あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

旧山名大教会史より 第1篇第2章第2節フラフを立ててくるで(書換え)

2020年07月02日 09時09分19秒 | 旧山名大教会史

前節同様に、書き換えて見たい。

その前に、自分の身体の事をまず話すと、うちの会報を作る時など、キーボードを長時間打つことは、すぐにしんどくなって、全然進まないのが現状である。けれども、昨日の書き換えをする時は、余りしんどくならずに出来た。

これは親神様が喜んでくれることだと思ったので、今回も書換えて見たいと思う。どれだけで出来るだろうか。

第2節 「フラフを立てて来るで」

 明治17年1月21日、講元は第三回目のおぢば参拝を志し、同行者10名と連れ立って出発した。この日は、新居の紀の国屋いうところへ一泊。翌22日は豊橋へ着いたが、発船時間が夕刻であったため、豊橋の町内を見物して歩くうち、一軒の提灯屋が講元の眼についた。すると講元は何を考えられたか、天竺木綿の大幅4尺ほどを買い求めて来て、その提灯屋へ行き、旗の注文をした。その旗はすこぶる珍しいものだった。白地の布の中央へ日の丸を描かせ、日の丸の中に「天輪王講社」。その日の丸の左下へは「遠江真明組」と墨で黒々と書かした。かくて一行は豊橋より船で伊勢へ渡り、参宮をすまして山田泊まり、翌日は畑町、25日は伊賀の名張泊まりと日を重ねて、26日に丹波市市の扇屋庄兵衛方へ到着したのであるが、この道中途次、11名の一行の先頭には、例のフラフが一月の朔風(さくふう)に翩翻(へんぽん)とはためいていた。

 翌27日の朝、丹波市の扇屋の門口からは、一人乗りの人力車を先頭に、二人乗りの車が5台、威勢よく走り出して丹波市の通りを北の方角さして急ぐ。先頭の車には例のフラフが、これまた威勢よく風にひるがえる。前夜投宿した講元他10名の一行が、お屋敷は参拝に繰り込むのである。先頭の車には講元が悠然として身を置いていた。6台の人力車は、丹波市の警察署の前を通り、やがて右折して庄屋敷へ入り、お屋敷の表門通りに差しかかると、一人の巡査が見張っていた。その前を通り抜けようとすると巡査は突然、

『待て!』

と呼びとめた。そして講元の車に立ててあった、旗を抜き取ると声を励まして詰問した。

『この旗は何か。お前たちは天輪王へ来たか』

『これは講社の目印。天輪王へ参りました』

講元はあらかじめ期(き)していた事※が起こったという悠揚たる態(てい)で、車上のまま沈着払って応答した。(※予期していた事)

『こら、降りろ』

『今そこまで行けば降ります。車や、豆腐屋までやれ』

 車が豆腐屋の門へ着くと、巡査は旗を持ってついて来た。そして巡査と講元との間には、しばらく次のような問答が交わされた。

『天輪王へ来るには何かもって来たであろう。ここは参り所ではない。婆あが赤い着物を着て、愚民を惑わし、金平糖を食えば腹痛が治るとか、水を飲めば腹下りが止まるとか言っているから、大阪府では厳重に差し止めている。なぜ来たか。すぐ帰れ』

『拙者は何も持っては参らぬ。昨夜扇屋へ一泊すると女中がこの旗を見て、天輪さんへお詣りですかと尋ねるから、天輪さんがどこにあるかと聞くと庄屋敷にあります。おばあさまでございます。と言うから、そんなら明日人力車を雇って、案内をさしてくれと申しつけました。只今参りますと、あなたが天輪王へ来たかと申されたからこれ幸いと思い、参りましたと答えましたが、実は、初めて聞いて喜んで参りました次第であります』

『貴様は一体どこの者か』

『その旗にある通り、静岡県遠江国。天輪王講社の講元を、父の代から致しているが、拙者父に死に別れてまだ、天輪王がどこにあるか知らなかったが、図らずここに天輪王のあるという事を聞き、尋問致したいと思って参りました』

『静岡県のどこか』

『山名郡広岡村・・・・』

『名前は何というか』

『未だ番地が落ちています。無番地。諸井国三郎』

『む番地?む番地という事があるか。6番地か』

『いいえ。む番地』

『む番地という事があるか。不都合な事を申すな』

『不都合な事は申さん。む番地とは無番地と書きます。拙者も役場へも勤める人間で詐(いつわり)は申さぬ。拙者、この度新宅を設けたから、戸番の改正まで無番としておきました。お疑いあらば、静岡県庁へ照会下されたい』

『参詣はならぬ。帰れ』

『拙者はもとより参詣には参りません。当所のババアでもジジイでも良いから、天輪王の由来を尋問したく思って参ったのであるから、得心の出来るまで尋問する心算ですから帰りません。その代わり拙者の滞在中は、この旗をこの家の表へ出しておきますから、御用の節は何時なりとお招きに預かりたい。お招きに預かり次第警察へ上がって、どんな事でもお答えいたします。もし又この旗がなくなった時は、拙者が当地を出立したものと心得て頂きたい』

 巡査もしまいには、どうする事も出来ないので、手帳に住所と姓名を記して帰って行った。

 この巡査と講元との問答の間、その場の様子があまり穏やかならぬ態に見えたので、飯降伊蔵氏(後のご本席)はご心配なされて夫人のおさと様をして、豆腐屋の裏手にてひそかに様子をうかがわれられたという。右のような次第であったので、講元は翌日(明治17年旧正月元旦)は警察からの召喚を予期していたが、その日、丹波市の西尾という酒屋が来て『今日は警察は屹度(きっと)来ません』と言う。『なぜか』と聞くと、西尾はこう言って話した。

『昨夜警部と部長と巡査と三人で種々話しをしていましたが、明日は止めに行かんけりゃいかん、と一人が言うと、一人は、放っておいたら5か国も7か国も集まるだろうから、止めに行くがよかろう、と言う。すると巡査が、いくら5か国の者が集まっても、今日のように頭を押さえれば尻へ抜ける、尻を抑えれば頭へ抜ける。スベコベ/\問答しても、しまいには立場がないような事になっても困るから考えものです。と言うと警部がそんなら明日は放っておこうか。それがよかろうという事でありましたから、今日はきっと来ません』

 講元もこの話を聞いて、召喚もされぬ、巡査も来ない理由が、なるほどと合点が行ったのであった。この前夜お屋敷では神様がお下がりになって、西尾の話したような、警察における三人の問答を、お聞かせになられたとの事であった。

 この一件があってから、

『遠州の講元は偉い!』

 という評判が村中に広まった。今でも村の古老で、その時の様子を実地に見聞きしていた人たちの中には、存命でいる者もある事だろう。

 話は少し前後するが、講元などの一行が、1月26日に丹波市へ到着する前の事である。神様は、

『あゝだるい/\。こうだるうては叶わない。遠方から子供が来るで、あゝ見える/\。フラフを立てて来るで』

 という事を仰せられたとの事であるが、近待(近くに使える人)の方々は何のことか、お言葉の真意を了解するに苦しまれたのであったが、講元らの一行がフラフを押し立てておぢばへ到着するにおよんで、初めてそのご予言の意が判然とされたのであった。この時から以降、講元がおぢばへ参るごとに必ず刻限があった。そういう訳から『また遠州の講元さんが来たから神様がお出ましになる』と言うて他から来た参詣者も、足を止めて一日滞在するという風であった。

 この時のおぢば滞在は、27日、8、9、30日の4日間であった。この最終日の30日に、諸井講元は実にこの上ない一つの尊い理を許されたのである。

いや~~。出来ました。調べながらして、2時間弱でここまで出来ました。

すごいです。こんなに楽に出来る事なんて、最近は全くないです。自分で感動してます。

また、多少の間違いはあっても、画像があるので、それぞれで確認をしてもらえるので、昔間違えないようにと何度も読み返して苦労した、ホームページに文章だけを掲載した時の事を考えると、ありがたいです。

 

さて、こうして当時の事を思う時に、『稿本天理教教祖伝』や『稿本天理教教祖伝逸話編』は本当に、間違いのないようにと、骨の部分を書かれたものと感じる。

人間にはそれぞれの見方があり、感じ方がある。

ご本部の中の方々の感じ方、そして村の人々の感じ方、またその外から来る信者の人々の感じ方。さらに言うならば、ここに出てくる止め立てをする警察などの人々の感じ方がである。

こうしたすべての人々の感じ方、心を親神様はちゃんと見定めて、陽気ぐらしに向けて歩みを進めておられると思った。

これは、今の今でも同じ事であろう。

新型コロナで、おぢばへ大手を振って帰るわけにはいかない。けれども、である。この「言わん言えんの理」これがとても大切だと思う。

世界中の人々の平和、成人を願って、自分の出来る事、役割を頑張りたいと思います。

 

親神様・教祖、どうぞよろしくお願い致します。

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布教の家での出来事

2020年07月02日 00時34分26秒 | 思った事

昨日のブログで、トイレの修理について書いた。

その床にはクッションフロアーを張った。このクッションフロアーで思い出す話がある。

 

それは、布教の家での事。

私が布教の家に行っていたのは、平成元年に代わる丁度その時である。

だから、もう卒寮してから30年を越した事になる。

以前にも書いたことがあるが、私が布教の家に行ったきっかけは、自分の信仰を取り戻すためであった。

だから、別に教えを広めようとは全然思っていなかった。

けれども、第2専修科で教えられた通り、毎日戸別訪問はしていた。

嫌気がさすと、公園で小さな原典集を開いて、おふでさきを読んだり、おさしづを読んだりしていた。

そうする中には、こんな私でも家に上げて下さって、話ができる家は数件あった。

しかし、おさづけを取り次ぎ、おぢばへ帰って頂ける方はいなかった。

そうした中に、バス団参をすることとなった。団参をするためには、一緒におぢばに帰って頂ける人を与えてもらわなければ、団参は出来ない。ましてやバス代が赤字になっては大変だと、寮生で話し合ったりした。

そして、団参が決定してから、一緒におぢばへ帰って頂ける人を与えてもらうために、毎晩12下りのおつとめをしていた。

それでも、なかなかそうした人に巡り合えない。

ある時、12下りをしている最中に、ふと「私は何のために布教の家に来たのだろうか?」と自分の事を考えた。そして「自分のためで、人のためじゃないなぁ」と思い、「昔の人は、自分のいんねんを切り替えてもらうために、とおたすけにまわったんだよな。自分のいんねんってなんだろう。もし、明日身上の人と巡り合ったら、『私をたすけるためにおさづけをさせて下さい』と言おう。」と思った。

そして、翌日においがけに出て、この通りの一列を廻って帰ろうとしたその中に、半身が不自由な方に巡り合った。

そして、その方に、「神様にお願いをさせて下さい」と願った。しかし、断られた。普通の私ならばここで引き下がってしまう。

けれども、昨日の事があったので、「私を助けると思って、お願いします。」と土間に座ってお願いした。すると、「そこまでしなくても」と言って、おさづけをさせて頂いた。

そして、「いんねんを切り替えてもらうためのにおいがけ」と思った次の日に、こんなことになるなんて、親神様はすごい。「いんねんの切り替えを願う事は大切だ」と心に刻まれた。

その方は脳梗塞を患っておられて、認知症も発症していた。その日から、何か困ったことが起こると寮に電話がかかるようになった。

寮の先生にその方の事を相談したところ、「認知症は難しい」との言葉だった。それでもと思い、電話がかかると飛んで行って、探し物をした。

そうした中に、ある日、入り口の土間をきれいにしたいという話が出て、ホームセンターでクッションフロアーを買い求めて、ひとりで張ったのだった。「きれいになった」と喜ばれた顔は忘れられない。

結局、この方は団参には行って頂けなかったが、別の日に別席を運びに行って頂けた。

他にもこの方とは様々な事があった。認知症が大分すすんでいたので、一度は息子さん夫婦と同居をした。しかし、うまく生活が出来ずに、元の家に戻って来て一人暮らしをする事にもなり、また電話がかかるとお邪魔するようになった。

当時の私の出来る神様のお話は、教典を読んで聞かせることぐらいだった。

そんなある時、身の上話を聞かせて下さった。それは、この方のお母さんが、天理教を信仰していたという事だった。当時は天理教が嫌で嫌でしかたがなくて、反対ばかりしていた。でも今お母さんの事をすごいと思う。自分はあのようには出来ない。という話だった。

この時には、若い時には分からなくても、年を取って親の姿を思い出して、お詫びが出来ればそれも大切な事なのかなぁ。と思っていた。また今思えば、だから、事あるごとにお供えを預けて下さったのだなぁと思った。

そして、私は卒寮と共に大教会へ帰る事となり、その後は、次の寮生さんに引継ぎをお願いした。

ある時、その寮生さんから電話がかかった。「胸騒ぎがして、顔を見に行ったら、土間で血を流して倒れていたので、救急車を呼んで、息子さんに連絡をしました。」との事だった。

連絡を受けても遠距離で、また私には金もなく、行くことは叶わなかったが、後にその寮生さんに会う事があり、その時の事を尋ねると、それ以来会っておらず、後の事は分からないとの事だった。

けれども、その寮生さんに胸騒ぎがしなければ、一人で出直していたはずである。息があり息子さんを呼ぶことが出来た事を不思議だと思った。

 

お詫び・反省の信仰と、自分勝手の信仰の違いを、会長になってから見せて頂いた人(一人暮らしで玄関で亡くなり、翌日に近所の人に発見された方)の事と比較して感じている。

この事については、またの機会にしようと思う。

 

癖性分に流されやすい自分である。これをしっかりと心において、日々お詫びをしながら通りたいと思う。

 

親神様・教祖、世界がこれまた大変な事になろうとしています。どうぞ大難は小難にとお守りくださいませ。

 

 

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