人間が敬う対象が神であろう。
では、
人間が自分中心の願い。人を殺めても、自分に利を得たい。と願い
それを叶える存在があれば、それはその人間に対して神となる。
この人間の心が、人と人が争う事を望まず、自分も他も共に楽しむ事を望み、
それを叶える存在があれば、それも神となる。
ここまで極端にならずとも、知識を得たい、力を得たい、物を得たいなどと
人間の望みは様々であり、それを願い、それを叶える存在がその人間の神となる。
この時に、神と人間とをつなぐ存在がある。
これをシャーマンとか、霊媒師として来た時代があり、現在もそうした人々が活動する情報も多々ある。
神社の神主・お寺のお坊さんや様々な宗教者もその一端となるだろう。
また日本の神社では、優れた功績のあった人物を神として社を立てて奉ってもいる。
そしてその神々に、人間は望みを願う。
願いの叶うものもあれば、叶わぬ者もある。
その差はどこにあるのか。
考えたものはあるのだろうか?と思う。
その答えは、その神のみぞ知る。というところだが、
天理教の元の神、親神 天理王命 様は、「誠の言葉しか聞こえない」とも言われている。
「誠ならば受け取る」として、助からぬ母親を思う子供の心を受け取って不思議なたすけをいただいたという、逸話編からも理解できることである。