さすがに、前回の「おさしづ」34本は大変でした。
次々と「こんな事があったら良いのに」と思い浮かぶので、ついついやってしまいます。
それでも、大教会の会報や支部の連絡報を作る事を思うと、ぜんぜん体が動くのです。
背中が痛まないのです。とっても不思議に感じながら作っています。
さて、今回は、次の2つの質問を掲載します。
3『本席様がおさづけをお授け下さいました最初の事をお聞かせ頂きたく思います』
おさづけはそれぞれの心を見定めて、お渡し下さった事が克明に描かれています。
別席の成り立ちについても話されています。
今の別席の話は、はじめはおさづけを戴いてから聞かせてもらっていたと記されています。
(別席台本は、別席制度を作るようにおさしづ下された時に、おさづけを頂戴した時のおさしづを元に作り上げられ、親神様にご承認いただいたものです。この時、教祖しか知らない黒疱瘡のおたすけの話を入れるように、おさしづを戴かれて、その話が入っています。けれどもその助かった人は誰かという事は言わないようにともさしづされています。)
4『刻限のおさしづについてお話し下さいませ』
「ほこりの仕事場」について話されています。
刻限話の意味合いについて話されています。
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134頁から138頁までです。
『本席様がおさづけをお授け下さいました最初の事をお聞かせ頂きたく思います』
それは明治20年旧3月1日の事で、この日、夜の12時少し過ぎた頃、突然父様が一里ほどもある園原という山村の西浦弥平さんを呼んで来いとおっしゃった。母様も私も何分こんな夜更けの事やから、とまどっていると、父様は「早く早く」とお急き込みになるので、それはてっきり(必との意)この間からの身上のお疲れだろうと思って、母様と私とはとにかく甘露台へ参ってお願いするつもりで表へ出たのや。
すると、かすかに人影があるようなので、よくすかして見ると、それは西浦弥平さんが、父様のお居間の方に向かって手を合わせて拝んでおられるのやった。ビックリして「まあ西浦さんですか。よくまあ来てくれました。今の今お父さんが、あなたを呼んで来いと言われたところや、さあ入ってください。」というような事で、西浦さんも驚いて飛ぶように内へ入られた。
すると父様は「さあさあ さづけを渡そう渡そう」とおっしゃる。今の今まで、ただ父様の言われる事だとばかり思っていたら、それは神様のお言葉だった。
この時、その西浦弥平さんに「甘露台のさづけ」をお許しになったのやが、これが初めや。
そうして西浦弥平さんがおさづけを頂かれてからは、お屋敷の人たちや古い講元さん達が、身上にお障りが付くと、すぐおさしづを頂いて、それによって、おさづけを頂いたのや。
しかし、誰でも彼でもすぐに頂けるとは限らなかった。2へん3べん、それでもあかん(ダメな事)時は、(何もおっしゃらぬ時もあり、また「出直せ出直せ」とおっしゃったこともあると聞く。伊)何べんもお願いして、やっとお許し頂いた人もある。またお願いしたのに、どうしてもお許しが無くて、そのうちに出直してしまったり道を離れた人もあるのや。そうかと思うとお願いもしないのに、神様からお呼び出しになって、お許し下さったものある。
それは魂の因縁と、その人銘々の精神によって、それぞれ違うのや。なかなか今と違って、ちょっとやそっとの信仰では頂けなかった。今なら信仰して少し熱心になれば9度の別席を運んで、お話が分かっても分からなくても満席になっておさづけを頂くやろ。それから教校の別科へでも入って教師に補命されたら、まあ先ず一人前としたものや。信仰と言うよりもその気さえあったらとんとん拍子や。
その時分は、おさづけを頂いたら一人前やった。そやけど今の一人前とはてんで(全くの意)桁違いやで。においがけして信徒もつけ、部下の助け人衆もあるのにまだようお許し頂けない人もあったくらいや。
さて後にお願いする人が増えて来て、一日一席3名とお定めになり、次に一日6名ずつおさづけを頂く事になったが、段々と増えるにつれて、一日一席9名となったのや。
ところがお道はだんだん盛んになって。一日に何十人という人が願い出るようになった。
そこで、それまではおさづけを頂く時は、それぞれお言葉の違ったおさしづがあって、これを一名1人毎に取次ぎ人からお諭しをしていたのが、それではとてもわたらない(行き届かない)ので、これからは一日に何十人でもお許し頂く代わりに、このおさとしを9回に切って、勤め人衆からさとしてやれとのお言葉によって、9度の別席というのが出来たのや。
まず9度の別席を運んでいる間に、よくお諭しの理を聞き分け心をつくって、その後、本席様からおさづけを頂くというようになったのやった。
『刻限のおさしづについてお話し下さいませ』
明治8,9年の頃、父様が櫟本の家からお屋敷へ運んでおられた頃からや。
ある夜の事、不意に「見えん先の事、見えてない事をひと言うておくで」とおっしゃった。
その時のおさしづ
国々所々名称の旗提灯を立てにくるで、立てに来たら世界の人たちが来て評判する、なんと天理さんはえらいものになったなぁと評判するで
それからしばらくして
国々所々しるしのない所はないやないか、いかにも無い、これは江戸やないか、これは長崎やないか、長崎やのう、これは阿波の国やのう、そうや阿波の国や、それで無い所ないやないか
とおっしゃって、父様はそのままスヤスヤと眠ってはる。
翌朝になって、母様がこのお言葉や様子を話されると、「そうだったか、ちょっとも知らなかった、けれでも国々から旗提灯立てに来るなんて、そんなことがあるのだろうか」と言ってあきれておられた。
またある時のおさしづに
あれは櫟本の高品にいた大工やないか、うん大工や、なんとえらい出世しよったのう、日本で一人やないか、うん一人や、あいだ(常の意)でも黒の紋付を着て、大勢のお伴を連れて歩いているがのう、うちへ行ってみろ、大きな金の火鉢を据えて座っている、なんと偉いものになりよったのう
とおっしゃった。
神様がお引きになってから母様が、この事を父様に話されると「そんなうまい事を思って、あてにしててはいかん」と言われたのだが、この頃が父様に、神様がお入込になる初めやった。(この時分から、教祖は「ほこりの事は仕事場へまわれ」とおっしゃって、人や物に関するような事は、本席様にお伺いして、その裁決得たと聞く。伊)
明治20年旧3月1日、本席様になられて後の事やが、
神は社ともらい受ける
神の入り込んでいる間は神の心、神が退けば人間の心
とおっしゃったが、また
席に絶えず神が入り込んでいる
ともおっしゃった。
刻限のおさしづは、昼となく夜となく不意に、お知らせ下さったり、お諭し下さる神様のお言葉やが、本席となられてからの刻限のおさしづは知っての通り、いつも取次ぎの衆が詰めていて、一言半句も漏らさんと書き取られているけど(永尾楢次郎祖父、上田民蔵先生などはその中でも大の
筆達者だったと聞く。伊)以前のは、ほとんど書き物にされてない事は惜しい事です。
本席様にお成りになってからは、平常でも黒羽二重の紋付(丸に隅立井筒の飯降家定紋)をお召しになるようになったが、明治21年神道本局天理教教会本部を認可されて、同年10月26日開延式には国国の各名称の旗提灯を立てたのや。こんな事は初めてやから、そのあり様は、夜などはちょうど空が焼けたようで、今よりも数が少ないのに、もっともっと明るかったように思う。
本席様は、それはそれは大変お喜びだった。
次回はかぐらづとめ・鳴物・雨ごいづとめについての事です。
最後5頁あまりですので、次回で終わりにしたいと思います。
今日出来るかなぁ。、、
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昨日、書き換え4の追記を夕方に投稿して、338の閲覧数|118の訪問者でした。
多くの方にご覧いただき誠にありがとうございます。
おたすけの渦が巻き起こる一助となりますように。。。
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