前節同様に、書き換えて見たい。
その前に、自分の身体の事をまず話すと、うちの会報を作る時など、キーボードを長時間打つことは、すぐにしんどくなって、全然進まないのが現状である。けれども、昨日の書き換えをする時は、余りしんどくならずに出来た。
これは親神様が喜んでくれることだと思ったので、今回も書換えて見たいと思う。どれだけで出来るだろうか。
第2節 「フラフを立てて来るで」
明治17年1月21日、講元は第三回目のおぢば参拝を志し、同行者10名と連れ立って出発した。この日は、新居の紀の国屋いうところへ一泊。翌22日は豊橋へ着いたが、発船時間が夕刻であったため、豊橋の町内を見物して歩くうち、一軒の提灯屋が講元の眼についた。すると講元は何を考えられたか、天竺木綿の大幅4尺ほどを買い求めて来て、その提灯屋へ行き、旗の注文をした。その旗はすこぶる珍しいものだった。白地の布の中央へ日の丸を描かせ、日の丸の中に「天輪王講社」。その日の丸の左下へは「遠江真明組」と墨で黒々と書かした。かくて一行は豊橋より船で伊勢へ渡り、参宮をすまして山田泊まり、翌日は畑町、25日は伊賀の名張泊まりと日を重ねて、26日に丹波市市の扇屋庄兵衛方へ到着したのであるが、この道中途次、11名の一行の先頭には、例のフラフが一月の朔風(さくふう)に翩翻(へんぽん)とはためいていた。
翌27日の朝、丹波市の扇屋の門口からは、一人乗りの人力車を先頭に、二人乗りの車が5台、威勢よく走り出して丹波市の通りを北の方角さして急ぐ。先頭の車には例のフラフが、これまた威勢よく風にひるがえる。前夜投宿した講元他10名の一行が、お屋敷は参拝に繰り込むのである。先頭の車には講元が悠然として身を置いていた。6台の人力車は、丹波市の警察署の前を通り、やがて右折して庄屋敷へ入り、お屋敷の表門通りに差しかかると、一人の巡査が見張っていた。その前を通り抜けようとすると巡査は突然、
『待て!』
と呼びとめた。そして講元の車に立ててあった、旗を抜き取ると声を励まして詰問した。
『この旗は何か。お前たちは天輪王へ来たか』
『これは講社の目印。天輪王へ参りました』
講元はあらかじめ期(き)していた事※が起こったという悠揚たる態(てい)で、車上のまま沈着払って応答した。(※予期していた事)
『こら、降りろ』
『今そこまで行けば降ります。車や、豆腐屋までやれ』
車が豆腐屋の門へ着くと、巡査は旗を持ってついて来た。そして巡査と講元との間には、しばらく次のような問答が交わされた。
『天輪王へ来るには何かもって来たであろう。ここは参り所ではない。婆あが赤い着物を着て、愚民を惑わし、金平糖を食えば腹痛が治るとか、水を飲めば腹下りが止まるとか言っているから、大阪府では厳重に差し止めている。なぜ来たか。すぐ帰れ』
『拙者は何も持っては参らぬ。昨夜扇屋へ一泊すると女中がこの旗を見て、天輪さんへお詣りですかと尋ねるから、天輪さんがどこにあるかと聞くと庄屋敷にあります。おばあさまでございます。と言うから、そんなら明日人力車を雇って、案内をさしてくれと申しつけました。只今参りますと、あなたが天輪王へ来たかと申されたからこれ幸いと思い、参りましたと答えましたが、実は、初めて聞いて喜んで参りました次第であります』
『貴様は一体どこの者か』
『その旗にある通り、静岡県遠江国。天輪王講社の講元を、父の代から致しているが、拙者父に死に別れてまだ、天輪王がどこにあるか知らなかったが、図らずここに天輪王のあるという事を聞き、尋問致したいと思って参りました』
『静岡県のどこか』
『山名郡広岡村・・・・』
『名前は何というか』
『未だ番地が落ちています。無番地。諸井国三郎』
『む番地?む番地という事があるか。6番地か』
『いいえ。む番地』
『む番地という事があるか。不都合な事を申すな』
『不都合な事は申さん。む番地とは無番地と書きます。拙者も役場へも勤める人間で詐(いつわり)は申さぬ。拙者、この度新宅を設けたから、戸番の改正まで無番としておきました。お疑いあらば、静岡県庁へ照会下されたい』
『参詣はならぬ。帰れ』
『拙者はもとより参詣には参りません。当所のババアでもジジイでも良いから、天輪王の由来を尋問したく思って参ったのであるから、得心の出来るまで尋問する心算ですから帰りません。その代わり拙者の滞在中は、この旗をこの家の表へ出しておきますから、御用の節は何時なりとお招きに預かりたい。お招きに預かり次第警察へ上がって、どんな事でもお答えいたします。もし又この旗がなくなった時は、拙者が当地を出立したものと心得て頂きたい』
巡査もしまいには、どうする事も出来ないので、手帳に住所と姓名を記して帰って行った。
この巡査と講元との問答の間、その場の様子があまり穏やかならぬ態に見えたので、飯降伊蔵氏(後のご本席)はご心配なされて夫人のおさと様をして、豆腐屋の裏手にてひそかに様子をうかがわれられたという。右のような次第であったので、講元は翌日(明治17年旧正月元旦)は警察からの召喚を予期していたが、その日、丹波市の西尾という酒屋が来て『今日は警察は屹度(きっと)来ません』と言う。『なぜか』と聞くと、西尾はこう言って話した。
『昨夜警部と部長と巡査と三人で種々話しをしていましたが、明日は止めに行かんけりゃいかん、と一人が言うと、一人は、放っておいたら5か国も7か国も集まるだろうから、止めに行くがよかろう、と言う。すると巡査が、いくら5か国の者が集まっても、今日のように頭を押さえれば尻へ抜ける、尻を抑えれば頭へ抜ける。スベコベ/\問答しても、しまいには立場がないような事になっても困るから考えものです。と言うと警部がそんなら明日は放っておこうか。それがよかろうという事でありましたから、今日はきっと来ません』
講元もこの話を聞いて、召喚もされぬ、巡査も来ない理由が、なるほどと合点が行ったのであった。この前夜お屋敷では神様がお下がりになって、西尾の話したような、警察における三人の問答を、お聞かせになられたとの事であった。
この一件があってから、
『遠州の講元は偉い!』
という評判が村中に広まった。今でも村の古老で、その時の様子を実地に見聞きしていた人たちの中には、存命でいる者もある事だろう。
話は少し前後するが、講元などの一行が、1月26日に丹波市へ到着する前の事である。神様は、
『あゝだるい/\。こうだるうては叶わない。遠方から子供が来るで、あゝ見える/\。フラフを立てて来るで』
という事を仰せられたとの事であるが、近待(近くに使える人)の方々は何のことか、お言葉の真意を了解するに苦しまれたのであったが、講元らの一行がフラフを押し立てておぢばへ到着するにおよんで、初めてそのご予言の意が判然とされたのであった。この時から以降、講元がおぢばへ参るごとに必ず刻限があった。そういう訳から『また遠州の講元さんが来たから神様がお出ましになる』と言うて他から来た参詣者も、足を止めて一日滞在するという風であった。
この時のおぢば滞在は、27日、8、9、30日の4日間であった。この最終日の30日に、諸井講元は実にこの上ない一つの尊い理を許されたのである。
いや~~。出来ました。調べながらして、2時間弱でここまで出来ました。
すごいです。こんなに楽に出来る事なんて、最近は全くないです。自分で感動してます。
また、多少の間違いはあっても、画像があるので、それぞれで確認をしてもらえるので、昔間違えないようにと何度も読み返して苦労した、ホームページに文章だけを掲載した時の事を考えると、ありがたいです。
さて、こうして当時の事を思う時に、『稿本天理教教祖伝』や『稿本天理教教祖伝逸話編』は本当に、間違いのないようにと、骨の部分を書かれたものと感じる。
人間にはそれぞれの見方があり、感じ方がある。
ご本部の中の方々の感じ方、そして村の人々の感じ方、またその外から来る信者の人々の感じ方。さらに言うならば、ここに出てくる止め立てをする警察などの人々の感じ方がである。
こうしたすべての人々の感じ方、心を親神様はちゃんと見定めて、陽気ぐらしに向けて歩みを進めておられると思った。
これは、今の今でも同じ事であろう。
新型コロナで、おぢばへ大手を振って帰るわけにはいかない。けれども、である。この「言わん言えんの理」これがとても大切だと思う。
世界中の人々の平和、成人を願って、自分の出来る事、役割を頑張りたいと思います。
親神様・教祖、どうぞよろしくお願い致します。