2006年に福岡市で起きた幼児3人死亡飲酒運転事故の控訴審判決で、福岡高裁は危険運転罪を適用して、被告に懲役20年の判決を言い渡した。
《福岡市東区で06年、飲酒運転で3児を死亡させたとして危険運転致死傷罪などに問われた元同市職員、今林大(ふとし)被告(24)の控訴審判決が15日、福岡高裁であった。陶山博生裁判長は、業務上過失致死傷罪の適用にとどめて懲役7年6カ月(求刑懲役25年)を言い渡した一審・福岡地裁判決を破棄。「酒の影響で正常な運転が困難な状態で事故を起こしたと認められる」として危険運転致死傷罪と道交法違反(ひき逃げ)の罪を適用し、懲役20年を言い渡した。弁護側は判決を不服として、上告する方針。
01年の刑法改正で施行された危険運転致死傷罪の適用の可否については、一、二審で裁判所の判断が分かれるケースが相次いでいる》=朝日com=
判決要旨を読む限り、かなり強引な判決との印象が否めない。「道路が左に傾斜しているため、被告は常に右側にハンドルを切る必要があり、10秒以上もの時間わき見運転をすることは不可能」。
現場の状況がよく分からないので確定的なことはいえないが、この文章は意味不明だ。結果として道なりに運転したということと、わき見運転していたことは矛盾しない。この裁判長は普段ハンドルを握っていないのではないか。
事故が飲酒に起因すると決め付けたから、こんな認定になる。
一審判決は危険運転罪を認めず、懲役7年だった。一審と二審では量刑に三倍もの開きがある。プロが熟慮した結果がこうだとすれば、裁判員裁判でこんな事案を任されたらどうなるのか。情緒的、かつ被害者の心情に寄り添った判決が続出する可能性が高い。
今回の判決はかなり問題が残る判断だったにもかかわらず、メディアの反応は鈍い。朝日は社会面に載せただけで、判決要旨もない。
読売は1面と社会面に書き分けてはいるが、被害者寄りの記事に終始している。1面コラム「編集手帳」は
「日ごろ鼻風邪や花粉症でお世話になっている身近な品を、これほど悲痛な文脈で用いた例を知らない。〈交通事故の裁判における被害者の命の重さは、駅前で配られるポケットティッシュのように軽い〉と◆1997年3月、小学生2人をはねて死亡させた被告に、業務上過失致死罪で求刑通り禁固2年の判決を言い渡したとき、京都地裁の藤田清臣裁判官が血を吐くように語った言葉である◆危険運転致死傷罪の新設など厳罰化がなされた今も、ときに胸をよぎる」と書き出し、いかなる厳罰でも失われた命は戻らない、と嘆いてみせる。
心情的には分かるが、事は法律の適用の問題だ。懲役1年以上の有期刑が可能な危険運転罪は、業務上過失致死罪などに比べて重すぎはしないか。薬害や公害で何百人もの死者を出しても、企業に科されるのは罰金刑がせいぜいだ。
殺人よりも飲酒運転による致死の方が罪が重くなっては、具合が悪い。罪と罰は応報とは異なる。被害者救済に力を入れるのは当然だが、何でも厳罰という風潮は警戒すべきだ。結果の重大性と同様、故意や悪意の程度も量刑判断の重要な要素だ。飲酒運転、即、危険運転とは乱暴な議論だ。
《福岡市東区で06年、飲酒運転で3児を死亡させたとして危険運転致死傷罪などに問われた元同市職員、今林大(ふとし)被告(24)の控訴審判決が15日、福岡高裁であった。陶山博生裁判長は、業務上過失致死傷罪の適用にとどめて懲役7年6カ月(求刑懲役25年)を言い渡した一審・福岡地裁判決を破棄。「酒の影響で正常な運転が困難な状態で事故を起こしたと認められる」として危険運転致死傷罪と道交法違反(ひき逃げ)の罪を適用し、懲役20年を言い渡した。弁護側は判決を不服として、上告する方針。
01年の刑法改正で施行された危険運転致死傷罪の適用の可否については、一、二審で裁判所の判断が分かれるケースが相次いでいる》=朝日com=
判決要旨を読む限り、かなり強引な判決との印象が否めない。「道路が左に傾斜しているため、被告は常に右側にハンドルを切る必要があり、10秒以上もの時間わき見運転をすることは不可能」。
現場の状況がよく分からないので確定的なことはいえないが、この文章は意味不明だ。結果として道なりに運転したということと、わき見運転していたことは矛盾しない。この裁判長は普段ハンドルを握っていないのではないか。
事故が飲酒に起因すると決め付けたから、こんな認定になる。
一審判決は危険運転罪を認めず、懲役7年だった。一審と二審では量刑に三倍もの開きがある。プロが熟慮した結果がこうだとすれば、裁判員裁判でこんな事案を任されたらどうなるのか。情緒的、かつ被害者の心情に寄り添った判決が続出する可能性が高い。
今回の判決はかなり問題が残る判断だったにもかかわらず、メディアの反応は鈍い。朝日は社会面に載せただけで、判決要旨もない。
読売は1面と社会面に書き分けてはいるが、被害者寄りの記事に終始している。1面コラム「編集手帳」は
「日ごろ鼻風邪や花粉症でお世話になっている身近な品を、これほど悲痛な文脈で用いた例を知らない。〈交通事故の裁判における被害者の命の重さは、駅前で配られるポケットティッシュのように軽い〉と◆1997年3月、小学生2人をはねて死亡させた被告に、業務上過失致死罪で求刑通り禁固2年の判決を言い渡したとき、京都地裁の藤田清臣裁判官が血を吐くように語った言葉である◆危険運転致死傷罪の新設など厳罰化がなされた今も、ときに胸をよぎる」と書き出し、いかなる厳罰でも失われた命は戻らない、と嘆いてみせる。
心情的には分かるが、事は法律の適用の問題だ。懲役1年以上の有期刑が可能な危険運転罪は、業務上過失致死罪などに比べて重すぎはしないか。薬害や公害で何百人もの死者を出しても、企業に科されるのは罰金刑がせいぜいだ。
殺人よりも飲酒運転による致死の方が罪が重くなっては、具合が悪い。罪と罰は応報とは異なる。被害者救済に力を入れるのは当然だが、何でも厳罰という風潮は警戒すべきだ。結果の重大性と同様、故意や悪意の程度も量刑判断の重要な要素だ。飲酒運転、即、危険運転とは乱暴な議論だ。