観測することで、対象に影響を与えてしまう、
という量子力学での実験結果がある。
その同時間に観測することと、観測しないことは出来ない。
そしてまた、(観測しない)という実験は出来ない。
何故なら、観測しない、ということは「無」ではないから。
「観測しない」という意識が「在る」ので、
それがある限り、
それは対象に影響を与えてしまうということになるはず。
観測が「無」の場合は・・・
山奥の金塊の話しと同じで、
在る、という観測がない限り、私たち人間にとっては「無」であり、
「無」という認識もない。
ようするにそれは観測するまでは非局所的に広がっている・・
ということだろう。
量子力学でノーベル賞をとったマックス・ボルンという人が、
「わたしはいま、理論物理学とは実は哲学ではないかと確信している」
(マックス・ボルンの『私の物理学と主張』という著書にあるそうだ)
・・なるほどそうなのかと思う。
哲学は認識することで行なうものかと思うので、やはり、
量子力学は哲学であり、意識力学と云えるかなと思う。
そしてそれは世界が幸福になるのに、
有効な働きをするものだと思う。
山岸さんもそういったことを暗に知らせたくて、
あの青い本に「湯川博士」という文字を入れたんだろうな。
という量子力学での実験結果がある。
その同時間に観測することと、観測しないことは出来ない。
そしてまた、(観測しない)という実験は出来ない。
何故なら、観測しない、ということは「無」ではないから。
「観測しない」という意識が「在る」ので、
それがある限り、
それは対象に影響を与えてしまうということになるはず。
観測が「無」の場合は・・・
山奥の金塊の話しと同じで、
在る、という観測がない限り、私たち人間にとっては「無」であり、
「無」という認識もない。
ようするにそれは観測するまでは非局所的に広がっている・・
ということだろう。
量子力学でノーベル賞をとったマックス・ボルンという人が、
「わたしはいま、理論物理学とは実は哲学ではないかと確信している」
(マックス・ボルンの『私の物理学と主張』という著書にあるそうだ)
・・なるほどそうなのかと思う。
哲学は認識することで行なうものかと思うので、やはり、
量子力学は哲学であり、意識力学と云えるかなと思う。
そしてそれは世界が幸福になるのに、
有効な働きをするものだと思う。
山岸さんもそういったことを暗に知らせたくて、
あの青い本に「湯川博士」という文字を入れたんだろうな。