雀庵の「常在戦場/60 銭ゲバ亡者が世界を壊す」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/345(2021/7/31/水】敗戦から17年の1962年頃は戦後復興が終わり、イケイケドンドンの高度成長が幕開けした頃だ。かつての皇軍兵士は企業戦士となり、銃の代わりに商品見本をもって世界中を駆けずり回っていた。先輩たちは偉かった!
元近衛兵の父は1960年に始めた商売が軌道に乗り、株式投資を始めた。「溜まってきた金を眠らしておくより株式投資で蓄財しよう」と思ったのだろう。株屋がよく出入りするようになったが、「株屋の言いなりになると儲からん、有望株がある程度上がると“売れ”としつこい。有望株を他の客に回して儲けさせ、自分の顧客にしようという訳さ」と言っていた。
株屋は売買などで口銭(手数料)を稼ぐ商売だから、顧客には広く浅く儲けてもらえばいいのであって、市井の小口客を優遇するわけではないのだろう。父はやがて優良株だけを寝かして、チマチマした売買は止めてしまった。高度経済成長期だったから「株より自分の商売の方が儲かるし面白い」ということだったろう。今でも現役の金持ち連中はそういう人が多いようだ。「修ちゃんみたいに夢中になって一喜一憂するタイプは株取引には向かないね」と金持ち2人から言われたことがある。
株式や通貨、ゴールドなど金融商品のみならず多くのモノが毎日「売ります・買います」の市場取引で売買されている。日本での起源は江戸時代初期の1620年代に大坂の堂島で始まった米(換金作物≒通貨)市場の先物取引だったという。現物のやり取りがなくても書類上で取引できるし、米の在庫量から今年の新米価格が幾らかが分かれば生産調整もできる。
合理的だが、これがリスク軽減や利益拡大の必要からマネーゲーム(売り惜しみ、買い占め、投げ売り)になり、今のような投資家、株屋、相場師、銭ゲバが跋扈するまでになったのだろう。
そう言えば小豆市場の壮絶な仕手戦を描いた梶山季之の「赤いダイヤ」は1962年刊だった。その梶山の座右の銘が「裸にて生まれてきたに何不足」。小生のそれは「欲少なく足るを知る、足るを知りて分に安んずる」・・・お釈迦様の最後の言葉は「欲に振り回されたところで諸行無常、儚いものである。悟りを求めて日々怠ることなく修行、学問、考察に努めよ。さすれば有意義な人生を送ることができよう」(元始仏典「大パリニッパーナ経」の小生の解釈)。
栄耀栄華は一場の夢、物欲を追い求めても虚しいものだ、理(ことわり)を学び、悟って、有意義な日々を送りなさい、ということだろう。良い教えである。
その影響もあるのだろう、日本人にはカネ儲けより、清く正しく美しくの「清貧」を是とする価値観があり、だからマネーゲームの貪欲銭ゲバ連中や媚中派経営者など、カネカネカネ教信者を“異星人”“野蛮人”と心のどこかで蔑んでいるように見える。
「ウォール街を知る国際金融アナリスト・大井幸子が語る、国際金融市場の仕組みと動向」(キャリタス就活2017.2.8)から。
<市民社会を支える基盤としての経済には、「公共の富」(common wealth)という概念があります。市民は一定の倫理道徳心(common sense)を共通認識しており、社会全体の福祉向上に向けて「公共の富」を共有します。そして麻薬など「公共に反する富」(wealth against common wealth)には断固反対します。
一方、資本主義が国民経済となり、やがてグローバル化し、国際貿易や金融取引が活発化し、さらに一国の経済的繁栄に対して周辺国が競争を挑むようになるにつれ、資本主義が域内の「良心の自由」を超えて、「エゴイズムの自由(野獣的自由)」と解釈されるようになりました。そうしないと過酷な競争に勝利し、生き残れないという理由もあります。
特に金融市場では、自己の欲望を満たすためにはどんな過激な行動も辞さないという「アニマルスピリット」が蔓延し、特権的な大手投資銀行や金融資本家が自分たちは「強欲資本主義」のゲームで自分の欲望を満たすためには何をしてもかまわないという傲慢な考え(野獣的自由)であくなき利益を追求していきます。
これが度を過ぎると(怪しい金融商品で破綻した)リーマンショック(2008年)のような金融危機が引き起こされることになり、体制そのものに大きなほころびが生じます。
また、資本主義の原型である株式会社の発生には「互いにリスクを取る」という発想があります。大航海時代に英国やオランダが東インド会社に乗り出しとき、リスクマネー(資本)を出資し、その割合に応じてリターンを分けるという発想です。
この場合、リスクをどこまで取るのかについて自己資本であれば、それなりに合理的なコントロールが効くはずです。しかし、他人資本であれば、リスクを取って損しても人のカネ、儲かれば自分のカネとなり、モラルハザードが生じます。「エゴイズムの自由」が拡大する理由はここにあるのです。
このように、資本主義の本質には、果敢にリスクを取りに行くことと、「公共の富」を守るという、相反するような二つの規範が内在しています。
「エゴイズムの自由」に歯止めをかけるのが「良心の自由」です。21世紀の政治体制が「公共の富、公共の福祉」を見失えば、経済も金融も300年前までさかのぼって、資本主義の原点を見直す必要がありそうです>
資本主義経済の発展は基本的に「人間の幸福」が目的だろうが、今の銭ゲバが夢中になっている金融資本主義は「カネの亡者のエゴの暴走」。ユダヤ人シャイロックからの借金を踏み倒したどころか悪人に仕立てた「ベニスの商人」アントーニオそのもの。商道もクソもない金銭亡者、魑魅魍魎。
その手の輩が偉そうに「物言う株主」だと。笑止千万。企業の長期的な成長なんて後回し、株価を上げて売り逃げする強欲資本主義そのもの、米国企業の多くが弱体化した責任の大半は「物言う株主」の横暴、暴走ではなかったか。ウォールストリートジャーナルはそれを煽りに煽っている。
小生が禄を食んだ旅行業界では、日経がHIS澤田秀雄の価格破壊を煽りに煽った。旅行業界は価格競争で疲弊し、正社員は激減、夢を売る“悪夢の産業”になってしまった。「好きじゃないととてもやっていられない」と現場は諦観の様相、まるで善意のボランティア。
銭ゲバ功成りて万骨枯る、まさしく金融資本主義は強欲強奪強権資本主義であり、資本主義経済を破壊しかねない強烈な悪性ウイルスではないか。経済の安定+民の幸福+自由民主人権法治・・・特に資本主義先進国は知恵を絞って「21世紀の資本主義ビジョン」を提示すべきではないか。
初級簿記で挫折した小生にはその能力がない。桐野利秋の「おいが頭ん良ければとっくの昔に天下を取っちょる」の気分、何となく分かるなあ。まあ、コピーライターでもあったから進軍ラッパを吹き続けるのが小生の天職なのだろう。同志諸君、前進しようぜ、一点突破、全面展開へ!
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/345(2021/7/31/水】敗戦から17年の1962年頃は戦後復興が終わり、イケイケドンドンの高度成長が幕開けした頃だ。かつての皇軍兵士は企業戦士となり、銃の代わりに商品見本をもって世界中を駆けずり回っていた。先輩たちは偉かった!
元近衛兵の父は1960年に始めた商売が軌道に乗り、株式投資を始めた。「溜まってきた金を眠らしておくより株式投資で蓄財しよう」と思ったのだろう。株屋がよく出入りするようになったが、「株屋の言いなりになると儲からん、有望株がある程度上がると“売れ”としつこい。有望株を他の客に回して儲けさせ、自分の顧客にしようという訳さ」と言っていた。
株屋は売買などで口銭(手数料)を稼ぐ商売だから、顧客には広く浅く儲けてもらえばいいのであって、市井の小口客を優遇するわけではないのだろう。父はやがて優良株だけを寝かして、チマチマした売買は止めてしまった。高度経済成長期だったから「株より自分の商売の方が儲かるし面白い」ということだったろう。今でも現役の金持ち連中はそういう人が多いようだ。「修ちゃんみたいに夢中になって一喜一憂するタイプは株取引には向かないね」と金持ち2人から言われたことがある。
株式や通貨、ゴールドなど金融商品のみならず多くのモノが毎日「売ります・買います」の市場取引で売買されている。日本での起源は江戸時代初期の1620年代に大坂の堂島で始まった米(換金作物≒通貨)市場の先物取引だったという。現物のやり取りがなくても書類上で取引できるし、米の在庫量から今年の新米価格が幾らかが分かれば生産調整もできる。
合理的だが、これがリスク軽減や利益拡大の必要からマネーゲーム(売り惜しみ、買い占め、投げ売り)になり、今のような投資家、株屋、相場師、銭ゲバが跋扈するまでになったのだろう。
そう言えば小豆市場の壮絶な仕手戦を描いた梶山季之の「赤いダイヤ」は1962年刊だった。その梶山の座右の銘が「裸にて生まれてきたに何不足」。小生のそれは「欲少なく足るを知る、足るを知りて分に安んずる」・・・お釈迦様の最後の言葉は「欲に振り回されたところで諸行無常、儚いものである。悟りを求めて日々怠ることなく修行、学問、考察に努めよ。さすれば有意義な人生を送ることができよう」(元始仏典「大パリニッパーナ経」の小生の解釈)。
栄耀栄華は一場の夢、物欲を追い求めても虚しいものだ、理(ことわり)を学び、悟って、有意義な日々を送りなさい、ということだろう。良い教えである。
その影響もあるのだろう、日本人にはカネ儲けより、清く正しく美しくの「清貧」を是とする価値観があり、だからマネーゲームの貪欲銭ゲバ連中や媚中派経営者など、カネカネカネ教信者を“異星人”“野蛮人”と心のどこかで蔑んでいるように見える。
「ウォール街を知る国際金融アナリスト・大井幸子が語る、国際金融市場の仕組みと動向」(キャリタス就活2017.2.8)から。
<市民社会を支える基盤としての経済には、「公共の富」(common wealth)という概念があります。市民は一定の倫理道徳心(common sense)を共通認識しており、社会全体の福祉向上に向けて「公共の富」を共有します。そして麻薬など「公共に反する富」(wealth against common wealth)には断固反対します。
一方、資本主義が国民経済となり、やがてグローバル化し、国際貿易や金融取引が活発化し、さらに一国の経済的繁栄に対して周辺国が競争を挑むようになるにつれ、資本主義が域内の「良心の自由」を超えて、「エゴイズムの自由(野獣的自由)」と解釈されるようになりました。そうしないと過酷な競争に勝利し、生き残れないという理由もあります。
特に金融市場では、自己の欲望を満たすためにはどんな過激な行動も辞さないという「アニマルスピリット」が蔓延し、特権的な大手投資銀行や金融資本家が自分たちは「強欲資本主義」のゲームで自分の欲望を満たすためには何をしてもかまわないという傲慢な考え(野獣的自由)であくなき利益を追求していきます。
これが度を過ぎると(怪しい金融商品で破綻した)リーマンショック(2008年)のような金融危機が引き起こされることになり、体制そのものに大きなほころびが生じます。
また、資本主義の原型である株式会社の発生には「互いにリスクを取る」という発想があります。大航海時代に英国やオランダが東インド会社に乗り出しとき、リスクマネー(資本)を出資し、その割合に応じてリターンを分けるという発想です。
この場合、リスクをどこまで取るのかについて自己資本であれば、それなりに合理的なコントロールが効くはずです。しかし、他人資本であれば、リスクを取って損しても人のカネ、儲かれば自分のカネとなり、モラルハザードが生じます。「エゴイズムの自由」が拡大する理由はここにあるのです。
このように、資本主義の本質には、果敢にリスクを取りに行くことと、「公共の富」を守るという、相反するような二つの規範が内在しています。
「エゴイズムの自由」に歯止めをかけるのが「良心の自由」です。21世紀の政治体制が「公共の富、公共の福祉」を見失えば、経済も金融も300年前までさかのぼって、資本主義の原点を見直す必要がありそうです>
資本主義経済の発展は基本的に「人間の幸福」が目的だろうが、今の銭ゲバが夢中になっている金融資本主義は「カネの亡者のエゴの暴走」。ユダヤ人シャイロックからの借金を踏み倒したどころか悪人に仕立てた「ベニスの商人」アントーニオそのもの。商道もクソもない金銭亡者、魑魅魍魎。
その手の輩が偉そうに「物言う株主」だと。笑止千万。企業の長期的な成長なんて後回し、株価を上げて売り逃げする強欲資本主義そのもの、米国企業の多くが弱体化した責任の大半は「物言う株主」の横暴、暴走ではなかったか。ウォールストリートジャーナルはそれを煽りに煽っている。
小生が禄を食んだ旅行業界では、日経がHIS澤田秀雄の価格破壊を煽りに煽った。旅行業界は価格競争で疲弊し、正社員は激減、夢を売る“悪夢の産業”になってしまった。「好きじゃないととてもやっていられない」と現場は諦観の様相、まるで善意のボランティア。
銭ゲバ功成りて万骨枯る、まさしく金融資本主義は強欲強奪強権資本主義であり、資本主義経済を破壊しかねない強烈な悪性ウイルスではないか。経済の安定+民の幸福+自由民主人権法治・・・特に資本主義先進国は知恵を絞って「21世紀の資本主義ビジョン」を提示すべきではないか。
初級簿記で挫折した小生にはその能力がない。桐野利秋の「おいが頭ん良ければとっくの昔に天下を取っちょる」の気分、何となく分かるなあ。まあ、コピーライターでもあったから進軍ラッパを吹き続けるのが小生の天職なのだろう。同志諸君、前進しようぜ、一点突破、全面展開へ!
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」