ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

音読

2014-05-11 16:23:46 | ひとの幸福
明治の頃までだったか、江戸時代までだったか、

日本では読むといえば、

黙読ではなく音読が主流だったということを最近聞いたような気がする。

いやだね~ みんなうろ覚えだ。

昔の日本は音読が主だった、ということだけ覚えていて、

いつの時代の事だったか、それは聞いたのか、読んだのか、

とかの他の情報がはっきりしてない。

これは音読が主だったということ以外にはそれほど関心がなかった、ということなんだろか??

きっとそうだ、ま、今はそういうことにしよう。

えーっと音読。昨日の新幹線の安全確認作業でも声を出して確認というのがあって、

それは鉄道ができた明治の頃からやっている、ということだった。

何故それを続けているかというと効果が感じられるということだと思う。

効果がないかもしれないと思われるような事はしないだろう。

本を読む時に音読するのは声に出すことで、

その声が発した自分にもう一度帰ってくるからじゃないか・・・

出すのと入れるのとその両方が出来る。

言って確認、聞いて確認。

こうして文章をパソコンで書いていて、

書き(出す)ながら読んでる(入れる)のと一緒だなと思う。



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過去を忘れる 未来を忘れる 

2014-05-11 15:56:38 | ひとの幸福
忘れるというのは行為したことを忘れるというような、

過去に為したことを忘れることと、

行為しようと思ったことを忘れるというような、

未来にしようと思ったことを忘れることとの二つがあると思うんだけど、

これの違いはどういうことなのか、ぱっとわからないもんだから考える。

ちょっと考えると、その違いは前者の場合、

過去にした(行為行動)を忘れるということで、

後者は未来にしようと思ったその(思い)を忘れるということなんだけど、

過去にしたことを“思い出す”というように、

それは行為じゃなくて、やっぱり(思い)の方の担当なので、

両方とも(思い)がみつからないということか・・・??

で、忘れるということがどういうふうな仕組みで起こるのか考えよう。

自分の実例で考える。何かをどこかに仕舞ったという記憶はあるんだけど、

何処に仕舞ったかを忘れるということがある。

それとか、そうしようと思ってもその場でしないこともあるから、

実際にそれを(仕舞ったか仕舞わなかったか)も覚えていないということもある。


どういうふうにこういうことが起こるのか・・・

(コレをここに仕舞おう)という思いをしたことは覚えている。

言い方を変えれば、(コレをここに仕舞おう)という顕在意識が在ったことは覚えている。

ところが(コレをここに仕舞った)という顕在意識に覚えがないのだ。

物を仕舞った時に顕在意識で「ここに仕舞ったと思った」なんて思いは

自然と出て来るものではないので、

物をそこに仕舞った(そう行為した)時に「ここに仕舞った」と、

自分の中で言語化することがないと、記憶に残らないということになるのか・・・

いや、若い時にはそんなこといちいちしてなくても覚えていられたのは、

もっと脳の別の部分が今より優れて活動していたのかもしれない。

その辺のことはわからない。

この年齢になった今、そういう行為を無意識的にやっていることで、

忘れる、ということになるのかもしれない。


それを防ぐには・・・

お喋りしながら車の運転ができるのは意識的になんにも思わずにその行為をしてるからで、

(今アクセルペダルを踏もうと思った)

(今踏んだ)なんて意識的に思わないでやってる。自然にそうしてる。

今の処、そのことはそれで問題はないからいいと思うけど、

発進とバックのギアの確認をこの頃は意識的にやっている。

これは新幹線の安全管理作業と一緒だ。

自分も他者も不幸にならないように。

事故にならないように。

意識して行為することが身に付けばいいと思ってる。

確認しながらやることが身に付けばいいと思ってる。

身に付くって体得だ。

こんなふうに「発進のギアを入れた」と意識的に思うことと同じように

「ここに仕舞った」と意識的に思うことが、

後々の事に有効に繋がることになるかなと思った。


最近の忘れる仕組みを踏まえて、

過去にした行為の中で忘れない方がいいことを、

忘れないで居るための方法が

意識的で在ること 意識を自覚していること といえるのかもしれない。

これをやると認知症にならずに済むだろうか・・・??

(気になったところを書き直したよ)


えーっともう一つ、未来についての、(明日コレをやろうと思った)事を忘れるのは

どういうふうに起こるのか・・・?

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新幹線の安全性と心

2014-05-11 09:21:56 | テレビを見て
新幹線関係の仕事をしてる人たちがどんなに安全快適さに心を配っているかという番組を見た。

すごいぞ日本人だったかな、そんな奴。

いや、本当にすごいと思った。

いろいろな作業を紹介してくれていたけど、どれも本当に地道な仕事だ。

例えば、一つのボルトを締めたことについて4回チェックをする。

人間はミスをするものだ・間違うものだという人間観に立っているからこそ出来ることだと思う。

自分は間違えない!なんていう傲慢な心からはそんなふうなチェック体制は組まれないかなと思う。

そういう作業の基は何と言っても、乗る人の安全快適さに心を寄せているということだと思う。

こういう作業をしてる人たちのお蔭で新幹線は事故もなく、

乗る人たちにとって心配なく快適に乗れるものになっている。

思うんだけど、仕事・作業をする時に自分がしていることが

他者の幸福に確実に繋がっていると思えていると、人は活き活きしてるもんだ。

そして、どんな事でもイヤイヤ不機嫌でやっている感じのときは活き活きしてないもんだ。

いつも苦虫を噛み潰したような顔つきの人がこの世にはいるけど、

せっかくの人生をもったいないなぁと思ってしまう。

ひとつ前のNHK朝の連ドラの「ごちそうさん」のシーンで

何かの作業場の板塀に「仕事は愉快に」とかいう張り紙があったことがあった。

前に書いたかなコレ。ま、いいや、

でも昭和の初期かな、戦前のシーンだったと思うけど

そんな張り紙があったという時代検証をしてるのかなと思ったし、

そんな張り紙が当時あったことにちょっと感動した。

お金を得るという作業以外でもその行為が確実に人の役に立っていると感じると

人は活き活きしてしまうもんだ。

いや、かえってお金が絡まない事の方が余計にそれを感じることもあるかもしれない。

お金が絡むとお金のためにやっている、

なんていう下種(これでゲスと読むんだね、初めて知ったよ)の勘繰りが

生れることもあるからね~


他者の幸福に繋がっていると感じる=上機嫌・生き生きしてる

他者の幸福に繋がっていると感じられない=生き生きしてない

こういう法則はあるね。

でもさ、過酷なひどい作業形態や差別されてる待遇なんかの下で作業してたら、

上機嫌で生きられないのは当たり前だ。

こういう自分の不幸(上機嫌でないこと)は他者の不幸(事故とか)に確実に繋がる。

自分の不幸と書いたけど社会の不幸だ。

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