8月1日、朝3時すぎに目が覚めた。
妻が新聞配達に出かける気配で。。行ってらっしゃいと声を掛けて、水を飲みに立ち上がった。
どうもふらつく。
先日、横になったのに目が回った時を思い出した。
「復元」これが頭に浮かび、気になって「旧山名大教会史」に出てくる書状と復元に出てくる資料が同じか確認した。
同じものだった。
「これか!」と思い、書き換えを再開する。
あっという間に朝づとめの時間となる。下書き保存をしておぢばがえりの用意を始める。
7月31日と8月1日は、大教会の少年会が主催するおぢばがえりの日である。
おぢばがえりした少年会とその付き添いの人たち全員に、プレゼントを詰所で用意をしてくれている。
うちでは最後の少年会員である、末っ子に声を掛ける。
「え!聞いてないよ」「何するの?」「めんどくさ」と妻と会話しながら準備をしている。
妻とは「この日は、お願いづとめの日だから、それに合わせて帰らせてもらおう」と話しをしていた。少し余裕を見て、9時前に3人で教会を出る。
妻は3時から起きているので横で寝ている。
私はYouTubeを聞きながら運転。何事もなく順調に走り、11時前に詰所へ到着。
詰所の玄関ホールで、少年会の団長と委員が待っており、こどもおぢばがえりの賞状を読み上げて渡してくれる。その後プレゼントとくじ引き。そして記念撮影。
※このこどもおぢばがえりの賞状を玄関で渡すのは、かれこれ25年ほどになるか。。。
そして神殿へ。。。
南礼拝場前の参道は車でいっぱいだったが、丁度空きが出来て止めれた。
南礼拝場へ上がり、3人でおつとめをする。
そして、西廻廊の南詰で回廊拭きを始める。
ちょうど、数人の子供たちを連れた方が「ひのきしんカード」の説明を子供たちにしていた。
うちの子供たち結婚して、孫が出来たら、こんな風に成れたらいいなぁと思いながら、拭き始める。
ゆっくりと回廊拭きをするのは、どれだけぶりだろうか。
息子は後ろの方からゆっくりと着いてくる。
団参の時に、うちの子供たちだけで回廊拭きをしたこともあった事を思い出す。
12時のおつとめを目指しているので、西お守所の周りを拭いて終わりにする。
結構雑巾が汚れた。
南礼拝場の後ろでおつとめの時間を待つ。
10分前に「誘導の指示に従って、前から畳一畳を開けてお座りください」との案内が入る。
おつとめ直前、内統領先生の挨拶があった。
こんな事はめったに会えないと、すぐさま録音した。とても暗い声に聞こえた。
「1年半に渡るコロナ感染症拡大の終息を願っておつとめをする」との事と「今日のこの日は本来ならばこどもおぢばがえりの真っ最中で、とても賑やかな日である。また、生まれた年がこどもおぢばがえりの始まった時で、私自身は賑やかなのが当然と思って育って来た。他の事についても当然と思っていた事が、そうではない状況を与えられて、とても戸惑っている。」という話しであった。
聞きながら、これまで通りを求めていたら当然だろうなぁ。と思った。
私自身はコロナ収束もそうだが、ワクチンによる障害、その他さまざまな争いが少しでも少なく済むようにと願いながらおつとめを勤めた。
その後、もらったプレゼントでマックにより昼食を買い、帰路についた。
帰りも順調だった。さすがに3時起きはきつく、途中で妻に運転を代わる。
15時すぎには教会に戻り、一休みしてから、朝の続きをはじめた。
漢文体で書かれているので、意味を調べながら作業を進める。
それでも何とか出来上がった。
書き換えを進めながら、
山名初代会長さんが、一番最初に目にしたおたすけが時間を追って克明に描かれてある事。
そして、我が子に対する身上から、自ら初めて願って見せて頂いた御守護の様子も克明に描かれてある事。
さらには、当時のおつとめの様子。また歌われていた「みかぐらうた」がどのようなものであったか、すごく身近に感じる事が出来た。
教祖が現身を隠されてから、教会本部となり、政治の圧力のもと、様々に変化して今日である。
先ほどの内統領先生の話であったが、物心ついて教えられたことがその人のスタートである。
しかし、その時に教えられたことが、本当に正しい事なのか、教祖が教えられたとおりの事なのかは分からないのである。
三才心で素直にそのままに受け止めている。だからそれが正しいと言い切ってしまう。
しかし、時の政治や社会状況によって述べられることは、その時によって違っているのである。
政治に沿うとしての、応法の道を選んだから仕方のない事ではあるが、この応法の道をしっかりと理解していないと、親神様の思召しを見失いかねない。
常に書いていると思うが、親神様の視点と人間世界の視点を理解しなければならない。
以前から「ほこりの仕事場」「錦の仕事場」「綾錦の仕事場」が気になっている。
ご本席様は「ほこりの仕事場」から「綾錦の仕事場」へ変わられたのである。
この点を理解できれば、筋道が分かるのではないかと思えたりする。
ともかく、全ての人は、それぞれに「なるいんねん」の上に成ってきているのである。
例えば、
今このブログを見て下さっている方も、このブログを「見るいんねん」があって、見ているのである。
このブログを見て、どのように感じて、どのように行動するかは「なすいんねん」「これからつくるいんねん」である。
これが、親神様の視点というものである。
思ったことから、自分の周囲の事を考えて、どうするのか、
例えば、
自分は間違いだと思っても、上の人が正しいと言い切る場合、その人を説き伏せる事、納得させる言が出来れば良い。
けれども、納得させることが出来ず、形だけでうまく事が運んだ場合、その上の人は自分の間違ったことに気づくとは限らないのである。
また、その時に上の人から離れる人もある。
間違っていると分かっていても、ご恩があるからと従う場合もある。
間違っていると分かっていても、怖いからと従う場合もある。
これが「なすいんねん」で、それぞれが心で選ぶのである。
ところが、それぞれが自分の心をしっかりと知らないと、人の性にしてしまうのである。
ここが実生活でのとても重要な事なのである。
この心と口と行いが一つになるのが、親神様がお喜び下さりお働き下さる誠真実と教えられる。
そのためには、自分だけの情報では判断がつかない。周囲の情報も必要である。
その周囲の情報も、選ぶのは自分の判断である事。
先ほど、「応法の道」とい言葉を使ったが、この言葉を知らない人も多いかと思う。
この「応法の道」という情報を知り、自ら調べる事をすれば、お道に対する見方が変わり、これから先の道筋をつかめる人もあるかもしれない。
またまた思い浮かぶままに書きました。
参考になれば幸いです。
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