ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

新幹線の安全性と心

2014-05-11 09:21:56 | テレビを見て
新幹線関係の仕事をしてる人たちがどんなに安全快適さに心を配っているかという番組を見た。

すごいぞ日本人だったかな、そんな奴。

いや、本当にすごいと思った。

いろいろな作業を紹介してくれていたけど、どれも本当に地道な仕事だ。

例えば、一つのボルトを締めたことについて4回チェックをする。

人間はミスをするものだ・間違うものだという人間観に立っているからこそ出来ることだと思う。

自分は間違えない!なんていう傲慢な心からはそんなふうなチェック体制は組まれないかなと思う。

そういう作業の基は何と言っても、乗る人の安全快適さに心を寄せているということだと思う。

こういう作業をしてる人たちのお蔭で新幹線は事故もなく、

乗る人たちにとって心配なく快適に乗れるものになっている。

思うんだけど、仕事・作業をする時に自分がしていることが

他者の幸福に確実に繋がっていると思えていると、人は活き活きしてるもんだ。

そして、どんな事でもイヤイヤ不機嫌でやっている感じのときは活き活きしてないもんだ。

いつも苦虫を噛み潰したような顔つきの人がこの世にはいるけど、

せっかくの人生をもったいないなぁと思ってしまう。

ひとつ前のNHK朝の連ドラの「ごちそうさん」のシーンで

何かの作業場の板塀に「仕事は愉快に」とかいう張り紙があったことがあった。

前に書いたかなコレ。ま、いいや、

でも昭和の初期かな、戦前のシーンだったと思うけど

そんな張り紙があったという時代検証をしてるのかなと思ったし、

そんな張り紙が当時あったことにちょっと感動した。

お金を得るという作業以外でもその行為が確実に人の役に立っていると感じると

人は活き活きしてしまうもんだ。

いや、かえってお金が絡まない事の方が余計にそれを感じることもあるかもしれない。

お金が絡むとお金のためにやっている、

なんていう下種(これでゲスと読むんだね、初めて知ったよ)の勘繰りが

生れることもあるからね~


他者の幸福に繋がっていると感じる=上機嫌・生き生きしてる

他者の幸福に繋がっていると感じられない=生き生きしてない

こういう法則はあるね。

でもさ、過酷なひどい作業形態や差別されてる待遇なんかの下で作業してたら、

上機嫌で生きられないのは当たり前だ。

こういう自分の不幸(上機嫌でないこと)は他者の不幸(事故とか)に確実に繋がる。

自分の不幸と書いたけど社会の不幸だ。


病気だから・・②

2014-05-09 10:28:55 | ひとの幸福
昨日書いた奴をすぐに出しちゃったんだけど、

コレ、

「どんな現象であっても多くの要因で起こるべくして起こっているという認識が出来てないから

非難感情が湧いてしまうのか。」

こんなふうに書いた部分があるけれど、

こういう表現よりは、

「病気という状態が失敗や間違いを引き起こす、と認識できると、あぁ、そうか・・となるわけだ。」

ここのところの、“病気という状態”というものが失敗や間違いを起こす・・

そういう状態だからそういうことが起こったのかという認識があれば、

非難感情は出て来ないんじゃないか。

・・こっちの表現の方が適切と思った。


病気という状態はなろうと思ってなったわけじゃない。

ひとの失敗や間違いも“しようとして”する行為じゃない。

病気も間違いも“状態”から起こった。

この、“状態が起こす”という、

そのことがわかっていたら対応が変わってくるんじゃないか。

病気だから・・と納得されるように失敗や間違いも又。


そう・・・病気も失敗も人や社会の状態から起こる??

人でも社会でも心や身体の状態からいろんな物事は起こる。


失敗や間違いが病気という状態から起こるものだと納得できて、

非難感情が湧かないなら、

人の失敗や間違いもひとの状態から起こるものだと納得できて、

非難感情が湧かない・・ことにならないか?

そうなると、それならそれで・・とその後の展開は進む。

傾向と対策みたいにことが運ぶ。

そうした方が病気も失敗もその後の経過はよくなり、いい方向に物事が進むような・・・気がする。

そんなことしてたら失敗や間違いが増えるばかりじゃないか・・

なんて思う人もいるかもしれない。

そういう人は人間性悪説が正しいと思っているとか、

人間の本質に対しての信頼がないとか、

人間なんてそんなもんだと悲観してるとか、

生命なんてちゃっちいもんだと思っているとか、

そういう考えがあるのかなと思う。

この世にはいろんな考えの人がいる。



病気だから・・・

2014-05-08 14:59:38 | ひとの幸福
認知症だとまだわからない時に、いろんなことを忘れたり、

間違えたり、出来なかったりすると、周りの人のなかには怒る人もある。

それが病気なのだとわかると怒ることじゃなかったんだと反省する人もある。

認知症に限らず、他者が失敗すると咎めていたのが、

病気のせいだとわかると、咎めたことを恥ずかしく思ったりする。

こういうのって、病気なら受け容れられる、ということなんだけど、

どうして相手が病気だと受け容れられるんだろう・・・

いや、認知症だと頭でわかっていても奥さんを殺してしまった、

という事件がこの前あったなぁ。まぁ、それはおいといて。

病気という状態が失敗や間違いを引き起こす、と認識できると、あぁ、そうか・・となるわけだ。

あの人は病気で(病気になって)そういうことになってたのか・・なんて納得される。

失敗や間違いなどの言動・態度に“なった”のはなるべくしてなったのだなぁ、と納得される。

病気でなくても失敗や間違いを人はする。

しない人なんていない。

病気でなくても、失敗や間違いは起こるべくして起こる。

・・・ということは、

どんな現象であっても多くの要因で起こるべくして起こっているという認識が出来てないから

非難感情が湧いてしまうのか。

いや、病気ならその言動、行為を抑えることが出来ないけど、

病気でないなら抑えられるはずだ、というのがあるんだろうか???

はず・・と思われても、間違ってしまうことはある。

べき・・と思われても、間違ってしまうことはある。

病気なら感情的に怒られないから、病気になりたい、と思う人もなかにはいるかもしれない。





「我を忘れる」

2014-05-08 14:25:21 | 言葉
「我を忘れる」という言葉がある。

その意味は物事に心を奪われて無意識状態になる。夢中になる。ぼんやりする。

こういう我を忘れるという状態は他を忘れている状態でもある。

面白い。忘我の境地ともいえるのかもしれない。

自我、私が私が・・という自己顕示みたいなのがない心の状態なのかと思う。

忘我であり、忘他。

日本語は面白い。

どんぐりコロコロ・・・

2014-05-05 09:24:00 | 日々の暮らし・思い出
去年の秋にウォーキングコースの道端で拾ったどんぐりを

10粒くらい腐葉土のいっぱい入った鉢にバラバラっと蒔いた。

結構こまめに水をやり、アジサイの木の陰に置いておいた。

以前に何かの本でどんぐりの発芽はなかなか・・だ、みたいなのを読んだことがあったんで、

ほとんど期待してなかったんだけど、

発芽してた!

ちょっと興奮するくらい嬉しかった。

期待してなかったからだろうな。

何の木なのかわからない。これから調べるつもり。

木によっては畑のガーデン部分に植えようかなと思ってる。

例えばブナだったら、私たちの死んだずーっと後、大きくなるだろうな、

そしてそこらが林になるだろうなぁ。

そんなこと思うとなんかいいなぁと思っちゃう。


暖かくなって庭に出ている時間が増えた。

好きな吾亦紅の新芽がどんどん出てる。

都忘れも一輪だけ咲いた。

アジサイの蕾が葉っぱから顔を出してもう何日も経つ。

モッコウバラが大笑いしてるみたいにたくさん咲いた。

プランターのニラもビュンビュン大きくなってる。

モミジもぐんぐん枝を伸ばした。

庭ではやりたいことばかり。

咲き終えたチューリップを全部抜いて、

その後地に青じその発芽してたのを植えた。

頂いた白の沈丁花を挿し木して少し大きくなったものを庭に直植えした。

雨に降られて無残な姿のモッコウバラを結構強めに剪定した。

モミジも格好よく?剪定した。

白の万両も1メートル以上になったら切るといいとあったので、ばっさり切った。

観葉植物の伸びすぎてる枝をばっさり。

こんなふうに剪定してるとどんどんばっさりやりたくなる。

家の片づけと同じかな。

やり始めるとどんどん捨てたくなるのと一緒だなと思う。

これの心理は・・

ばっさり切ったり、片付けると、

まだ手を付けてないところの中では伸びてる部分、

片付いてない部分がその中では目立つんだろうな。

成績の一番だった子が転校して、二番の子が一番になって目立つようになるみたいに。

どんどん目立つ子を消したくなる。

目立つ子が誰も居なくなるまで、みたいだなぁ。

みんなが同じになったら誰も目立たない、けど・・

そんなこと有り得ないな。


まず、庭でも家の中でも、すっきりさせたいというのがあるのは確かだ。

すっきりするというのは・・・目立つものがない、ということか・・・??

部屋にごみがでーんと在ったら目立つ。

部屋にたくさんの美しいバラの花が在ったら目立つ。

大量のごみとたくさんの見事なバラの両方が部屋に在ったら、

両方を消すか?

いや、目立たせたいもの(バラ)が目立つように、

目立たせたくないもの(ごみ)を目立たないように処分するだろう。

・・ということはばっさり剪定・ばっさり片付けは

残ったものは美しいものだけ、ということか。

・・・でも私ならたくさんの見事なバラを部屋に置きたいというのはないなぁ。

なんか恥ずかしい。一輪がほんのちょっと目立つくらいでいいな。


今日は子供の日だ。

じゃあ、子供の日以外は全部大人の日か・・なんてひねくれたことはもう思わない。

一昨日いつもの歩きコースでいばら餅(この辺の柏餅みたいなもの)にする葉っぱをみつけた。

それでいばら餅を作る予定。

この前採ったヨモギの茹でたものを冷凍してあるから

それを入れて作ろうと思ってる。

剪定やら片付けやら洗濯やら畑での収穫やら手芸やら、

(ごはん作りは入ってないねぇ・・)

やりたいことばかりなのは本当に嬉しく楽しい。

長いお喋りでありました。はい。



















はぁ、そうは言ってもねぇ・・

2014-05-02 09:12:52 | 実例体験観察
「はぁ、そうは言ってもねぇ・・」このセリフは義父のもの。

生まれつきの心臓病で3カ月に一度定期検診に行ってるけど、

そこの担当医に酒は飲まないようにと言われた時に、

その場では穏やかに「はぁ」と答え、

後で家族に独り言のように淡々と「そうは言ってもねぇ・・」と一言。

そして毎晩少しの焼酎を飲み楽しんでいる。

この話はエピソードとして夫から聞いた。


医師の話を否定なく穏やかに聞き、

自分のことを自分の意思で行う。


義父に対してのそういう注意を私も医師から聞いたことがあるけど、

最近は医師も言わなくなった。

飲んでいないと思っているのか、本人に任せようとしてるのか、

そこらへんはわからないけれども。

90才を越えてる元気な人に病持ちの未熟者の若造が健康上の注意なんてしてもなぁ・・・と

未熟者の若造である私もそう思う。


昨日、義父に畑に軽トラで送ってほしいと言われ、

私も畑に用があったので野良着に着替え、二人で畑へ。

畑に着くと、帰っていいと言う。

後で迎えに来てくれればいいからと。

私は誰が見てもそうと見える野良着を着ているのである。

車で送るだけでは野良着を着る必要はないのである。

畑仕事がしたいので着替えたのである。

だが、それは私だけの見解。

義父の帰っていいという言葉に瞬時に私は

「私も用があるんです!」と耳の遠い彼に大きな声で。

彼はそうかぁと言った。


彼は雑草と野菜の苗の区別が割とわからなく、

自分の草取りだけに意識を集中し他のものが見えなくなる癖がある・・夫の見解なんだけど。

実際そういう被害に遭ったことが何度となくあるので、

自分のことを見張られているような感覚を持っているのかもしれない。

一人で畑のときを過ごしたいというのがあるのかもしれない。

私に対して畑仕事なんかしなくていいよ、という労りの気持ちがあるのかもしれない。

まぁ、そんなふうで、どうして帰っていいと言うのか、

その真意はわからないのだけれど、

「帰っていい」と彼は言った。

それに対し、瞬時に「私にも用があるんです!」。


そう言ってから、そんなこと言わなくてもよかったな、と思った。

義父みたいに「はぁ」と穏やかに言って、いや、

そう言わなくても、にっこり笑って、畑へと歩いていけばよかったのだ。

そうする姿を見ればそれが私の意思だと彼ならわかるだろう。


「酒は飲まないように」というのは他者である医師からの提案だ。

提案(が、あること)は穏やかに受け容れ、行うときは自分の意思で。

なんでぇ!自分のことは自分で決めるわいっ!・・・そんなニュアンスは彼にはない。

ただただ穏やかに自分の行為は自分の意で。

日常彼を見ていて他のこともそういう感じだ。


彼の姿を見ると他者の言動に瞬時に反応してしまう自分が恥ずかしくなる。