コロナの発生から、コレラのおふでさきを訳したが、これにはもうひとつの話しがある。
それは、おふでさきを自分なりに訳すということは、とても大それたことで、さらにはそれを人に話しをする事は、よほどの自信家でなければ出来ないことである。
だから、コレラと同じだと思っていても、文章にしようとは思えなかった。ただ書かずとも月次祭で話しをするためには、おふでさきを確認しなければと思い、検索して14号の1のお歌を見たとき、これは親神様が書くようにと言われていると思い、文章にしたのである。
それは、おふでさきを自分なりに訳すということは、とても大それたことで、さらにはそれを人に話しをする事は、よほどの自信家でなければ出来ないことである。
だから、コレラと同じだと思っていても、文章にしようとは思えなかった。ただ書かずとも月次祭で話しをするためには、おふでさきを確認しなければと思い、検索して14号の1のお歌を見たとき、これは親神様が書くようにと言われていると思い、文章にしたのである。
そのように思えたのは、一番最初に出てくる「どのよふなゆめをみるのも月日なり なにをゆうのもみな月日やで 」とのお歌である。
この数日前に、2日続けて夢を見ていた。
1日目は、妻が車のパンクで立ち往生している夢。2日は入院中の同級生の夢である。
その2つとも、夢を見た数日後に解決した。
その2つとも、夢を見た数日後に解決した。
パンクの夢は、スペアタイヤの位置を確認していなかった事に気がついた。
同級生の夢は、数日後にその関係の人から、入院時の詳細を聞くことになり、普通ならば出直していてもおかしくない中、様々な偶然が重なり命を取り留めた内容から、彼が辛い中でも、親神様の思し召しがあるのだろうと懸命に努めたことを受け取って、大難を小難にして下さったのだと感じる事が出来た。
ただ、夢を2日も続けて見ることに対して、不思議に思っていた。
昔、頻繁に夢を見て、「どのような夢をみるのも」のお言葉を心の支えとして、通った時もあった。
しかし、最近は全く見ていなかった。それが2日も続けて見たのである。
そしてこの14号の冒頭にある、このお歌を見て、皆に知らせる必要性を求められていると思ったのである。
そして、会報に載せるために訳しだした。すると、不思議と全く戸惑うこともなく書き終える事が出来た。
さらには、会報のページに調度収まったのである。そして妻に読んでもらっても、全く訂正がなかったのである。
先日1日に大教会の婦人会でこの14号の勉強会がされた。妻にとっては3回目の話しになる。
こうして書いたのが、先日の訳である。
そして、うちの教会の信者さん方には、昨年の11月に行った団参で、おさづけの不思議をまざまざと感じてもらっているので、落ち着いて「おふでさき」の話に耳を傾けてくれた。
このおさづけの話は、また不思議な話であるが、これについてはまた後日書きたいと思う。
慌てることなく対処させて頂けることも、親神様のお導きあればこそと思う。
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