1月19日
アメリカが変わると、ようやく多くの日本の人たちも変わり始めるだろう。
しかし、神の教えを守ろうとする人と、神の教えに対してそんなことを言っても!と守らない人々の差は必ず出る。
これまでの歴史で、その一つが愛町の初代さんだと思う。
「私はいんねん深きもの」として、「すべては神様からのメッセージ」としてどんな中も、苦しい中も通り抜かれた。
周囲の人々、同じように信仰する人々は、「そこまでする事はない」と、笑っていた。
その結果が、初代さんを神として称える程の教会を、社を作り、信心する人々が付いている。
これに対して、当時笑っていた人々の末は、戸惑っている。
この姿は、本席様と重なる。
また、天理教が神道の一派となり、そこからなかなか独立出来なかったのには、金銭の問題が多大にある。
それは、政府、神道本局より多大の寄付を要求されていたことから分かる。
これに対して、おさしづで、「あいそ。あいそ。」と許されている。
許されてはいても、この「あいそ」という言葉が重要である。
面白いことに、愛町その他、地方の教会に人が集まるようになると、教会本部も政府や神道本局と同じことをされていたようにも思っている。
親神様は、乞食はささぬと言われて、おやさまとその家族を導かれた。
だから、貧のどん底になって、夜なべもされたのである。
また、梶本家へ嫁に行ったおはるさんも、何くれと無く面倒を見られたのだろう。
ある時、おはるさんの夫が腹を立てて、「いんでくれ(帰ってくれ)。庄屋敷の偉い者から嫁を貰って大変だ」と言い放ち、その後おはるさんは出直されて、「思うようにしてやった」と親神様から言われ、「切り口上は言わぬよう」と言われる逸話から推察できる。
子供が親を思い、世話をすることは親神様は喜ばれる。
それもまた、親から請求すること無くである。
この時、親から請求すると子供には、嫌々ながらの心が沸くこともある。
さらには、その子供の家族の心はまた複雑となる。
その複雑な心の現れが、おはるさんの出直しに繋がり、こかん様の出直しに繋がっていく。
話は逸れたが、「あいそ」と言われて、金品の要求に対応された親神様のお心はどんなものなのだろうか?
今、世間では、寄付を募りその使い道が、寄付者を騙す事であったことが話題になっている。
金に困ると、騙してでもと、親兄弟さえも騙して、その場だけをしのぐ考えだけに陥る。
これは、依存症と同じである。
そして、常にウソがばれないかと、心休まる事がなくなる。
依存症に対する処置で、「本人が気がつくまで手を出さないこと」、これが本当の助かる元だと言われている。
まずは、自ら本当に反省をしなくては変われないのである。
(これは、依存症でなくても、性分を切り替えることについては同じことである)
遠くから見守ること、親なればとても辛いことである。
我が子がそのようにならぬよう、親として心したいものでもある。
「あいそ」と言われた親神様のお心は、そこに携わる人間たちの心を見定められたと思われる。
おやさまに直に接して、日々の歩み方を仕込まれた、郡山初代の逸話のなかに、ご本部へお供えしたかったり、おたすけに行く旅費がなく困ったときに、人に頼むことはなく、周囲の人がその困った顔を見て用立てられたと言うものがある。
それまでの通り方から、喜んで出された金品は、真実の心で使われ、その種はまた心から出した人へと一粒万倍となって返ってくるのである。
これが理である。
ところが、親神様のお話、おやさまのひな型を聞きながら、違うことをしている人が多くあるように思える。
思うがままに。。。