「コロナと原典おさしづ」で書いた刻限のおさしづの中に、次の一節がある。
No. :(4巻3370頁1行)
明治32年11月3日
『昨夜の刻限のおさしづに付、本部員一同打ち揃いの上願』の『暫くして』に
どうでもこうでも、掃除という。刻限出した限りには、仕遂げにゃならん。掃除仕遂げる。隅から隅まで掃除に掛かる、掃除に掛かりたら、あちらこちら声が聞く/\。どんな事を聞いても、心を授けた限り、一名一人の心という。おめも恐れも無い。控え心は受け取る事出けん、と諭し置こう。
とある。前回おさしづを紹介した時には、この事について触れてはいなかったが、分かる人には分かると思う。
親神様は、世界中の掃除にかかっているという事である。
そして、そこでの対応を我々はどうしたらよいかという事もここで示されていると思う。
「控え心は受け取る事出けん」ということである。「受け取ることが出来ない」ということは、神様は働かないという事と同じと思えると、
この前の 明治32年11月3日
『昨夜の刻限のおさしづに付、本部員一同打ち揃いの上願』の最後の部分
よう聞き分け。人の事と思うなよ。我が事になってから、どうもならん。これ聞き分け。何ぼどういう事を言うたて、言うのが悪いなあ、言うてはいかんなあ。包んで居ては真実真の事とは言わん。我が身捨てゝも構わん。身を捨てゝもという精神持って働くなら、神が働く、という理を、精神一つの理に授けよう。
ここがとても重要だと思う。
まだ自分の身には降りかかっていないからと、人の事と思うなよ。我が事になってから、どうもならん。 と言われる。つまり、これは都会の事だからとか、地方の事だからと思っていて他人事に考えているうちに、自分の事になるという警告ともとれる。
そして、言うのが悪いなあ、言うてはいかんなあ。包んで居ては真実真の事とは言わん ここの部分である。「言葉に出すからそれはいかん。言うと悪く思われてはならんと、思っても包み隠して言わない事は、真実の事ではない」と言われていると思う。
そして、我が身捨てゝも構わん。身を捨てゝもという精神持って働くなら、神が働く、という理を、精神一つの理に授けよう。 言葉に出して、我が身に何が降りかかろうとも構わないという「我が身捨ててもという精神を持って動くのならば、神は働く」といわれていると思う。神様が働くとは、不思議なお守りを頂けるという事でもある。
ここがとても重要だと思うのである。
そこで、神様の掃除とは何かという事を知っておれば、また違うのではないかと思うので、掃除について書いておく。
これは、このおさしづの前の日の「刻限」
No. :(4巻3368頁11行)
明治32年11月2日午前4時頃
『刻限』の後半部分。
一時筆取りたらあら/\の事も悟るやろう。初めも知らす。身の直る事まで。これさあ刻限々々。刻限の話理によりて深く見にゃならん、聞かにゃならん。いかな事も、詰みて/\詰み切ってある。外から見たら、むさくろしいてならん。さあ掃き掃除拭き掃除、掃除に掛かれば箒も要る。どんな道具も要る。拭き掃除にも道具が要る。要らん道具は要らん。どんな働きもする。怖わいと思わにゃならん。嬉しいと思わにゃならん。勇まにゃならん。実々どんな道が付くとも計られん。何でも諭さにゃならん。うっとしいてならん。明らかなるめん/\心から、どうもならん。いかな事も聞き分け。重なりたら、間違いの理が重なれば、どんな事こんな事もある。
まず、「外から見たら、むさくろしいてならん」とある。この外という言葉は、教内を内と考えれば、教外から見たとも取れるが、世界中を内と考えれば、神の目からみたらと考える事も出来る。ともかく、内にいては気づかない事、むさくるしい事、きれいでない事がある。という意味であろうと思う。
そして、「さあ掃き掃除拭き掃除」と掃除の仕方について書かれている。ところが、掃除の方法を述べられるのではなくて、「箒もいる。どんな道具も要る」と道具の話から入られる。そして「拭き掃除にも道具が要る。要らん道具はいらん。どんな働きもする。」と道具の話で、方法については「どんな働きもする」としか言われないのである。
このところを、私は、「道具」とは人だと思えるのである。世界の人を助けるための道具、人衆。それはおたすけ人、または世界ではそれに準ずる人という事だと思うのです。
掃除の仕方については,、『正文遺韻抄』の205頁に「掃除に譬えて」という話があります。
これは、おたすけの上にお話を取り次ぐ取次ぎ人に対して、人を見極めてその人に応じた話をして心のほこりを掃除するようにとの話であります。
世界中には、本当に様々な人がいます。
考え方も、立場や富のあるなし、また業種によって様々であります。
そうした人々の心を見定めて、善悪を分ける上には、そうした人々を道具として、どちらともつかない人々を分けていく。という事をされると思えるのです。
そして、お道の話を聞き、何とか陽気ぐらしへと導いて頂きたいと思う人々については、
「怖わいと思わにゃならん。嬉しいと思わにゃならん。勇まにゃならん。実々どんな道が付くとも計られん。何でも諭さにゃならん。」
と、まず怖いと思い、親神様に願い、そしてこうして親神様が導いて下さっている事を嬉しいと思い、いずんでじっとしているのではなく勇んで、出来る事を自分に合った事を、神様の道具としてつとめる事が大切だ。
そして、その結果、その真実が種となって、思いもかけないような道が付いてくるか分からん。だから、何としても諭さなければならない。と言われているように思えるのです。
今回の新型コロナは、人生で本当に初めての事です。どうなるのかと不安でいっぱいでもあります。また、こうした原典を訳するようなことも、不安でいっぱいです。
けれども、こうしたことを通して、これを見て下さっている方が、少しでも、教理の根本に触れて、新たな思案がついて、陽気ぐらしへと勇んで勤められるきっかけになればと思い、毎日書いております。
また、そのために、本をスキャンして載せております。「そんな事知っておるわ、そんなこと違うわ」と言われる方も多いかと思いますが、お許しください。
今現在、毎日80名ほどの方がアクセスして下さっています。お付き合いいただき、誠にありがとうございます。
どうか、親神様のお働きの一助になりますように願って、今日は終わりにします。(ちょっと時間をかけすぎました。)
一日も早く、新型コロナが収束しますように、親神様、教祖、どうかお導きの程をよろしくお願いいたします。。
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