓迎し、彼らに親切にするべきだ」


◆虚言妄言「中国人は全ての民族が共存して、決して色褪せない優れた文化を育てる、美しい家を開いた」「中国人は偉大だ。彼らは勤勉で勇気があり、進歩を追い求める中で決して休むことはない」


◆恫喝志向「腐敗は、党の崩壊と国家の滅亡に繋がる可能性がある」「私たちは、虎との戦いとハエとの戦いを同時に闘い続けなければならない」


習近平は「習語録」を小中学校で教え始めたそうだが、ゆとりのある層はひそかに子どもに孔子「論語」を学ばせているとか。「孔子学院」に世界中の愚かなカネの亡者は騙されたが、中国にはまともな人も少数派ながらいるというのは救いだ。


ソ連は「理想と信念が揺さぶられた」から崩壊したのではない。軍事優先と貪官汚吏の特権階級により民生が無視され、民にまともに食さえ与えられなかったから自滅したのだ。中共そっくり。それを習近平は知らない、知らない振りをしている。現実を直視できない妄想痴呆の為政者をたとえ神は許しても人民は許さない。逃げる算段でもするんだな。



雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(80」

2020-09-23 06:28:24 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(80」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/190(2020/9/22/火】死刑囚の永山則夫は生まれ育ちを刑死するまで恨んでいただろう。著書「無知の涙」にこんな一遍を遺している。


<おおき過ぎて見えない神は言った


「こりゃ凶悪犯よ 汝が仕出かした事々 悪いと思って居るのかや 申してみ 顔を上げるな 下げたまま申してみ」


凶悪犯は構わず顔を上げた


「あんたが神という奴か 一度 一度会いたかったぜ おっさん 質問に答えてやろうか


悪いと思ってはいないぜ 第一番に言う あんたに裁く権利はないぜ あんたを信じた為にこうなった それでも裁くというのなら――


俺の育ってきた一日でも あんたは見たのかよ おっさん 神と名乗るくらいなら 分かるな 俺の罪と 育った一日でも較べて見ろ


・・・答えてみろよ えっえ! 答えられねぇだろうよ さっきの威丈(偉)高振りはどうした・・・どうした おっさんよ・・・


いいか答えさせねえ! 俺が! あんたと俺は生きる世界が違うんだ あんたは あんたと人間に差別を作った 俺の純粋なる良心は差別の無い世界の物だ あんたは自分を何だと思ってんだ 言ってみろ


・・・まぁ待てよ 人の名前を聞くまえに何とやら だ 俺は殺人者だ えばれた者じゃねえ だがよ・・・あんたよりましだぜ


あんたは精神界一番の無責任者だ 何をやっても 仕出かしても 黙って黙って 見てきて こうなってから言いやがるが 俺は違うぜ・・・責任とるんだ


誰にも頼んだ訳じゃねえのによ 生みやがって 生きやがってよ! 俺は責任とるんだ!! 俺は責任とるんだい・・・」




凶悪犯はそれっ切り言わなかった 神は無表情のまま聞いていて 力なく頭を下げる凶悪犯に言った


「言う事はそれだけか」>(以上)


そう言えば永山が収監されていた1975年頃「振り向けば 絞め殺したし 我が人生」なんて句が朝日俳壇あたりで評価され、類似の投稿がどっと押し寄せて収拾がつかなくなったそうだ。


我が身の現在の不幸、苦境の主因を生まれ育ちや時代など己以外の他に転嫁する、というのは自己防衛的な本能かもしれない。しかし、多くの人は「なにくそ、負けないぞ!」と逆境に耐え、奮起するのではないか。大体、この世は温室でもお花畑でもない、己が発奮、努力しなければ置いてけ堀だ。


永山には「劣悪な家庭環境で育った」という同情する部分もあるけれど、永山とその周囲の支援者にも感じられないないのは「被害者と遺族への思い」である。


残念ながらそういう実に(小生のような前科者から見ると)偏向した人の多くは「犯罪は社会が生み出す、犯罪者は社会の犠牲者」という、犯罪者に寄り添うような人道主義≒リベラル≒アカモドキが多い。


彼らの多くは「被害者の人権」に思いを馳せることなく「加害者の人権」を大声で唱え、政治問題にして、意識的かどうかは分からないが、ユートピアらしき世界を目指し、終局的には共産主義革命を起こして独裁者、勝者になりたい、我が世の天国にしたいという人々である。


子曰く「たとえ不遇な時でも学び続け、前進する、楽しいことだ」。高杉晋作の辞世の句「面白き こともなく世を 面白く 棲みなすものは 心なりけり」。夏彦翁は「人間とは嫌なものである、この世は生きるに値しない」と諦観しながらも実に楽しそうに人間観察を続けていた。


小生は不治の病だが、「発狂を恐れるキチ〇イ」であろうと自制心、ブレーキに努めている。タガが外れると何をしでかすか分からない、と、自分で自分を恐れ、警戒している。ちっとも自慢にはならないが、それなりに病識があるわけ。


一方でリベラル系脳内お花畑患者は、基礎疾患として「私は正義病」を抱えており、病識が全くないからブレーキが働かず、底なしの悪事に突っ走る傾向が非常に強い。基本的な人道、モラルが完全に欠落し「正義と思えば何でもできる」という、ほとんど歩く狂気、戦狼だ。これっぱかしも信心に濁りがないから目が澄んでいる、狂人の目のように蒼く澄んでおり、これは結構怖いぜ。


「看中國」2020/9/21によると習近平の奥さん、彭麗媛が久し振りにビデオ会議ながら公の場に登場したという。


<習近平国家主席の妻であり、長い間顔を見せていなかった彭麗媛氏は昨日、貧困削減と女性の役割をテーマにした紅二代婦人連の「北京グローバル女性サミット」のビデオ会議に出席し、「貧困緩和」についてスピーチした。習夫婦には「家庭不和」の噂も報じられている。「貧困緩和」は習近平が現在直面している大きな問題の1つだ>


習は妄想的「世界制覇」にのめりこんでいるが、奥さんは習の狂気に耐えがたくなって別居したと小生は思っている。前回の同会議では夫婦で出席しており、今回の奥さん単独参加は夫婦不和説を天下に公表したようなものだろう。


彼女が「貧困緩和」をテーマにしたのは、「我が国は世界制覇よりも6億の貧困層を助けるのが喫緊の課題だ」と習を諫めたということだ。これは先に李克強が5月末の全人代で語った以下の内容と平仄を合わせている。


<中国は人口が多い発展途上国であり、中国国民1人当たりの平均年収は3万元(約45万5000円)ですが、月収1000元(約1万5150円)の人たちが6億人います。1000元では中都市でさえも住宅の賃借が困難であるのに、今は感染症の蔓延に直面して苦しんでいますが、感染症の蔓延が終わった後に人々の生活を守ることは重要な課題になります。


従来から生活が困難であった人々と感染症の蔓延により新たに困難に陥った人々、これら双方の基本的な生活をどのように保障したら良いのでしょうか。我々はそれを最重要事項に取り組みます>


中共内部で習近平の世界制覇を目指す「戦狼武闘派」と、李克強と人民に絶大な人気のある彭麗媛のタッグによる貧困絶滅最優先の「内政福祉重視派」が裏面でガチンコ内戦を本格的に始めたということだ。


2020年6月25日の加茂具樹・慶應義塾大学総合政策学部教授の論稿によると――


<習近平は今年4月末に地方経済情勢を視察するために西安を訪問した際にも「歴史的な大きな進歩は重大な災難の後に生まれている」と述べ、感染症を封じ込めたことは「危機をチャンスに変える歴史的な機会でもある」と述べていた>


中共がどう動くのか小生は分からないが、コロナ禍で世界中はドタバタしており、習近平一派以外に内戦であれ外戦であれ誰一人として戦争を望んでいないということは確かだ。ちっとも支持を得られない戦争を始めれば、習は内外から猛反発を食らうことになる。


常人ならそれが分からないはずはない。習近平が分からないのなら、頭が完全にイカレタか緊急措置入院一歩手前ということだ。我々は中共版「大化の改新」を見ることになるかもしれない。


習が死んだら「人体の不思議」永久保存、生きていたら「最後の皇帝 無知無智無恥の涙」とか出せば生活費は稼げるだろう。いずれにしても年内で中共の方向性は決まるだろう、古人曰く「善は急げ」、また「築城10年、落城3日」とも。