雀庵の「革命聖地武漢再び 加油!」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/108(2020/4/28】チャイナコロリは「人類共通の敵」だから右派と左派が手を握る「レーニンの人民戦線」「毛沢東の国共合作」という、まあ野合が可能かなあと思っていたら、何やらそんな場面が表に出始めたみたいだ。
花清漣女史は「中華ネトウヨの方方女史攻撃にみる習氏中国」( 2020/4/24)でこう記している。
<方方女史と私は共に1950年代生まれです。(ファンファン、本名は汪芳。武漢の作家、封鎖中の暮らしを日記に執筆し、各国で出版される運びとなった)
黒の文革時代、それに比べればまだましだったトウ小平の改革時代を体験しました。江沢民の時期に私は中国を去り、彼女は残りました。ネット時代ですから、その後の中国の変化を身を以て体験し、彼女は中国で、私は地球の裏側からそれを見てきました。
方方の作品は、武漢封印中の彼女自身の心の旅路で、不幸にして流行都市の犠牲になった武漢の人々の痛みを記録したものです。しかし人間として人生の痛みを感じ得る人ならば、現在の中国という、真実を話すことが稀で貴重なお国柄にあって、これがどれほど大切な作品かが分かっています。
少数の人々は、猫も杓子も万歳を三唱するしかない暗黒の時代にあって、社会の暗黒面を語ることができた彼女を褒め称えています。しかし世界をあべこべにしか見ることのできない「義和団2.0」(中共万歳のネトウヨ)たちは罵詈讒謗を浴びせて「社会の暗黒面を書いて西側に攻撃する武器を与えた」と非難しています>
ネットで検索したら「私たちは護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民メディア、リベラル21を創った」というサイトに「封城(ロックダウン)下の武漢の暮らし 方方女史の『武漢日記』抄訳」があった。
ジャーナリスト・田畑光永氏の訳・解説で、とてもいい訳だなあ、どんな人なのだろうと調べたらWIKIにあった。御年85、渡部“頂門”亮次郎氏と同時代の記者だった。
<田畑光永(たばた みつなが、1935年8月29日 - )は、日本のジャーナリスト。東京都出身。東京都立日比谷高等学校、東京外国語大学外国語学部中国語学科卒業後、1960年、TBSに記者として入社。中国政治を主たる専門領域とし、1972年の田中角栄首相の日中国交正常化の際にも同行取材を行った。 妻の田畑佐和子は、元岩波書店の編集者であり中国文学の研究者>
モロ“岩波文化人”で、当然中共に寄り添うリベラル≒アカモドキ、小生の大嫌いな人種だが、習近平中共にとって苦いことも書く(イエローカードを出す)リベラル≒アカモドキもいるのだ、皆が皆、腐れ男妾のテドロス飴じゃないようだ、というのは発見だった。以下、氏の記述と訳を部分引用する。
<田畑:新型コロナ肺炎はいまだに世界中で猖獗をきわめているが、発症の地となった中国の武漢市は1月23日から2ケ月半にも及んだ封鎖(中国語では「封城」)が4月8日に解けて、1100万市民の生活はようやくもとに戻りつつあると伝えられる。
市民にもきびしい外出禁止が課せられ、自由に買い物にも出られない中で、人々は文字通り息をひそめるようにして毎日をやり過ごしていた。
その実情については、わずかに3月10日、習近平主席が同市を訪れ、住宅団地を視察に回った際に、主席へのお付きの説明を聞きとがめた住民たちが「そんなのは全部嘘だ!」と、口々にベランダから声を上げたというニュースが伝えられたことがあったが、それ以外、外部からはほとんど知ることはできなかった。
しかし、その封城の中の生活を冷静に日々記録していた作家がいた。方方という女性作家による『武漢日記』がその作品である。
もっとも状況が状況であるから出版されたわけではなく、ネットで執筆と同時進行で広く読まれた。少ない日で5万人、多い日は15万人もの目に触れていた。すでに英訳、独訳の出版が決まっていると伝えられる。
この作品は現在、中国国内で大きな論議の的となっている。ご想像がつくと思うが、この作品がありのままを書いていることが中国にとってマイナスだと考える人々が、権力に近いところにいるからである。
『人民日報』系列の『環球時報』などには「中国の顔に泥を塗りたいのか」といった批判が見られる。それも外国語訳が出版されるとなってから激しくなったように感じられる。
私も何とかこの作品を読みたいものと思ったが、なかなか遭遇することができなかった。私もまだ入手した分全部を読んではいないのだが、早いほうがいいので、読んだ分から抄訳の形で、とりあえずご紹介する。果たして「中国の顔に泥を塗る」ものなのか、「泥とはなんだ」ということを頭の片隅に置いて読んでいただきたいと思う。
◆方方著『武漢日記』から(1)2月6日
今日の武漢はまた雨。空が暗い。暗い中の雨と風は一種のすごみを感じさせる。ドアを出たとたん冷風に打たれ、身震いする。
けれど今日はいいニュースがいろいろあった。最近で一番うれしい知らせだ。まずラジオで聞いたのだが、病気の蔓延は間もなくおさまるだろうということ。専門家という人が話していたのだが、私は信じられると感じた。
それからネット上で盛んに言われたのが、アメリカの研究所で新薬が開発され(中国の専門家が「人民の希望」と命名?)、金銀潭病院での試験では結果は大変によかったそうだ。
武漢人はみんな大喜びだ。外出禁止の規則がなければ早速、街中が大騒ぎになったろう。長く閉じ込められ、長く待ち望んでいた希望がやってきた。素早く、ちょうどいい時に、みんながうちしおれ始めたこの時に。
しばらくして、誰かがあれは嘘だったと言い、果たせるかな何の結果も出なかったとしても、それはそれでいいではないか。今はいいニュースとして聞こう。二、三日すれば、われわれの期待が本物だったとなるかもしれないのだから。
みんなが注目していた仮設病院が今日から正式に使われはじめた。中に入ったひとたちからのビデオや言葉が届いた。お粗末とかうるさいとか、そんな類の言葉が多い。でも、一日でできた建物だから、その分不完全なところはこれから早急に改善されるだろう。
人が大勢となれば、感じ方もまちまち、まして病人となれば、である。焦燥、不安、煩わしさ、混乱、すべてあるだろう。どうしたって家にいるようなわけにはいかないのだから。
武漢はここへきて一番大変なところを過ぎた。ここでさらに焦ってはだめだ。毎日あちらこちらへと彷徨っていたあの病人たちも(仮設病院ができ)、静かに室内で横になり、隔離されて医師の治療を受けられる。
なにはともあれ、本人たちにも、ほかのみんなにも、よかった。でなければ、今日のような天候の日は、彼らの中のどれほどの人が病状を悪化させたり、路上でたおれたりしたことか? だからわれわれは気持ちを抑え、我慢する。全体の状況が管理下におかれて、はじめて人は安穏を得ることができる。
我々自身はやはり家にいて、恐れないことだ。多少の熱や咳に慌てふためかず、冷静に対処しなければならない。
朝起きてスマホを見たら、お隣りさんからのメモがあった。娘さんが今日、野菜を買いに出たので、ついでに私の分も買ってきてくれて団地の入り口に預けてあるので、起きたら受け取って、とある。
それを受け取りに出て戻ると、同じ敷地内に住む姪から電話。ソーセージと「腐乳」(豆腐の漬物)をくれるという、団地の入り口で受け取ってもよかったが、結局、部屋まで一山、持ってきてくれた。
一か月閉じ込められても食べきれないほどだ。災難の中で、同じ船に乗り合わせたものどうしの助け合い、ありがたく、暖かい。
ブログを書き終えたところで、李文亮医師が亡くなったことを知る。彼は当局の「訓戒」処分を受けた8人の医師の1人で、自身もウイルス肺炎に感染した。今、武漢市の全員が彼のために泣いている。胸中、やるせなさでいっぱい。
『武漢日記』から(2)3月8日
(訳者注:前回は2月6日に書かれた日記だったから、それから1か月が過ぎている。残念ながら、その間の日記は入手できていない)
また雨。それもかなりの降り。寒気が音を立てる。昼間でも夕暮れのようだ。
遠い成都(四川省の省都)に住む劉先生が武漢の友人に託して魚を何匹か届けてくれた。ずいぶん固辞したが、結局、押し切られた。魚はきれいにさばいてあり、ネギ、しょうが、大根まで添えられていて、これでスープを作りなさい、簡単だから、との伝言。
また、私の日記で私の糖尿病を知り、ドライフルーツと手紙が居住区の事務所に届いていた。申し訳ないと同時に胸が熱くなった。友人の皆さん、心配してくれてありがとう。
武漢の女は言葉のテンポが速く、声も高い。言葉の衝突ではまず負けない。もし相手も女性で、女2人が対決するとなったら、これは見ものだ。
思い出すのは、あの文化大革命の時代、娘の祖父は華中師範大の教授だったが、紅衛兵が彼をつるし上げようと家にやってきた。この時、祖母は祖父を家において、自分が出て行って、紅衛兵とやりあった。紅衛兵たちも相手がおばあさんでは手の施しようがなく、帰って行った。
この話を私は以前、ある文章に書いたことがある。そのせいか、今度の疫病戦中でも、日常のやれ集団購入でのいさかいとか、やれ居住区事務所との交渉とかを、自分の領分と考えて、多くの女性が出てきた。
武漢の女性は気が強く、声も大きい。ビデオを撮ろうとする連中をいくつも追い払い、大勢を震え上がらせた。武漢のすべての女性にエールを送る。
今日は「封城」46日目。疫病戦もこのところ、喜ばしいニュースが増えてきた。ある区域は試験的に封鎖が解除されて、仕事が始まるとひそかに伝えられている。友人が言うには、空港が運航再開の準備をしている、とか。この知らせは驚喜の上にもう1つ驚喜だ。そうなれば封鎖解除も近い。
医師の友人からの知らせもいいものだ。新しく確認された感染者が2日続けて少ない。明らかに減っている。感染が疑われる人はとっくに少なくなっている。仮設病院も順次、休院に入っている。一部の病院の日常的な外来診療も復活した。
ウイルスの蔓延を抑える戦いは現在、戦場整理の段階に入っている。すっかり終わるまで指を折りながら待つことにしよう。
疫病戦も終戦が近づくにつれ、市民生活の秩序が戻ってきたことが明白に感じられる。多くの居住区のサービス部の仕事も丁寧になり、態度もすこぶるよくなった。
記者が取材にくると、おおむね同じことを聞く。つまり「開城」(封鎖解除)した後、一番したいことは何か、というのだ。私はゆっくり休むこと、そして、この小説を完成させること、と答える。借りた借金は返さなければ、以後、誰も一緒に食事もしてくれなくなってしまう。
今日はまた『財新』(雑誌名)記者が香港の袁国勇院士(アカデミー会員、中国工程院院士、香港大学微生物系教授)を取材した文章を読んだ。
袁院士は武漢に来た第3団の専門家の1人で、今回の疫病戦でWHO(世界保健機構)が組織した合同視察団のメンバーであり、さらに香港特区政府の専門家顧問団の団員でもある。彼が記者に語った情報は真実、驚くべきものであった。
袁国勇氏:ひとつ本当の話をする。われわれが武漢で訪れた場所は多分、モデル地区であったろう。なにか質問をすると、直ちに答えが返ってくる。事前に準備ができていた。
しかし、鐘南山(呼吸器医学界の長老的存在。新型ウイルス防疫研究グループのトップ)さんは非常にきびしくて、何度も「ほかにはいないのか?」「結局、これ以上、病人いないのだな?」「ほんとにここにはこんなにたくさんいるのか?」などと追及した。
しかし、答えはこんな具合だ。「私たちは今、検査を進めているところです。なぜなら湖北省疾病対策センターが国から検査キットを受け取ったのは1月16日だったのですから」
彼らは問い詰められて、最後にこう言った。「多分、神経外科の1人の患者から14人の医療人員が感染したようです」、「しかし、その医療人員たちも感染が確認されたわけではありません」
『財新』記者もきびしく質問を続けた。「あなた方が武漢病院を視察した時、主だった人ではどんな人がいましたか?」
袁国勇氏「武漢市衛生健康委員会、武漢市疾病センター、武漢市内の病院や湖北省の健康委員会などの人たちだった」
記者はさらに質問を続けた。「彼らはあなた方になにか隠しているようには感じませんでしたか」
袁国勇氏「食事の時、鍾南山氏と同じテーブルに1人の副市長が座った。顔色はよかったが、気は重そうだった。あの時、彼らはすでに大変なことが起こったと知っていたのだろう。なぜなら3つも専門家の代表団がやってきたのだから。少し前には仮に何か隠していたとしても、あの段階ではもはや隠すこともなくなっていたのではないか。
ただ彼らがしきりに強調したのは、検査キットは武漢に来たばかりだということだ。それがなければ診断を確定することはできないと」
なるほど、端緒はつかめた。調べるべきは調べてもらいたい。1つ1つ問いただせば、きっとなるほどという答えが出てくる。私、われわれ、みな知りたがっている。こんな重大事をなぜ隠そうとしたのか。
鍾南山院士の鋭くきびしい追及で、ようやくウイルスの人から人への伝染の情報が庶民にも伝わった。それによって武漢人は茫然と無知な状態から目覚めたのだ。あれがなければ、あと何日、騙され続けて、すさまじい、残酷な結果が出現することを知らずにいたことか。1000万人以上の武漢人のどのくらいが生き残れただろうか。
現在の問題は、1、袁国勇氏が言及したような人たちは必要なのか不要なのか、調査、再調査を。2、はじめの2つの専門家視察団はとてつもなく大変なことと知っていたのか。なぜ鍾南山院士のようにきびしく追及しなかったのか。袁国勇院士は記者の質問に「われわれ科学者は永遠に『軟情報』(兆候など)を軽視してはならない」と語っていた>(以上)
言論統制の国では「軟情報」の兆候、憶測、懸念、推理、予感、風評、空気、風などに頼らないと真実に近づけない。諜報活動は9割が新聞など公開された資料の分析、1割がスパイ活動(ヒューミント)によるものらしい。習近平はチャイナコロリの不都合な真実を隠すだろうが、政敵はそれを利用して習近平降ろしを図るだろうから、真実や真実らしきものは出てくるかもしれない。
中共の次期政権としては「すべて習近平とその一派が悪い」ということで終わりにして内外の損害賠償責任を逃れたいだろうが、米国も欧州も「はい、分かりました」と引き下がるわけがない。ウイルスとの戦争が終われれば壮大な「銭闘」が始まる。内憂外患。
第二次辛亥革命も武漢蜂起から! 香港、台湾の火が武昌、漢陽、漢口の武漢三鎮に飛び火する、革命聖地武漢再び! 加油! ハラハラドキドキ、五輪より興奮することは確実だ。
なんか長生きして参戦したいなあ、せめて見物したいなあという気分にはなるね。「老人の 気持ちが分かって 迎え来る」、いい句じゃない?(2020/4/28)