聖書の大文字の「GOD」とはヘブライ語で、YHWE というような文字で、
それはヤハウエーとか発音し、
その意味は「すべてのものに私はなる」ということだと、
聖書研究をしてる人に聞いたことがある。
そういう意味のものが英語で何故「GOD」になったのか、
その辺の事は勉強不足でわからないんだけれども。
まぁ、でも、そうだとして・・考えると・・
「すべてのものに私はなる」=「神」であるなら、
その言葉の中の一部である「私」という文字だけが「神」というわけじゃないと思う。
(すべてのものに私はなる)という“状態”が「神」であるということと思う。
その状態とはやはり 目に見えないものの状態 と言っていいと思う。
目に見える姿という物理的状態ではないだろう。
神がどういうものがわからなけど、目に見えるものじゃないのではないかと思う。
人は人であって「神」ではないし、
物理的に花は花だし、蝶は蝶だし、虫は虫で「神」ではない。
AさんはAさんであって「神」ではない。
目に見えない世界で、全てのものは神というような存在・・・
・・というような意味合いなんだろうか。
「神」とは すべてのものは私で在る・・・
・・という目に見えない現象・・なんだろうか。
全てのものに神が宿るという日本的な考えと似てるね~
そして聖書には大文字の「GOD」と明らかに異なる小文字の「god」があるという。
ある宗派はそれはイエス・キリストだという見解をもって、
それが絶対に正しいとしてるようだけど、
キリスト一人じゃないんじゃないかと思う。
それは(あなた・すべて・・のものはわたし)というような、
人間の境地のことなんじゃないのかなぁ。
そういう心の状態そのものをそういうんじゃないかと思う。
ひとの身になって考えるとか、他人事と思えないとか、
対岸の火事はここの火事とか、(そんな言葉ないか)
谷垣さんが野田さんの心を自分の心であるかのように感じるとか、
他人のことが自分のことのように思えるとか、
同感ではなく、“共感”という境地・状態・世界。
そんな言葉もそういうことを表わすのかなと思う。
聖書にかかれて在ることが絶対正しいなんて思ってないけど、
実に興味深い。
それはヤハウエーとか発音し、
その意味は「すべてのものに私はなる」ということだと、
聖書研究をしてる人に聞いたことがある。
そういう意味のものが英語で何故「GOD」になったのか、
その辺の事は勉強不足でわからないんだけれども。
まぁ、でも、そうだとして・・考えると・・
「すべてのものに私はなる」=「神」であるなら、
その言葉の中の一部である「私」という文字だけが「神」というわけじゃないと思う。
(すべてのものに私はなる)という“状態”が「神」であるということと思う。
その状態とはやはり 目に見えないものの状態 と言っていいと思う。
目に見える姿という物理的状態ではないだろう。
神がどういうものがわからなけど、目に見えるものじゃないのではないかと思う。
人は人であって「神」ではないし、
物理的に花は花だし、蝶は蝶だし、虫は虫で「神」ではない。
AさんはAさんであって「神」ではない。
目に見えない世界で、全てのものは神というような存在・・・
・・というような意味合いなんだろうか。
「神」とは すべてのものは私で在る・・・
・・という目に見えない現象・・なんだろうか。
全てのものに神が宿るという日本的な考えと似てるね~
そして聖書には大文字の「GOD」と明らかに異なる小文字の「god」があるという。
ある宗派はそれはイエス・キリストだという見解をもって、
それが絶対に正しいとしてるようだけど、
キリスト一人じゃないんじゃないかと思う。
それは(あなた・すべて・・のものはわたし)というような、
人間の境地のことなんじゃないのかなぁ。
そういう心の状態そのものをそういうんじゃないかと思う。
ひとの身になって考えるとか、他人事と思えないとか、
対岸の火事はここの火事とか、(そんな言葉ないか)
谷垣さんが野田さんの心を自分の心であるかのように感じるとか、
他人のことが自分のことのように思えるとか、
同感ではなく、“共感”という境地・状態・世界。
そんな言葉もそういうことを表わすのかなと思う。
聖書にかかれて在ることが絶対正しいなんて思ってないけど、
実に興味深い。