あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

天理時報から、ブラジルでの不思議なおたすけ。。。色々な宗教・思想があるが。。。

2020年07月04日 08時55分20秒 | 思った事

昨日来た、7月5日号の天理時報で、ブラジルで新型コロナにかかって、重篤になった方が、お願いづとめでたすかった記事が掲載された。

本当に良かったなぁ。と思った。

天理時報 今週の主な紙面  リンクを張っておく。

 

世の中には、とてもたくさんの人間がおり、たくさんの考え方をしている。

その中に、天理教に縁のある方がつながる。これもいんねんのなせる業だと思う。

私の周囲は、この新型コロナでの自粛から、これまでのあり方を見直す動きが始まっている。

しかし、世界のニュースを見ると、そうではなく、これまでのものを維持しようと、苦心しているように感じられる。

 

親神様は、人の身上を御守護を願うすべとして、おさづけをお渡し下された。

その取り次ぎ方の中に、このおさづけは、動物・家畜などには使用してはならない事が語られている。

動物や家畜などについては、その所有する人の心に与えられたもので、親神様にお働き頂くには、その所有する人の心を変える事を言われている。

そしてこころのほこりをはらい、澄ますために、「いちれつすまして」とおつとめを教えて下さっている。

この点がとても大切だと思う。

 

人を助けたいという心か、自分がたすかりたいために人を利用するのか。

これも、親神様に受け取って頂き、不思議な姿を見せて頂くために、心を変える上の一つの思案である。

 

世の中には、たくさんの宗教・宗旨宗派・その他霊能者という人もあったり、様々な思想というものがある。無宗教というものや、無神論というものも、この区分けには入る。ところが話をしていると、無神論の人は結構そうした事を自覚していなかったりする。

こうしたものは、その人が生まれ育つ上に、関わった環境から、その人が選んでその区分けに入っているはずである。

例えば、天理教の中に育って、自分ではとても理不尽だと思えるようなことに遭遇して、天理教の教会に住んでいても、神様などないという人もあるだろう。反対に理不尽だと思えても、神様を信じる人もある。

共産主義の中にいて、自由を求めるもの。自由主義の中にいて、共産主義・社会主義を求めるもの。これもあるだろう。

今の日本では、人の命を危ぶむような事をしない限り、個人の思想は自由として認められ、そうした人々が集まる事も認められている。(昔は明治・大正・昭和の時代はそうではなかった。様々な事件や事故、戦争、そして人権運動が起こり、それを乗り越えて今日がある。)

これが、人権の自由だと私は思っている。けれども、この自由には、それぞれの責任が伴ってくる。

責任が伴うという事は、間違ったことをしたら、損害を与えた人に償わなければならないという事でもある。

 

では、こうした自分の考えに自信を持って、責任を持って日々を暮らせる人がどれだけいるだろうか。

今回の新型コロナの対応にしても、それ以前の大災害にしても、研究者でさえ想定外と言われることが起こる中に、絶対に私は正しいと、言える人はいないと思う。

 

だから、人の失敗も許す心は必要だと思う。

そして、「自分は絶対だ」と言い切り、「自分は心を変えたり考え方を代えない」と言い切る事は、しない方が良いと思う。

この事は、親神様が、かしものかりもので、八つのほこりで、いんねんの話で、誠真実の話、その他、これまでに紹介した本に書かれた教祖のお話で言われている。

それぞれが、それぞれの関わる人との関係の中で、どのように思案すればよいかという元は、ここにある。

ただ、それぞれが悟れるかどうかであろう。と思う。

 

今の私は、親神様の教えを信じて、おつとめを勤めて、自分の出来る事を精一杯つとめる事。

自分の高慢な心を出さぬように、人の上に尽くせる心を作る事。心を変えてもらえるように努める事。

それしかない。と思っている。

 

天理時報の手配りも、8月頃から再開する予定とも書いてあった。

ともかく、新型コロナが広がらないように、密集は避ける事。もし自分がかかっても、人にうつさないようにと心掛ける事。これも心に置いて過ごしたいと思う。

 

今日も一日、親神様・教祖、世界中の人々が陽気ぐらしに向けて成人が出来ますように、大難は小難にとお守りください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧山名大教会史より 第1篇第2章第3節お神楽面のお許し(書換え)

2020年07月03日 07時58分42秒 | 旧山名大教会史

これも、書き換えて見たいと思う。

この「神楽面のお許し」と言う題名を見ると、昔、ネットを始めた頃、「山名にはかぐらめんがあるから、かぐらづとめをつとめてもいいのだ!」という議論が盛んにされていたのを思い出す。

この節にもしっかりと、お許しを戴いたけれども、教会の設立の時には、「お面はぢば限り」とお許しを止められたことが書かれている。一度許されたのだから、それは永遠に許されたものと、思案する人もあるかと思うが、親神様は心次第にいつでも止められる。以前、断食の事から、針ケ別所の助蔵事件の事を書いた。また、ココでは書いたことはないが、扇のさづけなどを渡された事もあったが、これも止められて、今のおさづけになっている。さらに大きく言えば、神様の模様替えと当時は言われていたようだが、かんろだい没収から、おつとめのお歌を「あしきはらい」から「あしきをはろうて」に、「いちれつすます」を「いちれつすまして」に変えられている。

こうした親神様のお導きをしっかりと見据えて、思案をする必要があると思う。

最後に、おさしづについて書いておいた、最後まで読んで頂ければありがたいです。

第三節 お神楽面のお許し

 明治17年1月30日である。教祖の前には高井猶吉氏、井筒梅次郎氏、諸井講元の三名の者が襟を正して端座していた。この時、井筒氏は恭々(うやうや)しく手を仕えてお願いの趣きを申し上げた。

『神様へ恐れ入りますお願いでござりますが、遠州では郡長とも懇意でござりまして、話の上、12下り立ちづとめが出来ます故、お神楽道具のお許しを願いとうござります』

3人の方々は手を仕えたまま頭を下げていた。

稍々(やや)しばらくの間、教祖は静としてあらせられたがやがて、

『さあ/\許す/\。私が許すでない。神が許すのやで』

 とのお言葉が下がったのであった。お願いの「お神楽道具及びお面お許し」の儀はかくして、鮮やかにお許しを戴いたのである。講元の歓喜は、いかばかり深いものであったろうか。井筒氏、高井氏も共々わが事のように喜ばれたのであった。

 ここは実に破格の理であって、山名大教会の歴史上、特筆されるべき重要毎であると同時に、山名大教会末代に伝えて尊重され感激されべき、理の宝であらねばならぬ。重ねて記す。実に明治17年1月30日の事である。

 早速にも「お面」及びお神楽道具一式を新調させて頂こうという事になり、翌31日講元は井筒氏と同道で大阪に出で、同氏方に一泊し、翌2月1日、井筒氏の外に周旋方2名の案内で、梅谷四郎兵衛氏方へ趣き、神様から結構に「お面」のお許しを戴いた事を話して「お面」とお神楽道具一式の調製方を同氏に依頼したところ、梅谷氏も『前例のない珍しいこと』と非常に喜ばれて早速快諾された。同氏の宅で一同昼食の御馳走になり、その夜7時7分発の汽車で、講元は京都へ発ち、同地に一泊、その翌日は大津へ出て、竹内方へ泊まられた。そこから東海道を歩いて、2月の8日に帰宅された。

 こうして、おぢばへ参拝をして帰るごとに、講元の宅の方はお願い人は数を増して、日一日と忙しさを加えて行った。

 その年の6月24日、さる2月1日に大阪の梅谷氏に依頼した、「お面」とお神楽道具の一式が講元の宅へ到着した(註、このお道具は船で遠州の福田港へ着いた)。その中には大阪真明講社より贈られた、三味線一挺も入っていた。

 この日は朝から雨が降っていた。「雨あづけ」のお願いはしたが一寸には晴れそうな模様も見えなかった。講元は周旋方の田村権氏に、フラフを揚げるように言いつけたが、田村氏は依然として雨が降っているので、

『なんぼ講元さんが願ってもダメだ・・・』

 とぶつ/\つぶやいているのを聞かれた講元は『小言を言わずと早く揚げよ』と言う。雨の中を田村氏が出て行き旗を結えてする/\紐を繰り上げる頃から、にわかに小雨となり見る/\晴れ始めて、田村氏が家の内に入るころには、全く空は晴天に晴れ渡っていた。講社の人らはこれを見て子供のように喜び勇んだ。この時掲げたフラフは、大幅2布の真ん中へ、日の丸を描き中に「天輪王講社」と記しその左下方へ「遠江国、真明組」と書いたもので、嘗(かつ)て豊橋で作らせたのと同様なものであった。これを門内の所へ高さ8間の旗竿を立てて掲揚したのである。

 午前11時、今言ったお神楽道具の一式が到着した。酒1斗を買って講元及び講社の人々は、祝の宴を張って共々に喜び合った。

 この「お神楽面」は翌明治22年正月の大祭まで、毎月おつとめに使用された。

 この「お神楽面」を用いての「お面勤め」が山名の部下でたった1カ所だけ勤行された事実がある。

遠江国引佐郡都田村滝沢の講元、故山下丹蔵氏(現鹿玉分教会長山下長五郎氏の養父)は心にかけられて「お神楽面」を納める容器(唐櫃)の献納を思い立ち、見附町でこれを調製の上奉納した。この一事が機縁となって、明治19年旧3月4日に、丹蔵氏宅において勤行されたものである。この時は講元をはじめ主だちたる周旋の人々が出張された。勤められた役割の中で今日判明しいる者は左のごとくである。

国床立命(くにとこたち) 諸井講元

面足(おもたり)命 諸井茂三郎

国狹土(くにさづち)命 氏名不詳

月読(つきよみ)命 同上

雲読(くもよみ)命 同上

惶根(かしこね)命 同上

大食天(たいしょくてん)命 同上

大戸邉(おおとのべ)命 同上

伊弉諾(いざなぎ)命 山下多四郎

伊弉冊(いざなみ)命 山下小菊

 なおこれは後の事であるが、明治21年4月天理教々会本部が認可され、翌22年3月18日、神道天理教会山名分教会所が許可となり、同年4月25日にその開延式を挙行するに当たり、当日この「お神楽面」を用いる事を、改めておぢばへお願いのため、役員伊藤源吉を登参せしめて、4月24日に神様にお願いすると、こういうおさしづであった。

 

 明治22年4月24日(旧3月25日)

 遠州山名郡分教会所に於て、お神楽面を開延式に付お許し伺い

『さあ/\たづねる処、たづねて一つ心の理があれば、たづね一つさしづしよう、どういう事であろう、さあさあとどまるじつさいたづねるまで一つ理、つとめ一条の理おおくの中、いくえ心得もだん/\はじめ、鳴物一切道具許そう、第一人間一つ始め、人数一つの理、だん/\話一つ/\、一時尋ねるまでの理であろう、めんはぢばかぎり、このお話しておこう。』※

 と言うお言葉で「お神楽面」は「ぢばかぎり」という事に改まり、したがって開延式当日には「お面」は、神前におかざり申し上げたのみであった。

 初代管長公よりも、

『これは山名の宝として大切にして、虫干しだけして大祭には飾らぬように』

 とのお言葉があった。それ以来この「お神楽面」は山名大教会の宝物として秘蔵されてあったが、大正12年11月山名大教会から名京大教会が分割された際、前山名大教会長故諸井清磨氏によって、同教会へ分割して行かれた。したがって現在の山名大教会には、男神5柱様の「お神楽面」のみが保存されてある。

 とにかく、たとえ一時の年限の間であったとは言え、このような重大な「お神楽面」のお許しを戴いた事は、実に「山名」に許された尊い理であって、特に前記のお言葉によって「お面」は「ぢば一つ」に限られるに至りて、この破格の理であった事を、より一層痛感せざるを得ないのである。

 講元は後年、

 -ーこうして特に「山名」に「お面」をお許し下されたというのは、われわれを励まして下さるための深い思し召しに相違ないーー

 と心に悟られて、深くも感激されたのであった。

※このおさしづは、読みやすく書き換えた。以下に本部公刊のおさしづを記しておく。

No.  :(1巻405頁9行)
明治22年4月24日 陰暦3月25日
『遠州山名郡分教会所に於て、御神楽面を開筵式に付御許し伺』
さあ/\尋ねる処、尋ねて一つ心の理があれば、尋ね一つさしづしよう。どういう事であろう。さあ/\止まる実際尋ねるまで一つ理、つとめ一条の理、多くの中、幾重心得もだん/\始め、鳴物一切道具許そう。第一人間一つ始め、人衆一つの理、だん/\話一つ/\、一時尋ねるまでの理であろう。面はぢば限り。このお話して置こう。

※※山名大教会史のおさしづと本部公刊のおさしづの違いに、不思議を感じる方もあると思う。

本部で公刊されたおさしづを「正とする事が重要」と言う点を示しておきたい。

おさしづは、数人の先生方によって書きとられたもので、その一枚が願い人に渡されたとの話を聞く。書きとられた先生の聞き方によって、漢字や言葉が違う事も予測できる。

 つまり、山名では「第一人間一つ始め、人数一つの理」とあるが、本部公刊では「第一人間一つ始め、人衆一つの理」となっている点などを考える時に、良く分かると思う。

 かぐらづとめは、人間創造の時の姿を現して勤められている。そこでつとめる人々は、その創造の時の神様の姿を現して、人衆として勤めているわけであり、人数よりも人衆が重要な点は明らかである。

 おさしづを理解する上には、こうした点を知っておく必要があると思う。

いつもながら、私の文章は、読みにくいと思う。

申し訳ないですが、どうぞお許しいただきたい。

今日は、これまでにします。

 

人々に、親神様の思いが少しでも伝わり、陽気ぐらしへの心の建て替え、心の切り替えが進む一助となりますように。。。

親神様・教祖、新型コロナが、日本にまた広がり始めています。このままでは、せっかくおぢばがえりが出来ると楽しみにしている方々が、また帰られなくなります。

どうぞ、大難は小難にとお守りください。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧山名大教会史より 第1篇第2章第2節フラフを立ててくるで(書換え)

2020年07月02日 09時09分19秒 | 旧山名大教会史

前節同様に、書き換えて見たい。

その前に、自分の身体の事をまず話すと、うちの会報を作る時など、キーボードを長時間打つことは、すぐにしんどくなって、全然進まないのが現状である。けれども、昨日の書き換えをする時は、余りしんどくならずに出来た。

これは親神様が喜んでくれることだと思ったので、今回も書換えて見たいと思う。どれだけで出来るだろうか。

第2節 「フラフを立てて来るで」

 明治17年1月21日、講元は第三回目のおぢば参拝を志し、同行者10名と連れ立って出発した。この日は、新居の紀の国屋いうところへ一泊。翌22日は豊橋へ着いたが、発船時間が夕刻であったため、豊橋の町内を見物して歩くうち、一軒の提灯屋が講元の眼についた。すると講元は何を考えられたか、天竺木綿の大幅4尺ほどを買い求めて来て、その提灯屋へ行き、旗の注文をした。その旗はすこぶる珍しいものだった。白地の布の中央へ日の丸を描かせ、日の丸の中に「天輪王講社」。その日の丸の左下へは「遠江真明組」と墨で黒々と書かした。かくて一行は豊橋より船で伊勢へ渡り、参宮をすまして山田泊まり、翌日は畑町、25日は伊賀の名張泊まりと日を重ねて、26日に丹波市市の扇屋庄兵衛方へ到着したのであるが、この道中途次、11名の一行の先頭には、例のフラフが一月の朔風(さくふう)に翩翻(へんぽん)とはためいていた。

 翌27日の朝、丹波市の扇屋の門口からは、一人乗りの人力車を先頭に、二人乗りの車が5台、威勢よく走り出して丹波市の通りを北の方角さして急ぐ。先頭の車には例のフラフが、これまた威勢よく風にひるがえる。前夜投宿した講元他10名の一行が、お屋敷は参拝に繰り込むのである。先頭の車には講元が悠然として身を置いていた。6台の人力車は、丹波市の警察署の前を通り、やがて右折して庄屋敷へ入り、お屋敷の表門通りに差しかかると、一人の巡査が見張っていた。その前を通り抜けようとすると巡査は突然、

『待て!』

と呼びとめた。そして講元の車に立ててあった、旗を抜き取ると声を励まして詰問した。

『この旗は何か。お前たちは天輪王へ来たか』

『これは講社の目印。天輪王へ参りました』

講元はあらかじめ期(き)していた事※が起こったという悠揚たる態(てい)で、車上のまま沈着払って応答した。(※予期していた事)

『こら、降りろ』

『今そこまで行けば降ります。車や、豆腐屋までやれ』

 車が豆腐屋の門へ着くと、巡査は旗を持ってついて来た。そして巡査と講元との間には、しばらく次のような問答が交わされた。

『天輪王へ来るには何かもって来たであろう。ここは参り所ではない。婆あが赤い着物を着て、愚民を惑わし、金平糖を食えば腹痛が治るとか、水を飲めば腹下りが止まるとか言っているから、大阪府では厳重に差し止めている。なぜ来たか。すぐ帰れ』

『拙者は何も持っては参らぬ。昨夜扇屋へ一泊すると女中がこの旗を見て、天輪さんへお詣りですかと尋ねるから、天輪さんがどこにあるかと聞くと庄屋敷にあります。おばあさまでございます。と言うから、そんなら明日人力車を雇って、案内をさしてくれと申しつけました。只今参りますと、あなたが天輪王へ来たかと申されたからこれ幸いと思い、参りましたと答えましたが、実は、初めて聞いて喜んで参りました次第であります』

『貴様は一体どこの者か』

『その旗にある通り、静岡県遠江国。天輪王講社の講元を、父の代から致しているが、拙者父に死に別れてまだ、天輪王がどこにあるか知らなかったが、図らずここに天輪王のあるという事を聞き、尋問致したいと思って参りました』

『静岡県のどこか』

『山名郡広岡村・・・・』

『名前は何というか』

『未だ番地が落ちています。無番地。諸井国三郎』

『む番地?む番地という事があるか。6番地か』

『いいえ。む番地』

『む番地という事があるか。不都合な事を申すな』

『不都合な事は申さん。む番地とは無番地と書きます。拙者も役場へも勤める人間で詐(いつわり)は申さぬ。拙者、この度新宅を設けたから、戸番の改正まで無番としておきました。お疑いあらば、静岡県庁へ照会下されたい』

『参詣はならぬ。帰れ』

『拙者はもとより参詣には参りません。当所のババアでもジジイでも良いから、天輪王の由来を尋問したく思って参ったのであるから、得心の出来るまで尋問する心算ですから帰りません。その代わり拙者の滞在中は、この旗をこの家の表へ出しておきますから、御用の節は何時なりとお招きに預かりたい。お招きに預かり次第警察へ上がって、どんな事でもお答えいたします。もし又この旗がなくなった時は、拙者が当地を出立したものと心得て頂きたい』

 巡査もしまいには、どうする事も出来ないので、手帳に住所と姓名を記して帰って行った。

 この巡査と講元との問答の間、その場の様子があまり穏やかならぬ態に見えたので、飯降伊蔵氏(後のご本席)はご心配なされて夫人のおさと様をして、豆腐屋の裏手にてひそかに様子をうかがわれられたという。右のような次第であったので、講元は翌日(明治17年旧正月元旦)は警察からの召喚を予期していたが、その日、丹波市の西尾という酒屋が来て『今日は警察は屹度(きっと)来ません』と言う。『なぜか』と聞くと、西尾はこう言って話した。

『昨夜警部と部長と巡査と三人で種々話しをしていましたが、明日は止めに行かんけりゃいかん、と一人が言うと、一人は、放っておいたら5か国も7か国も集まるだろうから、止めに行くがよかろう、と言う。すると巡査が、いくら5か国の者が集まっても、今日のように頭を押さえれば尻へ抜ける、尻を抑えれば頭へ抜ける。スベコベ/\問答しても、しまいには立場がないような事になっても困るから考えものです。と言うと警部がそんなら明日は放っておこうか。それがよかろうという事でありましたから、今日はきっと来ません』

 講元もこの話を聞いて、召喚もされぬ、巡査も来ない理由が、なるほどと合点が行ったのであった。この前夜お屋敷では神様がお下がりになって、西尾の話したような、警察における三人の問答を、お聞かせになられたとの事であった。

 この一件があってから、

『遠州の講元は偉い!』

 という評判が村中に広まった。今でも村の古老で、その時の様子を実地に見聞きしていた人たちの中には、存命でいる者もある事だろう。

 話は少し前後するが、講元などの一行が、1月26日に丹波市へ到着する前の事である。神様は、

『あゝだるい/\。こうだるうては叶わない。遠方から子供が来るで、あゝ見える/\。フラフを立てて来るで』

 という事を仰せられたとの事であるが、近待(近くに使える人)の方々は何のことか、お言葉の真意を了解するに苦しまれたのであったが、講元らの一行がフラフを押し立てておぢばへ到着するにおよんで、初めてそのご予言の意が判然とされたのであった。この時から以降、講元がおぢばへ参るごとに必ず刻限があった。そういう訳から『また遠州の講元さんが来たから神様がお出ましになる』と言うて他から来た参詣者も、足を止めて一日滞在するという風であった。

 この時のおぢば滞在は、27日、8、9、30日の4日間であった。この最終日の30日に、諸井講元は実にこの上ない一つの尊い理を許されたのである。

いや~~。出来ました。調べながらして、2時間弱でここまで出来ました。

すごいです。こんなに楽に出来る事なんて、最近は全くないです。自分で感動してます。

また、多少の間違いはあっても、画像があるので、それぞれで確認をしてもらえるので、昔間違えないようにと何度も読み返して苦労した、ホームページに文章だけを掲載した時の事を考えると、ありがたいです。

 

さて、こうして当時の事を思う時に、『稿本天理教教祖伝』や『稿本天理教教祖伝逸話編』は本当に、間違いのないようにと、骨の部分を書かれたものと感じる。

人間にはそれぞれの見方があり、感じ方がある。

ご本部の中の方々の感じ方、そして村の人々の感じ方、またその外から来る信者の人々の感じ方。さらに言うならば、ここに出てくる止め立てをする警察などの人々の感じ方がである。

こうしたすべての人々の感じ方、心を親神様はちゃんと見定めて、陽気ぐらしに向けて歩みを進めておられると思った。

これは、今の今でも同じ事であろう。

新型コロナで、おぢばへ大手を振って帰るわけにはいかない。けれども、である。この「言わん言えんの理」これがとても大切だと思う。

世界中の人々の平和、成人を願って、自分の出来る事、役割を頑張りたいと思います。

 

親神様・教祖、どうぞよろしくお願い致します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

布教の家での出来事

2020年07月02日 00時34分26秒 | 思った事

昨日のブログで、トイレの修理について書いた。

その床にはクッションフロアーを張った。このクッションフロアーで思い出す話がある。

 

それは、布教の家での事。

私が布教の家に行っていたのは、平成元年に代わる丁度その時である。

だから、もう卒寮してから30年を越した事になる。

以前にも書いたことがあるが、私が布教の家に行ったきっかけは、自分の信仰を取り戻すためであった。

だから、別に教えを広めようとは全然思っていなかった。

けれども、第2専修科で教えられた通り、毎日戸別訪問はしていた。

嫌気がさすと、公園で小さな原典集を開いて、おふでさきを読んだり、おさしづを読んだりしていた。

そうする中には、こんな私でも家に上げて下さって、話ができる家は数件あった。

しかし、おさづけを取り次ぎ、おぢばへ帰って頂ける方はいなかった。

そうした中に、バス団参をすることとなった。団参をするためには、一緒におぢばに帰って頂ける人を与えてもらわなければ、団参は出来ない。ましてやバス代が赤字になっては大変だと、寮生で話し合ったりした。

そして、団参が決定してから、一緒におぢばへ帰って頂ける人を与えてもらうために、毎晩12下りのおつとめをしていた。

それでも、なかなかそうした人に巡り合えない。

ある時、12下りをしている最中に、ふと「私は何のために布教の家に来たのだろうか?」と自分の事を考えた。そして「自分のためで、人のためじゃないなぁ」と思い、「昔の人は、自分のいんねんを切り替えてもらうために、とおたすけにまわったんだよな。自分のいんねんってなんだろう。もし、明日身上の人と巡り合ったら、『私をたすけるためにおさづけをさせて下さい』と言おう。」と思った。

そして、翌日においがけに出て、この通りの一列を廻って帰ろうとしたその中に、半身が不自由な方に巡り合った。

そして、その方に、「神様にお願いをさせて下さい」と願った。しかし、断られた。普通の私ならばここで引き下がってしまう。

けれども、昨日の事があったので、「私を助けると思って、お願いします。」と土間に座ってお願いした。すると、「そこまでしなくても」と言って、おさづけをさせて頂いた。

そして、「いんねんを切り替えてもらうためのにおいがけ」と思った次の日に、こんなことになるなんて、親神様はすごい。「いんねんの切り替えを願う事は大切だ」と心に刻まれた。

その方は脳梗塞を患っておられて、認知症も発症していた。その日から、何か困ったことが起こると寮に電話がかかるようになった。

寮の先生にその方の事を相談したところ、「認知症は難しい」との言葉だった。それでもと思い、電話がかかると飛んで行って、探し物をした。

そうした中に、ある日、入り口の土間をきれいにしたいという話が出て、ホームセンターでクッションフロアーを買い求めて、ひとりで張ったのだった。「きれいになった」と喜ばれた顔は忘れられない。

結局、この方は団参には行って頂けなかったが、別の日に別席を運びに行って頂けた。

他にもこの方とは様々な事があった。認知症が大分すすんでいたので、一度は息子さん夫婦と同居をした。しかし、うまく生活が出来ずに、元の家に戻って来て一人暮らしをする事にもなり、また電話がかかるとお邪魔するようになった。

当時の私の出来る神様のお話は、教典を読んで聞かせることぐらいだった。

そんなある時、身の上話を聞かせて下さった。それは、この方のお母さんが、天理教を信仰していたという事だった。当時は天理教が嫌で嫌でしかたがなくて、反対ばかりしていた。でも今お母さんの事をすごいと思う。自分はあのようには出来ない。という話だった。

この時には、若い時には分からなくても、年を取って親の姿を思い出して、お詫びが出来ればそれも大切な事なのかなぁ。と思っていた。また今思えば、だから、事あるごとにお供えを預けて下さったのだなぁと思った。

そして、私は卒寮と共に大教会へ帰る事となり、その後は、次の寮生さんに引継ぎをお願いした。

ある時、その寮生さんから電話がかかった。「胸騒ぎがして、顔を見に行ったら、土間で血を流して倒れていたので、救急車を呼んで、息子さんに連絡をしました。」との事だった。

連絡を受けても遠距離で、また私には金もなく、行くことは叶わなかったが、後にその寮生さんに会う事があり、その時の事を尋ねると、それ以来会っておらず、後の事は分からないとの事だった。

けれども、その寮生さんに胸騒ぎがしなければ、一人で出直していたはずである。息があり息子さんを呼ぶことが出来た事を不思議だと思った。

 

お詫び・反省の信仰と、自分勝手の信仰の違いを、会長になってから見せて頂いた人(一人暮らしで玄関で亡くなり、翌日に近所の人に発見された方)の事と比較して感じている。

この事については、またの機会にしようと思う。

 

癖性分に流されやすい自分である。これをしっかりと心において、日々お詫びをしながら通りたいと思う。

 

親神様・教祖、世界がこれまた大変な事になろうとしています。どうぞ大難は小難にとお守りくださいませ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧山名大教会史より 第1篇第2章第1節国六分の人を寄せる(書換え)

2020年07月01日 14時02分23秒 | 旧山名大教会史

第2章に入りますが、この第1節では、第2回目のおぢばがえりの様子が書かれています。

この中で私が気になるところを書いてみます。

①34頁後ろから3行目に

 かくして、講社の激増するにつれて、講元はさらに深い十分なる教理と、「12下り」のおつとめの手の仕込みを受ける必要を痛感され、第2回目のおぢば登参をされるに至った。(読みやすく書き換えました。)

とあります。不思議な働きにより信者さんが増える中に、ただ助かればよいというだけではない、初代会長さんの心がここに分かると思います。

②34頁後ろから1行目に

 明治16年8月29日に自宅を発足し、あらかじめ約束をしてあった木村林蔵氏、(後に山名大教会役員)と、浜松で落ち合って、この日は舞坂まで行って一泊した。(書き換え)

とある。この中の木村林蔵という方は、後の山名大教会役員でもあるが、愛知大教会においては、土岐分教会が設立される時に、初代会長になられた方でもある。(愛知大教会史第1巻 268頁)

②35頁は、とても不思議な事が書かれている。ご本席様に親神様が入り込まれてお話を下さる様子である。読みやすいように書き換えておく。

 月を越して9月の3日に庄屋敷へ到着し、豆腐屋こと村田長兵衛氏方へ宿った。翌日から、高井、宮森の両氏が暇を見ては、るる豆腐屋へ来り、種々と深い教理を伝えては帰られるのであった。こうして教理の仕込みを受ける一方に、講元は村田幸助氏のご家内おすま様を師として、「12下り」のおてふりの稽古に力を注ぎ、わずか4日間にて全部を習得された。

 この時のおぢばご滞在中に、講元は神様から、非常な結構なお言葉を頂いたのであった。

 講元がおぢばへ着いて5日目、すなわち7日の夕方、飯降伊蔵氏(後のご本席)は、豆腐屋の前で、涼み台に腰を下ろして、夕涼みをされていた。するとにわかに、非常な腹痛が起きて、お苦しみの様子である。驚いて人々は小二階へお連れ申し、夫人のおさと様は直ちにこの事を、教祖に申し上げた時に、教祖は、

『そんなに、びっくり慌てずとも良いで』

と仰せられて、仲田儀右衛門氏を呼ばれ、

『早く扇を、伊蔵さんに持たせてあげなされ。それから遠州の講元さんも連れて行きなされ』

そこで、講元は呼ばれて、急いで二階へ駆けつけると、飯降氏は蚊帳の中で、たってのお苦しみである。その時仲田氏が、

『神様の仰せでありますよって、どうぞ扇を持って頂きたい』

と申し上げると、飯降氏はむくりと起きて座られた。そこで、仲田氏が扇を飯降氏にお渡しになると、その時、次のようなお言葉があった。

『さあ/\国を越し山を越し川を越しはるばる訪ねてきて見れば、ああこんなとこかいな、野原みたいな所と思う者もある・・・』

 お側の方にもどういう事を仰せられたのか、分からなかったという。

 その翌朝、すなわち8日の朝早く、講元はお屋敷へ呼ばれたので、急いで伺うと、その時、神様がお下がりになった。

『ウム、、、、、ン』という、非常に響きの籠った、力強いうなり声を発せられたかと思うと、飯降氏の顔色は神々しいくらいに活き活きと輝いてきて、身体のようすも盤石のようにしっかりとして来て、

『さあ/\めずらしい事や/\、くにへ帰って、つとめをすれば、国六分の人を寄せる、なれど心次第や』

とのお言葉を下されたのであった。講元は、この頼もしいお言葉を頂いて、非常に感激に打たれた。

 ところが、先の『国を越し山を越し』云々のお言葉のあった7日の晩に、遠州から清水重作、中山吉三郎、田村権三郎、太田善五郎、守屋国蔵の5名が丹波市の宿、扇屋へ着いたのである。これには一すじの話がある。

 この明治16年の8月の初め頃、遠江真明組の講社の仲間の間で、5円掛け程の無尽講(※)を拵えて、これをもっておぢば登参の費用に充てる計画が出き、その最初第1回のくじが落ちて、今の5人の人たちの大和行きとなり、講元の発った29日から4日遅れて遠州を出発し、伊勢をめぐり初瀬に出て、9月の7日に丹波市の手前の柳本付近にまで来ると、一行の中の清水重作氏がこう言いだした。

『聞くところによると、おぢばでは警察の干渉がやかましくて、参詣人をいちいち差し止めているという話であるが、一体どんな具合だか様子を探ってみて、それから参拝する事にしよう』

※無尽講(むじんこう) 出典:デジタル大辞泉(小学館)

むじん‐こう【無尽講】 の解説 ⇒頼母子講 (たのもしこう) 
たのもし‐こう【頼母子講】 の解説

金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。

・・・・・

 するとこれを聞いていた一行の中の守屋国蔵氏が、

『俺はそんなやかましい所とは知らずに来た。そんな、警察で止めるような所なら、何も俺たちは参拝せんでも良い。俺はこんなり今から国へ帰る』

 と腹を立てて苦情を言いだした。何でも帰ると言い張るのを、皆で種々なだめて、しばらくして丹波市の扇屋へ着いた。早速お屋敷の様子を尋ねるため、村田、太田、清水の三氏が出かけ、守屋は調髪に行き、中山氏は一人留守居のために宿に居残った。夕方になって4人の者はそれぞれ宿へ帰って来た。その夜、講元と高井氏とが宿へ来られて5名の者に、

『今夜は早く寝て、明朝早く薄暗い中にお屋敷へ参拝されたがよい』

 と注意して帰られたので、その夜は、一同は早寝をして、翌8日の朝未明に裏道をたどって、お屋敷近くの豆腐屋へ行き、講元の見えるのを待ったのであった。ところがその朝から、守屋国蔵しは急に胸が閊(つか)えてきて、物が食べられなくなった。食べても皆吐いてしまうのである。こんな訳で、守屋氏はとうとう三日間というもの、起きる事も出来ず床に横たわったままであった。

 一行が8日の朝、豆腐屋へ来て待っていると午頃、講元が見えて種々話しのあった末に、

『昨夜、神様がお下がりになって、斯く斯くのお言葉があったが、何の事か自分にはどうしても分からぬ』

 と前夜の『・・・国を越し山を越し、はるばるたずねて来てみれば』云々の事を話された。この話を聞かされた時に、5人の者は内心びっくりして思わず顔を見合わせた。そして一同の者から、昨日の守屋国蔵氏の一件をお話した。それを黙々と聞いていた講元は、

『そうか』

と言って深くうなずかれた。

11日の夕方になってお屋敷から『遠州の参拝者は皆来るよう』との使いがあったので、一同揃って伺うと教祖は

『ご苦労であった』

という温かいお言葉を賜り、続いて月日の模様の入ったお盃で御親から召し上がられた後、その盃を講元にお下げ下された。このお盃は現に、諸井家の家宝として丁重に保存されてある。この時から守屋氏も食事が食べられるようになり、当人も衷心恐れ入って、

『申訳がなかった。どうか皆様とご同道さして頂きたい』と懺悔をした。5名の者は勇んで帰国の途に就いた。

 11日の夜9時、大阪真明講の講元、井筒梅次郎氏が諸井講元を尋ねて来て、明け12日河内、大阪、兵庫の各講社中よりお屋敷へ「おかぐら面」を献納するという事を話されたので、講元は、12日に帰るつもりで神様にお暇乞いまで済ませてあったが、1日出発の日を延ばした。翌12日の夕刻、「おかぐら面」は献納されたので、13日の朝これを拝見して、その日の夕刻、井筒氏と同道で大阪へ赴き、同氏方に三泊の後、15日の夜明け前にここを出発し、京都へ廻って19日に帰宅された。この登参から帰国する時、講元はその当時、講社の目当として祀られた「天輪王命」と記された、紙のお札と戴いて帰られた。

 なお、ここに一言書き添えておきたい事がある。講元がまだおぢば滞在中の10日の午後に、講元は鴻田忠三郎氏に伴われて、長原村というところの、中村直助なる日本農会委員をしていた人の、試作田を見に行かれたが、その時講元は籾種数種を約束して帰られた。この一事が証明する如く、当時の講元は、まだお道一方で通るという考えはなく、何とかして宿志たる殖産興業をもって、国富を図りたいという考えに傾いていたものであった。この事は講元自身がその「自伝」(42頁)においても語られている。

今日はここまでにします。

どうか親神様、教祖。大難は小難にとお守りください。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする