gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

習近平の台湾侵略は間近

2022-11-30 15:25:57 | 戦争
習近平の台湾侵略は間近
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」110/通算542 2022/11/30/水】屋上防水改修工事は11/28に完了し、9月20、21日の台風による甚大被害以来、2か月超の悪戦苦闘は終わった。感無量、自分で自分を褒め癒してやりたいが、アル中だから酒はダメ、絶対!・・・仕方がないから、高尾山に親友の「高尾さん」とハイキングに行ったカミサンに代わって、夕食のバジルソースパスタを作り、早めに風呂に浸かり、アイスクリームで慰労した。トホホホ、まあ、自業自得だから・・・

29日からは台風で壊れた高さ4mのオブジェの修復を開始、雀たちは喜んでいるが、補強を兼ねて白樺風にペンキを塗ることにした。終活は間もなく完了するが、「俺に来年はあるのだろうか」・・・ま、天命に従うだけだ。「入院は嫌だ、自宅で屋上庭園を見ながら成仏したい」とカミサンに言っておかなければならない。老人の臓器提供って役に立つなら結構だが・・・

一寸先は闇。天国か地獄か、人生も国運もなかなか先は読めない。台湾の統一地方選挙は与党・民進党のボロ負けで、蔡英文総統は「党主席辞任」を表明した。2年後の総選挙で野党・国民党に勝てる党主席を選んでおこう、ということだ。自由民主独立を大事にする、ややリベラル系の民進党(本省人)だから、蒋介石流強権独裁志向の国民党(外省人)に政権を絶対に渡したくないというのは当然だ。

しかし、習近平・中共としては、2年後に国民党が台湾の政権を取ると、かなりマズイのではないか。蒋介石の国民党の政策は昔から行き当たりばったりで、自己保身が強く、私利私欲が最優先であり、毛沢東・中共軍に押しまくられて本土から台湾に逃れ、台湾人を殺しまくってきた歴史がある。国民党はお得意の「国共合作」で習近平・中共とのWinWinを進めるだろうし、国民党は中共に台湾を“売り渡す”無血開城さえしかねない政党だ。

こんな柔な国民党・台湾では“毛沢東コンプレックス”の習近平が「厳しい戦争で勝利する、勝利して祖国を統一する、毛沢東と並ぶ」という夢が見果てぬ夢で終わってしまう。

つまり習近平は、蔡英文・民進党政権の残り2年のうちに何が何でも台湾を武力侵攻、併呑しなければならないということ。ウクライナに襲いかかったプーチンはスターリンを目指し、習近平は台湾、さらに日本を襲って毛沢東を目指すのだ。

毛沢東による「中国人民解放軍宣言」(1947年10月)から。

<本軍の全指揮員、戦闘員の同志諸君! 我々は今、我が国の革命史上もっとも重要で最も光栄な任務を担っている。我々は自己の任務を果たすために積極的に努力しなければならない。我が偉大な祖国がいつになれば暗黒から光明に転ずることができるか、我が愛する同胞がいつになれば人間らしい生活を営み、自己の意志によって自己の政府を選ぶことができるか、それはひとえに我々の努力にかかっている。

我が全軍の将兵は、軍事能力を高めて、必勝の戦争の中で勇猛果敢に前進し、全ての敵を断固として、徹底的に、きれいに残らず、殲滅しなければならない。自覚性を高めて、誰もが敵を殲滅し、民衆を奮起させるという二つの力を身につけ、大衆と緊密に団結し、新しい解放区を強固な解放区に急速に築き上げなければならない。

規律性を強めて、断固として命令を遂行し、政策を遂行し、三大規律・八項注意を推進し、軍民の一致、軍政の一致、全軍の一致を図らなければならず、規律違反のいかなる現象もあってはならない。

我が全軍の将兵は、我々が偉大な人民解放軍であり、偉大な中国共産党の指導する軍隊であることを常に銘記していなければならない。絶えず党の指示を守っていく限り、我々は必ず勝利する。蒋介石を打倒せよ!>

当時の毛沢東は54歳、タニマチのスターリン以外は怖いものなし、脂がのって元気いっぱいだった。習近平は69歳・・・戦狼か戦老か? 年齢はともかく、習が台湾を襲うのは今がチャンスである。何故か?

蒋介石の末裔である台湾国民党は戦う意志はゼロ、無血開城して習近平に抱き着くだけだ。21世紀の毛沢東になりたい習近平は台湾民進党を武力で打倒して台湾を“解放”し、併呑しなければ建国の父・毛と並ぶ偉大なる領袖にはなれない。習近平の夢は「世界帝国」であり、台湾攻略はホップ、日本併呑はステップ、アジア制覇はジャンプだろう。

いずこの国にも台湾国民党のような親中派はいる。G7の先進諸国はプーチン・ロシア対応で右往左往し、アカ政権のドイツは中共に擦り寄り始めた。「対立するより仲良くした方がいい、中国もそう思っているだろう」と考える(考えたい)人々は結構多いのだ。(善人面をしているが多分、勉強不足の無知蒙昧)

多くは容共左派だが、14億の中共市場やチャイナマネーによる投資に食指を動かされている私利私欲の人、銭ゲバも多い。それでは亡国になりかねないと16年前の日本でも警鐘を鳴らす論客はいた。以下「中国迎合内閣は国を売る」を転載する。

<次の内閣は中国共産党の言いなりの日本になるか、独立を維持できるかを決定する内閣となるという点で瀬戸際に立たされる。誰が次期総理になるにしろ「君、国を売り給うことなかれ」である。

私はNHK記者として日中国交正常化に立会い、外相秘書官としては日中平和友好条約の締結交渉に携わった。周恩来、華国鋒、トウ小平、廖承志らの謦咳に接した。心底「日中友好」を祈念して来た。しかしいまや「騙された」その責任は重大、と謝罪せざるを得ない。すでに齢70、死んでも死に切れない。

1972年5月の田中内閣成立までの中国政府の日本政府非難は聞くに堪えない苛烈なものであった。池田内閣も佐藤内閣も中国との関係正常化無しにアジアの安定はあり得ないことは当然承知していた。それぞれがそれなりに心を砕いていたのを見ている。それなのに「保守反動勢力」という呼び捨て方は心胆を寒からしめて十分だった。

ところが公明党が中国と往来するのと前後して田中角栄内閣が成立すると日本非難をぱたりとやめ、こちらが何もいいださないうちから「戦争賠償は請求しない」などと言い出し、就任早々の田中首相を北京に招き入れることに成功したのであった。北京秋天。日中友好万歳。人民大会堂でマオタイ酒に酔った角さんをまざまざと思い出す。

東京を初めて訪れたトウ小平は天皇陛下への拝謁後は態度を急変、1歩下がって敬意を表したではないか。大阪への新幹線に乗って「これから行う4つの現代化を激励されているみたいだ」という趣旨の甘言を弄したではないか。福田康夫氏はその時総理首席秘書官として現認したはずだ。

少なくとも共産党中国が今日の発展を具現することが出来たのは戦後の困難を乗り越えた現代日本の物心両面に亘る協力があったからこそだ。それを否定できるほどの歴史音痴は中国首脳にはないはずだ。

それなのに今日の中国は靖国神社否定を要求し、まるで属国扱いだ。日中友好に我々は騙されたのだ。応じれば今度は憲法改正に絡んでくること間違いない。

彼らの要求は経済的、儀礼的な問題ではなく、まさに日本を自分たちの言いなりになる国だと世界に示すための威嚇運動以外の何物でもない。これに応えようとする福田康夫氏を総理にしては絶対駄目。安倍晋三しかない>

「夕刊フジ」2006年5月3日付の渡部亮次郎氏の論稿である。16年経っても日本や世界では中共擁護派はまだまだいて、ようやく懐疑派が増えてきた印象。アカは宗教とそっくりだから「棄教」はなかなか容易には進まないのだ。プーチンのウクライナ侵略でアカの危険性が大いに理解されるようになったが、中共の危険性もあらゆる場で広めていかなければならない。蟷螂の斧でも数が増えれば巨大な怪獣を倒せる。当面は朝日、毎日、東京/中日などのアカメディアを叩くべし。既に斜陽か?
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9
https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」

先輩、識者、歴史から学ぶ

2022-11-25 19:18:25 | 戦争
先輩、識者、歴史から学ぶ
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」109/通算541 2022/11/25/金】11/23は終日雨で、屋上庭園防水ペンキ塗りの予定が狂ってしまった。雨が止んでも乾燥するまで塗装はできないから、「11月中にとにかく防水作業を終える」という計画が遅れるのでブルーな気分になる。しかし、ブルーになったところで晴れるわけではないので、PCに溜まった過去記事をCDに移してPCの負担を軽くする作業をした。

1年分(およそ120本)の自作記事をPCのメモリーから除去しただけなのだが、随分PC操作が速くなった。それ以前は「安さに引かれてDELLを選んだが、安物買いの銭失いとはこのことか、どうせ Made in China だろう」と自虐的になっていたが、保守、メンテナンスをそれなりにちゃんとやっていればバタバタすることもなかったろう。自業自得だ。

しかし、そう分かっていても人間は過ちを繰り返す。危機になり、切羽詰まらないと腰を上げない。分かっちゃいるけど、問題を先送りする。備えあれば患いなし、それは分かっているのだが、後回しにする、そしてダメージが表面化すると、「ああ、ちゃんとやっておけば良かったのに・・・」と悔やむ。

ヒーヒー言いながらもどうにか復旧とか前進できるのならいいが、ほとんどのケースは失敗するのではないか。人生も国家も10戦で5勝5敗なら御の字、4勝6敗でもOK、「最後に勝てばいい、そのために敗戦から学べ」と戦国の武将は言っていた。終わり良ければ総て良し・・・まあ、それほど単純ではないが、「努力を怠らない、失敗や敗戦を繰り返さない」ということだろう。先人や先輩、識者、歴史などから学ぶことも当然大事だ。

現代ビジネス2022/11/22「中国・ロシアに侵される日本領土を撮り続ける写真家が日本人に伝えたい、たった一つのこと 近藤大介/山本皓一」も大いに勉強になった。以下転載。

<《国境を越えてウクライナに侵攻したロシア、日本の国境を脅かす核保有の3強権国家(中国・ロシア・北朝鮮)――いま日本の国境が問われている。

そんな中、日本の国境を撮り続ける国際フォトジャーナリスト・山本皓一氏(79歳)が、自身の集大成として、新著『中国・ロシアに侵される日本領土』(小学館)を今月、上梓した。巻頭に73枚もの貴重な写真を載せた同書は、早くも一般読者はもとより、国会議員や霞が関の官僚たちの間でも、話題を呼んでいる。

そこで、東アジア問題を専門とする現代ビジネスコラムニストの近藤大介が、山本氏と緊急対談を行った。2時間にわたる対話から浮き彫りになった日本の国境の「穴」とは――》

【平和ボケした日本の中で】近藤:山本さん、というより長年お世話になっている親しみを込めて、ヤマコーさんと呼ばせていただきます。久しぶりに事務所にお邪魔しましたが、ここはまるで「日本のウクライナ」ですね。

山本:それ、どういう意味!?

近藤:日本は平和ボケしてますけど、ヤマコー事務所だけは「臨戦態勢」だということです。置かれた蔵書、飾られている写真、それにこのただならぬ雰囲気。ウクライナの塹壕に来たような、身の引き締まる気がします。

山本:何せ半世紀以上、日本と世界の「現場」を渡り歩いてきたからね。もう来年は傘寿だよ。まさか自分より先に逝くことはないと思っていた安倍晋三さんも、7月に先に逝っちゃった。

実はこの新著には、晋三さんとの対談を巻末に入れる予定だったんだ。7月の参院選後に対談する約束だったんだけど、あんなことになってしまって……

近藤:そうだったんですね。ヤマコーさんというと、国際フォトジャーナリストというイメージが強いけれど、日本の政治家も多数撮っていますよね。あの田中角栄元首相が唯一、密着取材を許したカメラマンでした。

山本:そう。角さんの遺影は、私が撮った写真が偶然使われた。政敵の福田派筆頭の安倍晋太郎さんの遺影も、実は私が撮った写真。晋太郎さんは、「ポスト中曽根」を争った1987年の「安竹宮」(安倍晋太郎・竹下登・宮澤喜一)の時に初めて密着取材して、親しくさせてもらった。

息子の晋三さんも、その頃、昭恵さんと華燭の典を挙げて、その結婚式の写真を撮ったのが初めての縁だった。以後、1993年に初当選してからも撮り続けた。

近藤:長年、多くの政治家を撮ってきて、何か感じることはありますか?

山本:ファインダー越しに政治家の顔を覗いていて思うのは、大仕事をやってのける「本物の政治家」というのは皆、悪党の顔つきをしているということ。例えば、2006年に第一次安倍政権が誕生したけれど、当時の安倍首相は、貴公子然として甘すぎるマスクだった(笑)。もう少し打たれ強くなってからの方が……と思ったら案の定、一年で退陣してしまった。

ところが、2012年末に復活して第二次政権を発足させると、まるっきりの悪党面に変わっていた。政治家が権力を持つと、野党やマスコミにゴリゴリやられ、そんな圧力の中で、決断し、実行するという思いっきりの覚悟と責任感ができると、その表情は劇的に変わる。彼の顔をファインダー越しに眺め、これは長期政権になるなという予感がしたね。

近藤:ファインダー越しにみた顔つきで政治家を判断するというのは、カメラマンならではの感性ですね。安倍晋三元首相を最後に撮ったのはいつですか?

山本:昨年6月。国会議員会館地下の会議室を、写真スタジオのようにして撮った。その時、初当選時に撮った写真パネルを作り、手に持ってもらったりしてね。先月25日に野田佳彦元首相が衆議院で行った追悼演説の際、昭恵夫人が持っていた遺影は、その時に撮った写真の一枚だった。

【戦後初めて北方領土に入った日本人ジャーナリスト】近藤:そうだったんですね。ヤマコーさんはまさに、「日本現代史の生き証人」だ。

先週、ある国会議員に呼ばれて事務所へ行ったら、ご新著『中国・ロシアに侵される日本領土』が置いてありました。「読んだか?」って聞かれたから、読んで感銘を覚えた箇所を指摘したら、「ほう」と言って、折り目を入れていました(笑)。

山本:私にとっての国境へのこだわりは、「尖閣を守れ」「北方領土を返せ」というスローガンではないんだよね。日本人に、日本の国境で起きている現実に目を向けてほしい。先人たちが血と汗と涙を流して国境の島を開拓してきた歴史を抹殺してはならないという想い――その一念なんです。

近藤:なるほど。日本は四方を海で囲まれた島国だから、「国境」と言っても、なかなかピンと来ませんからね。

北方領土、尖閣諸島、竹島、沖ノ鳥島・南鳥島……ヤマコーさんの国境へのこだわりは、そもそもどうやって生まれたのですか?

山本:きっかけは、北方領土だよ。1989年に、戦後初となる稚内港から直接船でサハリン(樺太)への訪問団にカメラマンとして真岡港(ホルムスク)へ入った。

翌1990年1月、北方領土問題解決の糸口を探るため、安倍晋太郎外相がモスクワへ飛び、ミハエル・ゴルバチョフ書記長と会談。ソ連側が初めて北方領土問題の存在を認め、「英知ある解決をしよう」と述べた。その会談にオレは立ち会って、「ゴルバチョフvs.安倍晋太郎」の真剣交渉の一部始終を撮った。

近藤:その頃、安倍晋太郎外相は、すい臓がんが、かなり進行していたのでは?

山本:そう、病身を押して外遊する姿には、鬼気迫るものがあった。その時、秘書として同行していたのが晋三さんで、「日本外交の歴史的成果を日本国民に報告する場で、父の土気色した顔は見せられない」と相談を受けた。それで現地のTVスタッフから借用したドーランを晋太郎外相の顔に塗り、口の中に含み綿を入れて頬がふっくらするようにしたの。

晋三さんはそんな父親から「領土とは何か」を学んだんだね。まさに親子二代、命を削って北方領土問題の解決に取り組んだ。

近藤:安倍晋太郎氏は、翌年4月、ゴルバチョフ大統領が最初で最後の訪日を果たした時、衆議院議長公邸で面会しましたね。私は雑誌協会代表記者として現場で取材しましたが、その時も晋太郎氏は背広の下に綿を入れて臨み、ゴルバチョフ大統領とがっちり握手した。亡くなったのはその翌月でした。

山本:そうだったね。1992年にロシア側が、北方領土への「ビザなし渡航」を認めたのも、晋太郎外相の功績だった。

私はその2年前の1990年1月、モスクワに同行取材したことがきっかけとなって、同年5月、それまで渡航困難と言われた北方領土の択捉島に、日本人ジャーナリストとして、戦後初めて入った。

【択捉島で日本人の墓石を発見】近藤:そこのくだりは『中国・ロシアに侵される日本領土』に詳述してありますが、読み応えがありました。

山本:本当に、入るまでが大変だった。当時のソ連側には“敵国”のカメラマンを北方領土に入れるメリットなんてないからね。

択捉島に上陸してみると、目抜き通りのソビエツカ通りは寂れていて、ソ連側は「日本時代の墓はもう残っていない」と言う。だがオレは、日本人が江戸時代から1945年まで住み続けたのに、そんなはずはないと確信して、あちこち探しまわった。

近藤:そうした苦労が、「世紀の発見」につながったのですね。

山本:そう。最初は日本時代の建造物や砲台跡などを見て回っていたけれども、高台にあるロシア人墓地にも足を伸ばしてみた。すると墓地のそばに、横倒しになったり、土に埋もれたり、あるいはロシア人の墓の土台となった日本人の墓石を確認した。

泥にまみれながら2日間調べて、計28基の墓石を確認した。特に半壊した墓石に書かれた「忍山良耐居士」と記された墓を発見した時、胸にジーンとこみあげてくるものがあって、「オレがやるべきは、国境で日本人が生きてきた証を記録することだ」と決意したんだ。

近藤:ヤマコーさんの発見は、当時、大きなニュースになりましたね。それで日本政府が重い腰を上げ、3ヵ月後に初めて、日本からの墓参団訪問が実現した。

山本:そうだね。当時は日本の国境を撮っていると言っても、相手にされなかった。政治家は票にならないし、官僚は出世につながらないし、マスコミは相手国提供の写真を平気で使っているし、国民は関心がなかった。関心があるのは、一部の右翼団体だけで、「山本は右翼カメラマン」というレッテルを貼られた(笑)。

近藤:そうだったんですね。私がヤマコーさんを尊敬している点が3点あるんです。第一に、テレビ局でも大新聞でもなく、『週刊ポスト』という雑誌出身のカメラマンでありながら、縦横無尽の活躍を続けてきたこと。

二つ目が、田中派だろうが福田派だろうが、果てまた国境の向こうの敵国の人だろうが、思想信条や国籍など問わず、人間として撮ること。そして第三が、79歳になる現在まで、第一線で撮り続けていることです。

山本:それはありがとう。そんなわけで、早くから国境問題に目を向けてきた数少ない政治家の安倍晋太郎外相が尽力してくれたおかげで、私は北方領土へ行けた。そしてそれによって、日本として一つの道が開かれた。

【両側から見てこそ国境の意味がわかる】山本:翌1991年にも、日本の真珠湾攻撃50周年ということで、連合艦隊が真珠湾攻撃前、密かに集合した択捉島の単冠湾を撮影しに行った。2004年には、3度目の択捉島と、初となる国後島にも上陸した。

当時、話題になっていた「ムネオハウス」(鈴木宗男議員が主導して建てた「日本人とロシア人の友好の家」)も「通常営業」していたよ(笑)

近藤:宗男議員は、当時逮捕されていたのでは? いまでこそウクライナ戦争で「ロシア擁護論」の急先鋒ですが。

山本:そう、当時は国会でもヤリ玉に挙げられていた。結局、16年かけて、北方領土4島全部を回った。やはりね、国境というのは、両側から見てこそ、国境の意味が初めて分かるんだよ。

近藤:その気持ち、理解できます。私の研究対象である中国は、14ヵ国と陸の国境を接していて、私はそのうち北朝鮮、ロシア、モンゴル、カザフスタン、ミャンマー、ベトナムと6ヵ国の国境地帯を回りました。

その際、いつも思うのは、このまま国境を越えて、逆に回って確かめてみたいということでした。まったく違った人たちが、違った考えを持って、同じ風景を眺めているんだろうなと。

山本: そのことはね、世界で最も厳しい国境と言われる南北朝鮮の板門店の国境を、両側から見た時に実感したよ。1980年、北朝鮮に入って、北側から板門店に行って、国境ラインまで向かった。すると韓国側からアメリカ兵が、「コミュニストがいる!」と言って、私の写真を撮り出した。

そのアメリカ兵は私のよく知っている“陽気なヤンキー”とはまるで違っていた。自分の立つ位置によって相手の見方はまるで違ってくる。やはり「ものを見るには」双方からの視点が重要との思いに至り、以後、自身の取材に対する基本になった。

近藤:北朝鮮人と間違えられたわけですね。

山本:そう。若い頃はどこへ行っても、赤軍派と間違われたけれど、初めて北朝鮮人と思われた(笑)

近藤:私は韓国側から板門店の国境ラインに行きましたけど、あの緊張感というのは独特のものがありますね。すぐ目の前に線が引いてあって、容易に歩いて越えられるけれども、越えたとたんに撃ち殺される。

山本:私の場合、先に北朝鮮に行ってしまったものだから、韓国のビザが3年間も下りなかった(笑)。その後、韓国側からも行ったけどね。

【実効支配を甘受する日本側の問題】近藤:その韓国との竹島(韓国名「独島」)問題です。『中国・ロシアに侵される日本領土』を読んで驚いたんですが、ヤマコーさんが苦労して竹島に上陸したら、韓国側よりも日本外務省にお叱りを受けたとか。

山本:そうなんだよね、相手が実効支配している係争地へ渡ると、相手の国の主権を認めたことになるという主張だ。

だけどね、日本が自国の国境を隠すようなことがあってはならないと、強く思う。北方領土の貝殻島コンブ漁にしても、現実には、毎年ロシア側に金を払って、北方領土海域で漁業をする交渉を農水省がやっていたりするわけだ。

何と言っても、前述のように、日本のメディアが竹島や北方領土の写真を使うのに、なぜ韓国やロシアのクレジットを入れて使わなければならないのかということが、納得できない。それで全部、自分で撮ってやろうと思ったわけ。

近藤:『中国・ロシアに侵される日本領土』によれば、初めて竹島に上陸されたのは、2006年5月ですね。日本は小泉純一郎政権の末期で、韓国は廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代です。

山本:実はその一年前に、竹島上陸を果たそうと試みて、途中の鬱陵(ウルルン)島までは行ったんだけど、そこから竹島へ行く観光船に乗ったら、日本人とバレてしまって、降ろされた(笑)

近藤:それが一年後は、大丈夫だった?

山本:そう。正確に言うと、やはり船上でバレてしまった。でも今度は、「日本国旗は持っていないですね」と注意された。持ってないことが分かると、すんなり上陸を認めてくれた(笑)

近藤:竹島には、択捉島のような日本時代を髣髴させるような痕跡はなかったですか?

山本:まったくない。韓国側は、見事なまでに消し去っていた。

それどころか、2011年8月に2度目の上陸を果たした時は、衝撃的だった。改造して巨大化したヘリポートが威容を誇り、その下部に建った新たな建造物には「警察庁」と大書してあった。海水の淡水化を行う巨大なソーラーパネルも設置していた。そして私が上陸した日(8月5日)には、40人を収容できる4階建ての「島民宿舎」の落成式を行っていた。

近藤:そうやって一歩一歩、実効支配を強めているわけですね。甘受している日本側も問題ですが。

私は昨年出した『ファクトで読む米中新冷戦とアフターコロナ』(講談社現代新書)で、「韓国の竹島支配を手本として、日本の尖閣諸島支配をレベルアップさせよ」と提言したんです。

山本:同感だね。『中国・ロシアに侵される日本領土』にも書いたけれども、竹島は韓国軍の施設が林立する要塞と化しつつある。日本人としてそれを肯定するつもりはないが、「国益を思う強さ」と実効支配のやり方は学ぶものがある。ぜひ日本の尖閣諸島の実効支配に生かしてほしい。

【2003年、尖閣諸島に初上陸】近藤:尖閣諸島の話に移りますが、今年1月の尖閣諸島近海の海洋調査は、話題になりましたね。

山本:そう。東海大学の山田吉彦教授が主導して、同校の海洋調査船「望星丸」に、調査主体である石垣市の中山義隆市長以下23名の調査団が乗り込み、尖閣諸島海域を目指した。私はメディアとして唯一、同行取材を許された。

近藤:日本政府(野田佳彦民主党政権)が尖閣諸島を国有化したのが、2012年9月。言ってみれば、それから初めての日本の実効支配強化に向けた取り組みでしたね。帰還した後、私は山田教授に話を聞きましたが、その点を強調していました。ここまで「極秘プロジェクト」を準備するのに5年かかったと。

山本:その通り。私が尖閣に上陸したのは2003年。それから、約20年で計9回にわたって尖閣諸島周辺海域を訪れてきた。

尖閣に残る唯一の構造物(石碑を除く)が、1978年に政治団体「日本青年社」が建てた高さ5.6mの灯台だ。長く日本青年社が灯台の管理・補修をしてきたが、2005年以降は海上保安庁の管轄に移った。日本青年社に同行してオレが上陸したのは、2003年の補修とバッテリー交換の時だった。

近藤:上陸した時のシーンが『中国・ロシアに侵される日本領土』に詳述してありますが、胸を打ちました。

山本:魚釣島の古賀村には、戦前には200人以上が暮らし、鰹節工場を操業していた。「カツオが手掴みで獲れる島」とも言われていた。

私が上陸した時も、当時をしのぶ茶碗の欠けらなどを見つけたよ。水も出るし、「臭蛇」(しゅうだ)という焼いて喰うと旨いヘビがいる。伊勢えびも獲れるし、イモ畑も作れる。ヤギもいて、いまでは600~800頭に増えている。

近藤:聞いていると、のどかそうですが、尖閣上陸というのは、いつも騒動になりますね。

山本:そうなんだ。2003年の時も、当時の新聞は「右翼の過激で迷惑な行動」という論調だった。しかし右翼の主張は横に置いても、彼らが四半世紀もの間、国からの援助も受けずに灯台を維持し続け、その灯台のおかげで、船舶が海難事故を回避できたりしたわけだ。

それに実際、島の上に立ってみなければ分からないことがある。何より、日本の先人たちが、どのような決意で荒波を越えて尖閣に出向いたのか。その気持ちは、6時間以上船に揺られることで初めて理解できる。

【国有化から丸10年が経つのに】近藤:お説ごもっともです。私は尖閣諸島に上陸したことはないけれども、国有化する前の所有者を直撃して、『週刊現代』で記事にしました。1996年のことで、当時は所有者が正直に心情を吐露してくれました。

山本:あの貴重な記事はあなたがやったの? あれ以降、所有者は沈黙を貫くようになった。

近藤:そうです。それから尖閣諸島は、日中間の風雨に揉まれました。2010年に中国船が海上保安庁の船に体当たりし、中国側が猛反発。2012年には日本政府が国有化したことで、中国側がさらに激しく反発。そうしてその最新形が、ヤマコーさんらが向かわれた、今年1月の調査船というわけですね。

山本:そう。途中で、中国海警局の船2隻に邪魔されたけれども、海上保安庁の8隻の巡視船に守られて、中国船には見えない形で、海水サンプルの採取など、必要な調査ができた。

近藤:一度は中国船と一触即発の場面もあったとか。

山本:あれは、戦時中にこの地で遭難した犠牲者たちを弔う献花を洋上で行っていたときのこと。中国船が突如、われわれが乗る「望星丸」の方向に舳先を向けて、迫ってきた。

近藤:それで、どうなったんですか?

山本:すぐさま海保の巡視船がブロックして、中国船をハの字型に挟み込んだ。すると中国船は直進しかできず、ついには観念したように、速度を落として去って行った。

近藤:大変な目に遭われたんですね。船が帰港した直後、何だか虫の知らせがして、ヤマコーさんに電話したら、「いま石垣島だ」と言われてビックリしました(笑)。

山本:あの航行は、秘密厳守だったからね。いまでも言えないことがある。

近藤:でも東京へ戻ってから、「現代ビジネス」で領土関連の記事を載せていただき、ありがとうございます。

山本:こちらこそ。今回も行って痛感したけれども、日本政府が尖閣を国有化して丸10年が経つのに、「打ち捨てられた島」となっているのが残念でならないよ。

近藤:日本政府はこの10年、何もしてこなかったわけですからね。2014年11月に北京で、安倍首相と習近平主席が初会談を行ってからは、中国側は「日本が領土問題の争点になっていることを認めた」と主張。さらに最近では、尖閣海域への領海侵入が日常茶飯事化しています。

【国境は日本の生存そのもの】山本:尖閣諸島海域へ行くたびに思うことだが、中国軍は太平洋海域に乗り出していくために、何としても尖閣諸島を奪いたい。アメリカ、日本、台湾、韓国が協力してあの海域を封鎖したら、中国の空母は太平洋に出られない。

近藤:私もそう思います。私は中国で、中国側から眺めた「逆さ地図」を見たことがありますが、沖縄、尖閣、台湾の3ヵ所が邪魔しています。

山本:いまも南西諸島で日米が合同訓練をやっているけれども、尖閣諸島を使って日米が軍事訓練をやればいいんだ。そうして自衛隊員の宿舎を作り、段階的に実効支配を強めていく。とにかく日本の実効支配をアピールしないとダメだ。

近藤:島内の自然保護のためにヤギを島外に連れ出すとかね。中国は尖閣諸島を「台湾の一部」と主張していますが、2360万人が住む台湾本島を奪うより、無人の尖閣諸島を奪う方が楽に決まっています。

山本:とにかく、日本の国境を30年以上にわたって撮り続けていて痛感することは、国境は日本の生存そのものだということ。重ねて言うけれども、政府は国境を「隠す」のでなく、積極的にアピールすべきだ。特に実効支配している尖閣諸島は、支配を強化していかないといけない。

近藤:同感です。最後に、卒寿を迎える来年の取材のご予定は?

山本:最近、撮り始めているメコン川を、もう一度撮りに行きたい。あの場所が、これからのアジアを左右する要衝になる。近藤さん、ぜひ一緒に行こう。

近藤:はい。会社に休みをもらいます。

山本:講談社は休みくらいくれる寛大な(?)会社でしょう。ライバル会社の小学館から出した拙著『中国・ロシアに侵される日本領土』について、こうやって対談してくれるし(笑)

近藤:そうですね。バランスを保つために、下に講談社から出した私の新著(「ふしぎな中国」 (講談社現代新書)の書影も載せておきます(笑)。これからも引き続き、第一線で活躍して下さい。今日はありがとうございました>(以上)

とてもタメになる対談だったが、自分が知らないことを知るのは知的刺激ではあるが、「感動する」か「自分の無知を思い知らされる」か、この2択なら小生は後者だった。70歳を過ぎてもまだまだ勉強すべきことが多過ぎて「道遥かなり」・・・そう言えば渡部亮次郎氏がメルマガ「頂門の一針」を創刊した当時、氏は「高齢になってからパソコンを覚えるのはキツイ」とこぼしていた。難関にあって「ナニクソ!」と頑張れるかどうか・・・人生の岐路だな。小生も11/25の今日、2か月に及ぶ屋上防水工事をほぼ完了したが、体力、気力がまだ残っているうちは気を緩めずに前進していきたい。敵は中露朝とその手先、撃ちてし止まん!

末尾ながら山本皓一、近藤大介お二方のプロフィールを紹介しておく。

★山本皓一:1943年、香川県高松市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。小学館の写真記者勤務を経て、フリーランスの報道写真家に。主な著書に『田中角栄全記録』(集英社)、『写真追跡・知られざる板門店』(講談社)、『地球見聞録』(飛鳥新社)など。『来た、見た、撮った!北朝鮮』(集英社インターナショナル)で第35回講談社出版文化賞・写真賞受賞。1990年にジャーナリストとして択捉島に初上陸を果たして以来、「日本の国境」を取材テーマに据え、北方領土、尖閣諸島、竹島、沖ノ鳥島、南鳥島などを現地取材。『日本人が行けない「日本領土」』(小学館)、『国境の島が危ない!』(飛鳥新社)などを発表。日本写真家協会会員、日本ペンクラブ会員。

★近藤大介:『現代ビジネス』編集次長。1965年生まれ、埼玉県出身。東京大学卒業、国際情報学修士。講談社『現代ビジネス』『週刊現代』特別編集委員、編集次長。明治大学国際日本学部講師(東アジア国際関係論)。2009年から2012年まで、講談社(北京)文化有限公司副社長。新著に『ファクトで読む米中新冷戦とアフター・コロナ』(講談社現代新書)、『アジア燃ゆ』(MdN新書)、『中国人は日本の何に魅かれているのか』(秀和システム)、『ファーウェイと米中5G戦争』(講談社+α新書)など。

小生は早速、図書館に『中国・ロシアに侵される日本領土』の貸出を申し込んだが、3人待ちだった。久し振りに大型書店の文教堂を覗いて、座右の書として為になりそうなら購入しようと思っている。
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9
https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」

加瀬氏ら先達の志を継げ

2022-11-22 17:49:07 | 戦争
加瀬氏ら先達の志を継げ
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」108/通算540 2022/11/22/火】PCがウイルスに感染したのか、1週間ほどグロッキー状態になっていたが、画面下のセキュリティのボタンを押して操作してみたら症状がかなり改善した。アナログはタフだが、デジタルは軟弱でイザ!という時に使えなくなるだろう。デジタルは便利だが、依存し過ぎるとリスクはとても大きい。

先日、図書館から借りて「目に見えない戦争 デジタル化に脅かされる世界」(イヴォンヌ・ホフシュテッター著)をざっくり読んだが、「便利≒危険」と心得、敵を迎撃、破壊、駆除、殲滅する能力を持たないと、ハッカーにいいようにやられて餌食になってしまうから気をつけろ、という論のようだった(ドイツ人は咀嚼して分かりやすく書くのが苦手? 難しく書くのが好き?)。

我々は日々、有象無象、清濁混合の情報豪雨にさらされている。憂国の士やまともな論客から金銭亡者、ゴロツキ、中露北の手先のようなアカによるものまでどっさり。優れた論客やメディアなど「信頼できる情報源」を持つことは、現在のような第3次世界大戦危機の時代にはとても重要である。

産経2022/11/16を見てビックリした。タイトルは「外交評論家の加瀬英明氏死去 保守派の論客」。氏は小生の「信頼できる情報源」でもあった。以下引用。

<保守派の論客として活動した外交評論家、加瀬英明さんが15日、老衰のため死去した。85歳。葬儀は家族葬で行い、後日しのぶ会を開く予定。

東京生まれ。慶応大、エール大、コロンビア大で学ぶ。「ブリタニカ国際大百科事典」編集長を経て、評論活動に入る。外交評論家として豊富な人脈を築き、過去の首相や外相の特別顧問として対外折衝にあたった。

近年は、海外で流布した反日的な情報や言説に反論する活動に尽力。米下院で慰安婦問題をめぐり対日非難決議案が提出された際には、米誌に反論を寄稿。代表を務める団体が、慰安婦に関するパンフレットを作成し、米議員らに送付したこともある。著書は「昭和天皇の苦悩 終戦の決断」など多数>

産経姉妹紙の夕刊フジ(zakzak 11/16)は「外交評論家の加瀬英明氏が死去、85歳 『台湾こそ自由世界と中国共産党との対決の天王山』などウクライナ含む複合危機に警鐘」とこう報じた。

<昨年12月、夕刊フジに掲載した連載「日本を守る」では、ロシアによるウクライナ侵攻の危険性を事前に指摘し、「当然、アジア太平洋が手薄になる。龍(中国)はその隙を狙って、台湾に襲いかかるのではないか」「台湾こそ自由世界と中国共産党との対決の天王山」「中国が台湾を奪ったら、日本は独立を維持できない」と警鐘を鳴らしていた>

産経は2022/11/17のコラム「産経抄」でも加瀬氏を悼んだ。

<外交評論家の加瀬英明さんは、外交官の父に連れられて生後6カ月で英国に渡り、3歳で帰国している。小学3年生で終戦を迎えた。当時から「保守派の論客」の兆しはあった。

▼戦後すぐは子供の読み物がなく、少年向きの愛国小説を読みふけった。横須賀市内の中学校に通っていたとき、行き帰りにアメリカの軍艦を見ながら、日本を再び独立国に、との思いを募らせていた。左翼嫌いが決定的になったのは、「60年安保騒動」で左翼のデモ隊の狂態を目の当たりにしてからだ

▼ロシアによるウクライナ侵略と台湾有事の「複合危機」に警鐘を鳴らしていた、加瀬さんの訃報が届いた。85歳だった。初めて雑誌に国際情勢についての記事を発表したのは19歳だった。今年に入ってからも著作を刊行しているから、60年以上書き続けてきたことになる

▼歴代首相の特別顧問として対外折衝にも当たった。ただ通常の外交官と違って、自由に発言してきた。たとえば自伝によれば、ニューヨークの知人宅で紹介された元米陸軍長官とこんな会話を交わしている。「もし日本が原子爆弾を持っていたら、核攻撃を加えただろうか」「あなたは答えを知っている。もしそうなら、日本に対して使用することはなかった」

▼加瀬さんは、ビートルズの元メンバー、ジョン・レノンの夫人、オノ・ヨーコさんのいとこにあたる。日本文化を愛したレノンの平和主義と神道とのかかわりについて2年前に書いたことがある。すると加瀬さんは数日後、夕刊フジに連載中のコラムで念を押していた

▼「ジョンはベトナム戦争で戦ったベトナム人民を支持し、日本が米国の不当な圧迫に耐えられず、立ち上がって戦ったと信じた。やわな平和主義者ではない」>

ジョン・レノンは「やわな平和主義者ではない」?・・・小生は中学生の頃からデビューして間もないビートルズが大好きだったが、1970年代初めの解散以降は、レノン(1940/10/9 - 1980/12/8)とオノ・ヨーコの合作「イマジン」を保釈後の1972年頃に聞いて、「なんて甘いことを言っているのだろう」とシラケたものである。Akihiro Oba氏の歌詞和訳では、

<♪想像してごらん 何も所有しないって あなたならできると思うよ 欲張ったり飢えることもない 人はみんな兄弟なんだって 想像してごらん みんなが世界を分かち合うんだって・・・

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね でも僕一人じゃないはず いつかあなたもみんな仲間になって そして世界はきっとひとつになるんだ>

甘過ぎ! 過ぎたるは猶及ばざるが如し! 今でも小生は「人間は戦争と平和を繰り返す」と思っている。戦争に疲れると終戦を求め、それなりの平和(終戦、休戦)になり、当初はその戦後体制を「良し」とか「やむを得ない」としていたものの、基本的に「妥協の産物」なのだ。やがて双方ともに不満や疑心暗鬼が高じて「遠交近攻は世の倣い、やっぱり我らは奴らとは共に天を頂かず、撃ちてし止まん!」・・・歴史はその繰り返しだ。

加瀬氏はレノンをどう見ていたのだろう。産経2016/12/8「ジョン・レノンは靖国の英霊に祈った 外交評論家・加瀬英明(正論11月号より)」によると小生の見方はレノンの人格のごく一部だったようだ。

<2016年はビートルズの来日公演から50周年。1980年12月8日にニューヨークのマンションで射殺されたジョン・レノンが生きていれば、10月9日には76歳の誕生日を迎えていた。ジョンの妻、オノ・ヨーコは私のいとこで、私自身もジョンと親しくつきあわせてもらった。反戦平和を歌い、左翼的な政治運動にも身を投じた彼は「ラブ&ピース」のイメージで知られるが、私の知る彼は違う。 

印象に残っているのは、ジョンが日本の神道に強い関心を示していたことだ。よく中国や韓国の指導者や日本の新聞が、わが国の政治家の靖国神社参拝を批判するが、ジョンも靖国神社を参拝している。このことを私が講演などで話をすると、彼の「ラブ&ピース」のイメージと靖国が結びつかないのか、「本当なの?」と問い合わせを受けることもあるのだが、事実なのである。 

ジョンがヨーコに連れられ、靖国を参拝したのは71年1月だった。私は同行しなかったが、リラックスした二人を撮影した外国通信社の写真が残っている。穏やかに微笑むジョンに、ヨーコが何か説明しているようにも見える。当時はまだA級戦犯合祀が政治問題化はしていなかったが、彼は、戦場に散った日本の英霊をまつる靖国という場所を嫌っていなかった。

それからしばらくして、私はジョンに「先の日米戦争はアメリカからふっかけられ、日本は自衛のためにやむなく戦った。日本人はアメリカに攻撃されたベトナム人民と変わらなかった」と説明したことがあるのだが、その時も彼は納得した。あくまで私の推測だが、当時のジョンはアメリカという国に批判的で、ベトナム戦争などを挙げながら「侵略戦争を戦う国だ」などとよく口にしていたから、日本は米国に対し「正義の戦争」をしたと思ったに違いない。

ジョンは伊勢神宮にも足を伸ばしている。森に囲まれた神宮に魅せられたのだろうか、彼は私に「神道の森は素晴らしい。キリスト教の教会は街の中にあって、周りに自然が少ない」と話していた。

私はジョンに神道の自然観を説明したことがあるのだが、そのとき、英国出身者なら誰でも親しんでいる「クマのプーさん」の話をした。プーさんは森で、少年や動物たちと「平等の仲間」として楽しい日々を過ごしている。日本人にとっても動物から草木に至るまでの全てが仲間だから、人間中心主義を戒めるかのようなプーさんの物語は神道に通じるという話をした。そのとき、ジョンはわが意を得たりとばかりに目を輝かせて「その通りだ」と言っていた。

【好きな日本語は「オカゲサマ」】いただきます、ごちそうさま・・・ジョンは、日本人の価値観を感じさせる、英訳が難しい言葉が好きだった。これらの言葉は神道の教えにも通じるのだが、ジョンは「特に『オカゲサマ』が良い」と言っていた。「おかげさま」は、宇宙が誕生して以来の森羅万象に対する感謝の気持ちを現す語感を含んでいる。ジョンは優れた詩人だったから、森羅万象に対する感覚が鋭敏だったのだろう。

キリスト教は嫌いだったようだ。名曲として知られる「イマジン」では「地獄も天国もあったものではないと想像してごらん」と歌っている(*1)。明らかなキリスト教への批判で、過激な歌だった。宗教つまり「レリジョン」の語源のラテン語には「縛る」という意味がある。ジョンは、一神教が人を必要以上に縛る、人による自然支配を肯定しているために、違和感を覚えていた。

多神教の神道では、自然の細部に至るまで神が宿り、人は自然を尊ぶ。人は自然の一部にしかすぎない。聖書のような教典も存在しないため「縛る要素」が少ない。私が「イマジンは神道の世界を歌っているのではないか」と尋ねると、ジョンは賛同してくれた。

ジョンに神道の魅力を教えたのはヨーコだ。私たちの近い祖先に神主がいることも関係しているのかもしれない。ヨーコはウーマン・リブなど男女平等運動や左翼的活動の旗手になったことで誤解されているが、実は「明治の女」なのだ。男につくすし、日本文化にも造詣が深い。折り目正しいところもあり、決して本当の「左」ではない。がんじがらめな因習や、窮屈な日本の人間関係が嫌いなだけなのだ。

ヨーコは私の4歳上で、幼い頃は「ヨーコ姉ちゃま」と呼んでいた。我が一族の間では長いこと「イギリスの歌い手と一緒になったらしい」などと厄介者の扱いをされていたが、私はどういうわけか気が合った。

私は演歌が好きで、もともとビートルズやジョン・レノンという人物にあまり関心がなかったから、ヨーコがいなければ、ジョンと話したいと考えることもなかっただろう。1966年にビートルズが来日したときも、会場の日本武道館の会長を務めていた正力松太郎氏から「ピヨトルズという合唱団を呼ぶことになったから切符をあげましょうか?」と誘われたが、断ったほどだ。 

しかし、ジョンと知り合ってみると、年が近いこともあり(ジョンは1940年生、加瀬氏は1936年生)気が合った。彼は他愛もない話が好きで、ビートルズで作詞作曲のコンビを組んだポール・マッカートニーの名をあげながら「ポールと一緒にハドソン川の上空でUFOを見たことがある」とも言っていた。「銀の棒を組み立ててつくったピラミッドの下にタバコを置いておくと味がよくなる」などと嬉しそうに話していたこともあった。

地球外生物がいると本気で信じていたから、私は「お化けがいないのを証明するのは不可能だから信じるよ」と応えた。ジョンは神秘的なものを求めていて、それが神道への関心につながったにちがいない。  

【ポール来日めぐり大恥かいた】彼の偉大さを知ったのは、1970年のビートルズ解散後で、知り合ってかなり経ってからだ。 

70年代の半ばだったか、来日した彼を東京・新橋にあった「ルーブル」というバーに誘ったことがある。うす暗くて狭い店に二十五、六歳くらいの若い男のギター弾きがいて、髪を短く刈っていたジョンに気づかずに私がリクエストした「イマジン」を歌い始め、ジョンがハミングで調子を合わせた。演奏後に「ジョン・レノンだよ」と明かすと、ギター弾きは感動のあまり、子供のように声を上げて泣き始めた。このときに初めて「ジョンはこんなに有り難い存在なのか」と気づかされた。

余談だが、ヨーコからの「お願い」で大恥をかいたこともある。ジョンが撃たれる前、米国から電話がかかってきて、「ポールが日本公演を予定しているみたいだけどビザがおりないそうなの。なんとかしてくれる?」と頼まれたときだ。

ポールの薬物犯罪歴を理由に法務省がビザを取り消していたようで、私は当時、官房長官などを歴任した園田直氏と仲が良かったから、「なんとかしてほしい」と頼み、園田氏も即座に関係者に電話で「とにかくビザを出してやってくれ」と働きかけてくれた。それなのに、ポールは成田空港に降りた直後に大麻所持で捕まってしまった。サ行の発音が苦手な園田氏から「カシェくん。ひどい恥をかきました」と責められたものだ。(*2)

私に電話があったのはジョンがヨーコに協力を頼んだからかもしれない。ポールとはビートルズ解散前後に不仲だったジョンだったが、限りなく優しい人だったからだ。彼がニューヨークで日本語の勉強ノートを見せてくれたことがあった。言葉の横に上手な絵も描かれており(彼は若い頃に美術学校に通っていた)、本気で感心したら、次に訪米したときに立派な皮の表紙をつけてプレゼントしてくれた。「from your cousin John(あなたのいとこのジョンより)」とサインを添えて。

最後に会ったのは亡くなる1年ほど前だったと記憶する。最後になるとは思っていないから会話の中身は覚えていない。63年にはケネディ元米大統領も射殺されていたし、ジョンが撃たれたと知ったときは直感的に「ヒーローとはこういうものなのかな」と思った。いま思うに、彼ほど優しい人間には会ったことがない。私が彼に重ねたイメージは、まさに神道の世界に通じる「生き神様」だった。(談)

《加瀬英明氏 1936/昭和11生まれ。慶応大学卒業。福田赳夫、中曽根康弘両内閣で首相特別顧問を務める。母親は元日本興業銀行総裁の小野英二郎の娘。オノ・ヨーコ氏は、母の兄の娘》>(以上)

*1)オリジナルの歌詞は、Imagine there's no countries/ It isn't hard to do/ Nothing to kill or die for/ And no religion too

*2)園田直氏は自民党の政治家。WIKIによると主な経歴は――
1967年 - 11月 第2次佐藤栄作内閣で「厚生大臣」として初入閣。
1968年 - 11月 「自民党国対委員長」に就任。
1969年 - 1月 園田派会長に就任。
1972年 - 7月 園田派を解消し福田派に合流。
1976年 - 12月 福田赳夫内閣で「内閣官房長官」。
1977年 - 11月 福田赳夫改造内閣で「外務大臣」。第1次大平正芳内閣まで留任。
1978年 - 8月12日 外相として日中平和友好条約を締結。
1979年 - 11月 四十日抗争で福田派から除名処分。
1980年 - 9月 斎藤邦吉厚相辞任で後任の」厚生大臣」に就任。
1981年 - 5月 伊東正義外相辞任で後任の「外務大臣」に就任。
1984年 - 4月2日 慶應義塾大学病院で糖尿病からくる急性腎不全のため死去。70歳

園田氏の経歴を紹介したのには訳がある。小生は2003年からの病気療養中に無聊の慰めに宮崎正弘氏のメルマガを読むようになり、そこに渡部亮次郎氏が主宰するメルマガ「頂門の一針」が紹介されて以来、2紙とも目を通すようになった。

渡部氏はNHKの政治部記者だったが、田中角栄に嫌われたためか左遷され、1979年頃にNHKを辞めて園田氏の秘書官になった。渡部氏は「園田直・全人像」 (1981/3/1)、「さらば実力者」(1984/1/1)を上梓している。

渡部氏が「頂門の一針」をスタートさせたのは2002年か2003年あたりだったと思う。杜父魚(かじか)文庫に保存されている渡部氏の2003/3/23論稿「ジョン・レノンの印刷所」には加瀬英明氏との交流も記されている。以下引用する。

<◆ ジョン・レノンを知らなかった。訳の判らないうちにニューヨークで夫妻に会って、イタリア街で共に食事を戴く羽目になったのだ。気がつけば外は大変な人だかりになっていた。ジョン・レノンて誰なんだ。

私はその何ヶ月かまえ、NHKの記者から政府の外務大臣秘書官になっていた。そこへ友人の加瀬英明がやってきて「ナベちゃんは今までアメリカへ行ったことが無い。外務大臣の側近がいまだにアメリカを知らないと言うのはあなたの恥だろう」と言ったら園田直外務大臣は二人に黙って大金をくれた、行って来いというのであった。

◆ 私と加瀬さんとは文藝春秋での繋がりである。共に昭和11(1936)年生まれ。彼はアメリカ留学直後から文春の常連執筆者だった。一方私はどういうわけか文春の看板コラム「赤坂太郎」に指名されて一字10円で政界夜話を書いていた。NHKの月給より高かった。編集長の紹介で二人は知り合いとなった。

ところが加瀬さんと園田さんはもっと古い「友人」だったのだ。たとえば二人はよく柳橋で芸者をよんで呑んでいた。なぜだ。加瀬さんの父親俊一(としかず)が外務省高官であったころ園田氏は外務政務次官として加瀬家に出入りしていた。英明氏は高校生である。それを園田氏は柳橋に連れ出して芸者遊びを教えたのである。二人はそういう「友人」だったのだ。

私がアメリカを学びに行くことを二人は初めて柳橋に行く時の高校生・加瀬のように思っていたことだろう。

◆ 加瀬氏ははじめにロス・アンジェルスに降りた。目的地はニューヨークかワシントンだった。そのためには当時、羽田からはアンカレッジに一旦降りるしかなかった。加瀬が言うにはロス・アンジェルスで遊んだ方がいい、アンカレッジなんか詰まらん、という。詰まるも詰まらんもお上りさんとしてはハイハイ。それが良かった。

◆ ロスは解禁になったばかりの「ポルノ」の街のはずだった。昨日まで記者だったから、その程度のことは知っている。

総領事館から案内があって「ポルノ」映画館に入った。今の若い人にはわかるまいが、その頃の日本では性器はおろか毛の一本が映っていても雑誌は「発禁」だった。だから私はポルノに興味津々だった。だから折角ならポルノ映画鑑賞を言ったのだ。

ひょいと見回すと、観客は3人しか居ない。要するに我々だけだ。アメリカ人の観客は一人もいないのだ。なぜだ。一度みれば二度と観たくないのがポルノなのだなあ。私は42歳になったばかりだった。

◆ ダコタ・アパート。それがジョン・レノンの自宅だった。生まれて初めて見るニュー・ヨーク。「ナベさん、ビルの階を数えちゃダメだよ、首が折れる」加瀬氏の冗談とも本気とも取れる言葉を聞きながら御のぼりさんは興奮しているうちにセントラル・パークに接して聳えるダコタ・アパートに着いたらしい。

エレベーターが着いたら若い茶色の頭をした男が立っていて握手をした。男は幼稚園児みたいな男の子を抱えていた。ショーンといってヨーコさんとの一粒種だった。玄関ホールが30畳ぐらいあり、そこに三角屋根を幾つも張って、今、三角のエネルギーを体内に受け取る研究をしているんだ、とのことであったが、要するにわからなかった。

加瀬氏が近況を尋ねたところ、もう歌うことはしないという。どちらかと言うと主夫だよ、そのほうが楽しいよ、と。「私は英国リバプールという風の強い町の坂の上で育ち、海からの向かい風に向かって話すような育ちをしたから、叫ぶように喋る癖が残っている」と妙なところで恥かしがっていた。

◆ やがて夜になりアパートの玄関に降りたら、やたら長い運転手付きの大型車が停まっていた。田舎者が初めて乗るこれがリムジンというものだった。何しろ生まれて初めてのニューヨークである。どこをどう走ったか判らないうちに細い路地の入り口で降りた。イタリア人たちが固まってレストランを営んでいるイタリア街であった。隣の区画は中華街で仲が悪いとのこと。

髭を伸ばした主人とはもちろん顔馴染みなのだろう、気安く会話を交わしていたが、こちらは久しぶりに美味しいものにあって夢中だった。なにしろロサンジェルスで食べたステーキは固くて食えなかったし、海岸べりのシーフード・レストランとやらでの焼き魚は醤油が無いので散々だったから腹が減っていたのだ。加瀬氏は外交官の息子でアメリカ留学生だったが、何故か料理の好みは和風である。だから彼もイタリア料理には満足していた。

ひょいと窓を見るとジョン・レノン来るを聞きつけて老若男女が何十人も外で鈴なりしていた。それでようやく相手が世界的な人気者とわかり出した。

◆ ヨーコさんを先に帰してから、恥かしそうにジョンは秘密の場所に案内したいがいいか、と聞いてきた。もちろんOK。

いま思い出すとそこはマンハッタン島の北であった。丘みたいなところにある古い工場であった。2階に案内されて行くと4人ぐらい、若い男女がおり、印刷していた。なんですか、これはと加瀬氏が聞くと、間近に迫ったヨーコの誕生日にモナリザをプリントしたスカーフを贈るべくヨーコの顔写真を使って製作中である、ヨーコはモナリザによく似ているから、素晴らしいスカーフが完成しつつある。ヨーコには秘密だよ、何しろこっそりと完成させるためにこの印刷所を買収したのだからというので、金持ちぶりに飛び上がった。

◆ ナベちゃん、驚いちゃいけないよ、アラブの金持ちが先日、ロンドンのデパートであるものを指差したので、店員がはい、こちらでしょうかと聞いたところ石油成金曰く、いやこのデパートを売ってくれと言ったそうだぜ、と加瀬氏。なるほど、世界の金持ちはケタが違うね、と沈黙。

今その時のメモを読み返してみると、ジョンはレストランで「ポール・マカトニーを日本に呼んで一儲けしたらどうか」と言った。だが帰国後調べたら、マカトニー氏はマリファナ吸引者として法務省のブラックリストに載っていて入国を拒否されていた(その後はOKとなった)。ヨーコさんの誕生日は1933年2月18日。モナリザ・ヨーコのスカーフは美しく出来上がったのだろうか。

ジョンは約2年後の1980年12月8日に玄関前で狂的ファンに射殺されたこと、ご承知のとおりである。まだ40歳だった>(以上)

小生は海外旅行業界紙の記者で、海外旅行関係以外の政治や外交の報道にはあまり関心がなく、同じ出版人として山本夏彦翁の作品は愛読していたが、病気療養の暇つぶしで近現代史を学ぶうちに宮崎、渡部、伊藤貫、高坂正堯、細谷雄一、マキアヴェッリ、モンテーニュ、古森義久、高山正之、加瀬など先輩の書籍、同時に「産経」「諸君!」「正論」「WiLL」なども読むようになった。

間もなくして渡部氏に「頂門の一針に投稿したい」とメールを送ると、「いいんじゃないか、書いてみれば」と背中を押してもらった。最初の記事は「真珠湾の罠」といったタイトルだったと思う。海外旅行とはまったく違うジャンルを書き始めてもう20年ほどになり、投稿するといつも掲載してもらえるので、今では「これが俺の天職であり、生き甲斐かも知れない」と感謝している。

加瀬氏の訃報を知って渡部氏に「加瀬氏の死を悼みます。加瀬氏にはもっともっと長生きしてほしかった、とても残念です。このところ渡部様は『頂門』の編集から離れているようですが、体調は如何ですか? 近況をお知らせいただければ幸いです」とメールしたところ、こう返信があった。

「本当に驚きました。ついこの間まで、投稿を戴いておりましたので信じられずに今もおります。最近では物書く気力、体力もなく、只々、皆様の投稿を楽しみにしております」

11/17の「頂門」に渡部氏はこう書いていた。「突然のことで未だに信じられずにおります。加瀬氏のご冥福を心より祈ります」

渡部氏の2006/5/4の論稿「中国迎合内閣は国を売る」を読むと、まるで「カミソリのような記者」の感で背中がゾクゾクするほど。加瀬氏のような優れた論客でも加齢は仕方がない。我ら後進としては先達の後継者として思いを繋いでいくのが仁義、使命だろう。「先輩をがっかりさせるような記事は冒涜でしかない」と小生は決意を改めている。
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9
https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」

中露北は「年を歴た鰐」

2022-11-15 14:36:53 | 戦争
中露北は「年を歴た鰐」
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」107/通算539 2022/11/15/火】読書の秋、小生は年がら年中“毒書”、即ち、使いよう、考えようによっては“効き目のある本”を読むようにしている。

繰り返すが、本はざっくり分類すると「娯楽系」と「教養・学問系」(教学系)があり、男はというか、特に記者稼業の場合は教学系の本を読んでおくと言論戦で有利になったり、一目を置かれたりする。

「○○はこう言っているが、一方で▲▲はこうも言っている。▲▲の見方も理論的には筋が通っているけれど、今の状況には○○の主張の方が現実的だと思うよ」なんて話すと、○○も▲▲も名前は知っていても読んでいない人は「ふーん、そうかもしれないなあ」となりやすい。俺の勝ちだ。

これは相手が男の場合で、大体単純、素直なのが多いから理路整然と説けば上手くいくのだが、女はちょっと違うよう。女は自己保身のためなのか、表向きは異議を唱えることはしないが、裏の“女子部”では結構辛辣なことを言う。

「修一君の言うのは正論かも知れない・・・でも、私は○○のやり方では強引過ぎて、上手くいかない時のリスクは大きいと思うの。第一、修一君は言うこととやることが怪しいし・・・ここだけの話だけれど、修一君は内輪の割り勘の飲み会なのに、店から全額費用の領収書をもらって会社に営業交際費として請求していたのよ、ひどい話でしょ?! 一種の背任横領よ。彼の言うことは話半分で聞いておいた方がいいのよ」

狡猾な小生は“女子部”にシンパを置いていたので、その情報を知ってからは大いに自重するようになったが、「仕事ができる」と「品行方正」は両立がなかなか難しい。結局、労組=部下の造反にウンザリして辞表を出したが、会社から「労組のハネッカエリ共をクビにするから辞表を撤回してくれ」と慰留された。

しかし、最早、小生はやる気が失せてしまったし、解雇された部下はまだまだ編集・記者として十分な能力はない上に、「元労組幹部で、上司と折り合いが悪かった」では再就職は難しいから、ここは小生が静かに身を引くのが一番だと決断した。綺麗ごとの理由ばかりでなく、1984年頃は年功序列の給与体系が普通で、それでは「やってられない」という思いもあった。

独立したら、真っ先に辞めたばかりの会社から仕事が来た。複数のクライアントが「修一君じゃなければダメだ」と応援してくれたのだ。駆け出しの昔、世話になった会社からも仕事を貰えた。後のことだが、小生を“追放”した部下が他社に移るや、仕事を回してくれもした。彼は「修一さんは僕らが叩いたから辞めるんですか」と言っていた労組幹部だったが、「やり過ぎた」と忸怩たる思いを持ち続けていたようだ。

独立して半年間は入金が少ないので厳しかったが、幸いにもクライアントが付いてそれなりに回り始めるようになると、午後5時以降は「仕事=接待」になったのは想定外だった。水を得た魚のように月水金は飲み会になって仕事と趣味が“両立”したのは有難かったが好事魔多し。結果的に飲み過ぎやストレスから胃癌になり、やがてアル中にもなったが、零細企業の社長はストレスが大きいから体を壊す人が多いのではないか。

運が良かったのか、元中核派の前科者ながら今は人がましい穏やかな晩年を迎えたが、たまたまレオポール・ショヴォ著、山本夏彦訳の「年を歴た鰐(わに)の話」を20年振りに読み直してみたら、「バカをやっても、トンデモナイ悪党であっても、事と次第ではソフトランディング、軟着陸できるケースはあるものだ、そういう怪しい輩には気をつけろ」という話のよう。読み方、解釈によっては痛烈な社会批判とも言え、小生は改めて夏彦翁の慧眼に恐れ入った。

版元の文藝春秋によると「山本夏彦氏は昭和16年に日本に最初にショヴォ氏を紹介。この本は昭和21年に再発行されたものの復刻版」とある。昭和16年/1941年と言えば日米開戦の時期、欧州ではヒトラー・ドイツとスターリン・ソ連が密約して侵略を進めていた時期であり、意味深だ。以下、かいつまんで同書の内容を紹介する。

<この話の主人公は、大そう年を取った鰐(わに)である。この鰐はまだ若い頃、ピラミッドが建てられるのを見た。年を歴た鰐は、長い間健康だったが、5、60年このかた、ナイル川の湿気が体にこたえはじめたことに気がついた。かくして、びっこをひきひき、よたよたして、体を軋(きし)らせ、身振りおかしく年とった鰐は歩いた。

ナイル川に住む魚たちは、鰐がやって来る音を遠くで聞いて、互いに叫びかわした。「オーイ。おいぼれが来るぞ」 彼らは悠々と立ち去り、鰐を嘲った。

哀れむべき鰐の、日々の献立は貧しくなった。昔は、新しい肉しか食べなかったのに、今では岸に打ち上げられた死骸を見つけて、それで我慢しなければならない。こんな養生法は気にくわなかった。

どうにも辛抱しきれなくなったある日、鰐は自分の家族の一匹を食おうと決心した。曽孫になる子が、つい手のとどく所で眠っていた。彼は大きな口をあいて、曽孫が目を覚まさないうちに頬ばった。

昔だったら三度、顎と咽喉(のど)を動かしただけで胃の腑に落ちるのだが、30分も大きな音を立てて咀嚼したが、まだ咽喉を通らなかった。

「お祖父さんは何をかじっているんだろう」。近所で昼寝していた曽孫の母親は考えた。可愛い息子が危ない食道を通っているとは夢にも知らなかった。「やかましいね、お祖父さんは。そばじゃ、おちおち眠れやしない」

孫娘にあたるこの母鰐は、まだ500歳にはなっていなかったが、もう尊敬されるべき立派な夫人だった。お祖父さんを叱ってやろうと彼女は急いだ。お祖父さんの口から、まだ尻尾の先が少し出ていた。ほんの少しだったが、母親の愛の目は見誤らなかった。

「人でなし!」と彼女は叫んだ。「あんたはあたしの子を食べたんだね」

年とった鰐は、そうだとうなづいて見せ、最後に力を込めてぐっと呑みこんだ。若い鰐は完全に胃の腑におさまったのである。母親はにがい涙を流した。

年よりだというので尊敬されていた鰐だったけれど、皆から非難された。早速、親族会議が開かれ、二度とこんな不祥事が起こらないように厳罰に処すべきだと認められた。この鰐を殺すことになった。

家族の中の雄という雄がとびかかった。彼は眼をつぶった。ところが数十世紀を経て厚くなった皮には、爪も歯も立たなかったのである。

年とった鰐は、自分の子孫の不遜に堪えられなくなって、びっこをひきひき、よたよたして、河へ入り、そこを逃れ去った・・・>

鰐はナイル川を経て海へ入り、浮力と塩分と日光浴のお陰で持病のリウマチも緩和されていく。やがて海で12本足の蛸(たこ)ととても仲良しの友達になるが、食欲に負けて食ってしまい、諸行無常を感じたのか故郷に戻る。

しかし、曽孫を食った年とった鰐の姿を見ると鰐たちは逃げ出すばかりで安住の故郷ではなくなっていた。「ああ、まだ覚えていたのか。だが、あんなつまらぬ鰐を食べたからといって、どうしたというのだ」。居直ったところで孤独感は募るばかりだ。

<彼は孤独な生活に堪えられなくなった。こんなことなら何も食べずに死んでしまおうと決心した。水から上がって、ため息をつき、乾いた岸の泥の上に長くなって、死を待った。始めに訪れたのは眠りであった。年とった鰐は夢で甘い歌と、妙なる音楽を聞いた。「ああ、俺は死んだのだな、鰐の天国へ入っていくのだな」・・・

にわかに音楽が耳を聾(ろう)すばかりになったので、目を覚ました。「なんだ、まだ死ななかったのか」

一団の黒んぼが彼のまわりで踊っていた。歌いながらタムタムや太鼓をひどく打ち鳴らしていた。鰐が目を開くと、彼らは地面に額をすりつけて平伏した。「これは一体なんの真似だ」と彼は呟(つぶや)いた。

断食して死のうと決心したことも忘れ、彼は若い、脂ぎった黒んぼの娘の足をくわえた。すると黒んぼの一団は立ち上がって、うれしくてたまらなそうな様子をした。娘も、鰐に腿をかまれているのに、にっこり笑った。そして素早く腰布を取った。それには硝子玉の飾りがついていて、年とった鰐の胃袋では消化できなかろうと案じたからである。娘は食われてしまった。

彼らは眠り続ける鰐を村で一番大きな、一番美しい小屋に安置した。以来この小屋は神社になった。年を歴た鰐は神様に祭り上げられたのである。毎日十か十二ぐらいの娘が生贄にされた。鰐は喜んで食べたが、娘も喜んで彼に食べられた。

たった一つの疑問が年とった鰐の平和と静謐をかき乱した。なぜ仲間は彼を見て逃げたのだろう、なぜ黒んぼは彼をあがめるのだろう。彼には分からなかった。もし彼がその理由を知ったら、一層くよくよしたかもしれない。

年とった鰐は、熱すぎる紅海の水に浸っていた間、気がつかないうちに海老のように真赤になっていたのである>

1917年(大正6年)のロシア共産主義革命は世界に大きな衝撃を与えた。その基本は「伝統秩序の破壊」「表は自由民主を唱える個人独裁」で、共産主義=正義=政府を倒せ=秩序を破壊せよという思想が広まった。日本では「大正デモクラシー」という文化革命があり、一種の流行、オシャレになり、マルクスボーイがずいぶん増えていった。

レオポール・ショヴォは1870年フランス生まれ。本業は医師だが第一次世界大戦後は作家になり、同業のロジェ・マルタン・デュガール(「チボー家の人々」など)やアンドレ・ジッド(「狭き門」など)と友になったという。「チボー家」にはアカに染まって野垂れ死にする次男が描かれていた。悲惨である。

WIKIによるとアンドレ・ジッドは「1936年、ソ連邦作家同盟の招待を受け同国を訪れ、約2ヶ月間の滞在ののち『ソヴィエト紀行』でソ連の実態を明らかにしてスターリン体制に反対する姿勢を鮮明にし、左派から猛批判を受けた」そうだ。○○につける薬なし、アカと邪教は痛い目に遭わないと目が覚めない。小生がいい例だ。

この2人を共とするショヴォもソ連共産主義独裁の恐ろしさを十分知っていたろう。1940年、ソ連と手を握ったナチス・ドイツの侵攻迫るパリを逃れる旅の途上、ノルマンディーの小村で没したという。

ロクデナシの「年を歴た鰐」は日焼けで赤くなっていたため「神様・ご本尊」になった。アカの代表であるレーニン、スターリン、毛沢東も内戦や戦争で殺しまくってご本尊になり、プーチン、習近平、金正恩もそれを目指している。

人食い鰐に食われるか、あるいは鰐を駆除するか、世界は岐路にある。鰐と会談したところで無意味だが、それさえ分かっていないチェンバレン式宥和政策の政治家が多過ぎる。
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9
https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」





戦後秩序を考えるべき時

2022-11-10 21:05:51 | 戦争
戦後秩序を考えるべき時
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」106/通算538 2022/11/10/木】先週末は子供3人、孫5人が集まってカミサンと小生の古希のお祝いをしてくれた。カミサンは50年勤務のナース引退祝いを兼ねており、小生は昨年が古希だがコロナ禍でできなかったので今回は夫婦でダブル古希祝い。紫のチャンチャンコ代わりにユニクロのダウンベストを着て「はい、チーズ!」。

毎日が「趣味の営繕」やり放題で、11/7は4F展望台リニューアル工事完了、その勢いで3F屋上ガーデンも庭師になった気分で一気呵成に手入れして、気分爽快、腰はフラフラ。

古人曰く「馬鹿と煙は高いところへ上る」。ことわざ辞典によると「愚か者はおだてにのりやすい」というたとえ。誰も誉めてくれないから自分で自分を褒めるのだ、「良くやった、明日も頑張ろう!」と。自分の老いの住処を自分の好むように美しくしていくのはやりがいがあって心が晴れ晴れする。

小生のようなヒッキーヂヂイにとって我が家の3Fと4Fは天国、解放区だが、下界を見下ろせば炊煙どころではなく硝煙やら黒煙が蔓延していそう。大戦前夜の趣だ。

Wedge ONLINE 11/2、部谷直亮/慶應義塾大学SFC研究所上席所員の「ウクライナ軍が人類史上初の水上ドローンで対艦攻撃 中国軍自爆ドローンによる海上自衛隊無力化の恐れも」から。

<ウクライナ軍は2022年10月29日にロシア海軍の黒海艦隊に対し、海戦史上の画期となる軍事革命を象徴する攻撃を行った。攻撃を受けたロシア国防省の発表によれば、8機のドローンと7隻の自爆水上ドローン(以下、自爆USV、*無人水上艇/Unmanned Surface Vehicle)がセヴァストポリ港を本拠とする黒海艦隊に空と海からの対艦攻撃を仕掛けたという。攻撃をしたウクライナ側もUSVからの映像と共に攻撃を発表した。

これは人類史上初のドローンによる対艦スウォーム攻撃(*複数以上のドローンを使って攻撃する戦法)であり、軍事革命となる可能性が高い。航空機が戦艦を初めて撃沈したタラント空襲(1940)や日本海軍による真珠湾攻撃(1941)に匹敵する契機になりそうな見込みだ。

今回の攻撃はどのようなものだったのだろうか。両軍の発表や既に報じられた分析を相互比較して論じてみよう。

まずロシア軍側としては複数のドローンと自爆USVの攻撃が行われたとしているが、両軍ともに水上ドローンの映像しか出ていないので、「複数の自爆USVによる停泊する艦隊への攻撃が行われた」というのが現時点の確定した事実だろう。

この自爆USVとは、何が使用されたのか? そのヒントになるのが9月にセヴァストポリに漂着し、ロシア軍に回収された謎のUSVだ。このUSVは、衛星通信用のスターリンクアンテナと思しきものを装備し、胴体中央に潜望鏡のようなカメラと船首に爆薬を積載した偵察や自爆、それにおそらくは通信の中継も可能なタイプと目されており、ドローンの高い汎用性を象徴する機体だ。最高速度は時速110キロメートルと目されている。

一説には米国が供与したとされるUSVはこれではないかとも囁かれている。他方で民生部品を集合させただけの非常に簡素なつくりなのでウクライナ軍が作ったとする説もある。

長年の訓練によって練磨した乗組員を積載し、長期的な建艦計画に基づいて配備された高価な艦艇が、四次産業革命を背景とする民生品の寄せ集めの安価な無人兵器によって損傷させられた上に、怯えなければならなくなっていることはどうみても軍事史の転換点だろう。

空を飛ぶドローンの軍事的有用性は――自衛隊とその奇妙な応援団が拒否してきたが――2020年のナゴルノカラバフ紛争や2022年のロシア・ウクライナ戦争によって証明された。ポーツマス大学のピーター・リー教授が指摘するように「もはやドローンが無ければ、戦争を遂行することはできない」のだ。それが今、海戦でも起きようとしている。

ようやくドローン前提軍へと舵を切り始めた自衛隊だが、あくまでも職種ごとの発想や調達に縛られてしまっている。なによりも問題なのはこれまでの兵器や人間を置き換える、つまり少子高齢化問題を解決する省人化の発想にとらわれていることだ。

つまりドローン等を活かした新しい戦い方を志向するのではなく、ロシア軍のように古い戦い方の道具にしようとしているのだ。実際、電波法や航空法の縛りで現場部隊はロクにドローンを運用できず、せっかく調達した小型ドローンも目視可能な距離で弱風の際にのみ運用する自撮り棒状態となっている。残念ながら海自のドローン対策も進んでいない。

2012年に米海軍大学院はシミュレーションの結果、8機のドローンがイージス艦に対艦攻撃した場合、3.82機のドローンがイージス艦への突入に成功するとしている。本研究は東京湾のようなエリアのために主砲やミサイルを使わない想定だが、仮に洋上戦闘だとしても艦隊戦の前に安価なドローンに高価で補充できない対空ミサイルを射耗することは致命的だ。

そして「イージス艦の戦闘システムは高速、レーダー断面の大きい目標と交戦することに特化しており、UAVのような低速、レーダー断面の小さい目標に対しては脆弱である」「レーザーは連射が効かないことから自爆UAVが複数襲来する状況では問題になる」とも指摘し、米海軍は最近でも自爆ドローンのスウォーム攻撃に備える実験を繰り返している。2021年4月には、米海軍はドローンの群れによる対艦攻撃演習も実施している。米海軍は艦隊戦においてドローン攻撃を目指し、また備えつつあるのだ。

一方で、中国軍はスウォーム攻撃する自爆ドローンによって日米の艦隊をせん滅する構想を示しているほか、最近でもAIで駆動する無人水上艦の実験に成功もしている。電子妨害による援護と同時に対艦攻撃するスウォームドローンに対する防空演習も繰り返しており、ドローンの運用やドローンのAIの学習も進んでいると思われる。特に厄介なのは、中国軍はドローンからの電波妨害を重視していることだ。WZ-7翔竜のように敵艦隊の通信妨害に特化した機体もあり、今年9月にも台湾の防空識別圏へ侵入もさせている。

しかし海自の護衛艦は無防備なままで、ほとんど対策もしていない。中東の武装集団ヒズボラはドローン保有数が2000機だとされるが、自衛隊は今夏の岸信夫防衛相(当時)の説明によれば家電量販店で売っているドローンを含めて1000機しか保有していない。自衛隊はヒズボラよりもドローンに関しては軍事的に劣後しているのだ。

このような「周回遅れ」を重ねた状況で中国海軍と戦えば海自は壊滅しかねない。例えばドローンと自爆USVを組み合わせたスウォーム攻撃を台湾有事直前にされれば、戦わずして無力化されるだろう。今回使用されたのは、自爆タイプなので接触しなければならないが、電子妨害や小型ミサイルを発射できるタイプならば一定の距離に近づくだけで十分だ。

少なくともUSVに投資をしている中国が今回の戦いからどのような戦訓を導き出し、更なる投資を行うかは論じるまでもない。火を見るより明らかだ。

よしんば海自艦隊が中国艦隊との艦隊決戦にたどり着けても、電子妨害ドローンによってレーダーも通信も妨害される中、無数の自爆ドローンによって損傷なり、貴重な対空ミサイルやCIWSの弾薬を射耗してしまうだろう。あとは中国艦隊が発射する対艦ミサイルによって殲滅される“結果”だけが待っていることになりかねない。

そして、その悲惨な様子はドローンの4K映像によって、今回のように世界中にSNSを通じて配信され、日本の戦意は消失し、米国内を含む国際世論は中立化しかねない。

もう一つの恐ろしいシナリオは米海軍は先述したようにドローンによる攻撃も対策も重視している。それなのに自衛隊がこの分野で遅れたままでは共同作戦能力を欠いているとみなされ、同盟にヒビが入りかねない。そうであってはならない。

むしろ陸海空自衛隊は、在来型兵器と空中・水上・水中におけるドローンを組み合わせて東シナ海の低空域と浅海域――浅い大陸棚はまさしく水上及び水中ドローンの恰好の場だ――の「空地中間領域」を支配し、中国軍の侵入を拒絶するコンセプトとドクトリンに移行するべきだ・・・

もはやウクライナの戦場では無人アセットなくして戦争に勝つどころか、まともに戦争すら遂行できないことが明らかになっている。日本としても新技術を古い仕事の穴埋めに使うのではなく、「新しい戦い方」のために使い、その為に必要な制度改革と予算の確保に全力を尽くべきだ>(以上)

小生が部谷直亮氏の論稿を読んだのは上記が初めてだが、随分軍事に詳しいようだ。氏のツイッターによると「ひだに なおあき」と読む。ネット論壇のSAKISIRUににはこう紹介されている。

<部谷直亮:安全保障アナリスト/慶應義塾大学SFC研究所上席所員。成蹊大学法学部政治学科卒業、拓殖大学大学院安全保障専攻修士課程(卒業)、拓殖大学大学院安全保障専攻博士課程(単位取得退学)。財団法人世界政経調査会 国際情勢研究所研究員等を経て現職。専門は米国政軍関係、同国防政策、日米関係、安全保障全般>

文春オンラインによると氏は2017年までは朝日新聞のWEBRONZAにも寄稿していた。肩書の「慶應義塾大学SFC研究所上席所員」とは何か。慶應のサイトによると、この肩書を“利用”する人が結構いるようだ。

<上席所員・所員一覧:569名 2022/10/1 ※ご注意※『慶應義塾大学SFC研究所 上席所員』および『慶應義塾大学SFC研究所 所員』という呼称は「慶應義塾大学SFC研究所の実施する研究に参加させる目的でSFC研究所が受け入れる研究者」を示すものであり、慶應義塾との雇用関係を示すものではありません>

SFCは何の略か、何を研究しているのだろうと思っていたらSFCは「湘南藤沢キャンパス」の略。ナンカナーの気分だが、「慶應義塾大学SFC研究所上席所員」として部谷氏が具体的に何をしているのか全然分からない。そもそも研究所のテーマに「安全保障」「軍事」はない。

小生だってカッコイイ肩書が欲しい。「毎日が日曜日 暇つぶしDIY孤老の会会長」「雀のお宿日本支部長」「左巻きから右巻きへ 転向のすゝめ学会理事長」・・・全然ダメ、ただの変人だ。「元気老人『営繕友の会』多摩区支部長」くらいか? パッとしないなあ。

部谷氏は上記の論稿で「自衛隊ガンバレ!」と言っているのだろうが、調べてみたら氏はかつて自衛隊をこき下ろしていたというか、バカにしていた。「自衛隊幹部が異様な低学歴集団である理由 中学校レベルの根性論とパワハラ」(PRESIDENT 2018/10/1)から。

<【自衛隊幹部の51%が高卒以下だった】 筆者の情報公開請求とプレジデント社との共同取材により、自衛隊幹部は公務員の中でも異様な低学歴集団であることが判明した。しかも、それは米軍や韓国軍にも劣るレベルだという。

まず目立つのは大卒の低さである。大卒以上の幹部(尉官以上)は45.9%しか存在しない(2017年10月末時)。大卒率ほぼ100%のキャリアの国家公務員や米軍の現役幹部の83.8%(15年時)と比べると異常な低さだ。

次に修士以上も酷い状況だ。米軍の現役幹部の41.5%が修士号以上を取得している。しかし、自衛隊幹部は僅か5.02%のみ。特に航空自衛隊幹部は3.64%でしかない(18年4月時)。

そして、注目すべきは高卒の多さである。なんと自衛隊幹部の51%が高卒以下であり、一佐ですら3%の80人が高卒であった(17年10月末時)。中卒の一佐も3人いた。一佐とは、諸官庁では課長級であり、連隊長ともなれば数百~1000人の部下をまとめる職である。

では、なぜそうなってしまうのか。それは自衛隊が第1に、諸外国の軍隊の中でも知性を軽視しているからだ。米軍の場合は基本的に将校は学位を保有せねばならず、保有しない将校でも大尉になれば一定期間までに学位を取らねばならないとなっている。将軍では2つや3つの修士はザラである。

自衛隊の場合は、そうした規定もなく、また積極的に国内外の大学に幹部を留学させる仕組みも乏しい。防衛省を含む各省庁のキャリア官僚は、基本的に海外の大学院に留学させるが、自衛隊では非常に限定される。国内の大学院へ行けばはみ出し者扱いされるという。

第2は、自衛隊の専門知識や学問に対する軽視だ。特に陸上自衛隊では、職場の机の上に書籍(軍事や戦争の専門書でも)を置いているだけで上司からにらまれることが多々あり、検閲の場合は私物として隠さねばならない。業務に直接関係のないものを置くのは美しくないためだ。これでは、自ら外部の教育機関で学ぼうとする意欲を持つ人間はつまはじきにされてしまう。

【自衛隊幹部だけが全公務員の中で教育の機会を与えられていない】 複数の自衛隊幹部は「自衛隊幹部の学歴は先進国でも最低レベルではないか。平和安全法制以後、米国などとの共同作戦や演習が増えていく中で深刻な問題になっている」と現状を嘆く・・・

米軍などを見習って、基本的に幹部には学位を取らせるべきであるし、キャリアに当たる幹部は基本的に他省庁と同様に留学させるべきだ。国内大学の修士課程であれば1人135万円、学部なら250万円で卒業可能だが、これは演習弾数発程度でしかない。オスプレイ2機を断念すれば自衛隊の大卒幹部のほとんどを修士課程に、5機を断念すれば自衛隊の高卒幹部約2万人を全員学卒にできる。

自衛隊幹部だけが全公務員の中で、教育の機会を与えられず、中学校レベルの根性論とパワハラで勤務させられるのは差別的待遇でしかない>(以上)

部谷氏は「自分は高学歴で能力があるのに優遇されていない」という、強烈な不満があるのではないか。プライドが高過ぎて周りの連中がバカに見えるから、組織の中では上手くやれないタイプかも知れない。

学歴が高ければ“いい仕事”をするわけではない。高学歴の米軍は第2次世界大戦で勝って以降、ほとんど負けっぱなしである。1950年に始まった朝鮮戦争は未だに決着できずに休戦状態のままだ。中共をパンダと思って餌を与えた米国の高学歴の政治家、軍人は、今、モンスターになったパンダに右往左往している。

学歴が高いと強い軍隊になるのなら、世界中の軍隊の将兵が大卒になるだろう。そうなると誰が最前線で戦うのか。高学歴の兵士は戦闘機の操縦が上手いのか? ハイテク武器の操作に優れているのか? 命令に従って吶喊するのか? 

「将兵が高学歴なら軍隊は強い」、それなら兵器にカネを投入するより大学に行かせた方がいいとなるが、大学で何を学ぶのか。文学、史学、地理学、心理学、哲学、語学、経済学、経営学、数学、物理学、化学、情報工学、ロボット工学、航空宇宙工学・・・共産主義が大好きなアカが日本学術会議を制圧しているから軍事学がない。

将兵の資質にとって一番大事なのは国を守る気概・愛国心、勝つための情報分析と作戦能力、強靭な体力と根性、ハイテク機器を操作する戦闘能力などだろう。民生とは違って専門職過ぎるから一般的な大卒、大学院卒では学べない。例えば空自のパイロットは空自で育てるしかない。

部谷氏は大手マスコミへの寄稿では糊口を凌げないのか、今は有料のツイッターを開設している。小生が注目していた若き論客、岩田温(あつし)氏は大学准教授を辞めてユーチューバー(岩田温チャンネル)になり、支持者を固めて言論活動と生活を支えていく覚悟のよう。

大学は本来、学問を通じて良き人材を育て、国家、国民、人類の発展、成長を促すのが使命であり原点だろうが、日本の大学は世界ランキングで随分後退しているという。良き人材どころか、古人も懸念していたようにまるで「駅弁大学」「浮薄の普及」になってしまった面もある。

先進国の政治家は大卒が多いだろうが、日本の大学は学問よりスポーツなどにやたらと熱心だ、と思うのは小生の偏見か。「早稲田文学の向こうを張って三田文学だと・・・まるで早慶戦の延長、愚の骨頂だ」と荷風散人は「学問」での競争ではなく人気取りに堕した大学の商業主義を嘆いていた。もっとも荷風は慶応に頼まれて三田文学を創刊したのは糊口ためだと言い訳していたが(このアバウトさが荷風の面白いところだ)。

今では日本の大学は教育・学問・研究よりも「大卒」の免状を売るビジネスの面が濃いようだから、国会議員が大卒ばかりでも、それなりの知性を持っている人は世の中と一緒で20%ほど。与党と野党で10%ずつのようで、G7やG20の諸国も似たようなものかもしれない。実際、大卒=有能だという話は聞いたことがない。

専門分野が多岐にわたり過ぎて“博学の智者”というのが難しくなっていることもあるだろう。「学歴よりキャリア! 即戦力になるデキル人材が欲しい」という時代に日本も世界も移行しつつあるのではないか。

まともな教育を受けているのかどうかも怪しいプーチン、習近平、金正恩、イスラム過激派に、先進国の大卒、院卒、学者、識者、政治家は右往左往している。戦時にあっては学歴や人格よりも、強い奴、狡猾な奴、できる奴、それが評価されないために鬱屈しているような一癖も二癖もある奴が良い働きをする、ということをマキアヴェッリは言っている。

「彼らに能力を発揮する場を与え、優遇すると、やがては熱烈な忠誠心を持つ将兵になるのだ」

そういう時代になってきたということ。第3次世界大戦が始まっている、共産主義独裁を消滅する好機、と小生は思うが、行き過ぎた自由民主人権法治を正す機会でもあるだろう。21世紀をどういう時代にすべきか、おいおい考えていきたい。
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9
https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」