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あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

公刊本おさしづより  2 婦人会創設 2

2018年10月24日 19時31分13秒 | 図書室

婦人会創設に関するおさしづ 2

 

(2)
明治31年3月26日   (4巻2916頁)
『前日増野いとのおさしづより、婦人会の事に付おさしづありしにより、以後の道筋心得事情申し立て願』
(25)さあ/\尋ね掛ける処/\、これまでというものはどうもならん。(26)教は一つ理でありて、諭し一つ事情、これまで決まり有りて決まり無い。幾度も事情に差し詰まる理出ける。これまで何度諭したる。(27)又刻限にも諭したる。取りよう聞きようで分かり難ない。応法と言うて居て、心胆諭す理に無い。(28)元は元だけのこう無くばなろうまい。長らくそら尽して居る。尽して居りゃこそ、世界台となりて居る。(29)中に間違いどうもならん。何ぼう言うても心に間違えばどうもなろうまい。成りてからどうもならん。(30)そこで刻限というこの理諭したる。取り締まったる今日の日、これ聞き分けて万事先々いつ/\までも諭さにゃならん。(31)この道前生から今の世、又生まれ更わりまで諭す理である。すれば、元々始めたぢばという。皆んな治めにゃならん。めん/\だけ治めて居ればよいというような事ではならん。これは皆んな心に無いという。心が感じにゃなろうまい。(32)男女の隔て無く、一時に心澄み切りて通れば、男女の区別は無い。何名何人、こらどうもならん。(33)道具に譬えて話する。粗い事するものもあれば、細かい事するものもある。又中程するものもある。この道理分からねばどうもならん。よう聞き分け。(34)道急ぐ。早く事情、遠い所から寄り集まる処、ほこりという。めん/\さえ無くばよいではどうもならん。(35)これから話、男女の隔て無い。よう始めた道聞き分け。この道始めたは男か女か。これから悟ればどんな事も分かる。皆一つという。そらそうはいかん。(36)道具に譬えての話、細かいという、又中程という、又粗いという。彼はどうせいこうせい、一時伝えてないから分からん。(37)諭す事情これまでの事、もう/\始めるか始まらんか、もう出すか出さんか、思い/\日が経つ。(38)ほんのあらまし誰と彼とこうや、彼と誰とこうや。人間心の理である。これを聞き分け。(39)人間心は何程どうやこうや、今日までどうするとこうすると見許したる。見許したる処から話し掛ける。(40)最初掛かり、今日の日最初、(41)中程この理ちょい/\すれど、取り集めた事はない。これ聞き分け。(42)入り込み大切々々教の台とする。(43)不当の扱いは台と出けん。(44)そんなら不当せんと言う。(45)純粋通りてという中に、これも/\放ったる。どれも放ったる。めん/\肝心の理から分かりあろう。(46)年限の内には粗い細かい中程と言うて諭したる。(47)細かいはどういうもの、中程どういうもの、又粗いというはどういうもの、銘々事情に理持って、世界諭して居る。(48)中程というは、あちらもこちらも繰り上げ、皆伝えて理運び掛けたる。なれど、運び落ちある。(49)そこで、婦人会の台から、(50)又話々、(51)いつ/\待って居た処がならん。(52)心に浮かまん。(53)これ初め望む処、(54)この中三つ事情、(55)男の中にどんな理もある。女の中にどんな理もある。これ聞き分け。忘れ落ちありてはならん。(56)婦人会たすけ一条の道、(57)通りた道、万事見分けたら、感じは皆んなの心に湧くであろ。

『暫くして』
(58)さあ/\分かりありたらそら宜し。(59)分からんというは尋ね返やし、(60)分かる分からんの理から尋ねば、早く分かる。(61)又、見遁し/\、(62)又今度の回りと言うは、(63)何度でも同じ事、(64)くどう/\の話、何ぼうしたとて何もならせん。

『押して、元々艱難した者婦人会の中に古い者洩れ落ち有るか無いかという処話する処へ』
(65)さあ/\誰が洩れ落ち、彼が洩れ落ちは言うまで。(66)又他には言うまで。(67)このやしきの中暮らす中、出入りという。(68)道具は言うまで。(69)あちら働きこちら働き、理は一つなれど、(70)研究寄りたる中に、(71)どうか鮮やか明らか、(72)ほんに成程と、皆心に感じるであろう。

『又暫くして』
(73)何人幾人、男何人、幾人女、皆ある中聞き分け。(74)男の中にも下に居る、又中程にいるなれど、(75)女というは、下に埋れ/\てある(76)中に、(77)成程という処分かるやろ。

『又続いて』
(78)さあ話して置く。(79)とんと分からん。皆とんと忘れて了てる。忘れて居るから分からん。(80)皆下々と言うて下に働く。(81)今日は煮炊き事情、掃除場、(82)上も下も一つに成りたら、(83)中に同等の者もある。

『又続いて』
(84)それ研究と言うたるで/\。(85)どうもならん。(86)飯炊き掃除場から、(87)世上に繋ぎ、(88)飯炊き掃除場から、(89)互い/\まで尽して通りて、(90)これ一つ聞き難い、見難い。

『又暫くして』
(91)さあ/\まあ悠っくり話する。(92)とっくり見分け/\、とっくり聞き分け。(93)つとめ事情、鳴物事情/\掛かりという。鳴物掛かりという。何年数えて年を見よ。(94)先の学びから始め。(95)三人々々又控え、一人掛け替い、(96)赤衣一つ着せて始め掛け。(97)そういう処から聞き分けてみよ。(98)これもそうかえ、あれもそうかえ。話してない。(99)それから聞き分け。聞き分けたら成程分かるやろ。

『又暫くして』
(100)さあどうもならん。理が分からねばどうもならん。(101)よう聞き分け/\。(102)最初学び始めの日あろ。(103)赤衣着せて出た事ある。(104)ほんにそうか/\と分かる。

『上田ナライトの事でありますや』
(105)さあ/\これ/\/\分からん分からん。(106)もうどうでもこれから、(107)これで措いたら何も分からん。(108)元赤衣着せて学び三人、控え一人四人出したる。(109)この台日々の処、(110)結構中、(111)道の中にどうもならん。(112)同じ一つの飯炊き掃除には、(113)隔て無きと言うたる。(114)どうせいこうせい、幾度のさしづに諭したる事はないならこそ、(115)今に分からんのである。

『押して、おこと、おいゑの事でありますや』
(116)違う/\ころりと違う。(117)赤衣頂いた者やない。(118)赤衣着せた者、(119)人衆々々学びしたる/\。

『永尾よしゑなどの事でありますやろと話するうちに』
(120)分かりた/\、(121)道の理/\、分かりた/\。

『一寸してから』
(122)もうそれ分かりたら後々分かる。(123)さあ/\引き取ろ/\。


 

【(2)大意】

「おさしづと婦人会」p7~18

明治31年3月26日   (4巻2916頁)
『前日増野いとのおさしづより、婦人会の事に付おさしづありしにより、以後の道筋心得事情申し立て願』【大意】
(25)さあさあ、尋ね出ている事柄について諭そう。これまでというものは、この道の通り方について、神の思いを諭してきたが、それにもかかわらず、なかなか神の思うようには通ってくれなかった。
(26)この道の教えというものは、もとより神の理一つから成り立っているものであって、それに基づいて、いろいろの事柄に対する諭しもされているのである。ところが、今までは、そのようにすべての基となる、はっきりした決まりがありながら、それに基づいて事をはこぶことが、ややもすると、疎かにされていたのである。だから、これまで、いろんな事情が起こり、何度も行き詰まらなければならないようなことがあった。
(27)そのような事情が起こるたびに、幾度となく神の思いを諭してきた。またその上、旬々には刻限のさしづでも諭してきたのである。しかし、いくら諭しても、その受け取り方に人間思案を混ぜるから、肝心なところを悟ることができない。ややもすると、「世間に合わせなければー」と言っていて、心の底から神が諭すことを治めることができないでいる。
(28)この世の元であるぢばに勤めている者としては、それに相応しい心の治め方がなければならない。お前たちは、もちろん今日まで長らく道の上で勤めている。勤めておればこそ、世界たすけの台となることもできるのである。
(29)ところが、いくら長く勤めていても、神の思いに添わないような通り方があったのでは、どうにもならない。いくら神がたすけ一条の上から、いろいろと説き諭しても、お前たちが悟り違いをするというようなことがあれば、まったく意味のないことになってしまう。そんなことになってしまってから、いくらあわてても、どうにもならない。
(30)だからこそ、今まで旬々には、神の思惑を諭してきたのである。そして、特に今日という日を決めて諭しているのも、このためなのである。だから、こうして諭しているところをよく心に治めて、これからは、常にこのことを台として諭してくれなければならない。
(31)この道の教えは、前生のことから今世のことにまで及び、更にまた、生まれ更わりという将来のことまで諭す教えなのである。だから、ここが、この世の元であるぢばなのであり、そのやしきにいる者としては、皆しっかりと心に治めておかなければならない。そして、自分たちだけが心に治めていればよいというようなことではない。世間の多くの人びとにこれを諭していかなければならない。それなのに、人びとに諭し、人びとを救けるという心が皆の者にないというのが問題である。これではいけないので、この「ぢば・やしき」にいる者として、銘々に与えられた勤めを自覚しなければならない。
(32)もともと、こうした勤めの実行には、男、女の別というものはなく、すぐにでも神の理を聞きわけて、澄みきった心をもって通ったならば、男、女の隔てなくその勤めを全うすることができる。しかし、それを何人いても、皆同じことをすると考えるべきではないのであって、この点を、道具のたとえをもって話しておこう。
(33)たとえて言えば、一口に道具といっても、粗いことに使う道具もあれば、細かいことをする道具、また中ほどのことをする道具もある。それと同じように、その人の持場立場により違いがあるという道理を納得してくれなければならない。このことをよく聞きわけてもらいたい。
(34)神はこの道を早く世界につけるのを急いでいる。早く、そうしなければならないと、神が引き寄せて、どんな遠方からも皆このぢばに集まってきているのであるから、ほこりを立てるようなことがあってはならない。とかく、銘々自分の心にさえほこりがなかったならば、それでよいと思いがちであるが、そのようなことではどうにもならないので、世界のすべての人びとにもこのことを諭してやってくれなければならないのである。
(35)これからする話は男、女にかかわらず、よく聞きわけてもらいたい。この道を創められた経緯をしっかりと聞きわけてもらいたい。この道を創めた教祖が、男であったか女であったか考えてみるがよい。これから悟れば、当然わかることである。もちろん、隔てはないと言っても、それは全く同じということではない。区別がないということではない。
(36)前に道具にたとえて話をした通り、細かいことをする道具、中ほどのことをする道具、粗いことに使う道具というように、それぞれ道具という点では区別はないが、その使われる道によって異なるのである。つまり、その持場立場の違いというものがあるのである。その道具の理をよくわきまえて、彼はどうしろ、こうしろと言うべきであるのに、今のところ、それを皆に伝えていないから、自分の使命を自覚することができないのである。
(37)お前たちが神の思いを皆に諭してくれることを、神は「もう始めるであろうか」と、今か今かと待っていたが、そう思いながら今日まで日が経ってしまった。(38)お前たちは、だいたいの見当で、誰と彼とは「こうしてもらおう、ああしてもらおう」と役目の割ふりをしている。しかし、それは人間心でしていることである。このことを、よく聞きわけることが大切である。(39)人間心で、いくら「どうやこうや」と言ってみたところで、所詮は、神の思惑に添いきることはできないであろう。
 今日までは、とかく人間心で、「どうするこうする」といって事を進めてきたきらいがあった、神はそれを見許してきた。こうして今までは見許してきたけれども、もう今日は、そのことについて神の思惑をはっきり諭そうと思う。(40)この道はじまった最初に思いをかえし、「今日の日が最初」というように、心を新たにして聞きわけてくれなければならない。
(41)これまでにも、この事をちょいちょい諭してきたが、まとめて諭したことはなかった。だから、よく聞きわけてもらいたい。
(42)このやしきに入り込んでいる者を大切に育ててこそ、教えの土台とすることになるのである。(43)不当な扱いをしていたのでは、教えの台とすることはできない。(44)それなれば、不当な扱いはしない、(45)神の理に添い切って通ると言う。しかし、そう言いながらも、人を育てることを、疎かにしていることもある。それではいけないのであって、今諭したようなことは、銘々が神の話の根本を思案するならば、自ずからわかることであろう。
(46)人により信仰年限は異なるが、その中にもまた、人それぞれにより、粗いこと、細かいことというように、持場立場の区別があるということは前にも諭したところである。
(47)細かいということはどういうこと、中ほどということはどういうこと、粗いということはどういうことと、銘々がそれぞれの持場立場についての自覚をもって通ってくれるようにと、世界に諭している。
(48)たとえば、中ほどということは、あちらもこちらも、上手く纏めて事をはこぶべきものであるなどと、それぞれの持場立場により、みな異なるということをよく納得させて事を進めていくようにしなければならない。そうは言っても、時には事を進めるに当たって、仕損ずることもあるであろう。
(49)そこで婦人会を話し合いの場とし、互いに練り合って、神の思惑に添うように事をはこんでもらいたいのである。(50)銘々が勝手に事を進めていたのでは、(51)いつまでたっても、神の思惑に添うこともできないし、(52)また理に添った考え方も心に浮かばないものである。(53)これが婦人会を開くに当たって、まず神が望んでいる事柄であるが、(54)それは、今まで、だんだんと諭してきた三つのことである。(55)男の中にも、どんな事をする者もある。女にあっても同じことが言える。だから、今諭してきたことをよく聞きわけて、忘れることなく通ってもらいたい。
(56)婦人会というものは、どこまでもたすけ一条の道という上から創めるものなのである。(57)銘々、これまで通ってきた道をよく見わけて互いに諭しあって通るならば、「ああ結構や有り難い」という心も、自ずから皆の心にうまれてくるであろう。

ーーー暫くしてーーー
(58)さあさあ、先ほど諭したことが理解(わか)ってくれたならばそれでよろしい。(59)もし納得がいかないところがあれば、尋ねかえしてくれるがよい。(60)理解ったのか、理解らないのかよく思案して、理解らないというところがあれば、再び神に尋ね出るようにすれば、早く納得のいくものである。(61)理解らない事があるのに、尋ねる旬を見のがし、(62)また今度聞かせて頂く時があるだろうと思ったりして、そのままにしておくようなことがあると、(63)神が幾度同じことを諭し、(64)くどく話をしても何にもならないことになる。

ーーー押して、元々艱難した者婦人会の中に古い者洩れ落ち有るか無いかという処話する処へーーー
(65)さあさあ、古くから艱難の道を通ってきた者で、諭し合いの場に誰彼が欠けているということも当然あるであろう。(66)年限の古い者でもそうであるから、年限の浅い者で、もれ落ちている者はずいぶんあるであろう。(67)このやしきに暮らしている者は、出たり入ったりして、人は替わるのが常である。(68)世界たすけの神の道具ということであれば、それは言うまでもない。(69)だから、あちらに出て働き、こちらで働く者があっても、理は一つなのであって、(70)しかし、それも研究会で皆が寄り集い、(71)談じ合うことによって(72)はじめて納得することができることであろう。

ーーー又暫くしてーーー
(73)このやしきに男が何人、女が幾人と多くの者が寄って勤めているわけであるが、そうして寄っている者みんなが、この点をよく思案してくれなければならない。(74)男の中にも、下積みの仕事をしている者もあれば、中程のことをしている者もいる。(75)しかし、女は殆どが、いわば下積みの目立たない仕事ばかりをしていることが多い。(76)そうした事実を考えてみても、それぞれが勤める仕事はちがっても、(77)みな大事な立場を守っているわけで、「なるほど」と得心ができるであろう。

ーーー又続いてーーー
(78)さあ、もう一言話をしておく。(79)これまで神の思いをいろいろと諭しているが、お前たちには、それがさっぱり理解(わか)っていない。話を聞いても、みなすっかりと忘れてしまっている。忘れているから、いつまでたっても理解らないのである。
(80)とかく、女は「女だから、陰の仕事をさせてもらう」などと言って、みな下積みの働きをしている。(81)たとえば、今日は煮炊き場、あるいは掃除場の仕事というように、いわば下働きをしている。(82)しかし、そうと決めてしまうのではなく、上の仕事とか下の仕事とかとわけることなく、勤めてくれるなら、(83)女の中に当然男と同等の働きをする者がある。

ーーー又続いてーーー
(84)以前に、互いに寄り合い研究をするようにと指図した。(85)それというのも、今のままではどうにもならないからである。(86)たとえ、飯炊きをし、掃除をしていても、(87)心は世間につなぎ、世界だすけの心で勤めなければならない。これが道の者のあり方である。
(88)そのためには、たとえ飯炊き、掃除場の働きをしていても、(89)その働きの中から互いに扶け合い、真実をつくすことが肝心なのであるが、(90)ややもすると、そのことを弁えずに、聞きにくい(註、聞き苦しいの意)、見にくい(註、見苦しいの意)通り方に陥ち込んでしまうものである。
 研究し合うことを促した神の思いも、こんなことから出ているのである。

ーーー又暫くしてーーー
(91)さあさあ、それほど神の思いが理解り難いのならば、ゆっくりと話をしよう。(92)だから、しっかりと心に治めて、十分に見わけ、聞きわけてもらいたい。
(93)ここでつとめの事、特に鳴物の事について話をするが、鳴物を教えはじめてから、今年で幾年になるか。年限を考えてみるがよい。(94)今からすれば、かなり以前のことになるが、三曲鳴物の稽古をはじめた。(95)その時には、三名の者と控えの者一名が学んだのであるが、(96)赤衣を着せて始めたのである。(97)そうした事を通して、よく聞きわけてもらいたい。
(98)この話について、お前たちは「これもそうか、あれもそうなのか」というように、納得のいくまで談じ合っていないではないか。(99)だから、この点をしっかりと聞きわけられたらならば、成程と理解がつくであろう。

ーーー又暫くしてーーー
(100)これほど話をしているのに、まだ理解(わか)らないようでは、どうにもならないではないか。神が幾度も念を押して説いているのに、その神の思いが理解らないというようなことではどうにもならない。(101)神の言う事をよく聞きわけてもらいたい。(102)そのむかし、鳴物の稽古を始めた日のことを覚えているであろう。(103)その時には、赤衣を着せて始めているのである。(104)この事をよく思案したならば、「ああ、そうであったか」とわかるはずである。

ーーー上田ナライトの事でありますやーーー
(105)さあさあ、まだ理解らないのか。理解ろうとしないから、理解らないのである。(106)どうしても理解らないのならば、諭すのを止めようとも思うが、(107)これで諭すのを控えてしまったならば、それこそ何にも理解らないということになってしまう。だから、あえてくり返して諭そうと思う。
(108)最初、赤衣を着せて稽古をさせた者は、三人と控えの者一人の四名であった。(109)この事を台として日々のところを勤めるならば、(110)結構と思える道をあゆむことができるのであるが、(111)今の道を見ると、赤衣まで着せて稽古をはじめた事の理合いが理解されていない。それでは、どうにもならない。
(112)同じように、女の勤めとされている炊事や掃除にしても、(113)勤めという上から言えば、決して隔てなどありはしない。そのように話してある筈である。(114)これまで幾度も指図をしてきたが、それを、「どうせよこうせよ」というように、諭してなかった。(115)だから、いまだに形にとらわれていて、神の神意が理解っていないのである。

ーーー押して、おこと、おいゑの事でありますやーーー
(116)そうではない。それとは全く違っている。(117)赤衣を頂戴(いただ)いた者のことではない。(118)赤衣を着せた者、(119)以前につとめ人衆として、鳴物の学びをさせた者のことである。

ーーー永尾よしゑなどの事でありますやろと話するうちにーーー
(120)その通りである。(121)やっと理解することができた。ようやく道の理が判明ったようである。

ーーー一寸してからーーー
(122)それさえ判明れば、もはや後々の事も十分にわかるであろう。(123)さあさあ、この話もこのくらいで止めておこう。

   



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公刊本おさしづより  2 婦人会創設 1

2018年10月24日 19時24分46秒 | 図書室

婦人会創設に関するおさしづ

目次
(1)明治31年3月25日   (4巻2913頁)
『増野いと身上願』
『押して』
『押して、皆相談しましてと願』

(1)《大意》

(2)明治31年3月26日   (4巻2916頁) 【2003.10.27UP】
『前日増野いとのおさしづより、婦人会の事に付おさしづありしにより、以後の道筋心得事情申し立て願』
『暫くして』
『押して、元々艱難した者婦人会の中に古い者洩れ落ち有るか無いかという処話する処へ』
『又暫くして』
『又続いて』
『又続いて』
『又暫くして』
『又暫くして』
『上田ナライトの事でありますや』
『押して、おこと、おいゑの事でありますや』
『一寸してから』 

(2)《大意》 [2003.10.27訂正]

(3)明治31年3月27日   (4巻2923頁)【2003.11.12UP】
『永尾よしゑ身上願』
『身上押して』

(3)《大意》 

(4)明治31年3月28日   (4巻2925頁)
『前日おさしづにより教長へ御伺い申し上げ、その趣きは婦人会の処何か区域を立てゝ何とか名前付けますものやという願』
『おつとめに出る鳴物の御方の順序の願』
『押して、鳴物元の御方に習う事』
『押して、この御方と見分ける事』
『手打ってから又さしづ』
『又一寸してから』

(4)《大意》 

(5)明治31年3月30日   (4巻2932頁)
『刻限』

(5)《大意》 

(6)明治31年3月30日   (4巻2934頁)
『前日おさしづの婦人会内の事情に付一同話しの上願』
『増井りんの事で御座りますや』

(6)《大意》

(7)明治31年10月26日   (4巻3124頁)
『桝井安松身上歯の痛み願』「おさしづと婦人会」には以下のおさしづは掲載されず
『押して願、おことの事でありますや』
『教長へ別席の順序願』
『押して』
『押して』
『押して(女)』

(6)《大意》(1番目のおさしづのみ)

 


(1)

明治31年3月25日   (4巻2913頁) ()は大意での数字
『増野いと身上願』
(1)さあ/\尋ねる事情/\、尋ねる事情は身上、さあまあこの中良きかと思えば又身上に心得ん事情掛かり、善き事なら思う事無い。(2)身上もう一時ならん迫る事情尋ねるから、事情にはこれまでいろ/\諭したる。(3)どんな事にも諭し掛けたる。いかなる事情にも諭したる。(4)そんならめん/\身上、心にどうと又あろ。諭に、幾重諭したる。何処へ掛かるとも分からん。(5)事情はさあ女の道がある。皆惣計女の道あるなれど、女の道に男女とは言わん。(6)この道どうも分からん。そこでよう聞き分け。惣計の中談示の台に出す。よう聞き分け。(7)数々中ある。数々中ありて日々働いて居る。(8)この中一つ理という。道によって古い新しの理がある。新しい中にも古い中にも、どういう理もある。又古いだん/\の理もある。(9)一時女、婦人会として初め掛け。これ人間が始め掛けたのやない。神が始めさしたのや。これは古い道にこういう理がある、こういう事があると、互い/\研究始めたら、いかな理ある、どんな理もある。(10)元々一人から艱難苦労の道通り、又中に道始まる理に繋ぎ、事情から始め通りたる者ある。(11)たゞ年限ありて心にこう無くば古いとは言えようまい。こうのう無くば、まあそうかいなあというようなもの。よう聞き分けて内々迫れば、相談の芯という。芯から始めたら心分かる。(12)女研究、何ぼでもぢばという中に、これまでにも治まる理無くばどうもならん。刻限でも諭し、諭にもよう/\という。(13)婦人会始め掛け。始め掛けたらよう思やんせにゃならん。(14)道に艱難の道という、通りたる事情、(15)婦人会というは何のためにするのや。義理でするやない。又人間の体裁でするやない。又世上に対してするやなし。婦人会というは、道始めて互い/\の諭し合いの道治めてやれ。(16)今日入ったも女、古い理も女、艱難苦労通りたか通らんか分かる。入りた道ある。遠い所から来てる者もある。又近い所から来てる者もある。どうやろなあというような道から、へばり付いたような者もあれば、又運んだ道もあれば、道に染まりて入りた者あれば、今日入った者もある。婦人会という道聞き分けて、今日は一つ、埋もれ/\切ってあるという。

『押して』
(17)さあ/\会議というて話し掛けた処、(18そんなら神の話、思う一条の話、十人なら十人出ける話とは言わん。数々中に突き合わせ、(19)世上男女言わん。(20)何程女でも道のため運んだこの事情聞き分けにゃならん。これ聞き分けにゃならんで。(21)そこで尋ねても、道だけ筋立てば同等のもの。よう聞き分けて通さにゃならん。互い/\道はどういう処から取りて居る。

『押して、皆相談しましてと願』
さあ/\よう思やんして、(22)皆それ/\身上迫れば心治まらん/\。(23)世界明るく、道にほこりありては、元ぢばと言えん。(24)女であれど、元々尽したこうのうという。元元女でもあれだけのこうのうあるか、と、知らさにゃならん。


【(1)大意】

(「おさしづと婦人会」p2~7より)

明治31年3月25日   (4巻2913頁)
『増野いと身上願』【大意】
(1)さあさあ、尋ね出ているは、とかく身上が思わしくないからであろうが、そうした中にも調子がよい時も、また思わしくない時もあった。身上健やかであれば、何も思い患うことはない。(2)ところが、身体の具合が俄にさし迫った状態にでもなれば、当然、神の指図を尋ねることであろう。これまでもそうした場合、いろいろに諭してきた。(3)折にふれ、事に当たって、諭すべきことは、あらまし諭してきたはずである。だから、銘々が、身上勝れないという時にも、今までのところをよく思案すれば悟りがつく筈である。
 (4)ところが、自らの事になった場合には、とかく、どのように思案したらよいのか思い迷ってしまうものである。(5)今の事情は女性としての道があることを教えたいから見せているのである。もとより、諭すところは女の道についてであるが、だからと言って、それは決して、男だから、女だからといった区別を諭すのではない。
 (6)この道の通り方について、まだ十分にわかっていない。だから、これから諭すところをしっかりと聞きわけてもらいたい。これから諭すことは、あらゆる問題を解いていく場合の話し合いの台となるものである。だから、しっかり心に治めてくれなければならない。(7)これまで多くの者がこの道についてきている。この「やしき」の内にも、日々多くの者が働いているではないか。
 (8)しかし、この道を通るかぎり、みな心に治めなければならない筋道がある。それぞれが通ってきた道すがらには、年限の上から古い者、新しい者がある。そうした年限の新しい古いということに関わりなく、通り方よって、どんな理も現われてくる。けれども、また、古い者には、その年限に相応しく、神が深い思いをかけているのである。この際、女としての通り方を明らかにするため、まず婦人会を創めかけるがよい。
 (9)ところで、婦人会を創めると言っても、決して人間の思いによって創めるのではなく、神が創めさせたのであるということを心しておくがよい。婦人会は、それをたとえば、この道のかかりには、こんな神の守護があった、こんな事があったというように、互いに研究を始める場にして進めるならば、どのような実りも見ることができるであろう。
 (10)もともと、この道は、教祖一人より始まり、教祖が幾重の艱難苦労の道を通って、今の道に出たのである。
 また、そうした道中にあって、この道の初め、草生えの難渋な時に心をつなぎ、道の理を聞きわけて通ってきた者がある。
 (11)ところで、ただ年限を重ねただけで、その年限に相応しい成人の姿を見ていなければ、古いとは言えないであろう。この道を通るかぎり、年限相応の「しるし」がなければ、ただ、古いということだけに終わってしまうものである。この点をよく聞きわけて、心を治めてくれるならば、内々の者の誰かが事情とか身上でせっぱ詰まった時、それをどのように悟り、どのように通りぬけるべきかの相談の芯となることができるのである。心の治まった者が芯となって研究を進めていけば、みんなの心も治まってくるのである。
 (12)このように神の理を求めて、女同士研究をし合い、心を治めるということは、この人間創めた「ぢば・やしき」だからこそ、当然しなければならなかったのに、それができていなかった。そのために、心治まることがないというのでは、「ぢば・やしき」の理が立たなくなってしまうではないか。
 (13)そこで、旬々の指図でも諭してきたが、その諭したところに、やっと目醒めるようになった。ここで婦人会を創めるがよい。婦人会を創めることになれば、さらにそこに寄せる神の思いを、よく思案しなければならない。
 (14)これまでの道には難渋苦労のみちすがらがあった。そこを通り越してきたことを思えば、(15)婦人会を何のために創めるのかは、自ずからわかる筈である。それは人間の義理でするのでもなければ、体裁でするものでもない。また、決して、世上への見栄で創めるものではない。
 婦人会の使命というものは、この道始まってから今日までの事を互いに諭し合い、心治めていくことにある。そのことを心に置いて事を進めるがよい。
 (16)近々、この「やしき」に入ったのも女であるし、また、古くから「やしき」に詰めてきたのも女であった。長の年限、道を通った芯となるべき者からすれば、艱難苦労の道を通った者か、そうでない者かは自ずとわかる筈である。
 人それぞれに、この道に入った次第というものがある。遠い所からきている者もあれば、ほんの近い所から出てきている者もある。また、「この道は信頼できるだろうか」などと半信半疑のまま道につき、ついには離れられなくなったような者もあるし、真実をはこんできた者もある。さらには、この道に染まって信仰するようになった者もあれば、今日はじめて道についたという者もあって、人それぞれに異なっている。そうした者たちに、まず芯となるべき者が、進んで婦人会にかける神の思いを聞きわけ、神の理を諭してやってもらいたい。
 今日は、特に埋もれきって下積みになってしまっている婦人のことについて諭しておこう。

ーー押してーー
 (17)さあさあ、婦人が寄り合い、会議をするように、と言ったのであるが、(18)「それなら神様のことを話し合おう」といっても、また、銘々の思いをのべるにしても、十人が十人とも、みんな十分に話ができるとは限らない。話し合えば、当然いろいろな話が出るであろうが、その数々の話を照らし合わせ、補い合っていくようにすれば、談じ合いの実りを得ることができよう。(19)世間ではとかく男と女を分けて考えがちであるが、この道の理には、決して男、女の区別はない。
 (20)たとえ女であっても、道のために運んだ真実の事情については、しっかりと聞きわけていかなければならない。婦人会を創めるについては、ここをよく聞きわけることが大切である。
 (21)そこで何の問題であろうと、道の筋道の立った話であれば、決して、男、女の隔てはない同等のものなのである。
 だから、この点をよく聞きわけて、道の筋道を通してくれなければならない。そして互いに、道はどういう理に基づいているのかをよく諭し合ってもらいたい。

ーー押して、皆相談しましてと願ーー
 さあさあ、よく思案してみるがよい。(22)人間誰しもみな、身上が迫ってくれば、なかなか、穏やかな心ではいられないものである。
 (23)世界を明るく陽気にするのが、この道であるのに、この道を通る者の心にほこりがあるようでは、元なるぢばの理を示すことができないではないか。(24)女であろうと、表に出て光るのは当然である。もとはと言えば、それは道の上に心を尽くしたこうのうの理が現われたものである。だから、「女でも、あんなに素晴らしいご守護があるのか」と言われるような、当然の真実をみなに知らせなければならない。


 
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公刊本おさしづより  1 青年会創設

2018年10月24日 19時21分09秒 | 図書室

公刊本おさしづより 1

青年会創設に関するおさしづ 

 
       
青年会について調べ始めた経緯

 他のサイトにて「女の道」といわれる「教祖のお言葉」から男・女(天の理・地の理)についてねりあう中で、婦人会に「母親講座」があるのに男には「父親講座」というものは現在ない。との言葉から婦人会・青年会の存在が気にかかり、その設立のおさしづから何か男女についての事が分かるのではないかと、青年会の創立のおさしづを調べ始めた。 【目次へ】

 
       
 この当時に関する資料

・「あらきとうりょう」(209) p39~48

現在の青年会創立に関する資料

・「あらきとうりょう」(210) p26~30

 
   
           

おさしづ目次
明治31年6月3日
『先般梅谷たね、永尾おさしづより本部員会議の上農行衆なり日々本部で勤める青年に、月々一度宛御話する事、本部長の御許しに相成りしに付、神様の御許し頂き度く願』 
『押して、農行の方宮森与三郎、山澤為蔵両人取り締まる事願』
 
関連するおさしづ
(1)
明治31年6月2日
『永尾楢治郎腹痛に付願』
(2)
明治31年5月17日朝
『梅谷たね身上願(足痛に付願、本部事情あり)』
『押して、只今御聞かせ下されますは重に本部の事情こもり居りますがなれど、梅谷の事に付、梅次郎を役員一同より副会長にだん/\願われしも、未だ/\と申し居られ、又縁談も一寸話御座りますが、この処は如何に御座りますや願』
『押して、梅谷は私儀この二三年前おさしづに付御本部へ常詰さして下さるようなさしづから内々もだん/\取り決まり御本部へ詰めさして貰い居りますが未だ十分の事に参り兼ねます故この処願』
(3)
明治31年5月11日             (4巻2972頁)
『辻とめぎく身上願』
『押して、夜深に尋ねる事情願』
(3-1)
明治31年5月12日              (4巻2973頁)
『昨日辻とめぎく身上願いより夜深というおさしづに付願』 
『前夜のおさしづより昨夜談示の上取り決めし事情願、第一は講社扱いの事情はその扱いの者不在中にても外の者扱いの出来るよう一同へ話して置く事、又鳴物の事申し上げし時御諭』
『押して、控えは増井りんかとみゑか』
『おかぐらに替わり合うて勤める願』
『押して、かぐら願』
『日々のあたゑ配与方の願』
『一寸暫くして』
『押して、ねたみ合いそねみ合いはどういう処を仰しやって下されますや』
『暫してあたゑ分け日々する事やろうかと言う処へ』
(4)[2003.10.20UP]
明治20年10月26日        (1巻88頁)
『真之介よりの思召を以て、八九人懇親会研究に付御願』

【私解釈】

(4-1)[2003.10.20UP]
明治20年10月22日 (1巻87頁)
『清水与之介おたすけに行き御利益もあり、帰り道にて、左の足に何となく出物でけ、喉ひっ付くように成りしに付願』

【私解釈】

   
 
関連するおさしづの掲載について一言
   
  (1)(2)について
 青年会の創設について調べたいと「改訂 天理教事典」を見たところ、
『教会本部においては、天理教青年会創立に先だち、一致幼年会(明治26年6月)、青年団結義会(同年9月)などが発会し、次いで、「おさしづ」を仰いで本部青年会が創立された(さ31.6.3)。』(p620)
と書かれ、そこで、『梅谷たね、永尾おさしづより・・・』(m31.6.3)言葉より、さかのぼって、(m31.6.2)・(m31.5.17)のおさしづを掲載した。

(3)(3-1)について
「改訂 天理教事典」年表(p991)には
『・6/3 本部青年の仕込みにつきおさしづ(さ31.5.11ほか)。本部青年会創立。』
と書かれていた。そこで(m31.5.11)と関連する、(m31.5.12)を掲載した。

(4)(4-1)について
「あらきとうりょう」(209) p39~48から「八九人懇親会研究」という男の集会についてのおさしづ(m20.10.26)を掲載。(4-1)は青年会創設のおさしづが一連の身上を通して示されている、一連の刻限のおさしづの中にあり、この(4-1)のおさしづには「万事の処、大勢寄り合うて、幾重の話しても、一人々々の精神より運ぶ事は出けぬ。この理をよう聞き分け。」と話し合いについての事柄に関して記載されているので、記載した。
 又、この後に梅谷四郎兵衛・梅谷秀太郎・増野正兵衛など男の身上願が続いている。(特にm20.11.13『梅谷秀太郎身上願』が気にかかる)

初めて解釈をしてみました。

 

   
   
           

 


明治31年6月3日
『先般梅谷たね、永尾おさしづより本部員会議の上農行衆なり日々本部で勤める青年に、月々一度宛御話する事、本部長の御許しに相成りしに付、神様の御許し頂き度く願』
さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\いかな事情、いかな事情も尋ねにゃ分からん。さあ/\皆んなこれ多分の者、連れ戻りたる処、何か無しの日々の処では、とんとどうもならん。幼少の時から万事事情、日々治めすれば、日々治め来る。あら/\飛びさがした理は集め来た道理、世界又順序、一寸固まり掛け。実際固まりが一人万人の同じ心という。これ鏡やしきという。これまでとんとどうもならん。人に粗相あってもそのまゝ置いて置く。聞かん者はどうもならん。万事人間心ばかりで、たゞ天理王命と言う事ばかり、結構分かり、どういう理から集まりたる。世界の理、物が多分有る者も無き者も同じような事ではならん。よう聞き分け。これから先年限は、長いと言えば長い、数えて見れば短い。よう聞き分け。何かの事、人が知らんと思たて、知らん者は無い。夜も昼も皆映りてある。これ第一の理。これからどうでもだんないというような事ではならん。それでは育てようと思たて育てられん。そこでほんの義理や体裁を以て治めては何にもならぬ。十分治めようと思えばめんめん心次第。何でも彼でも心尽さにゃならん。心尽せば固まりて来る。少々では固める事出けん。元々台という、台無しに働いてはならん。よう聞き分け。蕾の花を生けたら一先ず見られる。なれど、日柄経てばほかして了う。これ皆んなの中、これ話の台という。よう聞き分け。月々一度の心の改め合い、話のし合い。心は随分下から行て、人の事してやるというはこれが台。放って置いても人がするというては、年限経っても同じ事。これ話して置く。尋ねる事情は、十分聞き取って十分受け取る。

『押して、農行の方宮森与三郎、山澤為蔵両人取り締まる事願』
さあ/\まあ大抵々々、年限通り来たる。その時時分、日々組み上げたようなもの何時でもその場へ持って来たら道具が揃たる。皆んなの下から積み重ねたる。そこで何処へ出たて粗相は無い。これ台として伝えにゃならん。又、一寸一つ話、どうでもこうでも、これまで二三度諭したけれど、あら/\は分かりある。なれど、人人替わりて、日々席順序一つ、何度諭したる。一寸こうして席のもの、十人なら十人、所の名言うて尋ねるまで、場所決め一々尋ねるまで身の備えこれ第一。中程でどうせいこうせい言うては、続いた席の理千切れ/\の理渡すようなもの。これする者ある。忘れて千切れ/\の理渡してはならん。遠い所からさづけ受け取りに来るのに、千切れ/\の理渡してはならん。言葉僅かよう聞き分け。中程はあと思たら、一つ理聞き取るのは、言葉分からん。先はどうやったやら、中はどうやったやら分からんようではならん。そら筆を取りて渡してある。なれど、息継ぐようなもの。これ日々や。所尋ねるまで。身に一つの備え。横向いてはならん。尋ね掛けたらどうする事要らんよう、十のものなら十ながら、外へ散らんよう。三名取次、三名ながら並んで居ては取次やない。三名許したるは不都合無きよう、千切れ/\渡すは一人でよいもの。そこで三名許したる。三名の心は一人の心を働かしてくれにゃならん。

 

青年会創設に関するおさしづに関連するおさしづ

(1)
明治31年6月2日
『永尾楢治郎腹痛に付願』
さあ/\尋ねる事情/\、身上という。身上に掛かれば皆んな事情、身上に掛かるというはよう聞き分け。一度やない、二度やない、三度五度までさしづという。何でも彼でもせにゃならん。遠い所から、一度さしづ貰たら、と言うて出て来る。それからめん/\心治め。この道というはなか/\難しい道である。難しい、どうも難しい。何も難しい事やない。このくらい楽な事は無いなれど、皆心が難しいのや。西へ行こうと東へ行こうと、南へ行こうと北へ行こうと、自由自在。さあ/\諭し掛ける。ほんの掛かりの話治めば、通りよい事情から治めてよう聞き分け。あちらから見てもこちらから見ても成程、という理より治まる理は無い。成程の理聞き分け。これまで度々の理諭したる。実という/\、澄んだ心/\は曇り無い、曇り無いのが実と言う。何かの処年限は余程の年限限りの処、長らえての年限と思う。年限は二代目の年限となりたる。何十年という。これから諭するによって、皆諭さにゃならん。身に事情、はっきりと諭す。身上々々大抵分かる。よう聞き分け。遠い所からそれ/\゛集まりて来る中に、万事多い事情、あちら治まりこちら治まりすれば、心という理、あら/\治まるようなれど、一寸身上堪えられん。めん/\心折り/\心ほっと事情、いつ/\かと言うは、そうやない。時々事情、あちら向いてるともこちら向いてるとも、分からんような心ではならん。これ、嗜んでくれ。これよう聞き分けて、成程というは、身上直ぐと治まる。暫くめん/\こういう事と、めん/\心でこれだけ聞かして貰た、成程、と、内々親々の中、あちらこちら安心聞かしてくれ。これで一つ又一寸話し掛ける。前々一寸話したる。難しい/\。仮名な処から事情、この事情から話し、何時どういう事情あるとも、諭すとも分からん。重い軽い分からいではならん。前々諭したる、一時諭したる。重い軽い砕いて話すればなか/\長い。重い軽いは第一理である。一寸話。今一時という。そんならめん/\どうしようと事出けん。又刻限諭した処が、出越したる処、こういう事というは、心に掛かる。どうでもこうでも均らして了う。人間心これまで神の自由知らず、まあ忘れて了たような理の世界道理で通りた年限、このほこり何ぼとも分からん。そこでほこり払う。よう聞き分け。あちらこちら十分掃き掃除、ほこり去って了たら、後々さしづ一つで治めるという。これ一寸さしづして置こう。

(2)
明治31年5月17日朝
『梅谷たね身上願(足痛に付願、本部事情あり)』
さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\どちらへ掛かるとも分からん。どういう理から運び出すとも分からん。尋ねる/\、尋ねにゃ分かろうまい。だん/\諭したる、身上から事情、何でも彼でも治めにゃなろうまい。よう聞き分け。これまで/\皆んなそれ/\゛、常詰とは言われようまい。又それは出けやせん。なれど、心は常詰。早くに聞き取りて早くに定め/\。何ぼでも/\暇が要る。前々からの続き、前日よりのさしづ、幾度のさしづ。一日の日を以て、順序引き均らすという理も諭したる。これからという万事取り決め。何かの処さしづの理を以て取り決めと言うたる。未だいかん。どうでも暇が要ってならん。よう聞き分けにゃならんで。これまで紋型も無い処、ほのかに聞いた理は、ぼつ/\一つ/\見えてあろう。どうでもこうでも、見難くい処は取り消して了わにゃならん。何ぼ諭しても聞かしても、一寸あちらの理を取る、こちらの理を取る。思わず/\暇が要る。取り決めた理は無い。日々の諭しにもするやろ。一軒一人の事情は家内の理とも諭すやろ。早く救けにゃならん、救からにゃならんというが互の理、よう聞き分け。めん/\も救かろともせず、それ/\゛も救けようとも思わず、そんな事で、日々常々取り次ぐ話扶け合いの理に当たるか。さしづ通りの理を守れば、早く/\談じ取り決まり、この点はこうしました、どうしましたと、一つの理決まり無くてはなろまい。この理よう聞き取らにゃならん。理というは、一つに治め掛けたら皆治まる。あちらも一寸こちらも一寸、話し掛け、半ば/\のようではどうしてものゝ決まり付くか。こら理や、そら理やと、人間勝手の理、神の道に無き理を引き出すから治まらん。決まらん。そんな事では教の理は説けやせんで。日々どういう理を以て取り次いで居るか。一手一つの心、教一つの理を以て、嬉しい心を、日々聞かしてくれにゃならん。

『押して、只今御聞かせ下されますは重に本部の事情こもり居りますがなれど、梅谷の事に付、梅次郎を役員一同より副会長にだん/\願われしも、未だ/\と申し居られ、又縁談も一寸話御座りますが、この処は如何に御座りますや願』
さあ/\尋ねる処、中途からおっと出た分にゃ諭し難くい。一落理を治めて決まらにゃならん。ぢばに一つさしづ通り理が治まれば、こうさして貰いたいと言えば、よし/\と言う。今一時尋ねる事情は、幾重何段の理に集まってから一つの理、前前よりのさしづ取り決め一条の諭し、何も難しい事は言うてない。めん/\難しい事拵えるから難しなる。言う通りにしたら言う通りになる。よう聞き分け。この道、言う通りの理より出けたのやろうが。

『押して、梅谷は私儀この二三年前おさしづに付御本部へ常詰さして下さるようなさしづから内々もだん/\取り決まり御本部へ詰めさして貰い居りますが未だ十分の事に参り兼ねます故この処願』
さあ/\その日来たるが、容易ならん理を寄せてある。今の事情放って置けるか置けんか。内々身上障りより、よう思やんしてみよ。身上は案じる事は要らん。身上救けるため、一時心を定め。さあ/\皆んな早く/\、さあ/\これからというは、いと言うたらい、ろと言うたらろ。前々にも一二三という、きちっとしたさしづしてある。なれど、こうやろうか、どうやろうか、勝手々々の理ばかりで、一寸も治まりは無い。月に一度、一日の日を以て月次祭とも言う。帰る/\、積もった理ばかり、鮮やかなる話は一つもあらせん。明日は月次祭と言えば、宵の日より皆勇んで働かにゃならん。時々さしづ、人々事情諭しても、一つも諭し合う事も無く、喜ばす事も無く、どうして居るのや。身の障り/\という。早く救からにゃならん、救けにゃならん。これは教の理。よう聞き分け。身上の事情より一つさしづという。この理より、互い/\治め方取り決め方運んでこそ救ける理、又救かる理とも言う。これを一つ、よう聞き取ってくれにゃならんで。

(3)
(4巻2972頁)
明治31年5月11日
『辻とめぎく身上願』
さあ/\尋ねる事情/\、身上という身上一つ事情/\、第一事情々々、第一事情さあ話し掛ける/\。よく聞き分けにゃ分かり難ない。何とも思わにゃ何ともない。思えば思うだけ無けにゃならん。諭し置こう。よう聞き分け。身上一つ事情、一時事情々々、どういう事を諭す。尋ねにゃなろうまい。めん/\からめん/\に聞き分けにゃならん。これまでというは皆んなの中一つ聞いて居て、何と理が分からん分からん。長い間年限々々長い間どういう事、用無くば知らん。年限経てば先長くどういう事、よう聞き分け。道の事改めて用いにゃならん。又親子という、親の理から子何と思うか。これ諭し置こう。どういう事、人の事見習え。人の事聞き習え。神の教え一つ理、成程という事ばり/\人間心で諭す事出来ん。神の話神の理聞き分け。続いて/\年限道の理以て長い話、一つ前々事情刻限、事情引き出す。日々取次に諭して一つ集めてる処、万事取次掛かりて事情、又小人事情困る事情、何処へ事情掛かりて始め掛けるとも分からん。又一つ夜深々々、万事諭さにゃならん。あちらへ掛かりこちらへ掛かり、諭す刻限、事情諭すという。さあ/\急ぐ/\。身上は案じる事要らん。実際々々一時治めるは自由、事情夜深々々に筆取らして一時諭して、一時定めにゃならん。

『押して、夜深に尋ねる事情願』
 さあ/\夜深々々、さあ/\急ぐで/\。尋ねる処尋ね返やす処、夜深々々、筆は三人、筆は三人々々。

(3-1)
(4巻2973頁)
明治31年5月12日
『昨日辻とめぎく身上願いより夜深というおさしづに付願』
さあ/\夜深という事情諭し掛けたる処、夜深という尋ね事情から事情始め掛けた。あちらこちらどういう事言い掛ける。大抵々々諭したる。皆んな心得て尋ね出たか。どうよこうよ一つの心を治めて尋ね出たか。それから話し、前々事情を以て、早く万事一つの理始めたる。事情夜深々々の理を以て尋ねる。もう万事の処あら/\二三日経ってある。どういう理を定めて尋ねるか。前々事情どういう事であったか。

『前夜のおさしづより昨夜談示の上取り決めし事情願、第一は講社扱いの事情はその扱いの者不在中にても外の者扱いの出来るよう一同へ話して置く事、又鳴物の事申し上げし時御諭』
さあ/\一時取り決めした事情をこうと言う。あら/\こうであろうか、皆々どうがよかろう、こうがよかろうか、協議して尋ねる処、信徒万事の処、皆満足を与え、内々は一つの心、それは言うまで/\。第一の処、皆悟り損うて居るか、取り損うて居るか。よう聞き分け。くれ/\゛の理に諭したる/\。一つも添うてない/\。これではならん/\。こういう事ではならん/\。その後もう一つ鳴物三人、一人は控え。どうしたらよかろうか、師匠というか、まあそこえ/\稽古さして始め掛けた。元々容易やない。紋型無い処、何っから師匠出来て、手を付けたと言うやない。一を抑え、二三を抑え、手を付けさした。この者皆存命で居るやろ。親やろうか、子やろうか。分からんから尋ねる。親やら子やら分からんようではどんならん。仮名な事に話する。人間と/\話するように言うて聞かそ。今はなあ、どうなりこうなり、代わりと言えば出けるようになりたる。その時の理が分からんようでは治められるか治められんか。よう聞き分け。そうしたらすっきり分かる。出た者が存命で居るがな。控えが無くばならん。一人出られなんだら、そこで一人控えを拵える。

『押して、控えは増井りんかとみゑか』
さあ/\尋ねる/\。そうして尋ねたら鮮やか分かる。赤衣を着せて子供出したる。そら一寸には分からん。分からんから分からんようになる。人間が心でどうしょうこうしょうと言うたて出けやせん。元という、元があって先々事情、世界という、これ聞き分け。親やら子やら分からんようではならん。分からんから大方そうであったやろかと言う。よう聞き分け。小人は皆子供、成らん中から勤めた理は些かやない。何っからそうしょうと言う者も無く、銘々心だけ尽した理やで。

『おかぐらに替わり合うて勤める願』
かぐらの方はそれはどうともこれがこうとも一つも分かりてない。それまで人衆分かりてありゃせん。肝心言い掛けた処が及ばす事出けん。一時の処急いて/\。一代は残念苦労して暮した。一時言い掛けた処がとても/\及ばん。ほんの世界道理から始め、踏ん張って一人席と言うて理を改め、代理として勤めさしてある。同じ人間やと思てはならん。口に吹き出すねという神のさしづやで。違うや違うと言え。おら不服やと言うなら、不服と言い並べ/\。

『押して、かぐら願』
さあ/\決まってないものは、今一時決まりの理は取り難くい。どれとこれと人々役割、又々一時応法の理を以て、今日は誰、今度は誰、日々の処一日の日を以て、これまで通り来た処を以て勤め、又一つ鳴物、親やったやろうか、子やったやろうか。真から誰もこうと言う者は無い。知って居たとて言わんのや。

『日々のあたゑ配与方の願』
さあ/\尋ねる処/\、そらもうこれ、どんな者でもこんな者でも同じ事情なら誰が聞いたて成程と言う。違うてありては成程とは言えん。違うた事はどうもならん。違うから何ぼ違うやら知れん。どんな理になるとも分からん。そこでさしづしてある。日々中にどうやこうや、言いようで違うによって一つの理に集め/\。日々別席する。諭しよで間違う。取りよう/\で間違う。もう何ぼ切り長い話しても、第一の理を聞き取る事出けん。こゝと/\折り目切り目の理を聞かし、十人なら十人、一二三と言うたら、それに違わんように諭して貰いたい。そこで前々にも諭したる。俺はこういう諭し誰はこういう諭し、それ/\゛書き取ってしんばしらに出して、それより席に尋ね、そうしたらどんな者が聞いても、成程あれならなあ、あれでこそなあと言う。それより結構は無い。何にもならん話した処がどうもならん。紋型も無い処からのこの道の結構という、元の理を諭さにゃならん。これは言うまでや。諭しても居るやろう。

『一寸暫くして』
長く話した処が、中に飽いて来る者が出ける。そんな席何ぼしたとてどうもならん。そこで九遍という。九遍さえ追うたらよいというだけではならん。同んなじ事九遍聞かしたら、どんな者でも覚えて了う。まち/\の理を諭しては何にもならん。もう、一つと言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三、きっちりしたものやろ。違わんと言うやろ。難しい事言うのやない。もうこれから人数が多くなる。そこでどんな日あるとも分からん。何人あるとも今日は今日、朝は朝、人々の理を以て替わり/\。これが一つの理。又なか/\一つの事情、あちらの者が用があれば、こちらから代わる、又出越して居る者日柄掛かれば、又その者に代わりという。すればこれより結構はあらせん。そうさえすれば、どちらからも何とも言う者は無い。そうして又一つ事情、前々一度諭したるというは、第一妬む妬まれる、嫉む嫉まれる。この理程恐ろしい理は無い/\。
さあ/\よう聞き取りて運んでくれたら、どんな働きするや知れん。そも/\の理ではどうもならん。また今日が明日になり、今年が来年になる。こうして取り次ぎ、一日の日からろっくすっきり/\。これだけは何でも彼でもと、通ってくれにゃならん。これまでの処無にしてはならん、無にさしてはならん。ようこれ聞き取ってくれ/\。

『押して、ねたみ合いそねみ合いはどういう処を仰しやって下されますや』
さあ/\まあ/\、尋ねる事よりも、一つ急いで諭さんやならん。言葉続き言葉並びとも後や先になりてはならん。どうでもこの理に運ばにゃならん。日々国々所々心得事情、さあ/\何人有りだけの人と言うて話したる、又戻りて居る者もある。又、常詰と言うて、常詰にならん者もある。本部常詰という、銘々一つ理を治めて、両手にものは出けやせん。そこで、戻りた者でも遊んで居られん。本部という、ぢばという、そこで日々詰める者が詰合という。どういう事もこういう事も、第一の理というは日々の処、それ/\あたゑという。働きの事情にあたゑともいう。これさえ治まれば、何も言う事は無い。妬み合い/\嫉み合い/\、これが見苦して見苦してならん。そこで何人あるとも詰合一同、本部員とも言う。事務所、詰所、詰所、事務所一つの事情、何人の中あちらこちら出越して居る者はどうもならん。その者は今度の回り、その日に出合うた者が話して、今日はこう/\、あゝ結構やなあと言う。これが第一の理、それさえ治まりたら、濁りはすっきり無いのや。これまで何度の話、ちょい/\にをい話では分からん。又しても分からん。この理に違わんよう、違わんよう、今日の日は楽しんで働け。楽しんでくれ。これが世界からあたゑやでと言うて育てるが、上の勤め。これが第一神の望や。些かあたゑ、時々の理を以て与えてくれるよう。

『暫してあたゑ分け日々する事やろうかと言う処へ』
さあ/\日々にそんな事して居らるものやない。月が重なる、又暇が重なる。それぞれあたゑ開き、その日と言えば詰め合い役員、その時居る者だけは、何でも彼でも集め/\、居る者だけ心合わしてくれ。そうしたらやしきの濁りはすっきり退くで。ぢばに居る者、下々些か/\あたゑ/\、あたゑやからどんな者でも喜ばにゃならん。これだけ諭したらどんな者でも分かる。分からねば得心するまで尋ね返やせ/\。心に嵌まれば心に治めてくれ。又々一つ事情、この話聞き容れあったら、日々取次席や。さづけという。人々替わり/\が神の望み、これもあたゑ、後も先も無いで。皆んな同じ理。軽ければ軽いだけ、重ければ重いだけ。この理分かりたら、あちらを引き、こちらを引きずるようでは神の理とは言えんで。しっかり聞き取れ/\。

青年会創設に関するおさしづに関連するおさしづ(4)
(1巻88頁)
明治20年10月26日
『真之介よりの思召を以て、八九人懇親会研究に付御願』
さあ/\いかなる処、どうせこうせは言わん。時談々々、時談はすうきり要らん/\/\/\で。心次第の道を知らんか。どんな者でも、道に譬えて一つ事を聞き分け。さあ/\一分一厘の理を、よう聞き分け。最初拵えた道具は、どういう道具で、拵えた道具や。神がちゃんと見分けて、一つのあたゑを渡してある。今の楽しみ、先の細道。今の細道、先の楽しみ。先の道を見て居るがよい。どういう道や、よう聞き分け。五人七人十人はどういう心、いかなる定め、十分定め。成程という理であろう。よう聞き分け。難学やで。人間心要らん/\。神一条でさい取り決まられん今の道や。自由自在だん/\説き聞く/\。内にもある、外にもある。いかなる理と思うか。どんな思やん幾重々々、一つの実を定め。一人でも何人でも同じ事。こうしたらよかろうか、何にも要らん/\で、一人は一人の心定め、百人千人万人でも同じ事やで。

【解釈;(私解釈)】 明治20年10月26日
『真之介よりの思召を以て、八九人懇親会研究に付御願』
さあどういう処どうしろ、こうしろとは言わない。時談は全く要らないで、[時談とはどういう意味で使われているのか?時談は索引になく、使われ方が分からない。示談として解釈してよいのか?示談として解釈をすると、問題を話し合いで解決をするための会合と思える。]心次第と言って聞かせているこの道を知らないのか。全ての者に道に譬えて話をしている事を聞き分けろ。さあ一分一厘の理をよく聞き分けろ。[一分一厘の理とはどういう事か?]最初に作った道具はどういう道具で作った道具か分かるか。親神がちゃんと見分けをして、一つの与えを渡してある。今の楽しみは先の細道となり、今の細道は先の楽しみとなるのである。これから先どうなるか見ていたらよい。この道はどういう道かしっかりと聞き分けよ。5人7人10人と今集まっている者の心はどういう心であるか。[割書の八九人という言葉と関連して、今集まろうとしている人数を言っているように思う。]どんな定めた心を持っているのか。十分に定めよ。成程という理であろう。[成程の理とは?」よく聞き分けよ。この教えを研究すると言う事はとても難しい事だぞ。[難学とはどういう事か?学ぶ事は難しいと解釈してみる。]研究するには人間思案は要らない。[お道を通るのには人間思案はいらないとも思えるが、難学という言葉の次に来ているので、研究するためにはと人間思案はいらないと解釈してみた。]神一条で通れと言っても通りますと取り決める事が出来ない今の道である。神の自由自在の働きはだんだんと説かれ、また聞くようになってきている。その姿はおぢばの中にもおぢばの外にもある。どういう理からそうした働きがあると思うか。どんな思やん幾重々々。[どんな思やん幾重々々。とは?]一つの真実の心を定めよ。真実の心を定める事が大切なのは、一人だけでも、何人かが寄って物事をするにしても同じ事である。うまくことが運ぶためにはこうしたらよいだろうかと人間思案で相談する事は何にもいらないで。[談じ合いの道とも聞き、またおさしづを受けてねりあいを重ねている事実を考えると相談する事を完全に否定する言葉とは思えず、今回のおさしづの流れ、自由自在の働きを頂くためには人間思案ではなく真実の心を定めて通る事を求められているように感じる上から人間思案で安易な道を通ろうと考える相談は要らないと言われているように思う。]
一人の場合は一人の心定めが大切であるが、百人千人万人が寄ったとしても同じ事で、その寄った一人一人の心定めが大切である。

 

青年会創設に関するおさしづに関連するおさしづ(4-1)
(1巻87頁)
明治20年10月22日
『清水与之介おたすけに行き御利益もあり、帰り道にて、左の足に何となく出物でけ、喉ひっ付くように成りしに付願』
さあ/\万事の処、大勢寄り合うて、幾重の話しても、一人々々の精神より運ぶ事は出けぬ。この理をよう聞き分け。刻限話では一人々々聞きようが違う。それで刻限話もせぬ。一人々々の身の障りより願い出れば、それ/\聞かす。この理をよう聞き分け。暗がりに成る者もある。身の処何にも案じる事は要らん。

【解釈;(私解釈)】 明治20年10月22日
『清水与之介おたすけに行き御利益もあり、帰り道にて、左の足に何となく出物でけ、喉ひっ付くように成りしに付願』
さあ全ての事において、大勢が寄ってどんな話をし合っても、一人一人の精神、心の持ち方でしか物事を運ぶ事は出来ないものである。この理をよく聞き分けてくれ。全員に対して話をする刻限話では、一人一人によって聞き方、受け取り方が違ってくる。だから刻限話では話が出来ない。(でも旬が来ているので話をしなくてはならない。)けれども、一人一人の身上から願い出たならば、それぞれにその話を聞かす。この理(個人的に話をする理由)をよく聞き分けてくれ。暗がりになる者もある。[暗がりになる者とは?]身上についてはなにも心配は要らない。


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おさしづを読むに当たって 3

2018年10月24日 19時10分46秒 | 図書室

おさしづを読むに当たって 3

私の読み方・思うこと

 私はおさしづを全部読んだわけではありません。初めから読もうと思って読み始めましたが、途中で嫌になってしまい途中でやめました。それは言葉が分からず、そこで引っかかって理解できないのが嫌になってしまうのが原因でありました。
 そんな中10年ほど前だと思いますが、親は「教祖・親神様だけだ」と聞かされた事があり、「会長や上級の会長を理の親として聞かされていたのにそれはうそ?」「それホント?」と思ったことがありました。そこで「おさしづの索引」から親だけを引き出して、そのおさしづだけを読むことにしました。親という言葉だけを意識して読んでいくと案外読めたのであります(量が)。
 実際には分からない言葉ばかりではありますが、興味を持って読めました。すると、他に気になる言葉が出てきたり、「こんな事がおぢばであったんだ?ホント?」などと思うようになり、気になる言葉からそれ以前のおさしづを読んでみたりしていました。
 そして今は厳密な事は分かりませんが、直感で思える事が出てきました。(先の深谷先生の言葉にもありましたように、想像力だけで読んでいると思います。)
 ただ、そう感じるというだけのものであります。
ですから、本当にそれでよいのかは分からないのであります。

 よく書物の中などでおさしづの一部の言葉だけを引用して論じていることがありますが、その一文だけでは、「どうしてそのように、その言葉を理解するのか」分からない事がしばしばあるのです。
 文中の中で「こういう言葉とこういう言葉でこう思う」、「自分のこういう経験からこう言葉を理解する」という事が見えてこないので余計に理解に苦しむことがしばしばであります。自分の勉強不足と言えばそうであります。
 ただ、今回オーソドックスのBBSで色々と話しをしあうならば、皆が同じ資料を持っていればもっと話しが進み、見ている人も理解できるのではないかと思って、それで関係するおさしづの全文を掲載することにしたのであります。
 そして、深谷先生の言葉の
 “これを貴方はこう読み取るのか。今まで何度も読んだが、私はすこしも気がつかなかったよ。”
と言ったやりとりが出来ればもっと、色々な勉強ができ、信仰生活・実生活に役立つのではないかと思います。
 本当に遠くの人とでも近くにいるように話しが出来る。これも親神様のご守護だと思います。そしてなにより、オーソドックスのBBSを見ておられる方は、素晴らしい経験と知識をお持ちであります。その意見がたくさん出ることを願っております。(陽気ぐらしに向けて)

 最後に、おぢばで起こった色々な問題は、我々の教会、また家庭に置き換えて考えることは十分出来ると思います。
 [1161] 埋もれた事実を掘れば。 
で、基本様が
その悲劇は、私たちを助けるための、教訓です。
原典があり、全てが教えられていても、桝井家の悲劇がないのなら、「女の道」は、ただの倫理道徳になってしまう。
桝井家の悲劇を踏まえて、夫婦治まらない因縁をどう切るのかと思案するとき、男は男で、女は女で、「女の道」を通ることが必要になると思います。
教理とは、一つにはお助けのため、一つには因縁きりのため、必要です。』
と、投稿されました。

 過去の先輩方が悪かったから今が悪いのではなく。その苦労と悲劇を輝かせるように、我々自信が道を誤らない方法を探して、励まし合って実践させて頂きたいと思うのです。(信仰が4代、5代目ならば必ず初代なり道の先輩方の生まれ変わりと思っても良いかも・・・)

これからもお付き合いよろしくお願いします。

立教166年10月17日  きたろう

 

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おさしづを読むに当たって 2

2018年10月24日 19時09分19秒 | 図書室

おさしづを読むに当たって 2

公刊おさしづについて

参考資料
[2003.10.20UP]

[1174] 信憑性につて 投稿者: こせつ 投稿日:2003/10/08(Wed) 22:43

最初の「おさしづ」の編纂は昭和二年から六年にかけて行われました。これは三十三巻ありますが、原典化の過程で、そこに人間のつくったものが、たとえ少しでも混じっているとするならば、そのこと一つで原典のいわば神的権威を損なうことになりますので、それを注意深く排除して、確実なものだけが収録されました。この「おさしづ」三十三巻は八巻本に纏められて昭和十一年から十二年にかけて全教会に下付されましたが、政治的干渉から、原典を伏せなければならなくなり、すべて回収されました。その後、「おさしづ」八巻本は昭和四十一年に七巻本として全教会に下付され、現在に至っているわけです。
速記の体制が出来上がったのは、明治二十年以降ですから、現存する「おさしづ」の信憑性を検証するならば、教祖ご在世当時のものとされる「おさしづ」の伝承記録には問題があると判断せざるを得ないと思います。ですから、今回の伝承記録も完全なものだとは言い難いと思います。きたろうさまのご提示の内容ですが、調べて見ると、私の所持する資料の中に同じものがありました。男が女になっていたりして、どちらが正しいのか判断がつきません。


[1177] Re[1174]:  投稿者: 基本。 投稿日:2003/10/09(Thu) 08:37

教えて下さい。
> 最初の「おさしづ」の編纂は昭和二年から六年にかけて行われました。これは三十三巻ありますが、この「おさしづ」三十三巻は八巻本に纏められて昭和十一年から十二年にかけて全教会に下付されましたが、政治的干渉から、原典を伏せなければならなくなり、すべて回収されました。
 天理教事典のおさしず研究の項に、明治2年の公刊が、昭和23年に版を重ねているとありますが、それは、原典を伏せる理由であった政治干渉はないのに、回収されたのですか、
回収されなかったのですか。
ご存じなら教えて下さい。


[1178] Re[1177][1174]:  投稿者: こせつ 投稿日:2003/10/09(Thu) 09:55

>  天理教事典のおさしず研究の項に、明治2年の公刊が、昭和23年に版を重ねているとありますが、それは、原典を伏せる理由であった政治干渉はないのに、回収されたのですか、
> 回収されなかったのですか。
まず、上記の書き込みの「明治2年」は「昭和2年」の誤りだと思います。
昭和23年の刊行は、戦後、過渡的な措置として印刷されたもので、おさしづ研究者用として作られたものです。ですから、全教会に下付するために印刷されたものではなかったわけです。


[1182] Re[1178][1177][1174]:  投稿者: 基本。 投稿日:2003/10/10(Fri) 06:15

> >  天理教事典のおさしず研究の項に、明治2年の公刊が、昭
> まず、上記の書き込みの「明治2年」は「昭和2年」の誤りだと思います。
その通りです。訂正します。
> 昭和23年の刊行は、戦後、過渡的な措置として印刷されたもので、おさしづ研究者用として作られたものです。ですから、全教会に下付するために印刷されたものではなかったわけです。
 そうでしたか。
 私の手元に1セットあります。
 研究にどうしても必要なことがあり、探し求めて手元におきました。一般に下付されていないのに、何故と疑問でした。お聞きして、良かったです。

 
 
 
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おさしづを読むに当たって 1

2018年10月24日 19時07分09秒 | 図書室

おさしづを読むに当たって 1

深谷忠政編「教理研究 事情さとし」より(p4~7)

 (前略)
 おさしづの読み方をよく尋ねられますが、最も基本的な読み方は最初から年代順に読み、今度は最後から逆に年代順に読むことでしょう。
 かくして、われわれは、おさしづ全体を通じて親神が何を啓示していられるか、ということを知ることができましょう。
 おさしづを一見すると、雑多なものが年代順に配列してあるにすぎないように思われますが、二十年間の啓示には、実に順序よく旬々に応じての神意が明示されているのです。
 こうしたおさしづの順序に気づくのは、年代を追って拝読する仕方です。
 また、この読み方で、おさしづが予言の書であることに気づくでしょう。
 何年か前に啓示(つ)げられたことが、ぴたりぴたり適中する有様を見ては、”神があるかないか”など言うているのがおかしくなります。
 また教史の資料として、いかに貴重なものであるかに気がつくでしょう。
 おさしづが不思議なたすけの書であることは、今更申すまでもないことです。
 このたすけの中には身上・事情・理上とがあり、また個人たすけも世界たすけもあります。
 項目別に整理して読むと、たすけの書としてのおさしづの真価が発揮されましょう。
 身上たすけに関するものは既に書物になっており、本書は事情たすけに関するものです。
 予言と不思議なたすけ、これが宗教の魅力です。これを失う時、倫理道徳と同次元になり神秘性をなくします。すなわち聖なるものから俗なるものに転落します。

 おさしづは、難しくて読みにくいという声を聞きます。
 確かにそうです。それを突破する道は、いわゆる“読書百編意自ずから通ずる”ということでしょう。何度も何度も繰り返し読みおさしづ特有の語調になれることです。
 そして、眼光紙背に徹するように、大いに想像力・推理力をたくましくして読むことです。
 幸いにして最近は部分的ではありますが、おさしづの解釈本もありますから、そうしたものをたよりに読むことです。
 もちろんおさしづにかかる前には、天理教教典、教祖伝、教会史、みかぐらうた、おふでさきの骨子を把握しておく必要があることは申すまでもありません。
 ご承知の通り、おさしづは側近の者が啓示(おつげ)を書き取ったものですから、脱落や誤記がなかったとは申せません。特に、はじめのものには、そうした感じがいたします。
 現行の句読点や用字にも、いろいろ問題がありましょう。
 ですから専門家でない読者は、全文残りなくわからなくても、その中に何かピリッと心を打つものがあれば、それでよしとして読み進むことです。
 一人で読むよりも数人で一緒になって読む方が、いろいろの点で有利です。
 “これを貴方はこう読み取るのか。今まで何度も読んだが、私はすこしも気がつかなかったよ。”
という嘆声を発することがしばしばありましょう。
 “神の一言は人間の万言にあたる”というお言葉をしみじみ思うのは、おさしづを読む時です。
 またおさしづは膨大で、とても手に負えないという方があります。
 確かにおさしづは膨大ですが、“教会長は一年二年でやめるのでなく、二十年も三十年も勤めさせていただくのだから、せめてそのうちに一通りでも目を通させていただこうという気になられたら”と申しあげたいのです。
 これは私観ですが、明治二十六年三月十八日夜一時三十分の刻限などから考えると、大体この辺まで読まれたらおさしづの何ものかは一応わかるのではないかと申せましょう。
 親神は、このあたりで啓示を打ち切ってもよいという思召ではなかったかと思いますが、未だ人間が成人していないので、本席様の身代わりに奥様のおさと様を引き取って、更にもう十五年間啓示をくださって、われわれをお仕込みくださったのではないかと思います。
(後略)
昭和四十九年七月二十六日 深谷忠政

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『みかぐら笛及打物練習合譜  附練習要項』

2018年10月24日 17時31分26秒 | 図書室

 

みかぐら笛打物練習合譜
 附練習要項』

掲載に当たって

   
 
 現在では、鳴り物の打ち方なども統一されて今の打ち方に疑問を持つ人もないと思う。
 ところが、私の知り合いにすりがねの打ち方が違う人があり、どうして違うのか?と尋ねたところ修養科でこのように教わったと言われ、その時の練習譜本を頂いた。
 確かに、現在とは違った記述がある。現在の形に統一された経緯などは分からないが、そうした変遷を知る上での資料になればと思い、掲載する。
 タイトル下の数字はページ番号である。

2005.1.31

 
   
       
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