理は神。教えが神。理に狂いがあっては、私たちは生きていけない。
悪い事をすれば、悪い事を思えば、それは悪い種であり、必ず現れる。
反対に良い事すれば、良い事を思えば、これは良い種であり、必ず現れる。これが理。
ところが、悪い事を悪いと思えない。分からない。
良い事と悪い事の判断基準がわからないから、八つのほこりで悪い事悪い心遣いを教えて下さっている。
ところがこの基準を考え違いして、世間の物差しや自分の性分で善し悪しを決めていては、良いと思っていても神様には悪い種を蒔いている場合があり、それが後々生えて、こんなはずじゃなかったという事を思う事になる。
物差しの基準をしっかりと親神様の教えに合わせる事。それを学ぶ事。
とても大切だと思う。
『かしもの・かりものの理』にしてもしかり、かしものかりもの教えの台と説きながらも、説いている者が、心に治まっていなければ、その人自身にはそのように現れて来る。
たとえ、説く人にかしものかりものの理が治まっていなくても、聞いた人の心に治まれば、その聞いて治まった人はそれから変わってくる。
ところが、聞いて治まっても、「その時だけは覚えているなれど一日たち二日たち、三十日たてばころっと忘れてしまう。」というお言葉のように、誠を尽くしながらも、説いてくれた導いてくれた人の姿に不足をして、「誠の中のほこり」と言われるほこりを積んでしまう人もある。
『信者の栞』の誠真実の中に、
……互い立て合いたすけ合いが第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、たすかるように、心を働かしていかねばなりません。そこで八つのほこりも、我が心につけんばかりでなく、人にもこのほこりをつけさねぬように、せにゃなりません。……
とある。
この「人にもほこりをつけさせぬように」という事がとても大切だと思う。
言いかえれば、「知らず知らずに、我が良しとして、人にほこりをつけている人もある」という事で、そうしたほこりは、よけて通るように、心がける事が大切でだとも思うのである。
それが、「誠の中のほこり」を積まぬ一つではないかとも思う。
悪い事をすれば、悪い事を思えば、それは悪い種であり、必ず現れる。
反対に良い事すれば、良い事を思えば、これは良い種であり、必ず現れる。これが理。
ところが、悪い事を悪いと思えない。分からない。
良い事と悪い事の判断基準がわからないから、八つのほこりで悪い事悪い心遣いを教えて下さっている。
ところがこの基準を考え違いして、世間の物差しや自分の性分で善し悪しを決めていては、良いと思っていても神様には悪い種を蒔いている場合があり、それが後々生えて、こんなはずじゃなかったという事を思う事になる。
物差しの基準をしっかりと親神様の教えに合わせる事。それを学ぶ事。
とても大切だと思う。
『かしもの・かりものの理』にしてもしかり、かしものかりもの教えの台と説きながらも、説いている者が、心に治まっていなければ、その人自身にはそのように現れて来る。
たとえ、説く人にかしものかりものの理が治まっていなくても、聞いた人の心に治まれば、その聞いて治まった人はそれから変わってくる。
ところが、聞いて治まっても、「その時だけは覚えているなれど一日たち二日たち、三十日たてばころっと忘れてしまう。」というお言葉のように、誠を尽くしながらも、説いてくれた導いてくれた人の姿に不足をして、「誠の中のほこり」と言われるほこりを積んでしまう人もある。
『信者の栞』の誠真実の中に、
……互い立て合いたすけ合いが第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、たすかるように、心を働かしていかねばなりません。そこで八つのほこりも、我が心につけんばかりでなく、人にもこのほこりをつけさねぬように、せにゃなりません。……
とある。
この「人にもほこりをつけさせぬように」という事がとても大切だと思う。
言いかえれば、「知らず知らずに、我が良しとして、人にほこりをつけている人もある」という事で、そうしたほこりは、よけて通るように、心がける事が大切でだとも思うのである。
それが、「誠の中のほこり」を積まぬ一つではないかとも思う。
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